ビルトニアの女
レクトリトアード【10】
 ルクレイシアは法王に菓子を渡し、持参してきた食材の保管場所へと向かい、数名に運ばせ、先程の食堂へと戻ってくると、
「本当に作っていただけるのですか! ルクレイシア大僧正閣下」
 ヒルダが法衣を腕まくりをして出迎えた。
「はい」
 お菓子が食べられるので喜色満面のヒルダだが、子供っぽくは見えない。どれほど純粋に菓子を求めようとも、顔の作りが作りなので、純粋そうには見えないのだ。
「ありがとうございます。運びます、運びます」
 ヒルダはルクレイシアの部下から材料を受け取り、調理場へと入る。
「あの、変な取引ですが、お菓子作ってくれたら、姉さん宴には出席するとのことです」
「それは良かった」
 微笑んだルクレイシアに頷き、その後二人は一緒に菓子を作った。三割の見慣れない材料と七割の見慣れた材料。有り触れた菓子作りの工程と、途中に行う独特の工程。
 異国と言えども全くの異国ではなく、だが自分の持っている常識では作り得ない。
 そんなことを思いながら、生地を天板にのせてオーブンにかけて、その間に後片付けをする。大僧正と司祭なので、食堂で働いている者に任せても良いのだが、ルクレイシアの性格と、ヒルダの”ボウルに残った生地を指で掬って食べたいのです”という意志により、二人は後片付けを始めた。
 全てを洗い拭いていると、ルクレイシアは手を止めてオーブンの前にゆき、匂いを嗅ぐ。
 食堂のオーブンは入り口が鉄製で、焼いている途中中を窺うことはできない。開くこともできるが、途中で熱気を逃がすと味が落ちるので、匂いで判断するのが基本だった。
「もう少し待って下さいね、ヒルデガルド殿」
 焼け始めの匂いと、中途の匂いは違う。
「はい」
 教会内で大僧正が司祭に向かって”殿”付けなのはおかしいが、この二人に限っては誰も咎めなかった。
 周囲に誰も居ないこともあるが、たとえ周囲に人が居ても咎めず、また誰も何処にも報告しなかっただろう。
 見るものの多くを美しいと感じられる司祭と、見るものの殆どが色褪せてしまった大僧正。二人を見る者も、二人の持つ色彩の感じ方と同じ印象を強烈に受ける。
 焼き上がった菓子を天板から布を敷いたバスケットに移動させ、食堂が持ち場の者達に返し後にする。
「日持ちしますし、時間をおいた方が美味しいですよ」
「ありがとうございます! ルクレイシア大僧正閣下。それでは夜の宴の席で、またお会いしましょう」
「いいえ、私は所用があって出席しませんので。楽しんでください」
「あ、はい」
 ヒルダはルクレイシアの立場が、他の聖職者とは違うと聞いていたので、それ以上のことは聞かなかった。
 途中で別れヒルダはそのままドロテアの居る方へと進んだ。
 昨日までとは違い、姉がどこに居ようとも、たとえ”法王猊下の領域”に居ようとも、その存在は容易に感じ取ることができるので、その歩みに迷いはなかった。

**********


 ルクレイシアは残った食材を運ばせる部下の一人に、
「ファルケス様はどちらに」
 尋ねた。
 部下は”こちらです”と告げて案内する。
 言われた通りの方向に彼女は進むと、向こう側からセツと共に夫であるファルケスが近付いてくる形となった。
「ファルケス様」
「ルクレイシアか。なにか用か?」
 ”忙しいから早めに切り上げろ”という態度を隠さないファルケスだったが、ルクレイシアが語るにつれて、睨むために存在すると言われた瞳が大きく開かれる。
「今夜の宴にドロテア殿、ヒルデガルド殿、マリア殿が参加してくださるそうです。そして先程猊下と、その場にいたパーパピルス国王フレデリック三世に、枢機卿就任をお願いしてきました」
 ファルケスは滅多にすることない、ルクレイシアの肩を両手で掴み、
「良くやった」
 褒める。
 そして顔の向きを僅かにセツに向けて頷いた。
 ファルケスの視線を受け取った形になったセツは、表情は変えなかったが”望んでいること”に対して否定もしない。
「ルクレイシア大僧正。話がある、私の面会用私室で待機していろ」
 セツはそう言い歩き出し、ファルケスも”行け”と、部屋がある方角を指さして、セツの後を付いて歩き出した。
 周囲にいた者達も”なにが”起こるのか知っているので、ルクレイシアのことは見なかったことにして歩き出す。
 菓子の材料を運んでいた者達もファルケスに従い、一人で廊下に取り残される形になったルクレイシアだが、気にはならなかった。
 タペストリーで飾られた柱を前に、白昼夢でも見ているかのような眼差しと、今まで全く存在しなかった”生気”
 彼女は頬を赤らめて、ゆっくりと歩き出した。
 彼女から一度遠離り、後で会うことになるセツはいつも通りの抑揚はあれど、冷たさしか感じられない口調で、妻の不倫を取り持つ男に話しかける。
「悪趣味だな、ファルケス」
 だが非難はしなかった。
 非難をするのなら、抱かなければ良いだけであって、セツにはそれを選ぶことができる。
「そうですかね? 男は任務を達成し褒美で佳い女をもらっても”おかしい”と誰も言わないのに、女が同じことをすると”おかしい”というのは、良くないと思いますが」
 ファルケスは正面から見ようが、側面から見ようが”冷血”さを感じさせる笑いを浮かべて、本気を二割程度含めてうそぶく。
 ファルケス本人にしてみれば、妻本人の意志を最大限に尊重しているつもりであり、妻本人も喜んでいるのだから良いだろうと。
「たしかに、自分の好みの女を抱くのは良いな。最近は全く叶わないが」
「聖騎士のマリアですか……正直、諦めた方がいいでしょうな。我等が海の女王は恐ろしい」
「言われなくても解っている。夜の宴とやらには”あとで”参加する。ではな、ファルケス。精々、いままで散々略奪してきたパーパピルス国王と仲良く酒を飲み交わしていろ」
 セツは法王の間へ向かうために一行から外れ、両手を広げて背を向けた。
 後ろ姿を見ていたファルケスは、
「顔が見えればもう少し本心を探りやすいかと思ったが……全くそんなことはないな」
 セツの感情の奥底をのぞけなかった”己”を自嘲気味に鼻で笑い捨てた。

**********


「お祝いですから」
 新しい司祭の法衣に腕を通したヒルダと、
「これが正装だっていうから」
 いつの間にか用意されていた聖騎士の正装を着用したマリア。
 旅の間ヒルダが着て歩いていた司祭の法衣は、白い部分は煤けて、青い部分は薄くなり、金は輝きを失って、本当に”くたびれた”感じになっていたが、着ている本人の美貌にかすんで目立たなかった。
 そのままでも良いとドロテアに言われたのだが、菓子作りの途中で粉がかかって白くなったり、油が跳ねて水玉のような部分も目立ったので、取り替えることにした。
 新品の法衣はどうかというと、やはりヒルダ本人の美貌に押されてはいるが、くたびれた法衣よりは存在を主張している。
 とくに法王庁内なので、法衣と建物が調和し、外にいる時以上の存在感はあった。
 マリアは午前中ファルケスの就任式典に並んだが、その際は鎧の上にエド正教の紋が象られているサーコートを着ただけ。
 だが今は、布の服だけで鎧どころか武器一つ持っていない。
 マリアの足の長さと、形の良さが目立つ青色のズボン、白の上着で目を引くのは金糸で刺繍された丸襟。金糸で刺繍されているといっても、ヒルダの司祭服とは比べものにならないくらいに控え目。
 胸の部分はサーコートと同じくエド正教紋様が、これもまた金糸で刺繍されている。
「聖騎士がパーティーに出席するときは、そうだって聞いたぜ。基本聖職者は刃物持てないもんだしな。なにより酒の席に剣とかあると物騒だ。酒乱はやたらと刃物を持って暴れたがるし、暴れたって”ケチ”つけられて、殺される可能性もあるから、酒席は布の服だ」
 そう説明したドロテアは、旅装を解いて法王庁に”似合う”格好をしていた。
 似合うというのは、肌の露出を抑え足のラインが解らないように膨らんだ裾の長いドレス。色もエド正教の法王庁に合うように、白で縁の全てが青布で飾られている。
 髪も露わにならないようにスカーフを緩やかに巻き、顔の両側面にドレープ状にし、押さえるように帽子を被り、特注の絹の手袋をはめて靴も編み上げを履いた。
 その格好で”宴はここで”と指定された部屋の扉を開いて、先ずは毒づく。
「なんだ、この何時もと変わらない面子に、人相の悪い男が追加されただけじゃネエか」
 部屋にいたのは、馬車を引いている双子とセツをのぞいた、旅にひっついて歩いている面々とファルケス。
 ドロテアの評価は正しいとは誰もが言うだろうが、毒づくことは殆どの者が諦めるだろう。
「俺が主役だからな」
 法衣がすでに着崩れているファルケスが、赤髪を両手でかき上げて下を出して笑う。
 平素の威嚇するような笑いではないが、見た人が楽しくなるような笑いでもない。そんな男が髪の毛から手を放し、手招きをする。
 ドロテアは舌打ちしながらも傍へと近付いた。
 この宴は本人も言っている通り、ファルケスが主役でドロテアも主役だ。
「こんな柄悪い男が主役たぁな」
 腕を組み折角のドレス姿を台無しにしかねない勢いでソファーに腰をかけて、
「酒持ってこい!」
 ドロテアは叫ぶ。
「でもお酒の飲むんですね」
「飲まなけりゃやってられねえ面子だろうが」
 三人が揃ったところで、遅れてくるセツ以外は全員が揃ったのでグラスを持ち、世間的に”ありがたい”皇帝の挨拶で乾杯し、即座に無礼講となった。
 酒が入らなくても無礼きわまりない女は、酒が入ったからといって、より一層……にはならない。ドロテアは素面で横暴であって、酔ったという逃げ道があるときは、決して「いつも以上」にはならない。
 だだし、いつもと同じ横暴さなので、周囲にとっては意味がないとも言える。
「最高の花が添えられている酒宴だなあ」
 いつの間にかドロテアの背後に立っていたオーヴァートが声が、しみじみと言い、
「それは否定しねえ」
 何を当たり前のことを言っているんだよ? と、言い返す。
 いつもの光景が繰り広げられていた。

 その隣で、見慣れないことが始まる。
「ヒルデガルド」
「はい、なんでしょうか? ファルケス枢機卿閣下」
 給仕よろしく酒を注ぎにきたヒルダを捕まえたファルケスは、この場で「決定」させるつもりであった。セツが居ない間に、ヒルダを配下に置こうと。
「改派の意志を聞こうと思ってな」
 言い終えたあと、舌先を軽く噛み、鋭い目つきで威嚇するように話かけるファルケスに、この先の重大事項を尋ねられたヒルダは臆することなく答えた。
「ありません」
「そうか? 悪い話ではないと思うが」
 ファルケスにとってあまりにも意外な答えに、酒が入っているグラスを置いて、体の向きをかえて真っ正面からヒルダを見据える。
 全てが恐ろしい男は”意見を変えろと”全身から無言の圧力をかけるが、ヒルダには無意味だった。
「いいえ、私は神の教えを説きながら鳩尾に刺さるような蹴りを入れ、聖印を握り締めながら顎に拳を入れ、一ロクタル派として生きていく覚悟を決めました」
「ドロテア、ロクタル派って……」
 ヒルダの宣言に、思わず尋ねてしまうマリア。
「違うぞ、マリア。殴りながら教義を語る宗派じゃねえよ」
 ヒルダに背を向けたまま違うと手を振り、酒を口に運ぶ。
「考えが変わったら」
「変わらないです。ここで明言しておきますよ、変わりません!」
 狂信者と純粋な信仰者は似ている。
 確固たる意志を持った人間と、自らの考えに固執する人間も似ている。
 それが”良い方向”に働けば善人であり、悪い方向で結末を迎えると、相応の評価を受ける。
「変わらないか?」
 一人の人間が歩き出す。その先にある物、その先に見ている物に、ファルケスは見当が付かなかった。
「変わりませんね」

 在野の善人ではなく、権力者の頭数あわせではない。ヒルデガルドに下される評価は”どのような”ものか? 

「難しい話は終わって、飲むか」
「はい!」

 それは狂信者の眼差しでもなく、のぞき込むと深く魅せられる。精神的な面で”身の危険”を感じたファルケスは、それ以上改派については触れなかった

 無礼講であり、
「だからな、エルスト」
「はいはいクラウス」
「”はい”は一回だ! エルスト」
「はいはい」
 下らないことを言い続け、
「酔わないが飲んでも良いのだろうか。昨晩もセツと飲んだのだが」
「気にしないで飲みなさいよ。なんでも倉庫には捨てるほどあるそうよ。運び出す時は聖騎士が現場に立って指示出すらしいけど、リストにある酒まで辿り着くのに一苦労らしいから、少しは整理してあげなさい」
「解った、マリア」
 他者が聞けば楽しいのか楽しくないのか解らないような話が溢れるが、ほとんどの者は酒を片手に、微笑むのとは違う穏やかな表情を浮かべていた。
 そんな部屋で中央あたりで高級酒をあおっている者と、隅で酒に口を付けている者、その二種類に属さないで一人スケッチに勤しんでいる男が一名。
「お前、酒好きだろ。弱いけど」
 ビシュアがボトルとグラスを持って、床に座り酒を注いだグラスを差し出すが、グレイは拒否した。
「いやあ、要らないっす。今日は酒宴をスケッチして終わろうと思ってんで」
「へえ。良い酒だぜ。一本売りさばいただけで二ヶ月は生活できるくらいの」
 言うがビシュアは、グレイに無理矢理進めることはしなかった。まだ酒を注いでいないグラスを床に置き、グレイのために注いだ酒の入ったグラスを口元へと運びながら、酒を断ってまで手を動かしているスケッチブックをのぞき込む。
「お前、上手くなったな。元々上手かったが、それが……なんつーか、上手くなった」
 以前ビシュアが見た時も、文句なく上手かったが”画家”という空気はなかった。だが今はスケッチ一つどころか、線一本だけでも雰囲気があった。
 この絵が飾られていたら、自分は盗むだろうと思える”線”がそこには存在し、線は生気に満ちあふれ輝いていた。
「理論とかあるんすよ。ミゼーヌにそれ教えてもらったら、世界が開けるっていうか違うところが”すぱっ!”と見えましてね」
 中央を眺めると国王や枢機卿、皇帝などと話をしている世紀の美女が目に入ると、途端に酒が味を失った。

 ―― 美人過ぎる女は酒の肴になりゃしねえ。これなら綺麗な月や星を眺めてたほうが、まだ良いな

 ビシュアは頭を振り、グレイに描かれている国王や枢機卿、そして皇帝を見た。
「おい、あの中央の美女は描かねえのか?」
「今の俺じゃあ無理っすよ、兄貴」
 酒を楽しむために、ビシュアはドロテアが居る方を見なかった。

―― あの美人が酒の肴になる人だけが見りゃいい。ま、あの人たちが酒を味わってるのかどうかは知らねえがな

**********


 栗毛の髪は艶やかになり大人の色香というもので包まれていた。
 目を完全に閉じることを拒み、抱いている男の姿を網膜に焼き付けようとする濃紺の瞳は、濡れているというよりは、熱を帯びていると言ったほうが正しそうであった。

 軽く服をはおったセツはベッドに腰掛け、肌着だけで全裸に近いルクレイシアに水をグラスに注がせ喉を潤す。
 ベッドから見えるテーブルの上には、ハイロニア群島王国からの贈り物が積み上げられ、積み上げられなかった物は絹織物の上に、やはり積み上げられていた。
 特産の桜色の珊瑚礁と、希少価値の高いオレンジ色の珊瑚礁。
 海を染め上げる夕日の色に魅せられて生まれる珊瑚、そんな物語まで作られた、宝石よりも価値のあるオレンジ色の珊瑚の宝飾品。
 ルクレイシアにグラスを渡して立ち上がり、宝飾品を幾つか掴み、
「欲しいか?」
 乱れた髪と紅の色が落ち、やや顔色が悪くなったようにも見えるルクレイシアに告げた。
「え……」
 いままで無かったことに驚きの声を上げ、驚きの声を聞いたセツは、
”これはまだ、人間なんだ”
 と感じた。

 感じたことの意味はセツ自身はっきりと解っていない。だが時が来たら……

「要らなくても受け取っておけ」
 セツは無造作に幾つか掴み、投げつける。
 水色のシーツを彩る珊瑚、そして、
「これも要らんな」
 宝石箱の中に手を入れて鷲掴み、放り投げた。
 ダイヤモンドが、金が、真珠が、そして象牙が宙を舞い、豪奢なヴェールを一時空中に描きルクレイシアの元へと落下してゆく。
「セツ最高枢機卿閣下?」
 セツの表情にも感情にもルクレイシアを喜ばせたいや、労りたいはない。
 ベッドに置かれていた銀盆の上の水差しに落ちたサファイアのイヤリング。宝石よりも鳥をモチーフとした銀細工のが素晴らしい品。
「持って行け」
「はい」
「着替える。手伝え」
「はい」
 セツはルクレイシアに着替えを手伝わせながら、ベッドに散らばったネックレス、イヤリング、ブレスレット、ティアラを眺める。
 女に贈られるべき品々。
 性別不詳を掲げ守ってきた”滑稽な姿”に捧げられた数々。
 どこかの女に贈れば、その女と自分が繋がっているとばれてしまう。だから室内の片隅に保管され続けていた宝飾類。
 稀に功績のある部下に与えることもあるが、聖職者が貰うのは稀であり好ましくないとされている。
 誰かを飾ることもなく、飾ったとしても法衣の下で目立つことなく、その宝飾類は箱の中で待つ。
「部屋に戻れ」
 着替えの終わったセツは、そのまま部屋を出た。
 振り返りはしなかったが、頭を深々と下げているだろう女に見送られて。
 換気の行き届いた廊下の空気の冷たさを感じても、それに身を縮ませることもなくセツは宴の席へと真っ直ぐ向かおうとしたのだが、少し離れた所にいる”ドロテア”を感じ、そちらへと進むことにした。

**********


 酒を美味しく飲むためには、料理も美味しい方が良い。ただし、料理の味付けは濃いめでなければ、おいしさを感じない。
「お酒を飲むと、何時もより食べられるような気がします!」
 叫んだヒルダに、姉の甘美なる囁き。
「頭にある満腹中枢が麻痺するから、何時もよりは食えるようになるぜ」
 人差し指で自分の耳の上あたりを軽く叩きながら、ドロテアは笑った。
「やっぱり! 適度にお酒飲むと美味しくいただけるんですね!」
「ああ。麦酒みたいな発泡してるやつは腹で膨らむが、そうじゃねえのは」

 ヒルダは食べた、それは笑顔で食べた。エド法国の料理としては濃すぎる味付けの料理を食べ、酒で喉を潤して再び食べる。

 結果、
「大丈夫? ヒルダ」
「大丈夫です」
「心配するほどじゃねえよ、マリア。酒に酔ったってより、食い過ぎだ」
 ちょっと足元がおぼつかなさそうなヒルダを、二人が肩を貸して宿舎へと進んでいた。
 今夜はヒルダも聖騎士の宿舎に邪魔することになっている。
「マリア」
 女性宿舎の入り口を抜けて直ぐのところにある、五つほどのテーブルとその五倍の椅子が置かれている待合室で、アニスとイザボーが教書を開き勉強しながら待っていた。
「どうしたの? 二人とも」
「待ってたのよ。酔っぱらってたら、部屋まで戻るの大変だろうから」
「でも大丈夫そうね。頬が桜色で、マリア何時もより綺麗」
「いやねえ」
 二人がマリアの美しさを賛美しているのを聞きながら”当然だな”とドロテアは頷きつつ、ヒルダを一人で抱えていた。
 桜色になった頬の他にも、赤見がやや強まった唇は、のぞく白い小さな歯によって際立つ。いつもの濡れたような黒髪と、いつも以上に艶のある黒い瞳を見つめているドロテアに、
「姉さん」
「なんだ」
「……楽しそうでしたね」
 突然ヒルダが話しかけて来た。
 なにを言いたいのかはっきりと解らない、何時ものドロテアなら蹴り倒すところだが、あえて黙って聞くことにした。
 椅子に座ることもできたし、椅子に座らせることもできたが、肩を貸したままで。
「あの人達、いつかは争うことになるんですよね」
「はっきりと敵対するわけじゃねえが、相容れはしないだろうよ」
 宴で笑いながら酒を飲んでいた”あの場にいた男たち”の属する場所は地位を考えると、笑い合えないのではないかと。
「上辺だけで笑ってたんですかね」
「そうでもねえだろうよ。俺が知ってる男に関してだが、本気で楽しんでたぜ。敵同士になると解っているからこそ、笑えるんだろうよ。気心が知れて、国の発展のために協力しあう仲間とはできない話や笑いってもんもあるだろうさ」
「そういう物ですか」
「さあ? 俺は国を持ったことはねえから知らねえよ」
 ドロテアはヒルダを二人に押しつけて、
「それじゃあ、そいつ頼む。俺は戻る」
 華がなくなってしまった宴の部屋へと戻ることにした。
「無理しないでね、ドロテア」
「大丈夫だ。酒宴はここからが勝負」
 何が勝負なのか? マリアには解らなかった。
 そしてヒルダを両脇から抱えているアニスとイザボーは、見た目は気品ある良家の令嬢なのに……なにかが違うと思った。
 身を翻し歩き出したドロテアの後ろ姿に、良家の令嬢らしさはない。
 下品や上品、美醜ではなく感じられるのは、戦いに向かうと誰もがわかるその姿。だが悲壮感はなく、絶望もなく、さりとて楽しそうでもない。
「さて、部屋に戻りましょうか」
「あ、水差しに水入れてくる」

**********


 反対側から聞こえてきた軽やかな足音にセツは立ち止まり耳を澄まして、その人物を待っていた。
 何時もとは違う靴を履いているその足音は聞き慣れないが、力には”覚え”がある。
 今朝突如現れた、あり得ない力。
 広がり足元が隠れるほどのドレスを着て、背筋を伸ばし難なく歩いてくるドロテア。何度も言われ、何度も感じていることだったが、セツは改めてドロテアが皇帝の寵妃だったのだなと思い見つめる。
 セツの傍で立ち止まったドロテアは、その服装に似合わない挑発的な眼差しと「目は口ほどに物をいう」という言葉が危うくなるような口の形を作る。
 美しい口の形が、嘲笑うのが何なのか?
 解っていながらセツは答えず、
「どこに行っていた」
「ヒルダとマリアを部屋まで送り届けてきた。部屋に残ってるのは野郎共だけだ」
 ドロテアも尋ねない。
 セツがルクレイシアを抱くのは間違っているや、正しくない。慣習だからしかたない、彼女の気持ちを知っているのなら優しくしないべきだとか、そんなことではない。

 セツはルクレイシアの最後を考え、ドロテアも漠然と感じている。

「野郎だけか。戻るかな」
「戻ったら、ルクレイシア喜ぶんじゃねえの」
「もう自室に帰っただろう」
 言いつつもセツの足は酒宴が行われている部屋へと向き、肩を並べて二人は歩き出した。
「解んねえぞ。大体手前、あの女の考えてること解るのかよ」
 足を止めずにセツは尋ねる。
「お前は宝飾類が欲しいと思うクチか?」
 横顔は歩く都度揺れる薄い水色のスカーフによって、ほとんど見えない。
「嫌いじゃねえが、欲しいとも思わねえ」
 話しかけられたほうは足を止めなかった。
「断る場合はどうやって断った? お前のことだから、はっきりと言っただろうが」
「俺がもっとも与えられたのは、当然オーヴァートの所に居た頃で、寄越したのもオーヴァートだ。だから欲しくない場合、税金の無駄使いだから、その金を民に……なんて言うわけにもいかねえ。なによりそんな台詞を吐いていいのは、心優しい最後まで皇帝に付き従う女に許される言葉で、皇帝を捨てる女が言って良いもんじゃねえ。だから”この程度で俺を飾れるわけがない”と言い返した。オーヴァートは納得した」
「お前以外には言えないな」
「だから断る理由になったんだよ」
 膨らみのあるドレスの両脇を掴み歩く。
「なるほどな」
「突然どうした?」
「いや。部屋に余るほどあって、処分方法を考えていたところにお前がドレス姿で現れたから、引き取ってもらおうかと。だが話を聞いたら無理のようだな。皇帝が用意した宝飾品ですら飾ることができない女に、ただの逸品物の処分など依頼はできんな」
「あー手前も面倒だな。逸品物ってことは、他人に渡して、それを身に付けてる姿を見られりゃ、手前と繋がってることが一目瞭然だもんな」
「ああ。だから処分方法が結構面倒で、俺と繋がっていようが何の被害も受けないお前が良いかと思ったのだが……違う処分方法を考えよう」
「”貢ぎ物は要らない”って言えばいいんじゃねえの? これ以上増えはしねえぜ」
「誰がそんな馬鹿なことを言うか」
 俗な方法で歓心を買う輩は存在する。
 それらは権力を持っていることが多く、それらと関係を持たずに統治できない。よって貢ぎ物を持って近付いてくる輩には解り易い商品を提示したほうが良い。
「手前がまっとうな支配者で良かったぜ。たまに宝飾品や絹織物の献上品を、馬鹿見てえに嫌う支配者っぽいのがいるからな」
 女よりも金や宝飾品といった”物品”の方がマシだ。その姿勢を貫くほうが良いのだ。
「全く貢ぎ物を受け取らない法王なんぞ、誰が喜ぶ」
「まあねえ」
 法国が国である以上、国として機能しているからには、利害が絡み普通の生活を維持する必要がある。
 金を稼ぐことが好きな者にとって、権力を得ることが重要な者にとって、名声を欲しているものにとって、狂信的支配者も清廉潔白な支配者も必要はない。
 自分達に利便を払ってくれる支配者ならばいい。その支配者が別の者を頂いていようとも、それが悪くなければ良い。

―― 歯止めがきかなくなる。だから”それが”欲しい

「おい、セツ」
「なんだ」
「欲しいものがある、用意しろ」
「お前が欲しいとはな。作れるのではないのか?」
 今のドロテアに作れないものはない。全く知らないものは作ることはできないが、
「船だ」
 船は遺跡調査の移動に使用するために、細部まで構造を知っている。
 なにより”魔法船”の構造は、古代遺跡内部の装置を模倣したもの。
「船?」
「俺が作ってもいいが、廃船間近のやつがあったらそいつが欲しい」
「いつまで用意すればいい」
「出発する迄にだ」
「明日にでも用意させておこう。ところで”どこに”用意しておけばいいのだ? エド法国の広場に運んでおくのか? それともクレッタソスの港にでも繋いでおけばいいのか?」
「港を少しでた所で碇をぶち込んでおけ」
「了解した」
 明日にでも出発したいと思う気持ちはあるが、まだ出発するわけにはいかない。
 セツは暫くの間ファルケス就任に関する”面会”がある。仕事は他者に任せられても”セツに直接会いたい”という希望は、セツ以外叶えられないので、会ってやるしかなかった。
 そして、
「まだ街中を調べてねえから出発するのは無理だけどな」
「何かあったか?」
「何かあるかどうかを調べるんだよ」
「なるほど」
 ドロテアもまだ調査を始めてすらいなかった。
 発見出来るかどうか? それは”解らない”が、ここに残っている勇者に関する全てを手中に収めて旅立とうと決めていた。
「それにしても……船か」
 セツの言葉にドロテアは足を止める。

―― もう二度と乗ることはないでしょう

 菫色の瞳を細めて、海を渡り故郷に帰ることを諦めた男の言葉を重ねる。
「ああ、船だ……それで、話を戻して悪いが、この先、歯止めがきかなくなりそうで鬱陶しいな」
 セツに貢ぎ物をする者達は、それでもまだ節制していた。
 賄賂に節制もなにもないように思えるが、セツの上には法王がいる。法王が清廉潔白であることが”頭を過ぎり”それが僅かながらだが歯止めになっている。
「歯止めは手に入れる予定だ」

 ドロテアはミゼーヌが解読したエルセン文章の「十八代目」の名を口にした。

「良く解ったな。少し考えれば解るか」
「まあな。手前こそ良く解ったな」

―― そこに存在し、そうなるのであれば、もうそれは……

 二人は宴が行われている部屋の前に立ち、再びドロテアは扉を開いた。

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