ALMOND GWALIOR −96
皇帝が ”未来の皇后” を無事に帝星に連れて戻って来たが、帝国宰相と四大公爵当主との間で ”奴隷正妃の称号” で意見が分かれ、ロガは正式な称号が定まるまで 《后殿下》 とだけ呼ばれることとなる。
爛れた顔の治療を終えた后殿下は、環境の変化についてゆけず、連れて来られた日の夕方頃に高熱を出し、絶対安静となった。
「仕方あるまい」
帝国宰相はその報告を聞き、后殿下がその日のうちに行わなくてはならない儀式である、四大公爵にして四王との挨拶を先送りにした。
この時彼等は、后殿下ロガの体調不良は 《環境の変化だけ》 だと信じていた。奴隷に対する彼等の評価はそれ程高くはない。
だが彼女が高熱を出した真の理由は……
二十四歳の独身皇帝が、やっとの思いで手に入れた奴隷正妃。二人の結婚、その後の生活が何の波乱もなく続くようにと帝国宰相は色々な策を立てていた。
「兄貴」
「ザウディンダルか」
帝星に戻って来た弟が、報告書を持って執務室に入ってきた。それらを受け取ると、椅子から立ち上がり、
「少し話でもしてゆくか?」
「あっ! うん」
すっかりと夜も更けた時間がもたらす静けさの中で、二人は温かい紅茶を口に運んだ。話をするかと言った帝国宰相も、それに答えたザウディンダルも、ただ黙って向かい合いお互いの表情を見ては紅茶に視線を落とすを繰り返す。
雪の降り続ける夜の静けさにも似た満天の夜空の下、照明の全ても落として時間を楽しむ。紅茶を飲み干したカップが冷え始めた頃、
「どうしたんだ? 兄貴」
ザウディンダルは兄の些細は異変に気付き、尋ねた。
「ザウディンダルか。私がどうかしたか?」
「兄貴たちが結婚した時の表情に似てるけど、ちょっと違う感じも。バロシアンの結婚か?」
末っ子のバロシアンの婚約が無事に整ったと、他の兄弟からザウディンダルは聞かされていたので、それに関係して何時もと違うのだろうと。
その言葉に帝国宰相は曖昧な表情を浮かべた。彼にとってバロシアンは末の弟であり、最初で最後の実子。弟であり息子の結婚は、彼の胸中を複雑なものにしていた。
「そうか、確かに私にとってバロシアンの結婚は違う意味も含むからな」
カップの取っ手を指で弾きながら、彼は答えた。
「何が?」
兄弟で一人だけ 《長兄の実子である末子》 の存在を知らないザウディンダルは、帝国宰相の言葉に当然疑問を持つ。
ザウディンダルだけには真実が言えない帝国宰相は、目の前で小首を傾げている藍色の濡れた瞳の最愛の弟を前に、真実を言うべきか? 否か? を計りにかけて、即座に言わないに傾いた。
言わないことに決めたのは良いが、ザウディンダルは疑問を持ち続けている。
この場合、上手く場を収めるにはどうしたら良いか? 優秀であり真面目であり知性に溢れている帝国宰相は、突如腹を押さえて前屈みになり、
「…………うっ! 持病の虫垂炎が!」
恐ろしく馬鹿な叫びを上げた。
もう少し考えた誤魔化し方ががあるのではないか? と帝国宰相本人も思いながら、腹を抱えて椅子から転げ落ちて床を転がってザウディンダルから離れる。
これが帝国政治の中枢だとはお見せできない姿で転がる帝国宰相の後ろを、驚いた表情で追いかけるザウディンダル。
「じ、持病! 兄貴持病なんてあったの、俺何すりゃいいんだ! 虫垂炎って何?」
”持病” という単語に全てが麻痺してしまい、下手な演技にもすっかりと騙されている。元々ザウディンダルは帝国宰相を疑うタイプではないので、彼が病だと口にしたら信じ切ってしまう性質だった。
「つぅ!」
心配と不安に押し潰されそうになっているザウディンダルの顔を見て、帝国宰相は焦る。泣き出したらどうしようかと思いながら、脇腹を適当に押さえてまた転がってゆく。
不必要に広い執務室で、素晴らしい身体能力を披露しながら転がり回る帝国宰相。
「誰か呼んでくっ! ……え、あ?」
”兄貴が苦しんでる!” 疑わないザウディンダルは、医者を呼ばなくてはと帝国宰相から離れて、通信機に向かおうとした時、室内の窓全てにシャッターが降りた。
元々明かりを消していた室内に、差し込んでいた星の明かりさえ遮るシャッター。直後に ”黒い” ピンスポットが床に円を描き、ギミックが発動して奇妙メロディーと共に、金髪のケシュマリスタ顔の男がせり上がってきた。
「お待たせいたしました! あなたのガーベオルロド公爵キャッセルにございます!」
「(デ=ディキウレだな)」
声を変え、他人の喋り方を真似ることが得意な帝国宰相の懐刀だが、
「安心しなさい、ザウディンダル! ここは私に任せておけば、大丈夫! さあ、処置するから部屋から出てくれるかな、ザウディンダル」
何故か声だけキャッセルにして、喋り方は本人その物。
ばれてしまうのではないか? 下手な詐病で転がり回っていた帝国宰相は思ったが、
「あ、ああ……あの、あ、キャッセル兄……あの、その」
兄の体調不良で気が動転しているザウディンダルは、全く気付く気配がない。
”可愛いのやら注意力が散漫なのやら、少しは落ちつけというか……もう……”
いつの間にか腰を押さえて、床に顔を押しつけて ”おろおろ” する弟に詫びつつ、帝国宰相は立ち去るのを待っていた。
「さあ! さあ! さあ! さあ!」
間違い無くデ=ディキウレの言動で、ザウディンダルの背中を押して廊下に出し、
「心配することはないからね!」
扉を閉じながらデ=ディキウレは答えた。
念のためにと医者を求めて駆けだしていった足音に、帝国宰相は ”済まんな” と思いながら身体を起こして溜息をつく。
「バロシアンの事を告げるよい機会だったのかも知れないが……」
真面目に呟いた帝国宰相の元に、
「さあ、デウデシオン兄! いざ! 虫垂炎の治療を! 切っちゃえー!」
腰から短剣を抜いたデ=ディキウレが飛びかかってきた。
「やめんかぁ!」
デ=ディキウレ、悪乗りである。
「伯母はまだ生きているという事か」
「ああ。実験が終了したら俺が殺しに行ってくる」
カルニスタミアとビーレウストは、互いにロディルヴァルドという男と、キュラの伯母がどうなったかを報告しあっていた。最初に聞いたのはカルニスタミアの方で、ビーレウストが男のことを聞き返したのは ”付き合い” だが。
二人が歩きながら話していると、前方に泣きそうな表情で走っているザウディンダルを、
「どうした? ザウディンダル。慌てて」
カルニスタミアが見つけた。声を掛けられたザウディンダルは、
「あっ! カルとビーレウスト。あ、あのな! 虫垂炎が兄貴で持病が結婚だって!」
パニック状態。
「落ち着け、ザウディンダル。帝国宰相がどうしたと?」
何故これほど焦っているのだろうかと不思議に二人は思っていたが、続くザウディンダルの言葉に全てを理解する。
「兄貴持病の虫垂炎の発作で痛がってて、そこにキャッセル兄が飛び出してきて処置するって」
ガーベオルロド公爵キャッセル
「オーランドリス伯爵の処置……」
そりゃマズイだろうとビーレウストは、彼と実兄の楽しい虐殺拷問の一時を脳裏に思い浮かべ、
「ガーベオルロド公が処置……」
帝国騎士として彼の支配下である支部に足を運んだ際に遭遇する、辺り一面内臓敷き詰め床を思い描き、額に手をあてる。
帝国宰相の方がキャッセルよりも強い上に、異父兄弟は殺さない ”らしい” ので、出来れば近寄らないで済ませたいと二人はあらぬ方向を向いた。
混乱しているザウディンダルと、逃げ腰のカルニスタミアと、面倒が嫌いなビーレウスト。その三人に別の方向から歩いてきた、
「どうしたの三人で?」
キュラが声をかけてきた。
キュラは一人ではなく一緒に歩いている人がいた。その人物は、
「キュラ! と……オーランドリス伯爵?」
帝国宰相に処置を施している筈のキャッセル。
「やあ、元気にしてたかい。お前達が無事に帰ってきてくれて、私はうれしいよ」
三人の動揺など全く気にせずに、彼は話しかける。
余裕に満ちあふれているキャッセルに 《先ほどのギミックから飛び出してきたのはキャッセル兄だ!》 そう信じているザウディンダルは、詰め寄って詳細を尋ねる。
「キャッセル兄! 兄貴の処置もう終わったのか?」
潤んだ瞳と、興奮して赤みの差した頬と、兄的に可愛くて仕方のない唇。 ”デウデシオン兄は幸せだよね” そう思いながら、何事かを考えて、
「…………ああ、デウデシオン兄の処置ね、処置。今道具を取って戻って来たところだよ」
直感的に ”デ=ディキウレ” の存在を掴み、適当に話を合わせた。取り敢えず帝国宰相の元に自分が行けばいいのだと。
「失礼ながら、道具とは?」
何となく嫌な予感のするカルニスタミアは ”道具” について尋ねる。
「ほら」
手に持っていた鞄を開いて、中身を見せる。
身体を切り開くメスから、何処かを無理矢理開くらしいモノや、心臓のあたりを突き刺してから捩るために作られたらしい物体やら……どう見ても由緒正しい拷問道具が収められていた。
(それ拷問器具では? 血糊がついていないから使用前じゃろうが)
あまり拷問器具に明るくないカルニスタミアは、一族のほとんどがその手の事に詳しいビーレウストの表情を窺うと、良い具合に硬直しているのが見えた。
眉間に皺が寄りながらも右眉が上がり、右の口が歪んだ形で上がっている。それは施術用ではなく、拷問道具であることを意味している。
「キャッセル兄! 早く兄貴を! 俺も一緒に行っても」
帝国宰相を疑う事のないザウディンダルは、他の兄弟もあまり疑わない。何より兄弟達が帝国宰相を傷つけるなどは考えた事もない。
キャッセルは 《まだデ=ディキウレのことは秘密にしておくべきだよね》 ザウディンダルがまだ知ってはいけない事実があることを知っているので、肩を優しく掴みその美しい顔に微笑を浮かべて、
「いやいや、私一人でやるから。明日の朝にでもデウデシオン兄を見舞ってくれ。それじゃあな、キュラ」
ゆっくりと立ち去った。
「バイバイ、キャッセル様」
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