君が消えた六月三十一日
[26]水没都市【4】
無常にそしてこちらを焦らすような映像を映し出すモニター。
それは悪意とその他の負の感情から、私たちにナターリアの姿を映して見せた。私たちがよく知るナターリアの姿。だが美しいアイスブルーの瞳は虚ろで、恐怖が滲む蒼い水に同化しているように見えた。
地上ではない蒼い水中にいることは分かるが、それが何処なのか分からない。
「ナターリア!」
私が画面に向かって叫んだところで聞こえるはずもない ―― 聞こえるはずがないのに、ナターリアらしき物体は微かに反応を示した。
頭を小さく震わせたのだ。
私は再び声を張り上げ「ナターリア!」と叫ぶ。そうすると、すぐにナターリアは反応を示した。今度は目蓋を微かに震わせて。金色の睫が確かに。決して水の流れではない。
私と看護師は顔を見合わせた。
ナターリアは私の声が届く場所にいる。生きていると思いたいが……そんな希望は持たなかった。何らかの事情により死ねないでいるのかもしれない。
生と死の狭間で微睡む ―― 本人が望んでいるのならば、手出しはしないが、もしも現状が死を切望する程の恐怖、あるいは苦痛に嘖まれているのだとしたら、助けることが私にできる唯一のこと。
美味しいボルシチを食べさせてくれたお礼としては、まったく足りないが!
「ナターリア! 死ねないの? 死にたいのなら、少しでいい、口を開いて、その白い歯を見せて。早く、画面が!」
画面が徐々に小さくなってゆく。私の声が聞こえたナターリアは、微かに唇を開き、画面は黒くなった。電源を入れてもノートパソコンは動かず、念の為にバッテリーを交換したが、無駄であった。
「習っててよかったロシア語」
私は立ち上がり、ナターリアがどこにいるのかを捜すべく……
「みず、うみ」
擦れた声を上げたのは、いつの間にか意識を取り戻した柳生。
柳生は画面が消える前に意識が戻り、画面を見て、先程崩落に巻き込まれた際に、黒い粘着質を突き抜け見た光景とそっくりだと。
言っていることは辻褄があう。
黒い粘着質な物体の下というのは、私の声がぎりぎり届く範囲だろう。何よりここは「水没都市」
私は湖面に近付き、黒い物質を人差し指と中指で掬い、親指で撫でまわす。
少し不思議ではあった。粘着質なそれ、水よりも重いように感じられた。だが水よりも上にある。
コップで湖面の黒い物質をすくい、ラベルを剥いでからペットボトルの水を半分ほど飲み干し、それを注いでみた。それはやはり水の上に層を作った。油のような物なのだろうか?
柳生を見ると、再び意識を失っており……頬を殴って意識を強制的に取り戻したかったのだが、バイタルサインがヤバイことになっていたので。
私は黒い湖面を前に考えた。
崩落に巻き込まれたみんなは、一時的に映し出されていた画面では生きていた。ということは、この黒い物質とその下にある蒼い水に身を沈めても死なない――
だが【そのせいで】ナターリアは死ねないとも考えられる。でもナターリアは待っている!
「……? ってことだから、あれ? もしかして」
私は水と黒い物質の二層になっているペットボトルを掲げるようにして見てから、脳内を巡った案を試すことにした。
まずはペットボトルの中身捨て、上の部分を切り”入れやすくする”
そして湖を覆う黒い物質を再度汲み、剥いだラベルを被せる。次に切り取った部分を漏斗のようにして使い、名状しがたいフィギュアから滴る血を集めた。
黒い物質と集めた血は、どちらも「黒」だが、肉眼でも分かるほど色が違った。湖面を覆っている物質のほうが黒が濃い。集めた血は少々薄い。
もちろんルッツの血が混じっていない部分から採取したので、人間の血液などは混じっていない。
腕まくりをして黒い粘着質の湖面に腕を突っ込むと、体が持っていかれそうになったので、大慌てで腕を引き抜く。
これらを確認し水が入っているペットボトルをもう一本開けて準備は完了。
まずはラベルで覆われいる黒い物質に水を注ぐ。もちろんラベルで混ざることはない……はずなのだが、すぐに上下の層が逆転した。水【が】ラベルをすり抜けるとは考えられないので、黒い物体がラベルをすり抜けて場所を交換したと考えるのが普通だろう。
水と黒い物質を捨て、ラベルを拾い上げてから、また黒い物質を汲みラベルを乗せ、今度は名状しがたいフィギュアから採取した血を注いだところ、上下の層に動きはなかった。
これで見当がつき―― 見当がついたことは以下。
腕を黒い物質に沈めたら、体を持っていかれそうになった
→ 水だけではなく、水分を引き込む性質があることを確認するため。皮膚程度では簡単に奪われる……ただ奪われるだけではなく、水分と共に引き込まれるのが特徴
名状しがたきフィギュアの血を注いだ理由
→ どうしても尖塔に辿り着きたかったので、黒い粘着質で覆われた湖面を渡るための道具が欲しい。名状しがたき物資には名状しがたき物体をぶつけるのが、もっとも名状しがたき最良の解決方法なのだ! という理論の元に行動してみた。
こうして私はアンディとブエノスアイレスから来た男たちが向かった尖塔へと向かう決意を決めた ――
もっともこの時点で大きな勘違いをしていた。ナターリアが沈んでいる蒼く死ではない恐怖を感じさせる水のような物を、完全に「水」であると思っていたこと。あれはただの水ではなかった。
というわけで名状しがたきフィギュアを、名状しがたき筏に変える作業に取りかかりました。
安定を保つことと浮きの装着。
浮きは残っていた浮き輪を名状しがたきフィギュアの腕や折り曲げた足に結び付ける。関節がないので、それなりに。
腹に座り、背中を水面に押しつけるようにしたので足がどうにも邪魔です。いや必要なんですよ、浮きを括り付けるためには。でも股関節のような物があり、背中側に回すことができなくて。そりゃあ関節を外すとかできたらいいんでしょうが、私にそんな能力はないので、股関節の辺りナイフを突き刺して硬いものを捜しだし、その穴に拳銃の銃口をねじ込んで撃ってみた。上手く股関節が砕けて背中側に回すことができ、浮きは完成!
その頃には夕方で、かなり遅い時間になっていた。尖塔に向かうのは明日にして、今日この場でどのようにして過ごすのか? が問題となった。
テントを組み立てるのは簡単だが、テントの中に入ると外の気配が分からないじゃないですか。かといって、吹きさらしで過ごすのは辛すぎる。特に意識不明の残念な東洋人仲間の柳生もいますし。風に当たり続けると、本当に疲弊するんだわ。
危険を承知でテントを立てることに。
看護師と二人で急いで骨組みを交差させて……最近のテントは慣れると十分もしないうちに完成するよ。
二人で柳生をテントの中へと運び込み ―― 私が名状しがたき筏を作製している間に、看護師は柳生の体を綺麗に拭いていた。
私は名状しがたき筏に大事な部位を取り付けていなかったことに気付き、作業へと戻った。大切な部位とは、係留用のロープ。尖塔に接岸させた際に名状しがたき筏が勝手に流れていかないようにする為のもの。
元名状しがたきフィギュア、現名状しがたき筏を見つめ、
「目からロープ入れて、もう片方の目から出したら円形になるんじゃね?」
ナイフを握り、目を刳り貫く作業に取りかかった。
その時の私を語る人は誰もいないのだが、間違いなく名状しがたき殺人鬼であっただろう。人間じゃない死体を損壊しているだけだが。人によっちゃあ、そっちの方が余程おぞまじいと言うかもしれない。
でも調査の為には必要なんです。助けに行くんです。殺しに行くのです!
名状しがたき筏……になる前、黒い血液のようなものが腐敗臭すると書きました。この腐敗臭ですが人間のものとは随分と違いました。どちらかというと獣に近い。
私ごとですが、私結構検死官向きだと思います。頭は馬鹿でどうしようもないのですが、私、腐敗臭に強いんです。特に動物の死体が腐敗している匂いが。獣臭と腐敗臭が入り交じったものが。目に染みる、肌から忍び込んでくるような匂い。あの精神に危険を伝え、嗅ぎ続けていると確実にSAN値が削られてゆく……自分語りをしている間に眼球くりぬき完了! もしかしたら何かに使えるかもしれないので、先程先端を切り取ったペットボトルに入れて、アウトドアの必需品であるラップで覆い輪ゴムで縛る。
そして空洞にロープを入れたら……耳から出てきた。
私としては反対側の目に向かって押しているつもりなのだが、何故か出て来るのはロープを入れた側の耳。
目を刳り貫いた空洞を覗き込んでみたら、ちょっと意識が遠のいた。グロテスクなのではなく、なんか意識が。
でもまあ、目から入って耳から出ても輪を作ることはできるので深刻には考えず、端を縛って完了。
仕事を終えた私は明日の為に体を休めることにした。
私もテントの外で湯を沸かして、誰も居ない(名状しがたい死体とか、同級生の死体あるけど)大自然を満喫しながら体を拭き、リュックサックから食料を取り出して温める。
レトルトご飯最高! レトルト味噌汁最高! ゆかり最高! それと蛋白質を取るために……秋刀魚の蒲焼き缶を開けました! 鯖缶はまだ取っておく!
食うだけ食った私は歯を磨き、柳生に付き添うから食事してくるよう看護師に言い、眠い目を擦りながら……。
結局のところ、私も看護師も疲れきってしまい、柳生に朝まで付き添うことはできなかった。寝袋の中は楽園だった。
先に目を覚ましたのは看護師で、私のことを起こしてくれた。柳生の意識はまだ戻っていない。
私は名状しがたき筏を確認してから朝食を取り、リュックサックに必要と思われる荷物を詰め込み、オールを持った。
なんでオールがあるんだ? と聞かれそうだが、何故かあったのだ。
アンディやブエノスアイレスから来た男、柳生と看護師には心当たりがないので、死んだ誰かが持って来たのだろう。
多分、あれだ。
ホラー映画のように逃げる際にボートのエンジンが壊れることを想定して、持って来たに違いない。そんなホラー映画、存在しているかどうかは知らないが。
もちろん最初にオールを見つけていたよ。それがなかったら名状しがたき筏なんて造りませんよ。
私は名状しがたき筏を黒い物質に浮かべ押し出す、下層引きずり込まれる前に飛び乗り尖塔を目指した。ただオール使いが下手クソで、意図した方向には進めず、足場があるところから随分と離れた場所に《運良く》辿り着いた。
そうね、運良く ――
……前回もそうだが「運が良かった」と感じることは、大体ロクなことにならない。だからさ、そろそろ私も覚えようよ!
アンディとブエノスアイレスから来た男が使用した入り口に向かうべく、壁伝いに進んでいた途中、壁が突如消えてウオータースライダーの如き……そして名状しがたき筏が生き返った!
あんなに苦労して筏にしたというのに!
ちなみにですが、壁が消えたのは名状しがたき手相プリントを壁にあてると、壁が消える仕組みになっているためです。
それはさておき、私のこの怒りを分かってくれるであろうか?
苦労して足の骨らしきものを探り当て(ナイフでメッタ刺し)慣れない拳銃を手に、骨を砕くために弾倉が空になるまで打ち込み(フルオート)、浮き輪を縛りつけて、係留用のロープを括りつけるために猟奇殺人者のような真似までしたというのに! あっさりと生き返りやがって! むしろ死んだふりしやがって!
いや、確かに止めを刺さなかった私も悪い。だが急所がどこなのか見当もつかない。
だが努力が無駄になったこと、浮き輪を四方八方に吹き飛ばしやがったことに、未だかつて感じたことのない憎しみが!
「殺してやる!」
そして私は胸元から、サバチーが最も好むメーカーの鯖缶を取り出し蓋を開けた。
「サバチー! さばかん!」
高らかに掲げた鯖缶。そして手を覆う、うじゅるうじゅる感。
筏を辞めた物体はサバチーに恐怖する。だが私は逃がさない。サバチーが正に食おうとした鯖缶を、筏辞めたヤツに投げつけた。
直線でぶつかる鯖缶。鯖缶自体のダメージはないだろう。だが……鯖缶の汁を浴びた筏辞めたヤツは、サバチーに舐められるかなにかして、今度こそ絶命した。
「いいぞ! サバチー! 頼みを聞いてくれたら鯖缶一杯食べさせてあげる。うん、頼み聞いてくれたら。あんまりたくさん持ってこられなかったし。え? 寮にはあるのかって? あるよ」
瞬時に大学の寮へと戻った私は、協力依頼を取り付けて半分前払いということで鯖缶を二十個ほど開けてから、実家に電話し、
「アメリカは怖いところだって聞いたよ。大丈夫かい?」
「大丈夫だってばあちゃん。ってか、ばあちゃん四ヶ月前に死んだでしょ。彷徨ってるのはいいけど、電話に出ちゃだめだよ」
鯖缶の補充を依頼して、シャワーを浴びて、
「行くよ、サバチー! …………どこに行くのかって? さっき私がいたところ」
サバチーと共に尖塔へと引き返し……なにこのカサカサ感。
「********(これはばななとおなじあつかいにすべきである)」
「チーカマは、もとよりおやつにはいりません!」
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