ビルトニアの女
終わりから始まりに向かう世界へ【8】
―― こんな日がくることなど想像したことはない。だからかえって、冷静でいられた

「来ましたか」

 『ルクレイシア殿が切り捨てられるのではいでしょうか?』

 ルクレイシアは切り捨てられるのではなく、自ら死にやってくる。彼女は夫も国王もそして信仰をも裏切り、たった一人の男のために両手で短剣を持ち「命じられた」相手を殺しに来た。
「……逃げないのですか?」
 感情の薄い彼女であったが、逃げようとしない相手には驚きを感じて尋ねる。
「逃げはしません。話は聞いていましたから」
「赦してください」
 自分の人生がどこにあるのか解らない彼女は、笑い泣きの表情を浮かべ赦しを請う。
「もちろん。赦します」
 彼女を赦し窓に近付き、外を眺めた。背に彼女がぶつかり、体の中心が熱くなり、視界が歪みそして消える。 
 死体に残っている力により個人の特定ができてしまうので、暗殺に法力は使われない。

 法王レクトリトアードの次の法王となったのはクラウス。暗殺されたのはパネ。

**********


「エド法国法王の順番です。こっちは……十五代ディス二世で”止まっていない”んです! 十六代アレクサンドロス四世の名が書かれているんです! この方は廃帝だと、廃帝だから!」
 誰が何の為に未来を描いたのか、ドロテア達には解らない。どこかで誰かが笑っているのか、苦しんでいるのかもわからない。
 ドロテアはミゼーヌからメモを受け取り、まだ存在していない《法王の名》を見る。


十六代法王 アレクサンドロス四世
十七代法王 レクトリトアード
十八代法王 クラヴィス
十九代法王 ......

「十七代……こりゃまあ。十八代……ついにあれがな」
 ミゼーヌは十七代の名が意味するものは解ったが、十八代の名を見て何故ドロテアが笑ったのかは解らなかった。
 その時になり、初めて言葉の意味を理解するが、それはやはり未来のことであり、ここには何もない。


 当時のミゼーヌはクラウスの本名が”クラヴィス”であることを知らなかった。ドロテアはもちろん教えはしなかった。―― 未来など知っても良いことは何一つない ―― と。

**********


 こうして、エルセン文章に残されたとおりのクラヴィスが法王に就任した。

 ルクレイシアにはクラウスを暗殺する力はない。彼女を犯人に仕立て上げる為には、彼女が殺せる相手でなくてはならない。魔法を使わず、直接の攻撃で殺せる相手となるとパネしかなかった。
 かつてのギュレネイス皇国警備隊長クラウスを、何の力もないルクレイシアが暗殺するのは不可能。
 クラウスを暗殺するとなると、ファルケスが犯人でなくては収まりがつかなくなり、ファルケスを処分する方向に進むとハイロニア群島王国と事を構えることとなる。彼等は真実に目を閉じて、法王の牽制を理解したハミルカルはそれ以上の侵略を押し進めなかった。

 ルクレイシアは秘密裏に処刑され、ファルケスは新しい平凡な妻を迎えた ――

 クラウスは長年エド法国を支配した男が去った神の国で、本来ならば法王となるはずだった男が残した手紙に目を通す。手紙は法王レクトリトアードから手渡されたもので、生前彼が認めクラウスに渡して欲しいと頼まれたものだと言われた。
 クラウスは私室で一人、その手紙を開く。


お前は覚えているだろうか? エウチカ=クリュガードという男を
忘れられてしまっているかもしれないから、少し説明しよう
私はかつてのギュレネイス皇国フェールセンに住んでいた、処刑人の息子だ
忌み嫌われる家業の子であった私と遊んでくれたのは、変わり者のフェールセン人エルスト=ビルトニアと
こちらも今はないイシリア教国からの亡命者だったクラヴィスという少年だった

私は家から出た

家業を継ぎたくなかったこともあるが……今となっては理由らしいものを思い出すこともできない
私はそこから逃げ出す
その最後の夜にエルスト=ビルトニアに見つかった
私塾帰りで、私を見つけ「自宅に誰もいない」と私を一晩泊めてくれ、僅かながら旅費もくれた
私はエド法国に向かい、バリアストラ派の門を叩いた
ちょうどその頃《本当のパネ》が死んでいた
《本当のパネ》は死せる子供達の一人であった
私が訪れた頃のエド法国は、ディス二世が立っていた
お前も知っての通り、当時はこの死せる子供達の数で派閥の勢力が決まっていた
そのたった一人しかいなかった《死せる子供達である本当のパネ》を失い、バリアストラ派の長老達は困り果てていた
私は《本当のパネ》以上の力を持っていたらしく、彼女と入れ替わることになった

そう、このパネがエウチカ=クリュガードだ

まだお前が警備隊長で、イシリアに救援に向かった際
エルスト=ビルトニアは気付いた
お前は気付かなかった
気付かなくて当然なのだが
あいつは……何故か気付いた
旅費を返すといったのだが、死者からは金を取ることはできないと拒否された

昔話は尽きぬのだがこの位にして、お前に頼みがある

娼館街の大通りから真直ぐ歩いて六つ目の右の角を曲がり
そのまま突き当りまで進んで再び右に曲がってくれ
暫く歩くとそこも突き当たる
そこに私がバリアストラ派の頃に使っていた聖典と聖印を置いてきてくれ
パネ、彼女の死体はそこに捨てられたのだそうだ
当時の私には入れ替えられた彼女がどうなったのか? それを知る余地はなかった
知ろうともしなかったというのが正しいのかもしれない
私の聖典と聖印は彼女のものだ。本来の持ち主に返してやりたい
私が彼女について知っているのは、彼女はゴールフェン人であったということだけ
今となってはもう名前は調べようもないが、間違いなく彼女はゴールフェン人だった



クラウス……いやクラヴィス、元気でな。祈っている、貴方の未来が輝かしいことを。エド法国の未来が永遠であることを 誰よりも祈っている。幸せであれ




 クラウスは手紙を焼き捨て、箱に大切に保管されていた《バリアストラ派のパネ》が使っていた聖典と聖印を持ちクラウスは部屋を出た。
 宗教を流転したクラウスは、神の側で人々の心の安寧の代行者となることで自らの安寧を得た。彼が自分のためではなく、人々のために祈ることを知ったのは法王となってから。そして自らが神に救いを求めていたのではなく、人に救いを求めていたことを知った。
 法王となったクラウスは、ファルケスに法王レクトリトアードが行ったパネの暗殺と、ルクレイシアの処刑について意見を求めた。
「ご存知でしたか」
「私は純粋な宗教家ではないのでね」
 クラウスも気付いていた、そしてファルケスがその事に気付いていることも。
 ファルケスは沈黙することもなく、直ぐに答えた。
「ハミルカルを止める術は他になかったのだろう。私は国のためならば、妻子程度は軽く切り捨てる」
「そうか……それにしても彼女は穏やかだった」
 法王レクトリトアードの尋問に答える彼女は、非常に穏やかで慈愛に満ちていた。
 人を殺したとは思えないほどに。
 尋問した法王レクトリトアードの声は何一つ変わらなかった。変わったことはただ一つ、彼女をその手で処刑したことだった。ギュレネイス皇国の警備隊の処刑のように、彼女を抱きこみ枢機卿達の前で首を折る。
「私はハイロニア王国の家臣で、あれはエド正教の僕だった。多くのことを望まない女だったが、あれは法王を慕っていたから自由にさせたよ。間違っていたのかも知れないが、望みだけは叶えさせてやった」
 彼女は自らの首を折ろうとしている法王の腕に手を乗せて、幸せそうに目を閉じて微笑んだ。
 その時の彼女の表情は《生きていた》
 死の間際に、彼女はやっと生きることができた。
「そうか。もう下がって良いぞ、ファルケス」

 法王レクトリトアードは彼女を自らの手で殺したことを理由に退位し、帝国ランシェへと向かった。

**********


「こんな痩せた土地だけど、本当にいいのか?」
 国を失い居場所を求め帝国ランシェに辿り着いたイシリア教徒たちは、辿り着いてから数年後、小さいながらも領地を与えられた。
 大昔にグレンガリア王国の領地だった島。
「はい。わざわざ足を運んでくださり、ありがとうございました。ビシュア殿下」
 海に囲まれ痩せ細ったこの島だが、これからここがイシリア教徒の聖地となる。
「ま、その、頑張ってくれ。クリシュナ」
 『殿下』と呼ばれることに終生慣れることのなかった女帝の夫は、一斉に頭を下げたイシリア教徒を前にバツが悪そうな表情をつくりながらもこらえて、身重の女帝の代理として贈与の式典を終える。
 豊かになれないだろう土地を何故彼等に与えたのかを、与えることに決めた女帝に尋ねた。

『金銭的に豊かになることが出来る土地では、彼等は豊かになったと同時にランシェから独立を望む。それも良いが、その先にあるものは宗教的な諍いだ。私は諍いを起こすつもりはなく、諍いを起こす教徒を育てるつもりもない』

 答えを聞きビシュアは頷きそれ以降、気にはかけるがイシリア教徒に肩入れしないように気をつけた。
 女帝の言葉どおり、イシリア教徒が与えられた土地は豊かさとは縁遠く、多くの者がイシリア教を捨ててそこから離れる。残った者たちは彼らの未来に幸福が訪れることを祈り、自分たちは海風を凌ぐ石垣を張り巡らせ、石の多い土地を耕し放牧を行い僅かばかりの糧を得る。
 どれ程の努力をしても貧しい生活が続く。
 そんな日々が何年も続き、この先も永遠に続くのだろうと誰もが思っていたある日、クリシュナは朝の祈りを終えて、毎日の糧を得る為に農具を持って建て付けの悪い扉を開いた。
「なに……これ」
 クリシュナの目に飛び込んできたのは、雑草にも見える背の高い草の数々。
 昨晩家に戻った時には、そこには岩肌がむき出しになった土地が広がっていたのだ。農具を捨ててクリシュナはその草の側へと近寄る。雑草であろうとも一晩で成人女性の腰の高さまで成長するなどあり得ないこと。
 クリシュナに遅れて家から出てきた者たちも、その光景に声を失う。
 眼前の光景に驚いていると、雲の切れ間から朝日が差し込み、何かが深い草の中で反射した。クリシュナは草を両手で分けてその方向へと進む。
 朝日を反射させていたのは玄の壷。イシリア教徒の遺灰を納めるその壷はエドウィンの名が刻まれていた。それを持ってクリシュナは教父となったカッシーニの元へと急いだ。同じくその壷を見て言葉を失ったカッシーニだが、その蓋を開いてみることにした。
 中からは丸められた紙がぎっちり詰められていた。それを丁寧に取り出してみると、今朝になって生えた草の図と種類、管理と生育、製品にする方法が丁寧に書き込まれていた。
 彼等は書かれていた通りにその草を製品にして、帝国へと売りに向かう。
 帝国にいた薬草売りの驚きを背に、クリシュナは女帝に数々の薬草の種類と生育方法の書かれた紙と、それが入っていた壷を差し出す。
 クリシュナが思ったとおり、これらを書いたのは女帝の姉であった。そしてクリシュナたちが持って来た薬草を“あの土地で育つはずがない”と専門家たちは口々に語ったが、そこに真実を知っている人が現れ、簡単にそして全てを納得させる。
「ああ、これはドロテア様が品種改良していた薬草だ。海風があたっても育つようにと、改良していらしたよ」
 王学府の総副学長となったミゼーヌが乾燥した葉の香りを嗅ぎながら、そう語ると誰もが黙った。
 クリシュナやカッシーニはミゼーヌに『これは、貰って良いのか?』と尋ねると、ミゼーヌは遠くを見つめながら『もう必要なくなったから、気にしないで』二人ではない誰かに向けて、若干の批難が篭っているかのような声で答えた。
 二人にはその理由が解らなかったが、知りたいとは思うこともなくそのまま帰途につく。
 その恵みによりイシリア教徒が金銭的に豊かになるようなことはなかったが、少しだけ生活が楽になり、祈りを捧げる時間を増やすことができた。彼等は与えてもらった薬草に感謝し、慎ましくイシリア教徒であり続ける道を選んだ。

 かつて潮風に囲まれた国があった。潮風に当たると育たない薬草があった。女は潮風に当たっても薬草が育つように苦心しながら改良しているうちに、男は潮風の当たらぬ国を奪い取る。


 ではもう”これ”は必要ないだろうと、女は別の国にそれを贈る。男は女からの贈り物を手に入れそびれた。男はそのことを知らない ――


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