ドロテアの右手、彼らにしてみれば人間の手が”フェオファーン”をなぎ払う。
「後ろに飛んでくれなくてもいいんだぜ? フェオファーン」
フェオファーンは飛び退いたのではなく、ドロテアの腕に押された。彼にしてみれば遅い、避けようと思えば簡単に避けられる……はずの腕の動き。
動けないようにしている後ろからの圧力と、腕が直接ぶつかる前に衝撃に挟まれ、胸骨の軋みを感じ、後方が自由とは違う解放を受けて後ろに飛ばされた。
なにが起こったのか? フェオファーンは黒く染まった空間を足元に見て、自分が天地に対し逆になっていることに気付く。
「一々選帝侯崩れというよりは言いやすいな。殺すだけだが、名はあった方がいい。誰も彼も名があり、人生があるのに殺されるんだ」
ドロテアは無防備になっている顎に拳を振り降ろす。ドロテアの攻撃は痛みも衝撃もあるが、致命傷にならない。だが、放たれた力に抗う術がない。
―― わざと……か?
自分を殴った拳を解き、四本の指をピアノを弾くように動かすドロテア。そしてフェオファーンは”ぬるり”とした大地に落ちた。
砂の大地を人脂が覆い、その上にたまり混ざる内臓と肉。たまに混じる石のような骨。滑った大地から飛び上がろうとしたフェオファーンに群がる死者たち。
「――! きさ……」
フェオファーンは腕を大きく動かし薙ぎ払う。
彼に群がっていた近くの動く死体は人脂を吸った砂に還り、遠くのもの躯がばらばらになり、胴体から離れた脚は血脂の中を蛙のように泳ぐ。
腕は脚よりも明確に求め手を動かすが、求めているものを得ることは叶わず、なによりも求めているものがなんなのか? もがき求める手すら己がなにを求めているのか? 死したことすら解らない手が求めるものはなにか。
「屍になにがで……」
払い細切れになった肉片が舞う中、開けたフェオファーンの視界を再び狭める「盾」
盾の向こう側に僅かに見えるめくれた僧衣から覗く右足が、滑る大地を踏みしめてフェオファーンの顔を盾で殴りつける。
顔を捉えた盾を離し再度横から薙ぎ払おうとするが、盾の縁を掴まれて阻止された。
フェオファーンは正面からヒルデガルドを見る。見つめられたヒルデガルドは首を傾げて、恐れなく一言告げた。
「聖職者は刃物が使えないんですよ」
”動け”と指示を出されたままの死者たちを形作っていた肉片は、形がなくなってもその命令に従い、空を覆う黒よりも禍々しい不吉な血泥の中で蠢き虫を思わせるように動く。
「だから……なんだ」
「刃物使った方が、凶悪じゃねえよな」
フェオファーンの問いに答えたのはドロテア。背後から、耳を削ぎおとす。
―― セラフィーマを貫いた……
耳を削ぎ頬を切り裂いた腕から逃れようと盾から手を離すも、両手で盾を持ち上げて虫を叩き落とすのと同じようにヒルデガルドに叩き落とされる。
「殴れ、殴れヒルダ!」
ドロテアは後ろから拳で、ヒルデガルドは前から盾で殴り”叩き潰し”続ける。ヒルデガルドは正面から顔だけを潰しているのだが、ドロテアは数回に一度は腰を殴り膝を大地に折らせ、そのふくらはぎを折るように踏む。
フェオファーンの足は折れないが、下敷きなった細切れの蠢く肉を潰す感触は、彼にとって不快であった。
「おい、ヒルダ。足元気を付けろよ」
ドロテアの殴る力に押されて前に進む形となるフェオファーンに若干押されているヒルデガルドは、後退しつつ攻撃をしている。その先に形をはっきりと残した大腿部が落ちていた。
「は……あっ」
”気を付けろ”と言われていたのにも関わらず、ヒルデガルドは踏んでひっくり返る。
それを殺す好機だと思う時間をフェオファーンは与えられなかった。ヒルデガルドが血まみれの僧衣の裾を乱してひっくり返っている時、フェオファーンの頭上から槍が深々と突き刺さったのだ。
マリアが持てる力の全てを込めて刺さった槍を押す。
頭に突き刺さった槍を掴み抜こうしたフェオファーンだが、突き刺さった槍の上にドロテアが立ち、重さではない力を込める。穂先を脳を刺し目と目の間を通り抜け喉まで達した。
「あれは?」
「なんだ?」
フェオファーンへのとどめの一撃の際には、なんの声も上げなかった兵士たちが立ち止まり指さし、声をあげる。
その場にいる全てのものの頭上から、光りが降り注いでくる。首まで槍が刺さり、末端から灰燼となるフェオファーンは、骨を折り首の筋をちぎりながら顔を上げた。
彼が見た風景。それは黒き空が僅かに切れていた―― 彼にとっては想像もできなかったもの。
飛びその切れ間に近付いたドロテアが掲げた左手の薬指の部分から漏れ、血に濡れた大地とフェオファーンを照らす。
マリアは突き刺している槍から抵抗が消えていくのを感じていた。
裂けた黒はまたその傷口を徐々に小さくしてゆき、頼りなくなってゆくドロテアの指の隙間から見える光りと呼応するかのように力を失ってゆくフェオファーン。
切れ間が消えた時フェオファーンは消えた。
人々はなにが起こったのか理解できず、掲げていた左手を降ろしたドロテアを仰ぎ見る。
「……」
―― ばーか
「どうした? ドロテア」
わざとらしく動かした口を読んで、発しなかった言葉をヤロスラフが読み取る。
「イングヴァールを殺しにいく。時間切れだ、オーヴァート」
ドロテアはマリアの足下にいるアンセフォの首を掴み、先程の切れ間を指さす。
「俺と……マリアとヒルダを乗せてそこまで連れていけ」
「解ったから、その見えない左手て首握るな。苦しい」
「神様、死なないだろ」
「その左手は別……うぇ……」
「姉さん、連れて行ってもらう前に殺しちゃ駄目じゃないですか」
「そういうことにしておくか」
三人はアンセフォの背に乗り、ヒルデガルドは結界の中にいるミゼーヌやグレイ、ビシュアたちに手を振り、マリアは地上に背を向けて向かう先を見つめている。
隣にきたヤロスラフにドロテアは、唇が触れるほど正面から近付く。
「それじゃあ、行ってくるぜ、ヤロスラフ」
「頼んだぞ。ドロテア」
アンセフォの背を蹴り”飛べ”と指示をだす。
不死鳥の羽ばたきは血と汚物が入り交じった砂が舞い上がる、翼にあたった死体をはじくこともなく、ただ美しく光りが揺れ動く。それはまさに幻想。
「お前が神の力で殺したくないと言ったのがわかる、ドロテア」
ヤロスラフは飛び立ったアンセフォの背に語りかける。
幻想のうちに殺される。それは、殺された者と傍で見ていた者全員が納得できてしまう。人は力及ばぬ存在に殺された時、それは殺されたとは思わず、言いもしない。
どうすることもできなかったから死んだのだ――と、解っているから。
だがドロテアは光りも幻想も奇跡もなく、圧倒的な力を持ちながら人々に諦めつかぬ方法で殺した。
奇跡であっては駄目なのだ。この戦い奇跡は要らない ――
三人は黒い空間の切れ目の傍から黒き世界へと各々の足で飛び出し、吸い込まれるように消えていった。
アンセフォは方向を変えて、翼を広げて死体にまみれた大地を拭う。ドロテアが生かしていた死者たちは、不死鳥の炎に焼かれて崩れ去る。
勝手に死者を還しているのか? それとも……
「よくもここまで壊したものだ」
ヤロスラフは目ではなく感覚で三百六十度の光景を見る。かつて大首都であった名残はなく、壊されたものはどれ一つとして直し使えるようなものない。
完膚無きまでに破壊された全ての物。
ここにトルトリア王国を復活させようと思う者ももうないであろう、ここに懐かしい過去を求めることもないであろう。
唯一残っているのは、あのウィンドドラゴンを閉じ込めていた選帝侯が作った箱。
ヤロスラフは敵にも空にも人々にも背を向けて、その箱を砂金で包み大剣を振り下ろす。
「もう帰ってくる必要はない、安心して行くがいいドロテア。オーヴァートは悔しがるだろうが……な」
**********
ドロテアたちが色ではない”黒”の中に消えたのを、ビシュアは結界から黙って見つめていた。ポケットの中にはリリスが返してと言った慈悲の粉が入っている。
その小瓶を握り絞めながら三人を見送った。拒否したが結局押しつけられたドロテアの全財産と劇薬。
―― どうして俺があの人の全財産を……
帰ってきたヒルデガルドに全額返そうと心に決め、聞き慣れてしまった悲鳴が突き刺さるなか、ビシュアはもう帰ってこないドロテアと、約束を守れなかったリリス、その二人の故国が壊れてゆく様を心に刻んだ。
張られた結界は予想通り攻撃されていた。陣地を喪失させ、怪我の治療などをさせぬようにと、彼ら選帝侯の血筋であれば知っている結界を壊そうと。
「北東三十八番にこれを。南南西二十番にこっちの結界紙を」
すべての結界の中心である、ミゼーヌたちがいる結界は最大の攻撃に晒された。ミゼーヌが消された結界を継ぎ足し指示を出しグレイが予備を描く。選帝侯の血を引く者達が、結界を破壊するために次々と魔法生成物を召喚し、結界にぶつけてくる。
それはビシュアにとっては「空中から魔物が現れた」としか思えない光景。ひときわ巨大な「獣」が人間と同程度の大きさの召喚者を、狼に似た脚で叩き潰し大地に降りる。
衝撃と共に咆吼をあげて、ミゼーヌたちがいる結界の中心へと突進してきた。
「……」
体当たりされた結界は”悲鳴”をあげた。戦いが始まってからここまで物理的な攻撃に、これ程の悲鳴を上げたことはない。
「壊れるのは、ここと、ここだ」
ミゼーヌが衝撃に対応する結界の補強用紙を持ち、ビシュアの方へと駆け寄ってくる。ミゼーヌの動きと狼に似た巨大な生き物の動きをビシュアは見比べる。
突進してきた獣は突如右に方向を変えて、ビシュアがいま立っているあたり、ミゼーヌが向かっている当たりを目指して体当たりを仕掛けてきた。
見た目は獣じみているが、知能や知識はビシュアやグレイよりも優れている獣は、ミゼーヌが結界を補修していることに気付き、次の一撃で結界を破壊したと同時に殺害しようと方向を変えたのだ。
理論的なことはビシュアには解らないが「まずい」と言うことだけは解った。
漠然とした危険を認知し、ビシュアはミゼーヌへと駆け寄る。青白く黒の中でも光る大きな「魔物」が肩から結界にぶつかる。
いままで普通の人の目には映らなかった結界が、薄紫色に変化し亀裂が走るのが誰の目にもはっきりと映った。
ぶつかられた部分に小さな穴があき、そこに獣が鼻と口を押し込みこじ開けようとする。音はなく崩れ穴が徐々にこじ開けられる。
その凶暴な口から溢れ出す唾液は、地面に落ち結界を描いた紙を、そして中にいた人間を溶かす。
ビシュアはぎりぎりまで近付き、ポケットから小瓶を取り出て敵にむかって投げつけた。動きが制限され、口を開きその唾液も使って結界を恐そうとしていた獣の口に、簡単に呆気なく瓶は滑り込んだ。
大きな獣の口に入った瓶は、口内を満たし人々を溶かしていた唾液により形を失い、中身が舌の上に広がる。
獣の動きが止まり、そして結界から離れ絶叫をあげ、のたうち回る。
「ビシュアさん。今なにを?」
「慈悲の粉ってやつだ。この位の量だが」
ビシュアが指で量を示す。
「魔法生成物にはその量でも致命傷です。いまのうちに結界を直します。聖職者の皆さん、唾液に解毒の魔法をかけてください」
死体と生者を巻き込んで獣は暴れ続けたが、徐々に咆吼は弱まり動きも力がなくなってゆく。誰かが指示を出し、近付き、そして人々が攻撃を開始する。
「悪いな、リリス。あの女に返せなかった……許してくれ」
槍を突き立てられ、手足を切り落とされてぴくりぴくりと痙攣しているだけの獣に似ていた物体を見ながら、ビシュアは自分が死にそびれたことに気付いた。
ビシュアはリリスが死んだ時、死に魅入られていた。自分自身も解らない死が隣にあった。だが死は”死にもっとも近い”はずである毒薬により阻まれる。
手元に死ねる毒があり、それを返さなくてはならない。死者を安心させるためにも――リリスの頼みを叶えようと動き回りながら、いつでも楽に死ぬことができる薬を手元に置き、まとわりつく死が最後の一線を越えろと囁く。
だが死は獣の咆吼により消え去る。毒を失った彼は死から逃れた。それは死ぬための手段がなくなったからではなく、死への意思が消えたから毒を手放すことができたのだ。
ビシュアは初めからあの凶暴で巨大な獣に苦痛の叫びを上げさせるような劇薬”慈悲の粉”をドロテアに返すつもりはなかった。
ビシュアは知りたかったのだ。この毒が本当に毒なのか? 毒であるのならば、どれ程の効果があるのか。
どうしてそんな事を知りたかったのか? ビシュア自身解らないが、目の当たりにした死を前にして彼は吹っ切ることができた。
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