一方的に話掛け、一方的に話を打ち切られたセツは捕らえられていた時のことを再び思い返す。
《助けが来たようだぞ》
**********
助け出された時、マリアは横を向いていた。
俺も俺だったな。前を一切隠さずに、開かれた水槽から出たのだから。ヒルデガルドの方は何も気にしてはいなかった。
男の裸を見て困惑するようなあの女ではない。
ヤロスラフがマントを外し、肩に掛けてきた。
「 ”今は” これしかできない。此処を出たら、服を渡す」
一人やたらと水槽から離れた場所にいたエルストは、思い出したと言ったように手を打つ。
本人は響かせるつもりは無かったようだが、その音は響き全員でエルストの方を見る事になった。
視線を集めた男は、
「……あのさ」
「何だ、エルスト」
「この水槽って、魔王の大きさとほぼ同じなんだ。前に見た時、何か感じたのはこの大きさだったって、今気付いた」
俺は全体が見えない位置で、捕らえられていた水槽を見上げた。
これが魔王の大きさかと。
「だから空だったのか。フェイトナを解放しに向かうか」
あの女は歩き出し、ヤロスラフもその後ろに従う。ヒルデガルドはあの女の傍まで駆け寄り、
「姉さん凄い! あの……あの……派手な神様見習いさんを呼び出さないで助けられるのですね!」
感心を伝えていたが、その感心には揺らぎがあった。
「本当に。あの……えっと、あの派手な迷惑な神様使わないで出来るようになったんだ」
マリアも同じく。
”派手な神” の正式名称を二人は知っているようだが、それが出てこない。
「マリアさん」
「どうしたの? ヒルダ」
「私、ど忘れしてしまったのですが、派手な神様見習いのお名前は何でしたっけ?」
「……ごめんなさい、ヒルダ。私もど忘れして全然思い出せないの。簡単な名前だったわよね」
驚いているのは、名称が口に出せない二人。
その二人を置いて、あの女は振り返りもせずに歩き続ける。
「姉さん! あの派手な神様見習いのお名前って何でしたっけ?」
あの女、いや 《ドロテア》 は振り返らない。
何かと視線を合わせないようにしているとしか思えない後ろ姿。マリアではない、ヒルデガルドでもない。
俺の筈はない、そしてエルストではないだろう。
あの女が視線を合わせたくない相手、それはヤロスラフ。
「自力で思い出せ。あんな簡単な名前が思い出せないなんざ、記憶障害の初期兆候だ! 気合い入れて思い出して記憶障害の悪化を阻止しろ!」
「もう……でも確かに簡単で忘れない名前でしたよね、マリアさん」
「そうそう。誰かに似ている、簡単な名前だったわよね、ヒルダ」
―― 何故マリアも解らないのに教えない? ――
ヒルデガルドだけなら今の答え方で終わらせてもおかしくはないが、マリアにこの種の態度を取るのは珍しいのでは。
接している回数が少ないからで、マリアに対しても何時もこのような状態なのか? そう思った俺は、ヤロスラフの表情を盗み見た。
やはり、ヤロスラフも驚いていた。この場で驚くとしたら、ドロテアの答え方しかない。
先ほどからほぼ代わり映えしていない周囲を見て驚くとは思えない。
エルストを見る事はしなかった。あの男の表情から何かを窺うのは無理だろう。
作りは全く同じだと言いながら、あの女はフェイトナの前に立つ。
《助かったか、セツ》
「ああ」
フェイトナは人の姿とはほど遠かった。
聞けばドルタもシャフィニイも人からほど遠い姿だという。……いや、人が神から遠い姿と言うべきか。
あの女な何も恐れずにフェイトナに近付き、
『お初にお目にかかる。俺はドロテアと言うただの女だ』
第一言語で話しかけた。
神はどの言語で話しかけても通じるのに、何故第一言語で話しかけたのか? 全ての行動に意味があるだろう女の後ろ姿。
《ただの女……な。私は知りたい、だからお前の配下になる》
二神を従えた女に、フェイトナは従うと申し出た。
フェイトナは知力の神でもあり、自らも知識を得る事や知らないことを知るのがとても好きなのだと言っていた。
神が知らない事があるのかと尋ねたら、知らない事があるから神はこの地上に目を向けていると言ってきた。
地上の全てを知り得たら、神は消えると
その言葉に驚き、その驚きを感じたフェイトナは言い返してきた。《正確に言うなら、人が神を捨てるのだ》
人々がこの地上の全てを知り支配したと慢心した時、神を捨てる。その時神は人の限界と見て、人々を捨てる。
フェイトナの言葉を聞いて、俺の教えられたエド正教の教義を思い出す。フェイトナと近いアレクサンドロス=エドが建てた国であり宗教。
真君が神の国を建てたのは、フェイトナからもたらされた物が、三人の中で最も宗教に近かったのだろう。
勇者レクトリトアードである俺と真君であるアレクサンドロス=エド。どちらが精霊神に近付いたか? それは俺に軍配が上がる。
俺はフェイトナと会話し、感じたままにこの先も生きてゆくだろう。俺はそれで良いが、此処にいる者達はそれでは終わらない。
あの女は斜め後ろにいるヤロスラフを右手親指で指さし、
『その前に。俺の隣に立っている男の配下になる気はないか?』
《召喚者》 を勧めた。
能力的に見たら、ドロテア以上だ。だが、
《お前の指さした方向に男が立っているのか? 背後にいる先ほどまで囚われていた男と、目の部分がない男以外にも? 左腕の無い女よ》
左腕のない女、目の部分がない男
オーヴァート=フェールセンが与えた金属によるものなのは、報告を受けているから解るが、ヤロスラフ?
『いる。貴様には ”やはり” 見えないのか?』
俺はヤロスラフを見た。
大股で一歩前に踏み出し、あの女よりも前に出る
《見えない……いや影は見える。そこに何故、在りもしない物体の影が存在する?》
− 私は此処にいる! 私からはお前が見える、聖地神フェイトナ! 私を観てくれ、私はお前を受け入れるだけの能力はある! −
両腕を広げて叫ぶ。感情の全てを、捕らえられているフェイトナにぶつけるが、それは届いていない。
あの女は ”やはり” と言った。
見えない事が前提。それは何を意味しているのだ?
「ヤロスラフが喋ってる言葉って、第一言語っていうの?」
「そうだよ、マリア」
一人だけ第一言語を全く解さないマリアが尋ね、エルストが ”俺も全部解りはしないんだけどね” と笑いながら答える。
「…………」
「どうしたの? ヒルダ」
「いいえ、ちょっと……」
ヒルデガルドは今の言葉を完全に理解している。
ヤロスラフが見えないのは神だけなのだとしたら?
『”私は此処にいる! 私からはお前が見える、聖地神フェイトナ! 私を観てくれ、私はお前を受け入れるだけの能力はある!” 俺の隣にいる男はそう言った。聞こえたか?』
ヤロスラフは神がみえる。
一体何が違うのだ?
《聞こえない。だが本当に居るようだな。お前の後ろにいる、お前とよく似た者が、今お前の言った言葉と同じ事を反芻していた》
お前はあの女を指し、よく似た者はヒルデガルドを指す。
捕らわれていながら人の心まで読める神が、その存在を認められない 《存在》
《セツ》
− 何だ? −
突如フェイトナが俺に声を掛けてきた。
《そこに男が在るのだな?》
− 在る。俺の昔からの知り合いだ −
《お前には見えるのだな》
− ああ、見える。昔からずっと −
《何故お前には見えるのだろうな? 私に似ているというのに》
俺は何も解らなかったが、あの女は言った。
『セツはお前から観て影でしかない男を作った一族が、貴様等の力を利用して ”シンプル” に作ったからだ。お前が影しか観ることの出来ない男は、セツを作った一族がお前の力を一切用いずに作り上げたからだ』
フェイトナは震えた。
その震えを感じたのは俺だけだろう。恐怖ではなく、新たなる知識に興奮している。
《……ますますお前の配下になりたい。ドロテア、私を配下にしてくれ。そして詳細を教えてくれ》
− 私にも同じ知識がある! ドロテア以上の知識はある! −
ヘイノア平原で味方の放った火の中で、祈ったイシリア教徒が火にまかれ最後に上げた、祈りを聞き入れてくれぬ神への慟哭にも似た声。
《お前に似た者が》
『ヒルデガルドだ』
《ヒルデガルドが困惑している。本当にいるのか? なあ、ドロテアよ》
ヤロスラフの声はどうやっても届かない。人の声は神に届いているのに、ヤロスラフの声は届かない。
かつて僧正であった男の祈りは一体何処へと消えていった。
この男は祈りが無意味であると知りながらも祈っていたのか。
『何だ?』
《私はお前の配下になったなら、その影を見ることは出来るか?》
『今は出来ないだろうな。だが何れ見せてやる』
《言い切るか》
大きく息を吸い、あの女は叫ぶ。
『言い切る! 俺は全てを解き放つ』
ヤロスラフの祈りが何時か届く日は来るのだろう。
《神に向けるその眼差し! 従おう、ドロテア。何時か私に見せてくれ。その影を》
− 私に従ってくれ! 私に! 私に力を! −
だがヤロスラフはそんな物を望んではいなかった。
**********
夕暮れ時となったので馬車を止めて、全員で寝床や食事の準備を開始する。
会話の合間を縫って聞こえてくる、絶え間ない波音は人々の心を不安にさせ、そして穏やかにさせる。
食事を終えた後、大地で仰向けになり空を見上げる。
「エルベーツ海峡の星空をこんなにゆっくりと観られるとは思いませんでした」
ヒルダが笑い、
「確かにな。ここは海流のせいで星座すらない」
ドロテアも笑う。
明かりなど必要ない程の星空の下、ある者は無言で、ある者は人と語り合い、その夜空の下を楽しんだ。
ドロテアは寝る前にテントの周囲に岩壁を張り巡らせる。
「夜の強い海風に悩まされる事もないだろう」
岩壁の上で足を組んでそう言ったあと、テント側ではない方に飛び降りた。
寝る前に点呼などする訳もないが、互いに顔を見合わせ、岩壁の向こう側にいるのがドロテアとエルスト、ヤロスラフにオーヴァートと知った所で、全員無言で頷き眠る事に決めた。
「姉さぁーん! おやすみなさぁーい!」
「早く寝ろよ!」
四人は地面に直接胡座をかき円を描いて座る。
暫くの間は、酒をめいめい無言で口に運んでいたが、その沈黙を破ったのはオーヴァートだった。
「無理だったろう。お前達選帝侯と特殊兵は作りが違う」
風に舞う闇夜よりも黒い髪と、大地とは全く違う色味の褐色の肌。
「……」
その声はかつての玲瓏さを持ち、残酷さを持ち、冷たかった。
ドロテアとエルストは酒を口元に運び続け、ヤロスラフは両手で持っているグラスに視線を落とす。
流れ星の消え去る様を視界の端に捕らえたドロテアは、願いを三度唱えるような事はしなかった。三度願いを唱える事が出来たなら叶うと言われているが、ドロテアは自分で叶える。
「魔帝か。丁度良い存在だ」
「何が?」
地面にグラスを置いたヤロスラフが腰を浮かし、非難がましい声を上げた。
「私は魔帝に殺される。お前は廃帝に処分してもらえ」
オーヴァートが言い終わるや否や、グラスは粉々になっていた。ヤロスラフが踏みつけながら、オーヴァートの襟首を掴み上げて、背をドロテアの作った大地に叩きつける。
「心地よい大地だ。愛した女の作った大地に抱かれるというのは良い物だ。お前の子宮に包み込まれているよう。波音は羊水を思わせる」
それだけ言ったオーヴァートの顔を殴り付けるヤロスラフを、ドロテアは黙って観て居た。
エルストはヤロスラフに踏まれて粉々になったグラスを眺めていた。
カンテラの明かりが大きく揺れた所でドロテアが立ち上がり、ヤロスラフの腕を掴んだ。
ドロテアが本来の力で掴んだ程度でどうにかなる相手ではないが、神の力を行使しする。
黒い海がヤロスラフを飲み込む、外海へとそれを連れて行く。
「頭冷やせたかどうか観てくる。じゃあな」
ドロテアは海に降り、黒い海の上を何事も無いかのように歩き出した。
闇の中に消えたドロテアを見送ったエルストは手を差し伸べて、オーヴァートを引き起こす。
カンテラの明かりは何時も通りになっていた。
大きく揺れたのは、ドロテアの内心の現れだったのか、ただの風の悪戯か。どうでも良いやと思いながら、エルストは自分のグラスに酒を注ぎオーヴァートの差し出す。
オーヴァートが持っていたグラスは手から離れ、大地の縁辺りまで転がっていた。落ちそうで落ちないそれを眺めながら、
「ヤロスラフを怒らせたな」
良く知られている何時ものオーヴァートの声で言う。
「オーヴァートはヤロスラフを怒らせてばかりだろう。ドロテアと違って穏和な方なのに」
「まあなあ。俺のことなんか見捨ててしまえばいいのに」
風が吹き抜け、グラスは縁から落ちていった。
「そう思うなら品行方正で、ヤロスラフに全く迷惑をかけないで大人しく過ごしてると良いんじゃないかなあ?」
「……ま、そうかもな。それにしてもドロテアにしては珍しく移動に時間をかけるな」
”ぽちゃん” という小さな音が二人の耳に届く。
「ヤロスラフと話をさせるためじゃないか?」
「話して何が……」
「あのさ、オーヴァート」
「どうした? エルスト」
「耳貸してくれる」
「何だ、秘密の話か?」
「初代皇帝の名前って……」
グラスは海底へと沈んでいった
聖水神ドルタの力で海に引き込まれ、海中で大回転をさせられていたヤロスラフは、
「もう頭は冷えてい……」
何とか渦から逃げ出し、先ほどの行為を詫びたが、
「折角だから、全身冷やせよ」
再び原始の黒い水に引き込まれ、回されることになった。
息も絶え絶えといった風になったヤロスラフを解放したドロテアは、呼吸の荒いヤロスラフを厭う訳でもなく、その冷えた体と頭と思考に真実を重ねる。
「諦めろヤロスラフ」
「ドロテア……」
「お前は神に似たる男で、あれは神を捨てた一族をも裏切った男だ。神を捨てた一族を裏切り、神の元にも行けぬ男。この世でもっとも居場所のない男」
「最後の精霊神の元にも連れて行ってくれ」
「勝手に付いてこい。手に入れられるかどうかは知らねえし、協力もしねえが」
グラスはまだ海底に届かない
「正解だ、エルスト=ビルトニアよ」
「後二人が言うまで待ってるといい。オーヴァート=フェールセン」
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