力尽きた、勇者というの名の普通の人間を踏み越えて、ドロテアは前に出た。
「そろそろヤルか」
左手に手甲をはめ、ギリリと握りこぶしを作り肘を上げる。
「策でもあるのか」
本気で手に力を込め始めたドロテアに、セツは声をかける。セツの方を振り返りもせずにドロテアは、握りこぶしを解き、そ指先で硬質な音を立てて鳴らすと、
「聖職者と違って、解剖ってのもやるんでな。まあ、俺の得意とするのは魔物の解剖学。どこが魔物の急所かどうか? どう貫けば最も確実・容易に殺せるかを調べてるやつの助手だった」
愚問だな、といった口調で言い返す。
「学者とはそういった事もするのか」
「個人研究。アンセロウムがやれってなあ “おぬしゃあ、解剖とかしてもツラ一つ変えぬ! それは才能じゃ! 才能あるぞう!” って一人ではしゃいでやがった。実際に捌くのはヤロスラフだがよ。今は魔物の特性なんざ知らなくたってイケルが」
そう言ったドロテアの表情は、空を飛んでいる竜騎士など太刀打ちできない迫力がある。美醜で言えば “美” に属するドロテアだが、その迫力たるや並ではない。
「頼みがあるというか、依頼だ」
尤も、声をかけている最高枢機卿もその迫力ならば負けていないが。
「何の命令だ、セツ」
「聖騎士をお前の指揮のもと戦闘させてほしい。魔物との戦闘は経験が物をいうからな。無為に聖騎士を殺す気はないが、訓練ができるとなれば別だ」
「……ま、いいぜ。レイ! 黙って見てるのも飽きた! 倒すぞ!」
「あ、ああ! 何をすればいい?」
剣を持ったままオロオロとしているレクトリトアードに、昨晩の鬼気迫る雰囲気はない。ドロテアに声をかけられ、聞き逃すまいと必死に耳を傾ける姿は、忠実な猟犬に良く似ている。
「レイは竜騎士の片羽を切れ。あいつらは羽で浮力を得ている。片方を切られりゃ、バランスが悪くなって地面に足がついたままの人間でも攻撃しやすい範囲まで落ちてくる。後は貴様等が止めをさせばいい。わざわざ下準備してやるんだ、ありがたく思えよ」
セツはそれには返事を返さずに、聖騎士達に号令をかける。
「解った。羽はどちらでもいいんだな」
言われたレクトリトアードは、間違っては大変と確りと疑問点を聞き返す。ドロテアが右羽のつもりで言ったのに、左羽を切り落としたら大変な事になる! レクトリトアードの恐怖は、空を飛んでいる竜騎士ではなく、あくまでもドロテア。
「構わねえ」
レクトリトアードは言われた通りに、片羽を切り落としにかかった。
自分の足の力だけで飛び上がり羽を切り落とし、それによって体勢を崩した竜騎士を踏み台に次の竜騎士の羽を切る。次々に降ってくる、硬い竜騎士の羽をマリアは拾い上げ、
「こんな硬いもの、あんなに簡単に切れるなんてね……」
空を舞う男のあまりの強さの前に、呆けてしまったような声をあげる。先ほどまで、地を這って必死に戦っていた “勇者達” が哀れになるくらいレクトリトアードは単純作業を繰り返すかのように羽を切り落とす。
落下した場所の瓦礫をも弾き飛ばすような硬い羽だというのに、それを全く感じさせない。
その竜騎士と格闘し、運良く死ななかった勇者達は、溢れるほど居て何の手助けもしなかった聖職者達によって命を救われている。
此処で命が助かったとしても、これ程の役立たずぶりを披露してしまっては、最早エルセンに居場所はないに等しく、勇者を取りまとめているエルセン国王にも見放されるのは確実だが。
「一撃で城も壊した男だからな」
マリアが抱えるようにして持ち上げた重い羽を指で弾きながら、ドロテアはその硬さに眉をしかめる。
「でも姉さん。何でわざわざレイさんに?」
「昨日の破壊者は今日の救世主。恨むに恨めねえだろうよ。大体あいつ、マシューナル王国の公職辞めたんだ。このままエルセンが雇うって手も出てくるだろ、これ程強かったらな」
ドロテアが簡単に倒してしまってもいいのだが、此処はせっかくの機会なので少しはレクトリトアードの株を上げておく事にした。
「意外と色々な事、考えてるんですね、姉さん」
怖い者知らずの妹は、姉に向かってそう言うも、ドロテアは全く気にしていないようで “ああ” といった表情を作り、答えを返す。
「オーヴァートが絡んだ問題は、最後までアイツにやらせると、問題がおかしくなるからな」
昨日の夜の破壊者は、今日の昼間の青空の下、魔物を討つ。
少なくとも自国にいる偉そうな『勇者』よりは余程強く、役に立つ事だけは市民もわかったらしい。恐らく昨晩死んだ勇者が存在しようが、城が無傷で残っていようがこの状況は何も変わらないであろうこと。
この空から降ってきた白い厄災がいなければ、何の抵抗もできなかったことを。
その白い厄災は表情一つ変えずに……とは言っても、それを肉眼で確認できる者はほぼ居ないのだが、レクトリトアードは何時もと全く変わらない表情で、一人竜騎士の羽を切り落とす。
高度とバランスを失った竜騎士は、それでも上空を “跳ね回る” レクトリトアードに視線を向けて、火を吐こうとするが、その背中に、セツが次々と魔法をうちこみ地上に落とす。
「お前も簡単に倒せるだろうが」
殺さない程度に魔法を打ち込むセツにドロテアはそう言う。その男から返ってくる答えは、
「聖騎士を鍛えるのが目的だ。もうしばらく遊ばせてもらうぞ」
「竜騎士相手に “遊ぶ” たあ、大したもんだセツ」
「貴様に言われたくはない」
不敵なものである。
次から次へと落とされる竜騎士と、それと戦う聖騎士達。それらに偶に『怒号』もしくは『罵声』のような指示を出すドロテア。
そのうちクラウス率いる警備隊まで混ざって、
「暇ですね。竜騎士の羽って、煮ても焼いても食べられないんでしょうか?」
それは暇になった。
先ほどまでの劣勢はなんだったのか? と言うほどに。
その中で羽を抱きかかえペチペチと叩きながら真剣に悩むヒルダ。
「食えネエと思うぜ」
「ダシにはなりませんか?」
後片付けるのも面倒だろうな、そう表現するしかない程に降って来ている羽の有効利用法をひたすら考える。有効利用が食用以上にはならないのが、ヒルダのヒルダたる所だが。
「茹でたくらいで柔らかくなるような羽じゃねえよ」
煙草に火をつけて “やれやれ” と思いっきり息を吐き出す姉の隣で、
「やっぱり干物にしてからの使用でしょうか?」
あきらめる事なく羽を如何に食するか? を考えていた。
「無理だろ。そもそも、これ食ったら死ぬぜ」
「でもこれを片付ける方法も考えなければいけないと思うんですよね。街中に魔物の屍骸転がしておくわけにもいきませんし。こんなに丈夫だと、焼却処分にも苦労しそうですが」
普通の魔法使いの “魔法” 程度ではかかるように到底見えない。
ヒルダが抱えている “体から切り離された羽” ですら、魔法がかかるようには思えない。魔法を使える者ならば解る、特殊な感触。
「実際苦労するだろよ。これは火竜属の竜騎士だ。焼却処分なんざ、簡単にできはしねえだろうよ」
「じゃあやっぱり地面に埋めるのが最適な処分方法なんでしょうか?」
あとは海に流すとか? とヒルダは尋ねる。
「不毛の大地になるぜ。竜騎士の溶解により、土中が有毒金属に侵されてエライ事になるだろうな。少し考えればわかるだろ? 体表面の硬さから考えてみろよ、人や動物とは違う作りで当然だ。人間が殺せる程度の魔物なら、それほど硬くない訳だから、金属の質や量も大した事はねえ。その結果、自然界で中和できるけどよ、此処まで硬えと含まれている金属が並のモンじゃねえ。竜騎士の体に含まれている金属の大部分は人体に有毒なヤツだった」
ほぉ〜といった顔でうなずくヒルダと、その背後で小さくなって飛び回っているレクトリトアード。
彼はエルセンを襲った竜騎士の片羽を、全て落とし終わりそうな段階に入っている。
「何にも使えないんですか?」
絶対に食べられないと知った瞬間、どれほどの作家でも表現できないような “微妙なる残念な表情” を浮かべたヒルダは、そっと地面に羽を置いた。
「ま、使えねえな。そこら辺で死んでる勇者並に使い道はねえよ。精々、俺みてえな薬を作れるヤツが、その羽で毒薬作るのに使うのがいい所だ。ただ、精製過程の煩雑さの割に良い効果は得られないヤツだった覚えがある。オーヴァートの祖先が支配してる頃なら、錬金術ってのに使ったかも知れねえが、今は錬金術なんて存在しねえしな。この役立たずな屍骸は俺が処分してやるけどよ」
そして、こんな事をのんびりと話していられるくらい暇だった。
「それにしてもエルセンの軍と随分差があるわね。なんで彼等、あんなに弱かったのかしら」
一応槍を持っているものの、出番のないマリアが独り言のつもりで疑問を言葉にする。
「聖騎士も警備隊もドロテアに引き回されたからね」
エルストの笑顔にマリアは納得した。
確かに魔物との戦いに慣れている、慣れていないは大きな差を生む、そうは聞いていたが、
「でもエルセンって魔物退治に力を入れてるんでしょ?」
「力は入れても、ほら余力を残すってか……死地に放り込まれて、背後からドロテアが来る事はなかったからじゃないかな」
世の中にはスパルタというものが確かに存在する。
力を入れた所で、本当に入っているかどうかなど誰にも解らないのだ。
そんなのんびりとした状況の中、振動が届く。
地震とは全く違った揺れ方をする大地と、地鳴りにも似た咆哮。
恐怖を引き起こす咆哮、そう表現するのに相応しい空を叩き割るようなそれに、ほとんどの者が得体の知れぬ恐怖を感じた。
「聞いた事ある声ですね」
ほとんどの中に入りそびれた、食欲の聖職者は耳元に手を当てて人々が顔色を失う程の咆哮に聞き耳を立てる。
「ドラゴンだろ。竜騎士の指揮官ったらドラゴンに決まってるじゃねえか」
その疑問にドロテアはあっさりと答えてやった。
「ああ、ドラゴンですか。トルトリアで聞いたから覚えがあるんですね……! こんな所に来たら不味いんじゃないんですか?」
ぽんっ! と手を叩いて “はいはい! そうですね! そうでした! そうでした、すっかり忘れてました!” と言った表情を浮かべた後、しばしの空白を経てヒルダは姉に、とても常識的な事を問う。
「別に俺には関係のねえ国だ。むしろ滅んだ方が俺としては良い方向に転がるからな」
だが、言われた方は全く表情を変えずに “知ったこっちゃない” とばかりに、素気ない返事を返す。
「それは、そうなんですけれどね。この際、適当に助けてあげましょうよ。ほら、猊下がドラゴンと必死に戦うハメになりますと、司祭としてはとても困るので」
「アレクスが本気になりゃ、簡単に勝てるだろうよ」
「そうでしょうけれども。偶には司祭の仕事でもしようかな? と思いまして。そんな訳で姉さん、ドラゴン殺してください」
姉にドラゴン抹殺を依頼する事の何が『司祭の仕事』なのか?
誰の中でもそれが繋がることはなかったが、法王が前線でドラゴンと事構えるよりかならば、ドロテアがドラゴンを踏みつけている方が安心できる。
踏みつけている時点で既に勝っているのだが、皆、想像してもドラゴンを踏みつけているドロテアの姿しか思い浮かばない。戦っている姿は想像できなくても、勝っている姿は容易に想像できる、それがドロテア。
「解った、解った。元々倒してやる気はあるからな。ヤツが来たら、最上級でお返ししてやろうじゃねえか。飛んで火にいる夏の虫ケラ共め」
その宣言に、“踏みつけられているドラゴン” が人々の中で “踏み潰されるドラゴン” に挿げ替えられたのは言うまでもない。
“ドラゴンも虫ケラかあ” 達観したような……とは程遠い、やる気のなさそうなとしか言い表せない表情を浮かべた男は、特に何をするでもなく黙っていた。普通の人間でしかないエルストには、竜騎士に一矢報いる事も、これから来る破壊の化身と呼ばれるに相応しいドラゴンも倒せる術は無い。
いや、術はあっても『倒そう』と思わないと表現した方が正しい。エルストとはそういう男である。
間違っても人を助ける為に強大な敵に立ち向かうような男ではない。
「ドラゴンか。さすがに下げた方がいいだろう」
セツはそう呟いた後、即座に聖騎士に撤退を命じる。傍にいたギュレネイス皇国のクラウス以下 “海戦用部隊” も、さっさと退避。その撤退の見事さはあきれる程。
「お前とアレクスの防御魔法なら、傷一つ負わねえだろが。ま、そうでなくとも下げる必要もねえけどよ」
「何を企んでいる」
「企んでるたぁ、言ってくれるな。まあ、黙って見てりゃあいいぜ」
「面白い物を見せてくれるんだろうな?」
「はん! おい! レイ! 追いかける必要はねえ」
這う這うの体でドラゴンの方に戻っていく竜騎士達を見送りながら、深追いしないようにレクトリトアードに指示を出す。
レクトリトアード一人で突っ込んでいっても、ドラゴンくらい倒せそうなのだが、此処はあえてドロテアは自分で倒すことに決めた。
トラゴンが一足をすすめる度に縦に振動が届き、瓦礫が崩れはじめる。
咆哮と、その巨大な姿を前に人々は、
「うあぁぁ!」
「ひぃ!」
意味不明な叫びを上げることしかできなかった。
「あれが、ドラゴンか」
深追いするなと言われたレクトリトアードは、最前線でドラゴンを眺める。
マグマのような色合いの鱗で覆われた、火の属性を持つドラゴンは一歩一歩ドロテア達のほうに向かって歩いてくる。
一歩進む度に地面の縦揺れは強くなり、威圧感と暑さが近寄ってくる。ドラゴンの口の奥にわずかながらの光を感じたレクトリトアードは、本能的に跳び上がった。
“何か来る!”
突如跳び上がったレクトリトアードに、ドラゴンは下げていた首を持ち上げ、口を開く。その牙の生えた大きな口を開いた瞬間に、
「耳鳴り?」
マリアやヒルダは耳を押えて目を瞑る。
「熱による気圧の変化だ。って事は熱波でも吐くのか」
言いながらドロテアは唾を吐きつけ、呪文を生成する。生成したのは耐火・耐熱の魔法。ドロテアが最も得意とする火属性の補助魔法の一つ。ドラゴンが吐く熱波の先にはレクトリトアード。
その間に魔法を投げつける。
投げつけた耐火・耐熱の魔法は全てを防ぐ事は出来なかったが、ドロテアの目的は達成する事ができた。突然投げつけられた耐火・耐熱の魔法に、着地したレクトリトアードは不思議そうな声で尋ねる。
「ドロテア、俺はあの程度の火なら直撃しても平気だ……」
地面に立っていて直撃したらダメだろうと言う事で跳び上がった。それが直撃しても大丈夫だという感覚を持って。
ただ、その言葉にドロテアは捲くし立てるように返す。
「アホか? レイ、手前は平気でも着てる服は俺達と同じ仕様なんだぜ? ドラゴンが吐く炎が直撃したら、着衣はただじゃ済まねえんだよ。それとも手前は、公衆の面前で全裸になって剣振り回したかったのか! だったら俺が今此処で全裸に剥いてやるぜ!」
ドロテアが守ろうとしたのはレクトリトアードの着衣。
本人がどれ程強かろうが、一瞬にして気圧が変化する程の熱波を浴びれば、着ている服がズタズタになるのは当たり前、その為に魔法をかけたのだ。ただレクトリトアードに薄い膜で覆うような耐火・耐熱魔法をかけるのは不可能なので、少しはなれた場所に投げつけるように設置した。
「あ……ありがとうございました」
ああ、それなら意味が解ります! と言った感じで頭を何度も下げるレクトリトアード。
周囲でドラゴンの熱波であがった気温を下げる魔法をかけるセツとアレクス。
ドロテアは口を開いて耳の周辺を押して、ドラゴンの方を睨み付ける。ドロテアも耳鳴りはしていたらしい。
「よし、それで良い。補助受けたら黙って補助受けてりゃ良いんだよ。俺は自分の身を危険に晒してまで、他人に魔法はかけねえ。余力があるとき以外は見捨てる、その時は思う存分全裸で戦ってろ!」
「あ、うん、あ……はい……あ、いやその、全裸で戦いたくは……ないと思う」
“普通、ドラゴンと戦ってる時はそんな事考えないよなあ。確かに格好悪いけど……でもレイは格好いいからサマになるかなあ……”
まだ耳鳴りがしている耳を叩きながら、そう思うエルストだった。
「そうか! レイ、後は下がれ。俺がやる」
「解った」
その号令に “公衆の面前で全裸で戦う事は嫌なこと” そうやっと認識した、レクトリトアードが下がる。それとは逆にドロテアの傍に法王が近寄ってきて、小声でささやく。
「大丈夫ですか? よろしければ私が」
アレクスの能力を持ってすればドラゴンを完全に消し去る事が出来る。だが、
「アレクス。俺の才能は手前の足元にも及ばないが、色々と持ってるんでな……それに、これを隠したままにしておく訳にもいかねえ。殺るなら、必要になるからよ」
ドロテアは法王の肩をセツの向かって押す。
“下がれ” という合図だと察したアレクスだが、
「何の事です……か?」
それでも不安そうに尋ねる。 “隠しておいたまま” その言葉が気になったのだ。
「これを見せた後に説明してやる。セツ! 二度も同じような事するんじゃねえぞ。法王猊下サマをお守りしろよ」
「言われなくとも」
城壁は崩壊してしまっていたが、それが存在していたとしてもこの脅威の前には無意味であったに違いない。
小山のような赤い物体が、王都に向かって進んでくる。その痛いほどの振動に、立ち上がる気力も失った人々は、その声に頭を上げた自分に悪態を付きたくなった。
恐怖感と威圧感だけを纏った赤いドラゴン。
その大きさと圧力の前に、上げた頭をうなだれる事もできなくなった。
頭を下げたまま、何も知らない間に吹き飛ばされていた方が楽なのではないかと、そう思う程にドラゴンは人々に恐怖をもたらした。
「ドラゴンって普通に足で歩くのね。歩く姿見られて良かったわ」
「そら良かったなマリア。それにしても、股関節の強さが尋常じゃねえな。機会があったら股関節の辺り解剖してみてえもんだ」
「あの手の短さは……ひっくり返ったらどうするんですかねえ? エルストさん」
「亀の腹筋みたいな感じなんじゃないか」
「亀は腹筋するのかエルスト」
「モノの喩えだ! レイ!」
「悪かったドロテア。てっきり本当に腹筋するのかと思って」
ドラゴンが巻き起こす恐怖の音、言う相手が違えば「騒音」といわれる音の中、何時もの四人にプラス一人は大声で言い合っていた。その危機感のなさを前に、
「ほのぼのしていていいね」
背後に立ち護衛しているセツに、振り返りながら声をかけるアレクス。セツは『あれはほのぼのしてるんじゃねえ、どう好意的に解釈してやったって精神の箍が外れているだけだ』思いながらも、返事は返さなかった。公衆の面前であきれた声で法王に意見してはいけないからだ。これが二人っきりなら、間違いなく軽く小突いて返している。
「さて、じゃあ行くか!」
神経を集中させる為にドロテアは独特の印を結ぶ。複雑なものではなく、肘に余裕を持たせた状態で甲を外側にして前に出す。ただ手を軽く前に出しているようにしか見えない状態、その形を作ってから目を閉じて、
「此処に来たこと、後悔する間もなく殺してやる! ドラゴン!」
ドラゴン相手に薄笑み浮かべて、全く恐怖心など抱かず見上げながら吼えるその姿、
「ドロテアの後姿ってどうしてこうも力強いのかしらね」
力強さ以外の物を見出すのは難しい。
特に大柄なわけでもなければ、豪華な衣装を纏っているわけでもない、ただの女の背中はこの場に居る誰よりも凛々しい。
ただ、どうしても性格と口調から[神々しさ]はない。それがドロテアなのかもしれないが。
「空に至れ、破壊の蒼き炎よ」
先ほどまで竜騎士が襲来していた青い空が、青い輝きに取って代わられる。
「此処に至れ、原始の黒き水よ」
その次の[呪文]を唱えると、足元から黒い水が音もなく彼等を満たしてゆく。水が口の辺りに迫ってきて、急いで泳ごうとする人もいるのだが、その水は浮く事ができずすっぽりと人々を覆う。
この水の中でも息ができる事を知らない人は、最初混乱してもがくが徐々に自分が苦しくない事に気付き、周囲を見回す。
空から降りてくる青い輝きと、地に立つ人々を覆う黒い水。
その水に向かってドラゴンは炎を吐くが、
「届くかよ、ばかが。聖なる炎よ、聖なる水よ。さあ、激突しろ! その狭間にある小さな炎を叩き潰せ」
言いながらドロテアは両手を勢い良く合わせる。その瞬間、人々を包んでいる水は揺れドラゴン達が居る方向は青い光に覆われた。その眩しさに目を閉じ、そして閉じた目蓋が光を感じなくなったところで目を開いた人々は、既に黒い水がなくなり、ドラゴンも消え去っている事を知る。
「はん! 跡形すらねえな。それでも地上最強の魔物か?」
呆気に取られて周囲を見回す人々を尻目に、ドラゴンと竜騎士が居た方角を左手で指差し殊更バカにしたように喋るドロテア。その斜め後ろから、
「いやぁ〜人の所業とは思えませんね。姉さんの所業って感じはしますが」
「ほっとけ」
「動いていたドラゴンや竜騎士が消えた理由は解るんですが、ここにあったレイさんに切り落とされた羽が消えたのはどうしてですか?」
レクトリトアードが切り落とした羽も消え去っていた。
誰もがドラゴンと空から降りてくる青い輝きに気を取られている最中、羽たちは次々と黒い水に飲み込まれてゆく。それに気付いたヒルダは、手を伸ばし羽を掴もうとしたのだが、握っても水に溶けていき掴むことができなかった。
「水に返した。原始の水、あらゆる物体を分解する。分解っても解らねえか、そうだな溶かしちまうんだよ。有害さも全てな。この世にある水の能力とは桁が違う」
「あ〜だったら、毒の部分を抜いて一個残しておいて貰えばよかった。食べてみたかったです羽」
そこまでして食べたいものなのか、ヒルダ?
心底惜しい事をした! と言った表情のヒルダを前に、誰も慰めることが出来なかった。必要もない事だが。
「今、何があったの? 消え去ったのは解ったけれど」
食欲の申し子が感慨深く頷き始めた所で、ドラゴンが消えた事を尋ねるマリア。
普通の人は、先ずコチラを尋ねるだろう。食用にしようと思っていた竜騎士の羽が消えてしまった事よりも。“おう! 今説明する” ドロテア微笑んで、優しく説明を開始した。
多分別の人が聞いても、[なくなったんだからいいだろう?]で終わりだろうが。
「シャフィニイとドルタを激突させた、相反する……ってわけでもねえが、このくらいの力になるとぶつかった瞬間に衝撃が……マリア、手出してくれ」
口では説明し辛いと、マリアの手のひらをドロテアは両手で挟み込む。
「マリアの手がドラゴン、そして俺の右手がシャフィニイ、左手がドルタ。この二つがぶつかった時、間にドラゴンがいて」
言いながらマリアの手を軽くはさむようにして叩く。
「この痛さが攻撃な。この攻撃で消え去った」
「それ程いたくないけれど、二つがぶつかったせいで?」
「相殺ってんだ。まあ、水の方が弱いからドルタ7のシャフィニイ3くらいのもんだが」
「水と火って水の方が弱いの?」
「弱い。精霊魔法は水<火<風<土<水で円を描ける。まあ弱いったって、そこら辺の火事とドルタじゃあ比べ物にならねえが、同レベルになればな。この両者がぶつかった時に発生する力で消え去った。あれは攻撃ってよりも、両方の力がぶつかった際には必ず起きることだ。それに巻き込まれりゃ、大体のものは消え去る。何せ神の力だからな」
地上最強の魔物も、二つの神の力の激突の間に挟まれては一たまりもない。
全員の話が終わったところで、
「初めて聞いたが、呪文の詠唱は短いのだな」
セツが声をかけてきた。
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