重厚で細工の施された扉に三人が振り向き、床に転がっていた一人が上半身を起こす。
「あら? 誰かしらね」
ノックをして、中にいるドロテア達に来訪を伝えている時点でマクシミリアンの配下ではない事は解る。ドロテアは立ち上がると、左手を前に出して、
「誰だか知らねえが、開けていいぜ。こっちからは開けねえがな」
構えて相手に声をかけると、ゆっくりと扉がひらいた。そこに現れたのは、ギュレネイス皇国の通信画面に現れた女性。
「お久しぶりね、ドロテア」
艶のある優雅に波打った金髪にドレスを纏い、扇を持ち穏やかに笑いながら室内に一人入ってきた。
「マルゲリーアかよ」
ドロテアは左腕を下ろして、右手で『よお』といった程度の挨拶をする。
ゴールフェン選帝侯・マルゲリーア。
現存する二人の選帝侯のうちの一人。オーヴァートよりも年上で五十を越している彼女は、その年代の女性しか纏うことの出来ない優しげな雰囲気を持っている。
「牢屋に監禁されてるかと思ったけど、流石にそれは出来なかったみたいね」
悠々と王宮に立ち入り、虜囚に会える程の権力を所持している女性。久しぶりとドロテアに挨拶しながら、他の二人に近寄って行き。
「別に牢屋でも構いはしねえがな」
「はじめまして、ね。マリアにヒルダ」
手を差し出した。先ずはマリアが握手を交わす。
「はじめまして」
「ヤロスラフが一目惚れするだけあるわ。私も長い事生きてるけど、こんな綺麗な女に会ったことは……あったわね。貴女以来よ、ドロテア」
長いことオーヴァートの屋敷で働いているマリアだが、このゴールフェン選帝侯と会った事はなかった。彼女は『一度』だけオーヴァートの屋敷を訪れた事はあったのだが、その時マリアは会う機会が得られなかったので、今が初対面となる。
「はじめまして、ヒルデガルドです」
続いてヒルダと握手を交わした。
「はじめまして。可愛いわねえ、美しさは親譲りなのかしら? で、久しぶりねエルスト」
「お久しぶりです、マリゲリーア」
その代わりと言っては何だが、エルストは会った事がある。何処へでも連れて行かれる男だ、マルゲリーアと会っていても不思議ではないだろう。挨拶を終えてから座ると、扇で顔の半分を隠しながら語り始める。
「最初に謝っておくわ。私、助けに来たわけじゃないのよ。捕まったと聞いたから会いにきたの」
「あんたがそういう女だって事は、良く知ってる。別に、あんたに助けて欲しければ、俺は虚空に向かって呟くだけだ。オーヴァートに向かってあんたに命令を出せって」
脚を組んで座ると、取り上げられなかった煙草を口に咥えて、先に火をつけろと選帝侯に合図を出す。
クスクスと笑いながら、それに火をつけたマルゲリーアは『暇潰しに』と昔話を始めた。
「懐かしいわ、私エルストと始めて会ったのはホレイル王国でね、当時エルストったらドロテアの事 “君” って呼んでたのよ」
エルストが直接マリゲリーアに会った頃の話などを。
途中エルセン側から茶菓子や酒などが差し出された。ドロテア達にではなく、マルゲリーアに差し出したものだが、分量は五人分以上あった。尤も五人分以上あった所で『足り』はしなかったが。
昔話を聞きつつ、エルセンの珍味を頬張るヒルダは、話を聞いているとある事を思い出した。
それは、マルゲリーアが「ヤロスラフは昔聖騎士だったのよ」とマリアに聖騎士時代のヤロスラフの事を語りだした所から、イシリアでゲオルグと交わした会話。
**********
「なんか聖騎士団員が偏ってませんか? ハッセム隊長の配下ならエルセン出身のローランタン副隊長がいるのでは?」
「エルスト殿の身の安全を考慮しての配置です。勿論ローランタン副隊長がそのような行動をとるとは思ってはおりませんが」
「はい? 何でエルスト義理兄さんの身の安全を?」
「ご存知……ありま……」
「あ、良いですよ。後で姉さんに聞きますから」
「あの、で、出来れば我々が帰還した後にお聞きしてくださらないでしょうか……あの、勝手にそのような事を口走った……となる……」
「解りました、皆さんが帰った後で聞きますよ。安心してください喋った人に関しても口にしませんから」
「何でエルスト義理兄さんの身が? エルセンと何か関係があるんだろうなぁ……でもエルスト義理兄さんが直接関係しているとは到底思えないから、問題があるのは姉さんの方なのかな。何だろう?」
**********
エルセン出身のローランタン副隊長があの時、編成から外されていたのか? 後で姉に尋ねようと思っていたのだが、忙しくせわしない毎日を過ごしていたため、聞きそびれていたのだ。
思い出した今が吉日と、マルゲリーアの話が終わった所でヒルダがすかさず口を開いた。
「姉さん。突然ですが、何でエルストさんエルセン王国に狙われてるんですか?」
烏賊の一夜干し(使われている酒が最高級)に噛み付きながら、ヒルダが尋ねる。
ドロテアは軽く舌打ちをした後、苦笑いをして、
「どこで聞いたか知らねえが、その原因が俺にある事は解かってんだろ?」
いつも通りに言い返した。
「はい。エルストさんが不必要に恨み買うとも思えませんし。大体エルストさん、王国相手に恨み買うほど甲斐性あるとも思えません。そんな無駄な甲斐性ある個人は姉さんくらいでしょうから」
「王国相手に恨みを買うのが甲斐性かどうかは知らねえが、さっきのエルセンの継承順位の話覚えてるな? その中で “国外にも継承者がいる” って言っただろ? それが関係してきやがる」
ドロテアは面白くなさそうに、自分の襟元を人差し指で引張りながら話しを続ける。
「国外の継承者と姉さん、その関係が何故エルストさんの身の危険に? 聞いた分には結構有名な話らしく感じたんですけれど、私知らないんですよね」
思えばドロテアとヒルダは不思議な関係だ。
姉妹なのに、何一つ姉の過去を知らないヒルダと、言わないわけではないが語りきれない過去を持つドロテア。
他国の貴族が知っているドロテアとエルセン王国の確執と、それがエルストの謀殺に繋がる理由。ヒルダが神学校で決して習わなかった、
「有り触れた理由だ。現時点でマクシミリアンの次の継承権を持つ男が、俺の事が好きで独身なんだよ “ドロテア以外とは結婚しない” って強固に言い張ってるらしい。だからエルストを殺害して、俺をそいつの妻にしてあわよくば子供を五人くらい産んで欲しいわけだ。エルストを殺さなきゃならんほど、継承者は結婚を否定してやがるんだよ」
男性遍歴というヤツだ。
ドロテア程、国王を渡り歩いた女はいない。そして国王に対して、多大な影響力を持った女性。別れても、相手の国王の中には存在し続けている。
「……できると思ってるんですか?」
尤も、別れたドロテアの方はそんな過去の事、綺麗さっぱり過去にして生きているのだが、それだけではカタが付かないのが過去というものらしい。
「さあな。そいつが俺と結婚して、王女を産んでくれればそれをオットーが貰って王位につく……って所だ、血筋と年齢から言ってソイツと俺が最も妥当なのさ、俺が “どんな人間なのか” 知らねえからだがよ。お前が聞いたのが誰かは聞かねえでおくが、相手が貴族だって事は直ぐに解る。平民には関係ねえ話だからな」
口一杯にいれた烏賊の一夜干しを咀嚼しながら、頷く。
何も解らずに隣で聞いていたマリアは、目を細めてとても楽しそうに微笑む。
「あなたらしいわ、ドロテア」
その笑みはドロテア以上に男の心を蕩かす極上のものなのだが、それが向けられるのはドロテアやヒルダのみ。
『世の男はかわいそうだね』マルゲリーアの気まぐれで船酔いを治してもらったエルストは、床の上で胡座をかきながらその二人の美女の笑顔を見ていた。そのうちの一人は自分の妻なのだが。そして妻によく似た妹がその中にはいらなかったのは、口の端から烏賊の足が出ていたからである。
どれ程の美女であっても口から烏賊ゲソが三本も出ていては美女には見えない。むしろ綺麗な分、破壊力は抜群だ。
その有様をみてマルゲリーアは笑い、姉であるドロテアは慣れたものでそのまま話を続ける。
俺みたいなのが「傾国の美女」って言われるんだ。解るか? などと。その傾国の美女と同じ顔が口から烏賊ゲソが出ていてもお構いなしに。
それがドロテアの強さというか姉妹というか。ドロテアの顔を破壊しているか如き行動を取っているヒルダは頷きながらそれを飲み込み、茶をそれは豪快に飲み終えた後、続きを尋ねる。最も重要な部分『それが誰であるのか』を。
「所で国外の継承者って誰ですか? ……あれ?」
だが尋ねている途中でヒルダは外に光を感じた。
話をしていている間に空すっかりと暗くなっていたのだが、その空が一瞬朱色に染まる。明らかに不自然な光に何事かが起こったのかは確か。その光を見てだろうか外苑辺りから、大きな声が上がり始める。
何事か? ドロテアがはめ殺しの窓に近寄り外の様子を窺うと、
「……っ?!」
さすがに驚きを隠せなかった。何かが空を舞い降りてきた。その動き、あの白銀の長髪に長剣。
「どうしたドロテア?」
「げっ! 何でヤツが此処にきやがったんだよ!」
「あ! レクトリトアードさんだ」
闇夜を朱色に染め突如現れた、レクトリトアード。
夜の帳が降りはじめ、ドロテア達は知らないがエルセンの夕食にありつけそうであった頃、それは訪れた。
マクシミリアンはドロテア達に出す食事を『ゴールフェン選帝侯がいるから』なる理由で豪華なものを用意させていた。それがドロテア達の口に入ることはなかった。ただ、それが用意されていた事をドロテア達は知らなかったことは幸いであった、レクトリトアードにとって。
それを知っていたら食いはぐれたヒルダあたりに冷たい視線を浴びる事になっただろう。
トルトリアの城下町に、異様な光を纏って突如現れたレクトリトアード。
まだ街中は騒がしい時間であったので、その姿は多くの人間が目撃してしまった。何かが来たと避難する人々に目もくれず、レクトリトアードは王城に向かって駆け出す。
白銀の髪を振り乱し、手には抜身で幅広の長剣を持ち疾走する長身。
現れ方自体が特殊だった為、直ぐに捕らえようと兵士達が出てくるが、古代遺跡をも切り裂いた男だ、人間如きが幾ら集まっても勝てる相手ではない。
「捕らえている四人を解放しろ!」
叫びながら、剣を構える。
白銀の髪と白目の部分が青味を帯びた特徴的な瞳、その特徴的な容姿に彼らは相手が誰なのか気付いた。
マシューナル王太子の護衛、闘技場の伝説。剣を用いて戦う白銀の容姿は、この国の建国者ハルベルト=エルセンによく似ていると専らの噂であり、闘技場で彼の強さを見た者は “彼はハルベルト=エルセンの血を引いているのでは” と期待をこめて呟く者もいた。
剣聖ハルベルト=エルセンが建国した国に牙を剥く、伝説の彼によく似た男。
「あ、あれがレクトリトア……」
そこまで言って多くの兵士達は蒸発した。
レクトリトアードの剣が城を横に薙いだ。崩れ落ちる城の轟音と、砂煙と驚きと恐怖の空間が当たりに伝播する。それらが過ぎ去った後、悲鳴と絶叫、呻き声が一斉に湧き上がる。
ドロテア達がいる室内はマリゲリーアの力を持ってして難を逃れたが、
「おいおい、一体いつマシューナルはエルセンに宣戦布告したんだよ。先兵がレクトリトアードって事は、本気としか思えないが、どういう事だ?」
城自体は半分が崩壊し、残り半分は消え去った状態。レクトリトアードの一撃で、王城はなくなってしまった。
城が崩壊する轟音と、その後の助けを求める声。それらを他人事のように聞きながらも、マリアは驚きを隠せなかった。隠せるような驚きではない、自分の立っていた場所が、一瞬にして消え去った感触。正しく足元が突如得体の知れない力で消え去る感触に、
「び、びっくりした」
さすがに驚き膝をついて胸に手をあて、その原因であるレクトリトアードが、益々嫌いになった。
『少しは物考えなさいよ、頭良さそうな顔して!』
言いがかりに違い怒りだが、この有様を見ればそうも言いたくなるだろう。
ただ、何時も傍にいて顔だけではなく本当に頭が良くこれ以上のことする、ドロテアは別格らしい。
そのドロテアが差し出した手に捕まって、マリアは立ち上がる。その脇で、
「凄いですねっ! 堀が埋まってしまいましたよ!」
元気なヒルダ。瓦礫の上に立って、見回すと闇夜に照らされる水面が何処にも見当たらない。
城の周囲を囲む掘りは埋まった。埋まる前にレクトリトアードの一撃で干上がってしまってもいたが。
「城も完璧に倒壊だね……可哀想にな。家無くなっちゃったなマクシミリアン。で、戦争開始なのかな」
エルストも瓦礫の上に立って、怒声が飛び交うほうを見る。
「豪快な男ねえ。でもその光はオーヴァートね」
四人を守ってくれたマルゲリーアは、全く驚く様子もなく、再び扇で口元を隠し楽しそうに笑っていた。
「楽しそうに笑うなよ、マルゲリーア。やれやれ、オーヴァート……らしいな、これを見りゃあよ。あれに乗せられたって事は……厄介だ」
マリアに肩を貸しながら、心底嫌そうに眉間に皺を寄せ険しい表情をするドロテアに、
「でしょうね」
マリゲリーアは全く変わらない表情で答える。ドロテアの右肩に体重を預けていたマリアは、
「どうして解るの?」
尋ねる。ドロテアは左手をマリアの前に差し出すと、あのオーヴァートからの『唯一役に立つ贈物』である手甲が淡い朱色になっていた。その光は弱いながら、あのギュレネイスで見た手甲の色に似ていた。
「紫まで混じったら最悪だが、この色でも相当なモンだ。レイが “持っている剣” に力を込めているからそれに反応してんだ。あいつが持ってる剣はフェールセン王朝の紋様が刻まれているはずだ……オーヴァートが自分で作って与えたんだろ。それに幾らレイの足が速くても、マシューナルから此処まで走って半日ってのは無理だ。誰かが送り込んだんだと考えるしかない。それに首都にはゲートを関知するように細工が施されている。通常のゲートなら感知できて潰せるが、オーヴァートの作ったゲートは感知できねえうえに、潰せもしねえ。潰せてもレイを潰すことはできねえからな」
レクトリトアードを放り込んだのはオーヴァートの残酷さだ。
オーヴァートが来れば直ぐにドロテア達は解放されるが、それではオーヴァートが収まらない。
ドロテアを捕まえた事が、どんな事態に発展するかをまざまざと見せ付ける為に、恐怖を煽るために兵を送り込んだ。
「へえ、凄いんですね」
魔物であれば力が上なのは直ぐに納得できるが、人と同じ姿の暴風が突然現れれば混乱の極みになる事を知って。
「両方な。オーヴァートの作ったゲートを通過したら普通の人間は死ぬぜ。高次元媒介性亜空間、次元の圧縮量が半端じゃない、その分身体にかかる質量も半端じゃない」
「全く理解できませんが、凄いんですねレイさんの身体」
感動するのは構わないが、身体に感動されても色々と困るだろう。
「そうなるな」
そんな気の抜けた会話の最中でも、遠くでは松明やら魔法の明かりが灯され、市民の悲鳴が聞こえる。悲鳴の元凶の原動達は、まるで他人事のようにその様を見守っているのだが。
勝手に因縁つけられて、勝手に城に軟禁されて、勝手に国が滅んでゆく……まさに、どうにでもなれ! と言うのが本音。これを収拾してやる義理も何もありはしないのだが、どうやら自分達を助けに来たらしい相手に『助かったからもうやめて!』くらいは叫んでやってもいいだろうが、そんな事を進んでするような面々ではないので、向こうが気付くまで放置状態。
助けに来た方も、襲われている方も救われないが、もとよりこんな危険な四人を捕まえなければ良かったのだ。
叫びながらレクトリトアードにかかっていく人々やら、次々と灯される松明や魔法の明かりを眺めつつマルゲリーアが口を開いた。
「それにしても可哀想にね、マクシミリアンも」
「そうか? あんたが人間を可愛そうだなんて言うとは、思わなかったぜ。マルゲリーア」
振り向きながらドロテアは手に火を灯し、周囲の視界が利くようにする。
そのドロテアに掛かる声。
「あれでも一応本当にハルベルトの子孫だから生きているのよ。今、死んでしまうかも知れないけれど」
「……?」
「あの子が受けた毒刃は『毒のフェル』からなの」
毒を扱う人間なら、一度は聞いたことがある人物の名だ。当然ドロテアも聞いたことがある。
他に比べるものはない劇薬を用いる殺し屋。毒の種類自体は不明だが、残った死体は『毒』が用いられたとしか思えない変色等を起こす、その殺し屋は、
「代々一人が受け継いでいるっていう、毒の一族……? 違うのか?」
歴史に刻まれる程、長い歴史を持っている。
恐らく一族だと、誰もがそう考えているに違いない。人間では生きられない長い時間。
「ええ、一人だけなの。それも代替わりなどしていないわ、その本名はリンザード。ドロテアは聞いた事あるでしょう? かれこれ千二百年くらいは生きてる、最後のトルドキアフェン選帝侯だった男よ」
その毒の作り方などが全く表に出てこないところから、子を攫いそれを育てて継承させているのではないか? と言われている『フェルの一族』
だが、その正体は、
「なる程な、道理で普通の人間は即死になるわけだ」
ただ一人の『かつて選帝侯であった人物』
相手が選帝侯では、その選帝侯が用いた毒となれば、普通の人間ではどうにもならない。
「ええ、だからあの子は普通の人間ではないは。手足を切り落とし、背骨の発達と引き換えでも生き延びる事が出来たのはそのせいよ」
ドロテアは記憶の引き出しから、毒のフェル関連の事件を引き出す。
頷きながら、
「ああ……そういえば最近は全く聞かないな。マクシミリアンで最後だったはずだから、かれこれ十三年近く音沙汰なしか」
てっきり代替わり中で、仕事を引き受けず後継者を育てているものだとばかり考えていた。実際、世間ではそのように考えられているのだが、一人の『かつて選帝侯』だった人物が仕事をしていたのならば、この空白は長い。
もしかしたら人を殺す事に倦み、どこかに隠れて生きているのかもしれないが、今までの長い歴史から見れば、それも考えにくかった。
それは途切れず人を殺していた。稚拙な自己顕示欲を満たす為なのか、人目に付くように毒で殺害した死体を置く。一種の異常性を長い間持ち続けていた『過去の選帝侯』が、人を殺す事を厭きるとは考え辛い。
「そうね。私達も違うから感知する事は出来ないけれど、あの生に対して異常な執着心を抱いていた男ですもの、何処かで生きているに違いないわ。自らだけ生き延びるだなんて、選帝侯の恥よ」
選帝侯の地位を捨てる代わりに、永遠に近い命を手に入れた最後のトルドキアフェン。
彼の行方を知る術は、ここに居る誰も持っておらず、誰も興味のない事。
「もう選帝侯でも何でもねえだろ、そりゃ。それにしても、毒のフェルの使用していた毒物の解明は不可能って事か。もっと早めに知らせておいてくれよ。庭に毒草園を作って、品種改良して試してたんだぜ」
「ごめんなさい。てっきり皇帝が教えているとばかり。知らなくても毒神ロインに尋ねているかと思っていたのよ」
「俺は神から聞くのは嫌なんでね。自分で到達できない事なんざ、知っても何にもならねえ。アレみたいに……な」
“魔帝の正体知ってる”
聞いた所でどうにも出来ない言葉と、それを告げるべき相手。オーヴァートはドロテアが『彼』から話を聞いた事は知らない、知る力がないからだ。相手のほうが強く、力が及ばない。
何れ告げなければならない事であるし、告げなければ告げなくても済むのかもしれないが……等と悩んでいると、
「お話中悪いんだけど、そろそろ止めに行ってあげようよ」
エルストの人生初の的確なフォロー。その指先には、目的を完全に見失った戦う男が乱舞している。
「そうだな。損害賠償でも求められたら困るから、そろそろ行くか」
言いながら瓦礫を蹴飛ばすドロテアの背に、扇の金具の鳴る音と笑いを含んだ声を掛ける。
「払わないでしょ、貴方は」
「当然だろ」
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