ユリウスはこの宗教戦争に勝つつもりがあったのか? 今となっては誰も解らない。だがその時人々は、宗教が人に与える最も重い熱病に罹りまともな判断力を失っていた。その熱病とは『狂信』
純粋であったはずの祈りは何時しか人を切り裂く為の掛け声となり、胸のうちを支配するのは他人の死を望む心ばかり。
「アニス! 無事で良かった」
「イザボーも」
終始戦いを優位に進めているエド法国側は、戦死者も少なく済んでいた。
「二人とも無事で良かった」
二人に声をかけたのはマリア。
聖槍とヒルデガルドから貰った盾を持ち、若い二人の従者をつけて戦っていた。
「マリア」
「無事で良かった」
マリアがヒルデガルドから盾を渡されたのは、法王レクトリトアードと共にアレクサンドロス四世を埋葬しに王国へと足を運んだ時。“女王となった以上、自らの身のみを守るわけには行かないので。決意を受け取ってください”と言われて、マリアはその盾を受け取った。
盾を構える戦い方を一から学びなおすのには苦労したが、努力し盾を持って充分に戦えるようになり、それを待っていたかのように勃発した宗教戦争へと投入される。
艶やかなく黒髪とあのドロテアをして『この世で最も美しい』といわせた姿。かつてそれは、本当に容姿的なものだけと思われていたが、何者にも臆することなく向かう姿勢に何時しか本当に美しき戦陣の女王と呼ばれるようになった。
「ここまで攻め込めたんだから、後は簡単ね」
イザボーが言う。彼女たちの目にはあの虹の良くかかる温かい雨の降る首都が望めていた。
エド法国側はギュレネイス皇国の首都が見える範囲まで戦線を押し、勝利まで後一歩のところまできていた。
だがギュレネイス皇国は首都がフェールセン城その物であるために、常識的に人間達には陥落させるのは不可能。それを落とすために陣頭指揮を執っていた法王レクトリトアードが一時戦線を離脱し、オーヴァート=フェールセンに首都の無力化を依頼しに向かっていた。
「早く許可をいただけるといいわね」
アニスも肩から力を抜きイザボーに同意する。
「そうね。これが片付いたらヒルデリックを見に行かなきゃ。ヒルダに似ているっていうから、顔は良さそうね」
「男嫌いのマリアでも、ヒルデガルド女王似なら大丈夫そうだものねえ」
戦争は終わるはずだった。
だがユリウスはこの時を待っていた。そう法王レクトリトアードが皇帝に首都陥落許可を貰うために前線から離れる瞬間を。
「起動開始」
学者であった能力を用い、戦闘に使える遺跡の全てに手を加え、唯一攻撃に耐えられそうな男がいなくなった時を狙って皇帝の居城から、かつての皇帝達が作り上げた遺跡を稼動させた。
ギュレネイス皇国の深く侵攻している聖騎士達は空の異変に浮き足立つ。
あのエルストの瞳のように透き通った青空が、突如赤紫色に変色し空気が凍りつきながら重くなってきた。
「一体何が?」
アニスが空を見て困惑した声を上げると同時に、イザボーが大声で叫ぶ。
「退却よ!」
この異変をイザボーは覚えていた。空の突然の変化と恐ろしい圧迫感。イローヌの遺跡が動いた時に感じた恐怖。
驚く聖騎士達に、マリアが続ける。
「ユリウスは禁断の攻撃を開始したのよ。彼は遺跡を動かした」
聖騎士達は声を失い空気が伝える大きな音の在り処がどこかを目を凝らして探す。
「退却するのは可能だが、何処まで下がれば?」
ゲオルグは隊列を組みなおさせて、焦りを極力押さえた口調で話しかける。
「下がるのではなく、逃げるために前進するしかないわ。ギュレネイスの首都フェールセンに向かって走るしかないでしょう。あの城は全ての攻撃を無効化すると言っていたから……でも間に合わないでしょうね」
言いながらマリアは空を見る。
無数の白い光源が地上からも肉眼ではっきりと確認できた。
「みんな首都に向かって走って」
「マリアは?」
「遺跡を私欲に使う男を滅ぼすことにするわ」
言いながらマリアは盾を地において、槍の刃を掴み上半身を覆っていた鎖帷子を切り裂く。
**********
「成る程ね。少し聞きたいんだけど」
「何だ?」
「もしも私が神様を、最高神を呼び出そうと思ったらどんな手段があるもの?」
「う……ん。マリアは呪文使えないし、法陣も書けないからなあ…手段としては前に言った “生贄” が必要だ。マリア自身の命と引き換えになるな」
「そう。私一人の “生贄” で召喚できるもの?」
「さあ。古来より “真摯な祈りを捧げ、僅かな迷いも無く、死を恐れずに、己が手で、その脈打つ心の臓を、右手にて空高く、掲げよ。左手にて、望みを表せ” とあったが、言っちゃなんだが生きたまま自分の心臓を、素手で刳り貫いて空高く掲げれるヤツはいないぞ。俺でも無理だ」
「難しいものね」
「一応。そうでもしなきゃ、人は神ばかり呼び出して、何もしないだろからな」
**********
鎖帷子を切り裂いた槍を地面に刺し、胸に両手を当てて昔ドロテアに何気なく聞いたことを思い返し祈るように口ずさむ。
「真摯な祈りを捧げ、僅かな迷いも無く、死を恐れずに、己が手で、その脈打つ心の臓を、右手にて空高く、掲げよ。左手にて、望みを表せ」
胸骨の上に指を置き力を込める。
自分の指が体の内側に吸い込まれるようにめり込み、指は肋軟骨をへし折り心臓へと到達した。
止めようと近寄ってきたイザボーを左手で掴み、
「私が心臓を抜いた手を空に掲げて」
そう言って手を離す。
イザボーはマリアの正面に立ち、マリアは自分の心臓を鷲掴んだ。自分の全てが抜け落ちるかのような感触と共に、目の前に脈打つ心臓が持ち上がる。
「遺跡を止めて!」
その声は最高の神に届いた。マリアに召喚方法を教えたドロテアに。イザボー目の前にあった心臓が消え去り、青白い膜が聖騎士達を包む。それから少し遅れて振ってきた光の雨は、その膜に全て吸収されて消え去った。
自ら胸を裂いて死んだマリアの胸をアニスは手でふさごうと必死に、裂け目を手で握ろうとするが開いて空洞になってしまった胸は手では戻すことはできない。
「一体何が……」
「マリアが命と引き換えに“遺跡を止めて”と言ったらあの人しかいないでしょう。神をも凌ぐ女」
ゲオルグに言い返すと、イザボーは片手に剣を持ち片手を胸に当てて祈る。それは死者を送る言葉ではなく、神を湛える一節であり戦いに赴く際に精神を昂揚させるために口にする言葉。
遺跡からの攻撃が停止した時、彼等は一斉に首都フェールセンに攻め込む用意をして祈り続けた。
その頃首都で遺跡を使った一斉攻撃を開始させたユリウスの前に、突如遠ラグオール画面が次々と現れ、ユリウスが稼動させろと命じた遺跡の操作室が映し出される。
「何事だ?」
絶対の安全区域から攻撃を命じていたユリウスは、突然のことに驚きの声を上げる。
映し出されている操作室は特に何も起こっていなければ、向こうからユリウスに指示を求める為に画面を出したわけでもないようで、ユリウスの存在に気付いてもいない。
何が起こるのだろうか? 解らぬままその画面を見上げていると一つの画面から叫び声が聞こえた。
その断末魔が聞こえた方向をみると画面に血の手形がべっとりとついていた。それも左手で薬指が欠けているのがはっきりと解る手形。
「まさか……」
その画面の向こう側から聞こえてくる助けを求める声、そして別のところからも上げる助けを求める声が上がる。
次々と画面に叩きつけられる血の手形。最後の一人が絶命する時、相手をユリウスは知ることが出来た。
「ド……ロテア……」
聞かなくとも解っていたことであったが、聞いたことによりユリウスは一人冷静になり、次の指示を出す。堅牢なフェールセン城の外縁を使い篭城戦の用意をするようにと。
部屋に一人だけ残り、司祭だけが座る椅子に崩れるように腰をかけたユリウスは、自分には滅ぼされる道しか残っていないことを理解していた。
滅ぼす相手が誰であるかは解らないが、次に会う人物に必ず殺されるだろうと目を閉じて肘掛にもたれかかった。どれ程の時が経過したのかわからなかったが扉の開いた音もなく足音が響く。
緩慢な動作で頭を上げるユリウスに、その足音の主は尋ねる。
「あなたが司祭ユリウス?」
聞き覚えのある声に重く痛む頭を持ち上げて、視線を向けた。そこに居たのはマリア。
「何故ゴルドバラガナ邪術が?」
かつてマシューナルで学んでいたユリウスも知っている、この地上で最も美しい女。その美しい女は胸がぱっくりと開き、顔には紫色のゴルドバラガナ特有の紋様が浮かび上がっていた。
「あなたを討つ為に」
マリアが槍を構える。
最早逃げる気力もないと立ち上がらないユリウスだったが、誰も触れさせた事がないであろう胸の無残な空洞について尋ねた。
「胸はどうしたのだ?」
心臓を失って動けぬはずの死体が動く、その胸はユリウス自身の心を表しているかのような空洞。
「自分の指で引き裂いて、心臓と引き換えに遺跡を止めてもらったの。ドロテアが昔教えてくれた方法」
自らはずっと昔から動く死者の紋様が浮かばないだけで死んでいるのだろうと、あまりにもはっきりとした意志を持つ死者に頭を下げた。
「そうか、貴女が呼んだのか。ならば何を差し置いても来るだろうな」
マリアはその言葉を聞きながら、司祭の座へ向かって槍を構えて駆け出した。
黒を基調とした銀で飾られた司祭の間を足音を立てて駆け、そして逃げることをしない男の胸をその座に縫いつける。胸を刺されたユリウスは衝撃で頭が上がり、マリアの顔を間近で見ることが出来た。
動く死者、外法の紋が浮かんでいようとも、美しき戦陣の女王の表情は何一つ損なわれていない。これがあの皇帝の大寵妃が絶対に敵わないと謳った美しさかと彼は見惚れる。
「ところで……この部屋にはどうやって? 扉が開く……音はなかった……」
焼け付くような胸の痛みを感じながらユリウスは質問した。
「ゴルドバラガナを掛けた相手に依頼したの」
「……そんな人間がいるとは世界は広いな……私の心は、終ぞあの皇帝に……届かな……」
マリアは槍から手を離し、焼けた掌を生きている時には感じたことのない痛みを見る。
この世の理を無視した死者が聖槍を持ったために掌は焼け爛れ、朽ちることのない体に与えられる永久なる痛みを握り締めながら息絶えた司祭を見つめていた。
Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.