ビルトニアの女
ビルトニアの女【7】
―― ああ、ドロテアに叱られるなあ……あ……

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「こっちだ」
 オーヴァートと共にイングヴァールが作った空間に飛び込んだエルスト、クラウス、セツ、レクトリトアードの五人と二つの霊は、指示のもと廃帝の元へとむかった。
「こっちで本当に正しいの? オーヴァート」
 信用ならないオーヴァートに、これまた信用ならない男エルストが尋ねる。
「もちろん。この空間の作りは、フェールセン城と同じだ。オリジナリティのない男だ」
 周囲はすべて半透明で、不規則に壁に該当する箇所が光り、遠くまで見通せる。ただ見通せるだけで、なにも《ない》
 床だと《言い聞かせて》走っている部分も、光るとその先には建物が見える。天地が定まらず、壁が壁ではなく、いま自分がいるところが解らない。
 鋭い感覚の持ち主は、その感覚故に現在地がわからず、鈍い感覚の持ち主は、その感覚故にやはり現在地が解らない。
「もうすぐ到着か? 皇帝よ」
「ああ、そうだ」
 オーヴァートが指し示した先には何も無かった―― そうセツは認識している。不規則に壁が発光した際にセツは周囲を見回し、オーヴァートが向かおうとしている先を見据えていたが己の目には何も映らなかった。
 だが《映らないもの》がいることを感じ取った。セツの目では見つけることができない阻まれた先にあるもの。
「ここだよ」
 オーヴァートが立ち止まり、なにも無い空間を指さす。
 なんの存在も確かになかった空間に、一人の人間らしき物が浮かび上がる。身長はオーヴァートと同じ程ある長身で、肩幅もほぼ似たようなもの。
 だが色彩や作りはまるで違う。見た目だけではオーヴァートと血の繋がりがあるとは解らないほど違う。
 髪は秋に染まった落葉樹の葉の如き黄色、肌は青白く、光彩のない鈍色の瞳は同じだが、その瞳を飾る《目》は大きめで和らげ。鼻筋は通り高く、唇は薄いが口そのものは大きい。僅かに開いた唇からのぞける口内は、鈍色の瞳と同じく人間にはあり得ない紫色をしていた。
「皇帝、これが廃帝か」
「そうだ、セツ」
 オーヴァートは過去の記録としてイングヴァールの姿を知っている。
「早かったな」
「ゆっくりと来たつもりだったが」
「皇帝《フェールセン》」
「ああ、フェールセンだとも。ラシラソフ・イングヴァール」
 現在の皇帝と過去の廃帝が睨み合い、不確かであった空間は瞬く間に”城”の形を取る。
「私を倒せると思っているのか? お前ごときの力で」
「私は倒そうとは思っていない。他の者はどうかは知らないが」
「お前は何を考えている、オーヴァートとやら」
「私が来たことで、異世界がフェールセンになってゆく。皇帝は私だ、わかったかイングヴァールよ」
 二人は言いたいことだけを言い、互いを蔑んだ眼差しで見下す。暗闇が城となり、城が次々と部屋を作り出し、部屋は調度品を発生させる。
「これは……どういうことなんだ?」
 先程までの不確かな空間が、しっかりとした存在に変化してゆく中で、クラウスが声を上げる。
「以前聞いたことあるけれど、難しくて左耳から入って右耳から逃げて行ったなあ。あとでミゼーヌにでも聞いてみると良いよ」
 欠伸をしながらエルストが、黙っていればいいのにそんな気のない回答をする。
 何時もならば怒るクラウスだが、さすがにこの場で怒り出すような真似をすることはなく、イングヴァールの視線はエルストを捉える。
「なにをしにきた、なんのつもりだ?」
 ”レクトリトアード”であるレクトリトアードとセツがこの場に来たことにイングヴァールは疑問を持ちはしない。霊体である二人も然り。
 だがクラウスとエルストは、なにをしに来たのか? イングヴァールには理解し難かった。人間如きが自分の前に立ち、なにが出来るのか? それは当然の疑問であり、エルストとして疑問視されるとは思ってもみなかった。
「行けと言われたから来ました。それだけですが」
 世界でもっとも横着で、世界でもっとも恐れ知らずであり、世界でもっとも妻を恐れる男は、クラウスの前に立ちイングヴァールを観て、その姿をドロテアに届ける。
「不愉快だな、人間」
 自らが作った異空間の中から外に己の姿を届けているとは思いもしないイングヴァールは、エルストの態度に腹を立てるだけしかできなかった。
 エルストはいつもと変わらずに、

「ジェダ=グレニガリアスにもそう思われていたようですね」

 フェールセンの動きを止める、ゴルドバラガナが残した言霊を唱える。イングヴァールの大きな目が開かれて、顔の作りが崩れて異常な雰囲気を作り出す。
「なぜ貴様、その名を知っている」
 邪術でも使えるのかと、イングヴァールはエルストの能力を探るが、そんな力を持ち合わせていないことはすぐに判明する。
「教えてもらったから」

「ドロテア、あの部屋の水槽に入ってる赤い髪の人って誰?」
「ジェダ」
「ふーん。生きてるの? 死んでるの?」
「死んだまま生きている」
「そうなんだ」


「教えただと? 何者がだ」
「ジェダはドロテア、グレニガリアスはアンセロウムから。何者と言われても、二人とも人間としか言いようがないかと。それにしてもあの深紅の髪の毛、インパクトありますね」

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 エルスト。お主観たか? 深紅の髪を持つ男を。そうじゃ、ジェダじゃ。姓はグレニガリアスと言う。
 会ったことか? さあなあ。あっちは知ってたかもしれんなあ

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―― なぜこの男の考えが読めんのだ? この男、なにを考えている……
「貴様は一体何者だ?」
 イングヴァールはエルストの考えを読むことができず、一々聞いて答えを得るしかできない。
「エルスト=ビルトニアと言うフェールセン人ですが」
「ビルトニア……滅亡か」
 イングヴァールは吐き捨てるように言う。彼は自分が負けるとは考えてもいない。初代皇帝が残した《三人の人間》の言い伝えに関しても懐疑的であった。
 自分たちが人間に初代皇帝の名を知られ、告げられただけで滅びるはずがない――彼の考えは珍しいものではなかった。
「そうみたいですね。神でも逃れられない”時がもたらす滅亡”」
 目の前にいる男の名が滅亡であり、男は初代皇帝の名を知り、皇帝に告げていることをイングヴァールは知ることができないでいた。
「よく喋る男だな」
「ああ、言い忘れました。時間稼ぎにきたんです」
「……お前、本心はどこにある?」
 エルストの心の奥底を読めないイングヴァールの問いに、エルストは彼の右肩のすぐ上を、持っていたレイピアで指し示した、
「この空間の外にあります」

―― そろそろ、くるな

 話で時間を稼いだが、エルストの心を読めぬことに苛立ったイングヴァールが無言のまま攻撃を仕掛けてきた。
 手始めの大陸を吹き飛ばす程度の”小さな”攻撃をオーヴァートが防御膜を張り防ぐ。
「後の防御は任せたよ、セツ」
「勝手にしろ」
 一度攻撃を防いだオーヴァートは、それを解きイングヴァールへの攻撃を開始した。皇統同士の戦いは、剣はなく拳でもなく蹴りでもなく、超能力のぶつかり合いである。
 無数の光りの破片を作り降り注ぎ、シャボン玉のような泡が光りを飲み込み、雷光が足元から頭上へと昇る。音が壁を食い荒らし、空間が重なり続ける。
「こんな訳が解らん攻撃を阻止する防御魔法など知るか」
 セツはそう言い弓を構え、レクトリトアードは左隣で剣を構えた。
「クラウス。無理しないでね」
 その半歩後ろにクラウス。そしてその後ろにいつの間にか最後尾につけているエルスト。
【お前はそれで良いのか】
「いいさ。アード、クラウスのことよろしく。あ、クレストラントもクラウスと一緒に戦ってくれ」
【……ま、お前は放置しておいても平気そうだな】
 アードとかつての魔王はクラウスの持つ杖に乗り移り、オーヴァートの攻撃の合間を縫って反撃を仕掛ける。
「うわーすごいなー」
 誰も観たことのない、最後の戦いが眼前で繰り広げられているのだが、エルストは特に興味を持たず、ゆっくりと眼鏡を外した。

―― 生きてたら勇者だ。死んだら英雄だ。英雄にはなるなよ、勇者《レクトリトアード》 ――

 誰もイングヴァールに致命傷を与えることはできない。それを知りながら攻撃を続ける。
 オーヴァートは死ぬために、セツは生きるために。クラウスは釈然としない感情を持て余し、レクトリトアードは……

「うおあああああ!」

 レクトリトアードが剣を掲げた。
 感情を知り始めたレクトリトアードは、最も感情を露わにしてはならない場所で、自分自身を制御できないほどの感情がわき上がり、時間を稼ぐための攻撃に始終することを放棄し、頭上から斬りかかろうと腕を大きく腕を振り上げた。
 それに向けてイングヴァールが笑う。
「身の程知らずが」
 エルストが眼鏡を鎌に変化させながら走り、振りかざす。
 イングヴァールが発した分厚い光の壁を、レクトリトアードは引き裂いた。その一撃はイングヴァールの後ろの異世界をも切り裂いた。
 イングヴァールが膝をつく。
 この異世界と彼は繋がっているので、大きな破損は彼にも傷を与える。彼は怒りに満ち、そして引き裂かれた光りの壁は姿を変えて、一斉に襲いかかってきた。その攻撃をエルストが大鎌で防ぎ、セツが前に出て矢を射ようとしたとき、
【防げ……】
【済まんな、ヒストクレ……】
 眼前でレクトリトアードが霊となった二人共々弾け飛んだ。
 ”特殊兵如き”傷つけられたことに、怒り狂ったイングヴァールがオーヴァートが欲していた攻撃をレクトリトアードにぶつけた。
 弾け飛んだ体と、噴き出す血。胸から腹にかけての肉が切り裂かれ、白い骨が剥き出しになる。
 仰向けになっているレクトリトアードの目に、辛うじて残っている光り、その隣で壊れるエルストが持っていた鎌。


―― ああ、ドロテアに叱られるなあ……あ……ヒルダ……あの……

 もしもセツがレクトリトアードに名乗っていたら、彼は肉親の喪失という怒りを抑えることができたかもしれない。意味のない仮定ではあるが

―― ばーか。……でもまあそれしかお前には結末はなかっただろうな、レイ。皇帝が滅びを望む世界じゃあ、皇帝の兵もまた消え去るしかない。お前が生きたいなら俺が作るさ、世界を


 セツは顔に付着した、弾け飛んだばかりの血肉の熱さを感じると同時に、身が冷えてゆく。
 家族を目の前で失ったクレストラントとアードにとって、もっとも避けたかった結末。それを阻止するために持てる力の全てを使ったが、太刀打ちはできなかった。
「クラウス……生きてるな」
「あ……ああ」
 クラウスは巻き込まれ、余波で失った自分の腕があった場所を押さえて答える。クラウスの右腕は二の腕の中程から消え、傷口から血が滴っている。
 僅かな希望を持ちながら三人がレクトリトアードを見るが、体は回復する兆しが一切見えない。
「機能停止だ」
 オーヴァートは壊れて動かなくなったレクトリトアードから視線を外す。彼は死が傍にあると嫉妬してしまう。
「あーあ。ドロテアに叱られちゃうよ、レイ」
 エルストは攻撃を鎌で受け止め、まだ痺れる手で開いたままの目蓋をゆっくりと下ろした。
「……」
 レクトリトアードの血肉を浴びた形となったセツは、無言のままクラウスの腕の傷を塞ぐ。
「壊れたな」
「壊したんだろう?」
 オーヴァートは”殺せ”とばかりにイングヴァールの前に立ちはだかった。
「なんのつもりだ? 皇帝」
「さあね」
「そんなものを、守るつもりか? 守れるつもりか?」
 死を嫌ったイングヴァールには解らない、死と滅びを望む皇帝の”感情”
「守っているつもりはないし、守れはしないことも解ってる。まあいいや、早く殺せよ」
「なにを企んでいる?」
「企んではいないさ。私を殺せ! さあ、早く! あの娘が来る前に!」

**********



「姉さん! 道解るんですか?」
「解らねえよ」
「じゃあ、どうやって?」
「聞きながら走ってんだよ!」
「誰に?」
「あの派手な見習いに!」
「見えないんですけれど?」
「近くて全く違う次元から喋らせてる」

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 ”貴様は何を恐れているのだ? オーヴァート=フェールセン”
 イングヴァールがその答えを知ることはなかった。
「時間切れだ、オーヴァート」
 ”ドロテア”は勝ち誇り、姿を現した。
「もう来たのか、ドロテア。ラシラソフ・イングヴァールの役立たずめ」
 オーヴァートは顔を手で覆い隠し頭を振る。
「廃帝になに期待してんだよ、皇帝陛下」
「……そうだな」
 肩を落としたオーヴァートはもうイングヴァールを見ることもなく、存在すら無視した。
「セツ、オーヴァートとクラウスを連れて戻れ。帰り道に印をつけておいた」
「そうか」
 セツはクラウスを肩に担ぎ、オーヴァートに近付く。
「腕、無くなってるのかよ。クラウス」
「はい……ですが……」
 クラウスがレクトリトアードの遺体に視線を向ける。
 ヒルデガルドが駆け寄り、傷口を触りかつてのように治癒の呪文を唱えるが、あの時と同じく効き目はなく、あの時のように当惑した返事もない。
 ヒルデガルドの頬を伝い落ちた涙が、この異次元のどこかへと吸い込まれる。
「あれは……壊れたままでいい。でもお前はな」
 ドロテアは指が失われたままの左手でクラウスの傷口に爪を立てるようにしてつかみ、
「違和感は我慢しろよ」
 幻想的な淡い光りもなにもなく、ただそのままに腕を復元した。
「ではな、ドロテア」
 セツは肩に重みを感じ、それが腕の復元であることを理解し別れを告げた。
「私の腕を簡単に治したのに、なぜ貴方は自分の指を治さない! 可能だろう!」
「俺は無くても生きていける。でもお前は無理だろう? 違うか、クラウス」
「それは……」
「早く連れて行け」
「降ろしてください!」
「じゃあな、オーヴァート」
「……ああ。解ったよ」
 オーヴァートはセツに握られていた腕を振り払い、二度振り返ってから空間を去った。ドロテアは振り返ることなく、左手をあげただけ。その何者をも寄せ付けない後ろ姿は、本当に寄せ付けぬまま。

 死を望み、死を許してくれないのならば愛してくれという望みも叶えず、死ぬことを許さず、生きていけと――

「勝てるとでも思ったか」
 イングヴァールが想像していた”こと”と全てが違った。
 死を望む皇帝、感情が剥き出しになる特殊兵。彼の前に立とうとする人間たち。彼が思い描いた戦いとは違い過ぎ、彼は人間たちがどこを目指しているのか? それすら解らなかった。
「俺はお前と勝負しにきた訳じゃねえ。殺しに来ただけだ。なに勘違いしてんだよ、イングヴァール」
 世界は皇帝と人間だけで神は存在しないはずであった。
「なんだ? 貴様は」
「俺はただの人間だ。そして手前も”同じ”だ」
「私は人ではない! 私は!」
「御託はいい。俺にとって手前は殺すだけの存在だ。死ねよ」

 万年の時を経て皇帝は神となり、同じく人間は神の力を持ちて皇帝を滅ぼす。

「貴様……なにを……」
「俺が育ててる神様見習い。当人は名乗ったわけじゃないのに、こう呼ばれている。――初代皇帝――と。さあ、来い!」
 ドロテアの声に呼ばれて現れた、紫の頭髪、オレンジ色の爪。肌には死斑に似た紫の円が浮かび、この死と滅亡が交錯する緊迫した空間に不似合いな笑顔で現れた。
 オーヴァートが過去の存在の容姿を知っているのと同じように、イングヴァールも過去の存在である初代皇帝の姿を知っている。
 だから、それが【何者】なのか、説明されずとも解った。
 だがこの現状と同じく、どうしてこの状態になったのか? 彼には解らなかった。そして同じくドロテアにも解らなかった。
 オーヴァートよりも優れている存在が、五百年の歳月を人間がどのように生きたか? 想像できなかったのか? と。暗愚で怠惰に、無策のまま滅ぼされるためだけに生きているとでも思ったのか?
 それは決して交わることのない、立場と思考と存在が作り出した存在の限界。
「なぜ人間に……」
 イングヴァールが最後に見たものは、ドロテアが舌を出し心底馬鹿にした表情。

「ばーか」
 イングヴァールという存在は、断末魔すら許されることなく消え去った。

「なんの為にいままで生きてたのかしらね」
 魔王クレストラントよりもあっさりと消え去ったイングヴァールと、あっさりと消し去った神様見習いことレシテイ
「理由はないが、強いて理由をつくるとしたら……滅びるためだろうな」
 ヒルデガルドはレクトリトアードの傍で膝を折り、残っている片腕を、ほぼ失った上半身に乗せて聖印を持ち祈った。
「死んじゃったんだ」
 マリアは溜息をつく。
 外で死んだ兵士たちにはなんの感情もわかないが、知り合いが死ぬのは嫌だった。
「そうだな」
「私、レクトリトアードのこと好きじゃなかったけれど、幸せになって欲しかった」
「……イングヴァール以上に馬鹿だったんだろう」
 ドロテアはレシテイがやって来たために、しっかりと城の形状を取った異世界を見回す。
「おい、エルスト。アードとクレストラントは?」
「巻き添えでいなくなったよ」
「そうか。勇者は馬鹿ばっかりだな! 巫山戯るんじゃねえよ」
「それが勇者の仕事ってか使命じゃないか、ドロテア」
 ドロテアはヒルデガルドが祈りを捧げ終えるのを待ちながら、オーヴァートから渡されたショルダーアーマーを外す。

「エルスト、そのレイピア寄越せ」

 ドロテアの耳元で、マリアとヒルデガルドから姿が見えないように別世界に移動したレシテイが「特殊兵を復活させようか」と囁いた。
 提案を聞いたドロテアは少しばかり考えて「復活ではなく再生」させることにした。


この世界ではない別の世界で――


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