ALMOND GWALIOR −237
ザウディンダルは荒れた大地に立っていた。
そこはグィネヴィア平原の北のほう――金星にザウディンダルはいた。
先程まで感じていた他者の記憶の感情とは違う、自分自身に向けられたような物を感じながら、ザウディンダルは辺りを見回す。
塔らしきものが見えて、ザウディンダルは目を凝らす。
記憶の中特有の移動がなされ、塔の側へ一瞬でそこに立つ。カーチャ・クレーター近くにある円柱の塔。
蔦に覆われてはおらず、金星の砂に晒された外壁はざらついている。
見上げていたザウディンダルは背後に憎悪を感じた。恐怖ではなく、憎悪。振り返ってはいけないと、その憎悪から目を背けるために目を閉じる。
「待っていたよ」
外側の記憶が排除され、憎悪だけと向き合う。
「……」
目を閉じたザウディンダルの中に現れのはロターヌ・ケシュマリスタ。
「ここは記憶の世界」
現れたロターヌは記録映像通りであった。左右六枚ずつ、計十二枚の白い翼に、現在のケシュマリスタたちと同じような金髪。髪の長さは腰の辺り。
澄み渡った特徴的な青い瞳。顔の作りは美しく、それでいてあどけなさを残している。
見た目は美しく可憐であるが、そこにあるのは憎悪以外の何者でもない。
肌の色と同じ、赤味を帯びていない小さな口が開く。
小さな歯と生まれたての赤子を想わせる滑らかな舌が動いた。
「シュスター。ボクは君を絶対に赦さない」
ザウディンダルはこの憎悪から逃れるために、急いで目を開いた ―― この時、ザウディンダルの体は心臓と呼吸が停止し、脳が興奮状態に陥り、胎内から胎盤を含む体液が溢れ出してきた。
ミスカネイアはザウディンダルに呼吸器をあてて心臓マッサージを施し、もっとも大切な臓器である子宮に注意を払う。
ザウディンダルの意識はロターヌに抱き締められて、息苦しさに悶えていた。ロターヌは記録通り小さいの(165cm)だが、体の大きさなど意識の中では意味をなさない。ロターヌよりも遥かに大きいザウディンダルは、腕を振り払えないでいた。
「エターナ! エターナ!」
自分を見上げながら叫んでくるロターヌに、”俺はエターナじゃない”と否定するが、ロターヌは聞き入れようとはしない。
ここで自分を”エターナ”と認めたら死ぬと ―― 実際は心臓も呼吸も停止し、意識は朦朧としているが、他者の記憶の中にいるザウディンダルは確りとしていた。
―― 俺はこのロターヌに殺されるのか?
「やめろ、ロターヌ」
聞いたことのない声のほうを向くと、短めの赤髪の黒と緑の左右違う瞳を持った男が立っていた。男は現在の貴族や王族にはない顔立ちで、眉はしっかりとしており、目はやや垂れ目で、一言で表すなら【人間】らしかった。
ザウディンダルを強く抱き締めていたロターヌは、その男を見て声をいままで以上に荒げる。
「シュスター!」
咎め、否定するようなロターヌの声。
―― これが記録に残っていない、シュスター・ベルレーの本当の顔?
現在シュスター・ベルレーと言われている容姿は、整形後のもの。世間には知られていないが、彼は整形をしていた。
おかしなことに《まったく別の顔に》整形した事実は伝わっているが、元の顔がどのような物であったのかは残っていない。
だが今も存在するシュスター・ベルレーの容姿とは全く違うということは、信じられたいた。彼の娘たちや孫の顔から割出した顔もあったが、それは整形後のシュスター・ベルレーとロターヌの特徴しか見つけることができなかった。
それでも、シュスター・ベルレーは整形したと ――
かつてのシュスター・ベルレーがロターヌの腕を掴みザウディンダルから引き離して抱き締める。
「逃げろ……」
彼は逃げるように言ったのだが、ザウディンダルは背後から別人により抱き締められ、体が動かない。
ザウディンダルの左肩に誰かの顎が乗せられる。
「普通はシュスター・ベルレーがロターヌ・ケシュマリスタを抱き締めたところで逃げられる」
自分の物ではない、癖の強い黒髪が左肩の辺りから流れるように落ちてきた。
ザウディンダルの肩に顎を乗せた人物 ―― ザウディンダルが首を捻りその金色の瞳を持った横顔を捉えた。
目が合ったことに気付いたその人物は、首を通常ではあり得ない角度でまわし、ザウディンダルの方を向く。
「……ディ……ディブレシア」
遠い過去に存在した、あどけない見た目と消えない憎悪を持ったロターヌではなく、見知らぬシュスターでもなく、
「おかあさまと呼んで構わぬぞ」
デウデシオンを苦しめるためにザウディンダルを最大限に利用したディブレシア。肌にまとわりつく恐怖はロターヌの憎悪とは違った。どちらも執念に似たものを感じるのだが、ロターヌから感じるものと、ディブレシアがザウディンダルに向けるものは異なっていた。
―― 逃げよう。逃げないと……
ザウディンダルは藻掻こうとするが、ディブレシアの腕は緩まない。
「他人の意識の中で、自分の意識というものを上手く操らねば逃れられん。どう操るのか? お前には分からないだろうがな」
周囲の景色が金星から帝星に、ロターヌとシュスターは緑の中へと消え、ザウディンダルを捕縛する腕は艶めかしく輝く。
「ああ、そうだ。上手く動くのにはコツがいる。俺ほど他人の意識の中で上手く動ける男はいないだろうな。弟を自殺させたくらいだから」
ロターヌを抱き締めたシュスターが居た場所に、先程見たラードルストルバイアが立っていた。
ラバティアーニと会話していた時は声が聞こえなかったのだが、
「引きはがしてやる」
今度はしっかりと聞こえた。ザウディンダルを捉えていた金色の瞳は、不和の象徴と呼ばれるようになったラードルストルバイアに向けられる。
緑に満ちた周囲にひびが入り、剥落してゆく。崩れ落ちた向こう側に見えるのは、破壊された大宮殿。
「引きはがす? できるのか? 死者」
それは彼が初めて見た大宮殿。
「お前よりも長いこと、色々なヤツの中にいるんでな。サイロクレンド!」
ラードルストルバイアの鋭い声に、ディブレシアの腕が消える。その隙をつき、ラードルストルバイアがザウディンダルの両肩に手をかけ引き寄せる。
「早く行け」
実体などない、抱き締められたこともない相手なのにザウディンダルは懐かしさを感じた。母であるはずのディブレシアの腕には感じなかったものを。
「ありがとう!」
呆けている暇はないと背を強く押す。
走っていったザウディンダルの後ろ姿を見送り、動けるようになったディブレシアに”追えよ”と顔を横に動かす。
「……」
「なんだよ? 小娘」
顔の作りはケシュマリスタだが、口を細く開く嘲笑いの表情は、完全にロヴィニアのそれで、天使に似た作りが歪むさまは直視ししがたいものを感じさせる。
「帝王を内側から殺した程の男が、私を殺せないはずがない」
性の放埒さを感じさせる肉感的な唇を、ディブレシアはラードルストルバイアと同じように歪めた。
「俺がお前を殺すのは簡単だ。でもそれをやると、この体の持ち主の精神が壊れちまうからやらないだけだ」
ラードルストルバイアは彼の代名詞とも言える白い羽を舞わせ、ディブレシアの足元を隠す。
「逃げ込める場所があると?」
「こいつがあるんだよ。早く追わないと、逃げ込まれちまうぜ。そこに逃げ込まれたら、終わりだ。俺もお前もロターヌもシュスターも……無駄だぜ、俺は両性具有じゃないから、記憶を探りだすのは不可能だ」
ディブレシアは消えた。ザウディンダルの意識を掴まえるために。
「なんの為に掴まえるのかは知らないが、絶対に無理だ。最後の少女には勝てないぜ、小娘」
逃がしてもらい走り続けているザウディンダルだが、どこに向かえばいいのか? どころか、自分がどこを走っているのかも分からない状態。
呼吸が苦しくなり足が止まりそうになる。それを ―― これは夢のような物だから、頑張れる ―― と言い聞かせて、ザウディンダルは必死に前へと進んだ。
**********
「呼吸が回復した」
ロターヌの抱擁とディブレシアの拘束から逃れたザウディンダルは、呼吸が戻った。走り続け今にも倒れそうな人のような浅い呼吸を繰り返す。
ミスカネイアはザウディンダルに声をかけながら、胎内から溢れ出す羊水や体液、胎盤を注意深く取り除く。
**********
どれほど走ったのかは分からないが、ザウディンダルは”戻って”来た。
「巴旦杏の塔……」
姿こそ見えないがディブレシアに捕縛された時に感じた、肌を滑るように触る存在が迫っていることだけは分かった。
逃げる場所はないと焦り、
―― 塔の内部は? ディブレシアは皇帝だったが、今は皇帝じゃない
塔の中に逃げ込もうとした。
”自然の風景は今まで見たものを無秩序に合わせて再生できるが、建物は見たもの以外再現できない”
ディブレシアは塔の中に入ったことがあるので、ザウディンダルはここで逃げるために「入ってしまえば」閉じ込められてしまう。
ザウディンダルは入り口を探し、記憶している反対側へとやって来た。その頃にはもう足音が聞こえてくるほどであった。
ディブレシアの足音など聞いたことなどないはずなのに、彼女の物だと分かり益々焦る。
「塔にはい……」
「入っては駄目だ」
入り口の寸前で、右手首を掴まれ阻まれた。
「誰だ?」
振り返ると、二代目皇帝デセネアに瓜二つの人物がザウディンダルの手首を握っている。
「君はあっちに」
その人物が指さしたのは、帝后グラディウスの為に建てられた巴旦杏の塔前の家。
「早く!」
動けないでいるザウディンダルの手を引き、その人物はすぐ側の家の扉を開けて、さきほどのラードルストルバイアよりも強くザウディンダルの背中を叩き家へと押し込んだ。
「もう君は大丈夫だ」
その人物は入っては来ず、扉は閉ざされる。
ザウディンダルは全身に走る痛みに気付き、床に崩れ、のたうち回った。
死ぬのではないか? と思える程の痛みに嘖まれていたのだが、少し体が楽になる。できうる最大の努力で目をうっすらと開く。
そこに居たのは帝后グラディウス。
「……」
帝后はザウディンダルにブランケットをかけて、枕を頭の下に押し込み、
「寝ると治るよ。あてしがとっておきの子守歌を歌うよ」
ザウディンダルの腰のあたりを優しく叩きながら”藍凪の少女”を歌い出した。その音程が怪しい調子外れな歌を聞き、ザウディンダルは息をゆっくりと深く吐き出し、安堵して意識を手放す。
ザウディンダルが眠り藍凪の少女が響き渡ると、記憶の世界はさきほどラードルストルバイアが現れた時のように砕けだす。
硝子にひびが入るように、大地が裂けるように ―― 空が裂けてゆく。
ディブレシアはザウディンダルの意識が逃れた場所で立ち尽くしていた。
「残念だったな、小娘」
崩れる記憶の世界で、ラードルストルバイアが”ざまあみろ”という気持ちを隠さずに声をかける。
「ここは?」
「俺たちには見えないが、そこには両性具有だけが入れる、帝太后がいる家があるんだそうだ」
振り返ったディブレシアの意識が見たものは《嘲笑う》などという言葉では言い表せない、蔑みの表情を浮かべていた。
「……」
「この塔、以前は入り口側が大きな窓で、外界と会話できたんだそうだ。その窓側にあったのが帝太后の家。”お前が”再建させた塔は、その頃とは入り口が反対側になった。どうしてか? ロターヌに追われ、この塔に逃げ込もうとする両性具有を救うために入り口を変えたんだ……全部教えてやれなくて残念だな」
藍凪の少女が藍凪の少女を歌い終えると、両性が共有する意識は消え去る ――
**********
「……」
激痛に揺さぶられ目を開いたザウディンダルに、ミスカネイアが大きな声で話しかけた。
「ザウディンダル」
義理姉の声を聞き、現実に戻って来たのだと分かったザウディンダルは、生死不明のデウデシオンについて尋ねた。
「ね……さん。あに……は?」
デウデシオンの生死はまだ不明。
「私も分からないは。ザウディンダルに付きっきりだったから。誰も部屋に入れないようにしていたしね。夫にも近寄らないように命じておいたのよ」
彼女はそのことを知っているが、言わなかった。
―― 嘘をついたこと、気付かれてしまうかもしれないけれど
彼女はつとめて冷静に、ザウディンダルの汗を拭ってやる。
「ごめ……」
「謝らなくていいわ」
意識を失えば、また他者の記憶の中を行き来しなくてはならないのか……と恐怖を覚えるが、体は睡眠を欲しザウディンダルを眠りの園へと引き摺り込んだ。
他者の記憶を渡り歩くことは二度となかった ――
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昔、昔。俺がまだシャロセルテに食われる前に見つけたんだ。
一人で大宮殿にやってきて、デステハ、及びサディンオーゼル大公が書き残した書類をな。そこに書かれていたんだよ。
記憶に飲み込まれ、ロターヌに殺される《両性具有を出産する、脊椎核の女を救う方法》ってのをな。
帝太后の小さな邸は破れねえよ……入り口にいるのはシルバレーデ公爵ザイオンレヴィだ。
シャロセルテが棲み着くことになったエーダリロクってのは、両性具有を完全に排除した個体だからなあ。少しでも両性具有がいたら、シャロセルテは藍凪の少女を赦してただろうよ。この記憶を読み、藍凪の少女が両性具有にとってどれ程重要なのか知ることができたなら。俺は確かにシャロセルテを殺したが、ここまで仕組んじゃいねえよ。仕組めるわけねえよ。
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