ドロテアに助けられ職を得たイリーナは、聖騎士になているイザボーとアニスに非常に可愛がられ
「ザイツもコッチで仕事すればいいのにな」
という程、仕事に恵まれて毎日を過ごしていた。ただ、イリーナは今だ『ギュレネイス聖教徒』な為エド法国で仕事をする際にエド正教徒の身元引受人が必要となる。そのイリーナの身を預かったのは、パネ。直接言われたのはクナだがクナには今だ敵がいるのと立場も悪い為、敵の居ないパネが身元引受人となった。普通此処まで身分の高い身元引受人など、一般人には不釣合い。殆どは別の部下に引受人になるよう命じるのだがパネはその役を自身で務めた。
「ありがたくて言葉も……上手く言えないんですが」
「頑張りたまえ。所で、今更聞くのもおかしいが歳は幾つだ」
自国の闊達な少女を前に、ヴェールの下で微笑んだパネの表情に、イリーナは気付きはしなかったが、誰かに見せる為に微笑んだのではないからパネには関係はない。
「十九歳です」
「……そうか」
十九年前、彼が故郷を捨てた後に生まれた娘を前に言い知れない郷愁をそこに感じていた。
セツの頭の毛細血管をブチ切らせたクナは、故郷に戻る際にイリーナを御者にする為に、身元引受人のパネを自室へと呼んだ。身元引受人とはそのような細かい仕事もあるので、普通は高位のものは引き受けない、引き受けたとしても代理を立てるが、相手が自分よりも高位である以上、パネ自ら出向かなくてはならない。
パネにとっては大したことでもなく、権勢はないとはいえザンジバル派のクナと会話するのを止めるものもいない。イリーナに馬車を引かせる話、それ自体は大した話ではないのだが、話をしていると突然クナがポンと手を叩き尋ねる
「そうそうお主、あの処刑の場で十九年前と言わなんだか? お主が故郷を捨てたのは十九年前と」
「ええ」
「十九年前であれば既に死せる子供達は廃止されておったじゃろうて……というかお主、聖職者になって二十二年は越えておるはずではなかったか。妾は必死に何度も計算しなおしたぞよ」
妾バカになったかと思ったぞよ、と高笑いをする枢機卿に少し考えて口を開いた。
「……私が故郷を捨てて聖職者になるろうと一番目立たない派閥の一つであるバリアストラ派の門を叩きましたら、前のパネが病死しておりましてな」
必死に隠していた事をあっさりと口にしてしまったのは、やはり自分が故郷にるという少しばかりの安堵感からだったか? それとも“自分”を顕示したかったからか? パネは下手な嘘はうたなかった。その一言に
「はぅぅぅ?」
クナは妙な声を上げた。あまりにもあまりなその声に
「はぅ……って枢機卿」
パネは怯んだが、怯ませた方は高価なテーブルを叩き、花瓶に振動をあたえながら
「妾のマヌケな合いの手は無視して話を続けよ。その程度で怯んでいては立派な枢機卿にはなれんぞ!」
何を基準に? と思ったものの相手は枢機卿だそんな口をきくわけにもいかない、ドロテアでもあるまいし。
「は、はい。バリアストラ派もそれなりに力を強めたかったようでして、当時のたった一人の僧正が死んでしまうと折角築いた派の要職への道や勢力が弱まるので頭を悩ませ死亡を報告していなかったらしく、そこに偶々門を叩いた私がそのパネに匹敵する力を持っておりました為に、急遽パネとなりました」
「知らなんだ」
「クナ枢機卿は前のパネとは会った事がないかと思います。他の派閥とそれほど交流がある派閥でもありませんから」
「なる程のお」
「パネになったのは良かったのですが、前のパネをセツ最高枢機卿が知っている恐れもあるので、出来る限り側に近寄らないように、それでいながら……とこの二十年間過ごして参りました」
法王は良いのだが、何せ最高枢機卿が……エド正教内でも最も畏怖されている男セツ。パネの話を聞き、クナは直ぐに
「言うてしまえ」
結構簡単に言い放つ
「……」
「大丈夫じゃ、あの男はその手のことに関しては不問じゃ。隠しておいても良い事は何も無い、それに気付かれておる可能性もあるし。よし妾に任せておけ!」
「あ……はい」
色々と吹っ切れたクナは非常に前向きだ
帰国前の挨拶の際、クナはその前向きさの一端を発露する。
「セツ最高枢機卿!」
「何だ……」
「どうした」
『どうしたもこうしたもない! この未通女枢機卿め。ドロテアにからかわれやがって、まあ仕方ないと言えば仕方ないが。あの女に太刀打ちなんぞ出来んだろうがそれでも、おい! また腹立ってきたぞ』
甚だ酷いコトを心中に持ちながらも、セツは喋らなかった。内心が全く聖職者ではないセツ、それがセツのセツであるところなのだろう。
「耳をかしてくれぬか」
「ああ」
「……と、いう訳じゃ。気付いておられたかえ」
「いいや。だが、確かにあのパネ……言われてみれば前のパネよりも力があるようだな。成長期だから法力が伸びたとか、適当に見過ごしていたんだろうな」
本当にアレクス以外に関しては適当な男である。最もパネの力が自分でも対抗できないほどで敵対してきたならば調べもしただろうが、いくらパネの力がクナより優れていても全くセツの足元にも及ばない上に、出来るだけセツとの接触を避けて派閥の中に居ただけなのだから、その程度で済まされていても仕方ないのかもしれない。
「で、じゃ。あのパネ、実はエルストの昔の知り合いなのじゃて」
「本当か?」
「本当じゃ。さすがエルストじゃ、直ぐに気付きおってなあ。なんぞ一緒にいた警備隊長なる者も知り合いだったらしいが全く気付かぬのに、エルストは直ぐに気付いておった」
「ヤツが相手ならそうだろうな」
「だからな、ヒルデガルドのロクタル派を厚遇するように見せかけて、バリアストラ派の焦りを強めてパネをこちら側に近寄らせて、出来れば抱き込んでしまえばどうじゃろう。どうせ最後にはヒルデガルドをもザンジバル派にするのじゃろう」
「司祭はそうするつもりだ。そのためにザンジバル派の要職位を一つ空ける準備をしている。だがそのパネに関しての案は悪くはないな。パネにはさほど使用価値はなかったが、エルストと知り合いならば別だ」
セツはドロテアは苦手だが、ドロテアとそれに繋がる者の意味を一緒に嫌うような真似はしない。
「じゃろう? そうそう、マリアにザンジバル派の聖印を渡して置いたぞよ」
「よくやった、クナ。まあ、ドロテアの意見だろうが」
「そうじゃ。お主とドロテア卿はよく似ておるのお、思考が」
「……否定したいが否定できん。エギと策を練るが、どうだクナも混ざるか? 出立までまだ時間もあるだろう」
「聞かせていただこう」
今ここに、エド正教バリアストラ派大僧正・パネの危機が始まろうとしていた
**********
彼を、ウィレムに裁きを下した男に
法と言う名の“正義の裁き”を下した男
首の骨を折ったのは
エルスト=ビルトニア
自分自身だった
それが自分にとって、最後の警備隊員としての仕事
いつか自分の首の骨を折られる事を漠然と願いつつ、軽く悪事に手を出した
首の骨は折られることなく、国外に出る機会を得て
漫然とした小悪事を働く
目的を持って悪事に手を出したわけでもなく、生活に困って悪事に手を染めたわけではない
ただ、何となく
何時か捕まり裁かれれば、己の気も晴れるだろうと思ったがその機会は訪れないで
いつの間にか恋に落ちた
月並みに恋に落ちた
驚きだった
見たこともないような美しい女は、俺に物質的に何も望まず
お前の命を全て寄越せという
逆らう気はなかった
法の番人という名の人殺しであった己は
また再び殺すのだ
それでも良かった
あれ程人を殺したくないと思った自分が、永遠に人殺しの手伝いをする事になったのは
やはり逃れられない運命だったのかな
まあ、それも良いだろう
ドロテアに未来の全てを捧げるのも悪くはない
「『悪法であっても、法は法だ』って言葉はどう思う?」
あの時の君の笑顔は忘れない。
悪法に従わなかった自分が偉いとは思わないし、若かったとも思わない。だが従っているヤツラも立派でもないし歳を取っているとも、諦めているとも言えない。どっちもどっちなんだろう……もっと上手く立ち回れれば良かったんだ。
「捨てた“あれ”は、取り戻せるか?」
心とか道徳とか曖昧なもの、言葉で言い表せない、生きていく為に捨ててしまった形のないもの達。その不確かさを再び取り戻したい。
適当に上手く立ち回れ、汚れるのに抵抗のない自分ですらそう思う。あれ程生き方が不器用なクラウスが、この先ギュレネイスで潰れてしまわなければいいなと……だが、それほど弱い男でもないだろうが。だから
−じゃ、元気で出世してくれよクラウス−
言った。出世すれば少しは楽になるだろう、自分で色々選べるだろうと。
「戻ってくるんじゃねえの? それは湧き出てくるもんなんじゃないか? それを自分の手で掬えばいい」
そして君は左手を差し出した。
「君の手から落ちたヤツを、掬わせてもらおうかな」
「他人より、零れ落ちる量が多いからな、俺の手は」
その手を握り締めた、その体を抱きしめた。
確かにその手は幸せが零れ落ちる事も多いだろう。だから零れ落ちた幸せを拾い上げ、頭上からもう一度降らせよう
愛も語るどころか、好意すら互いに表さず居た、それでも情を交わすのには問題もない。事後、肘から下の部分を投げつけられる。
黒い手甲の下半分を預かるようになったのはこの時から、それはまだ五本の指が揃っていた手甲。
君が殺した人は
俺が届けたものだから
全ての罪は俺の下にあるのだと
俺はそう思っている
言ったことはないけれど
多分気付いているだろう
俺がそう思っている事を
**********
最短距離ではなく、もっとも人口密度が低い道を選びながらトルトリア領へと向かう途中、海の見える小さな街で必要な品物を買いだす事になった。ギュレネイス皇国を出てしばらくしているが、水の花は枯れる気配がない。
海らしい海を見た事がないマリアの為に立ち寄った街なので、ドロテアはマリアを連れて海へと向かった。その間ヒルダとエルストは雑貨店で不足分を買い足す事が、命じられた。重くはないが嵩張る荷物を運んでいると、ヒルダが突如立ち止まりエルストに話しかけはじめた。
「エルスト義理兄さんは、姉さんの事が本当に好きなんですね」
「ああ、大好き」
「それは結婚式を挙げた私としても嬉しい限りです」
「ヒルダに結婚式を挙げてもらって嬉しいよ、俺も」
「ねえ、エルストさん……もしも姉さんとの間に子供が出来たら、何て名前にしますか?」
「ん……そうだね。考えた事無い、一度も」
考えてはいけない事なのだと、二人は知っている。
「言うと思いました。何だかとっても幸せですよ」
「そうかい?」
「はい、エルストさん!」
海風が吹き、互いに目を細めた。
「さてと、もう一往復しなきゃな、ヒルダ」
「そうですね! エルストさん!」
義理兄の部分を言わなくなったヒルダ、それは実の兄との対面を認める気になった証拠。後日、ヒルダはドロテアに
「姉さん」
「なんだ?」
「今度からエルスト義理兄さんの事をエルストさんと呼ぼうと思います」
話しかけた。
「別にどうでもいいけどよ」
「姉さん」
「なんだよ?」
それだけではなく、疑問に思っていた事をも話はじめた。
「ラシラソフってどういう意味なんですか?」
知れば不幸になると言われている、皇統に対しての質問。当たり障りのない部分を、ドロテアは端的に口にするが
「廃帝だ」
「それだけじゃないですよね」
ヒルダの疑問はそれでは解決しなかった。
「どうしてそう考える?」
「オーヴァートさんの母君の名前を聞いた時に姉さん“ラシラソフ=リシアス”って言いました。きちんと手順を踏んで代替わりをした先代を『廃帝』とは普通言わないでしょう。そして、そのラシラソフって言葉は前にも聞きました、イローヌ遺跡を無効化する際にそう唱えてましたよ」
「ほぉ〜ということはお前には何か思い当たる節があるんだな?」
「はい。……“死”と言うのではないかと。実際姉さんはゴルトバラガナ邪術を解く際にも“ラシラソフ・ロギラロウ”と唱えていたでしょう? 遺跡の無効化と特殊邪術の死人返しが同じ呪文ってことは、それは根本的に同じという事をさしているとしか思えませんから」
「成る程ね。ヒルダ、俺がギュレネイスでマルゲリーアに向かって最後に聞いた言葉覚えているか?」
「確か……初代? などと皇帝の代を聞いていたような記憶があります」
「そうだ。85代・272代・544代・966代、そして初代。ロギラロウというのは272代皇帝の名前で、85代の名前はゴルトバラガナといったそうだ。邪術自体は多数あったが、完成させたのがゴルトバラガナ。ゴルトバラガナが施した術だったら俺も外しようがなかったが別のやつが組んだ邪術だったから外せた。作ったやつの名前が呪文の中に組み込まれる、その造りから解除呪文も自ずとそうなる」
「……」
「544代はエロイーズで966代がベルカンテヒン、だが初代だけは知らないな俺も」
「解らないんですか?」
「皇帝は知っているが、その名を三人の人間が知り、現皇帝に伝えた時、皇統は完全に崩壊するんだそうだ」
「言い伝え? ですか」
「さあな、未来を予知してたのかもしれないし、そこまでは聞かなかった。必要もないからな」
「でもオーヴァートさんで最後なんでしょ?」
「多分な。だが、誰も言いに来たヤツはいないそうだ、ヤツが生きて四十年も過ぎたってのに」
「滅びないのかなあ」
「さあ……な。協力しようにもコレばかりはどうにも出来ネエのが事実だ」
俺は傾国の女と呼ばれても全く構わない、ヤツの真意が世界中の人に知れなければそれでいい
真実を知っていてくれるエルストが『それで良いんじゃないか』といってくれるからそれで
貴様を守る事は出来ないし守る気もないが、せめて世界中が真実を知らないようにする手助けくらいならしてやってもいい
それが貴様を捨てた唯一の償い……とでもしておこう
傾国の女でいい、最後の大寵妃でいい、学者と言う名の娼婦でもいい、その程度のことなら言われても構わない、だが
「貴様とエルストがそれを許さないんだもんな」
**********
何時ものようにエルストとヒルダがこまめに働いている最中、ドロテアとマリアは海を見ていた。ドロテアは何時ものように煙草を燻らせ、マリアは遺灰の入った壷を。海を見たいといっていたエドウィンの壷を片手に握りながら
「……海って」
「なんだ? マリア」
「アナタに連れてきてもらうまで、海って青いと思っていた」
「青いじゃないか」
「違うじゃない。遠くからみると太陽の光を受けて金色だし、夜見ると黒いじゃない。青と言った人にもっと正確に伝えて欲しかったわといいたいわね“蒼い時もある”と」
「確かにそうだな。空を映すものだから、何よりも空で輝く太陽が映り込めばそうなるだろう」
「手で掬ってみても、透明だしね。井戸で汲む水となんら変わりない、でも違うのね」
「まあな……手で掬っても変わらない青さっていえば、雪がある」
「雪? 白いんじゃないの?」
「汚れのない雪は、青い。言い伝えでは処女の涙を雪に変えると青くなるって言われているな。実際青い雪が降る場所もある、かなりの高原地だけだがな」
綺麗といえば綺麗だと、ドロテアは笑う
「いつか、見に連れて行ってくれるかしら?」
「約束しよう」
会話もなく、寄せては返す波を見つめその音を聞きながら、これが今までの最後の空白だと感じつつ時間を流れるままにしていた。次に口を開けば、全てを語り全てを聞くことになるだろうと。
語りたくなかったわけではないが、聞かせる程の事でもないと
聞きたくなかったわけではないが、聞く理由もないと
二人はそうやって十一年を過ごしてした、互いにそれが間違いだとは思っていない
マリアは潮風を胸いっぱいに吸い込むと、胸元に抱いている骨壷を握る指に力を込めて、ドロテアに切り出した
『ドロテアには貴方が必要よ、マリア』
そんなネテルティの言葉を思い出しながら、マリアは覚悟を決めて話し始めた。
「私ねえ、何となくなんだけど」
「なんだ?」
「私、エドウィンの事好きだったような気がするの」
遺灰のみが入っている壷。あの時、妻を殺され、殺した相手を殺害した神父が寂しそうに、それでも愛しそうに両手で包み込んでいた骨壷。それを大事にしたところで、何もないのに……そう思った時もあったけれど
「……ふ〜ん。そうか、確かにいい男だったなあ。あんな良い男はそういないな」
彼はあの骨壷を手に包み込んでいたから、処刑場へ行けたのだろう。逃げなかったのは、その手の中の……彼がどれ程彼女を愛していたかは知らないが、死を受ける程愛したその女性の遺灰を手に抱いて、それまでの間の思い出を勇気とは言わないけれど、自分の力に替えて。そして彼は毒を飲んだに違いない。多分その毒は甘い味がしていたはず、そして苦しまなかったはず。だって、ドロテアが作ったんだもの。
「不思議よね、ほんの一日しか会った事ないのよ、生きている時限定だとね。死者に恋したって言えば変だけれど……死んでても生きていて欲しかった気がするわ」
それでもあの神父は、ブラミレースは勇気を振り絞ったに違いない。私は心の中で声を掛ける『勇気とは言わないけれど、このまま語りたいことを語らせて。その協力をして』まだ此処に残っている筈のエドウィンの魂に。
「魂は残ってるはずだから、喜んでるんじゃねえの。エドウィンもマリアの事好きだったって言ってたなクリシュナが」
「苦しいんでしょ? 死者になって生きていると」
「さあな。俺はアンデッドにはなった事はないからな……多分そうなんじゃないか。まあ、人間普通に生きていても苦しいもんだけどよ」
「でも何で好きになったのかしらね、自分自身でも解らないわ」
「解んないもんだろさ。そうでなきゃ、俺が何でエルストと一緒にいるんだよ」
「その例え、凄く説得力があるようで無いわね。前がオーヴァートだもの、あの人との共通点ほどないモノはないわ。レイは理由あったしね、単純な理由が」
“似たような境遇”それがレイとドロテアの共通点。
「それに……オーヴァートの事、好きじゃなかったでしょう?」
私が働いていた頃、ドロテアはオーヴァートのことが嫌いだったと感じていた。でも別れる頃は仲が良かった気がした、だから聞いた事がある“どうして別れたの?”なんとなくだとドロテアは言ったけれど……
「好き……か。オーヴァート……ヤツは最後の皇帝だ。アイツは最後の皇帝になるって決めたんだ」
「へえ……」
「人間が体の中で最も強い力を作り上げるって、どういう事だと思う」
「解からないわ」
「大体能力ってのは男の方が強い、体力も腕力も、ただ一つ……」
ドロテアは散るだけの花だと、オーヴァートが言っていた
「邪術に限っては、女の方が強い。邪術は体の機能を力に変える、爪が一定の長さ以上伸びない、髪が一定の長さ以上伸びない、そして……」
胎児を力とする
「胎児を力?」
「生まれる前の子供は胎児という。胎児はある程度成長すると母親と繋がって、母親から養分を貰い大きくなる。人間が身体の内で最も大きな力を使う作業、それが子を育む事だ。その胎児の成長のために使う力を使用できるようにする禁邪術法、簡単に言えば邪術が使えるようになる方法。ただ、胎児を使用するのは法律で禁止されているし、施せるヤツもそういない。知れたら施した者も極刑だ、そしてばれないようにする為には、身体の内側から禁法陣を描く必要がある。普通の胎児禁法陣を描くなら何人かいるが、他者に知られぬように身体の内側から禁法陣を描けるのは唯一人、オーヴァートだ。そしてこれは一度でも子を孕めば二度と施せない術だ。まあ、いいこともあるといえばあるかもな、普通の人より歳の取り方が遅いってか死ぬまで永遠に繰り返される体の仕組みになるから若々しいっていうのか、偶に中性的って言われるのは若いせいもある。その原因がこれだ。普通の体だとある一定の年齢で子供はできなくなるから」
永遠に子と別れを告げただけ
「……痛くないもの? その身体の内側から描く禁法陣って」
“やめておけ、マリア” 思い出す、その言葉を。「邪術って私でも使える?」聞いたあの日。少しでも手を出せば、行き着く可能性のあるその方法。
「痛くはない。そして、力を使う為には何時も妊娠状態にある。普通にしていれば、十月十日で流れていくが、邪術を使った量によりその日は早まる」
ドロテアの足の内側を伝う血が、何なのか。それは普通の血ではない、その血が流れだす時は陣痛と変わらない痛みが襲う。どれほどの疲労に苛まれていても、どれほど酒を飲んだとしても逃れられない痛みを伴って、力の“元”はその役目を終える
それが尋常ではないとヒルダは知っているから、洗濯をかってでた。あの子は司祭服を着て洗いながら祈るのだ、一人で
それは死者を送る行為
異様な赤と肉
「そう……でも、それだったら別れる必要なかったんじゃないのオーヴァートと。最後の皇帝なんでしょう? 最後になるんでしょう?」
聞けば答えは確実に返ってくる
それが自分にとってどれ程残酷な事であっても、ドロテアは答える
私が聞かなかったのは、怖かったから
私はドロテアに返す言葉がなかった。今もないけれど、昔よりは物事を正面から受け止められる
良いこと、悪いことで世界が回っていた日が懐かしい
でも戻りたいとは思わない
世界を知る事は残酷だ。無知は罪だが生きやすい
「皇帝の子じゃあ力に変えられないんだよ。必ず生まれてくる、そして……人間は一人フェールセンを産めば最早子は成せない身体になる。邪術も使えないのさ、全ての能力が使われる」
それなら別れるしかないのね
「それに利害が一致し過ぎた。俺はオーヴァートが好きだったのか、オーヴァートを利用していたのか、オーヴァートに同情していたのか段々わからなくなっていった。最後にはオーヴァートが壊れかけた」
思っていたより自分が冷静な事に気付く。よく周りの音が聞こえなくなるって聞くけれど、波の音が聞こえなくなる事は無い。痛いほどよく聞こえてきて、ドロテアの会話が聞き取れないくらいに。怖くて悲しくて聞きたくないから、波の音ばかり聞こうとしている。覚悟を決めたのに、それでも……サラサラと骨壷の中の遺灰が崩れるような音をあげる。息を飲み込み私は言葉を口にする
「元々壊れてるような人じゃない」
多分私笑っている、そう他人事のように考える。
どれか一つを選べればよかったんでしょうね、ドロテア。
でも全て選びたかったんでしょ
「オーヴァートって、人を不幸にするの好きなんだよ。自分が救われないから」
やっぱり最初は好きじゃなかったのね
「……」
「他人を不幸にするのは構わないけれど、自分が不幸になるのは嫌だ。ヤツは、人の望むものを与えないで有名だった、似合わない宝飾品を贈りつけ。それを身に着けさせ、その滑稽さをあざ笑うような男だ。そのヤツが俺を不幸にしようとしたら、何が一番だと思う?」
“最もあの左手が美しい”と言った男はそれを他人に見えないようにするために、ショルダーアーマーを与えた。本当にそれは美しかったから隠した、美しさが武器とまで言われたドロテアの美しさを隠す。
けれど結局は無意味だった。私は差し伸べられた左手を取って、自分の頬に持ってゆく。
折られている
折れと命じられたのはオーヴァート。オーヴァート以外には傷つける事もできないその指を
折ったそれを手袋につめてエルストの手をとった、教会で
エルストは婚約指輪も結婚指輪も買う金がないからと手製の懐中時計を送った
『花嫁は左手の薬指に指輪をはめる』
オーヴァートの元を離れて、再び美しさを手に入れた
あの挙式の日のエルストの表情を見たのはドロテアだけ、どんな顔してたのかしらね
そして今私はどんな顔してるのかしらね
それを折ったオーヴァート
ドロテアが心より望んだ邪術を与えない事
それは即ちドロテアに子を宿す事
誰よりもオーヴァートが執心したドロテア
それほどまでに他者を不幸にしようとしていたのなら、ドロテアに……
「“俺は他者の子を身篭っても、苦に思わない”そんな言葉すら出た」
「そういう性格だもんね……そっか……」
青い海の砂浜に青い雪を降らせることができるかもしれない、この頬を伝う涙。私は笑っていた筈なのに、何故涙が頬を?
皇帝はついにドロテアを不幸に出来なかったのね
だから、別れたのだ
あの皇帝は本当に愛していたんだ、ドロテアを
ドロテアの手からも涙が零れ落ちる
ああ、アナタの手はよく零れ落ちる
式の後、折ったそれを返されたオーヴァートが、一人“それ”に指輪を通して部屋においていたのを見た
仲が悪かった筈なのに、どうしてそうなったのか
世界で一番ドロテアに似合う、簡素でありながら美しい指輪
「オーヴァートはどっちに転んでも不幸だけれど、最後の皇帝になるって決めたんだ。今更、当時の小娘相手に変えられないだろう」
「どっちに転んでもって?」
「皇帝の体は消えない、腐らない、なくならない、ただ一人の力を除いては。皇帝は自らの体を消す為“だけ”に、次代の皇帝を産むのさ。オーヴァートで最後だ、オーヴァートの体を消してくれるものは誰もいない。皇帝の体は、嘗ての栄華の全てを記録している、皇帝の体を調べれば皇帝に匹敵する力を手に入れられる。あの体こそが最高の遺跡、最高の書物、最高の秘宝、地上やそれ以上の真理を知るための手掛かり、オーヴァートは地上の物質の構成論理を全て知っている、万能ではないから論理を知っていてもできないことがあるが、全ては知っている。そんなものが地上に残ったら人はどうする?」
オーヴァートを消し去る力はドロテアにすらないのだとしたら? この地上であの人を消す事が出来る人は誰もいないという事
「私だったら、お墓に入れてあげるわよ。死体なんて興味ないもの、好きな人でもない限り」
貴方は遺灰になって幸せね、エドウィン。そしてそうはならないのね……。そういう事なのね。
人はその体を引き裂いて叡智を手に入れるんだ
解からないのかしら? ギュレネイス皇国の首都にあるあの城の持ち主が
全てを手に入れた皇帝がそれを捨てた理由
知った所で、何一つ変わらないのに
私は自分の事を賢くはないと思っていた。それは当然の真実で間違いのない事実。でも、世界もそれ程賢くはないのね……そしてあの皇帝は、理解はできないけれど聡明なのだ
「そうだな、そうだったらいいんだが、人っていうのはそれぞれでな……。皇帝悲歌という歌がある、一般には知られていない歌だ。マルゲリーアが教えてくれた……」
ギュレネイスの雨は皇帝の涙
暖かな空気の中落ちる雨は後悔の涙
世界を支配せしめて何を後悔したのでしょう?
世界に生まれた事を後悔してしまったのでしょうか?
それとも罪を犯したことを悔いているのでしょうか?
フェールセンに落ちる雨
青空から落ち虹を幾重にもかけるその涙
救われてくださいと 救われたいと 救いたいと 救いましょう と
「皇帝は人間じゃないから、涙も出ない。どれほど悲しくても、嬉しくても涙がでない。そして冷たい体で人を抱く」
ドロテアの表情は変わらない。愛して“いた”というのは重く圧し掛かるのでしょうね。過去形になればなる程悲しいと。ああ、そうか……
「同情してた?」
だからエルストは何時も幸せなのね
「さあ、それ程可愛らしい男じゃなかった、でもなあ……ヤツは一度だけ言った。相手は誰でもいいから、誰の子でもいいから、お前の子が見てみたい、と。それを断って、力を貰った」
互いに愛さないまま別れてしまえば良かったのにね。でも愛さなければ別れる必要もなかったのかも知れないから、その完全な知識を持っていても結局はそんなものなのかしら。
やっぱり駄目な皇帝ね、あの人
エルストと、どっちが駄目な男かしら
**********
泣くことの出来ない皇帝の頭をかき抱き、その顔に涙を降らせて拒否した。
涙がこれほど似合わない男もいないと、口を歪めて笑ったつもりが、かすかに嗚咽が漏れのは
「同情しても救えない、利用はしたがそれも終わった、そして残ったのが好きだったと……だからサヨナラだった。ヤツを愛してやらないことが、最初で最後の優しさだったのかもな。オーヴァートが俺を好きでいるのは構わないが、俺は永遠に振り向かないと」
あの時は、あの時までは確かに好きだったんだと。ギリギリとかみ締めた歯の間から漏れる声が、バカだなと。
あの男の願いを叶えても良かったんじゃないか、と思った日もある。
至上最高の男が全身全霊をかけて愛すると確かに言った
男ならばそれは出来ただろう。そして自分は悲しまず憂いもなく生きていくことができただろう
復讐だってお膳立てしてくれて、欲しいといえばトルトリアも再建してくれて、当時死んだ者だって生き返らせてくれただろう
欲しい世界を作ってくれたに違いない
それらを全て否定して生きる事を選んだ
この地上で自分が最も愚かな人間だと泣いた日の事
人は自分が思っている程賢くはなく、そして他人が思っている程強くはない
それを痛い程知った
「さようなら。だから卑怯者になって行く、愛してい……“た”……オーヴァート。誰よりも、自分自身よりも」
「ドロテア」
虹彩のない瞳と、紫色の唇と
全く生気を感じさせないその表情が、唯一魅せたその声が自分の名前だった事を
誇りに思えばいいのか
愚かだったと悔いればいいのか
どれでもないのかもしれない
俺は自分自身の為に世界の均衡というものを破壊したのだけは事実だ
今ではオーヴァートを男として愛していない事だけは確かだった
言い聞かせる訳でも、思い込む訳でもない
それが真実なのだから言う必要もない
レイには過去を一つも言わないまま終わり
エルストには過去を全て言った
だから“どうだ”ということもないが
そして
「いいよ、永遠に抱き続けるよ。そして俺が君に子供を作れなくなったら捨ててくれ。捨ててくれていい、殺して野ざらしにしてもいいから結婚してくれないか」
随分と色気のないプロポーズに聞こえるかもしれないが……俺にはそれで良かった。その男がまさか自分と同じ事をして現れるとは思いもしなかった、思ってもみなかった。
数え切れないほど寝て、数え切れないほど死んでいった。本当はエルストが花街の女に“貴方の子よ”と子を押し付けられて、困って帰ってくるのを少し期待していたような……気がする。
それももう叶わないと知ったが、仕方ないだろう
そういえば俺は随分と都合よく解釈していた
殆ど外れずに邪術を使える事を忘れていた
そんな確実に胎児は作られないのに……な
まだ俺も甘いという事か
**********
ドロテアの左手から手を離して、私は自分の腕で顔を隠す。
「そっか……」
そしてエルストは全てを知っているのね。エルストは知らなければいけない事だものね
「なんとなく別れたんでしょう? あの変人皇帝と」
「ああ、そうだ。何となく別れたんだ」
「あの男にはソレで充分よ」
「そうだな」
「憎かったり、なんとも思っていない男の子じゃあ駄目だ」
そうやって生きられたら楽だったでしょう
「……だからさ、愛しているんだよエルストを。そして罪悪感を抱いて使うんだ、邪術を」
愛している男の子を殺して後悔しながら生きていくと、決めたのだから
だからアナタは“散るだけの花”なのね……ドロテア
そうオーヴァートが称していたわね
そういう事だったんだ
散るだけの花は美しく
毒を知る花だった
「アナタは後悔しているの?」
「ああ、している。人生はたった一度だ。全く後悔しないで生きるより、一度は絶望よりも深い場所にある後悔を知らないと解らない事もある」
波風のない生涯でも良いかも知れないけれど、それは選ばなかったんだ。そうね、心の底からの後悔なんてした事ないわよね……普通は。
「それで知った事があるのね」
潮風が頬の涙から熱を奪ってゆく。私はまだ泣きたかったけれど、ドロテアが泣いていないから泣くのを止めようと……
「……行こうか、マリア」
「ええ、行きましょう。アナタの後悔の結末を見届けるわ」
でも上手く止めることが出来なかった。
散るだけの花ならば、散るまで大いに華麗に咲き誇ればいい
その花に降り注ぐ雨はギュレネイスに降る雨と同じなのだと
フェールセン
その男の涙を糧に荘厳に咲き誇れ
第八章 完
【赤い川は海に還りその花は散るのみだと】
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