水精姫の選択
【22】
いつまで経っても戻ってくる気配のないツァクマキエルを心配し、唯一「戻って来なくていい」そう言った紫の瞳のセマクィエルがフリアエの元へと向かった。
セマクィエルは天族が誇る風を起こし操る力には長けていないが、育ててくれたフリアエの話をよく聞き「人間」がどれ程怖ろしいのか? 四人の中でもっとも理解していた。
―― 恐いのは魔人ではない人間だ。そう魔人は人間なんだ。人間は誰でも魔人になり得る。私は天族になれず、セマクィエルはハイエルフになることはできないけれども、人間はそうではないのだよ ――
他の三人はフリアエの話に興味を持っていなかったこともあり、すぐに忘れてしまったが、力の少ないセマクィエルはそのことを忘れたことはない――人は誰でも魔人になることができる――それはセマクィエルの恐怖の本体ですらあった。
遥か上空から大地を見下ろしながら自由に移動することのできる天族。翼はあるがそれを動かしているのではなく、風を起こして翼で方向や高度を決めている。その為、風を起こす能力に劣るセマクィエルは四人の中でもっとも遅く低かった。
「どういうことだ?」
セマクィエルは眼前に広がる光景に声を上げた。見下ろす山の姿が変わってしまっていた。フリアエの元を飛び立ち通過したとき木々に覆われていたのだが、いまは黒い炭と灰に覆われてしまっている。
セマクィエルは空中静止しあたりを見回す。しばらくその場に留まっていると、遠くから新しい「焼けた匂い」が風に乗って届いた。自然の風に運ばれてきた匂いの元があるであろう方角をセマクィエルは注意深く見た。
向かおうとしている方向から東に九十度ほど逸れた場所に、雨を降らせる重い灰色の雲の壁と見間違う程に分厚い煙の柱が立ちこめていることに気付いた。
煙には自然の焼けた匂い以外の物も混じっていた。
「油か」
人間以外使うことのない夜の暗闇を灯すための燃料の匂い。人間が何かを大量に燃やしていることはわかったセマクィエルだが、目的はわからずそのまま空中静止していた。
「……鏡?」
足元の爪先あたりが光ったことに気付いてセマクィエルは視線を落とすと、そこに肌に炭を塗りたくった人間たちが無数にいた。
光ったのは腰に下げていた剣の柄を覆っていた布が炭になった木にひっかかり、柄が露わになり日の光が反射し、それをセマクィエルが鏡と勘違いしたのだ。
人間たちに気付いたセマクィエルと、気付かれたことを知った人間は互いに行動を起こす。
「火をかけろ」
号令を受けて人間たちは火をかけ遠ざかる。号令をかけた「魔人」が生焼けの高い木に飛び乗り、槍の穂先をセマクィエルにむけた。
「ヴォルフラムの息子だ」
「テオバルトか」
妻とともに各地を放浪し、異形たちを狩る男。父であるヴォルフラムが殺し過ぎて”殺すより見つけるほうが大変だ”と零している男。
「名前を知っていてもらえて光栄だ」
セマクィエルは足元から立ち上る煙に巻き込まれまいと上昇し、煙と魔人テオバルトから逃げようとした。だが上昇したセマクィエルが逃げる相手が増えた。
地上から無数に射られる矢からも逃れなくてはならなかった。
セマクィエルを取り囲むように弓兵が配置されており、彼らが一斉に攻撃をしかけてくる。
上に向けて射るので威力はなく、セマクィエルが起こす風でなぎ払えるが、それにも限度がある。
人間が放つ矢は多く、空が矢で埋まるほど。
セマクィエルは矢を地上に叩き付けて兵士を傷つけるが、数が多すぎ次第に劣勢になる。
生焼けの木に立つ魔人テオバルトは動こうとはせず、矢に傷つき徐々に力を失ってゆくセマクィエルを見上げ、見つめ、そして見下ろし続けた。
セマクィエルの命を奪ったのは魔人でも炎でも煙でもない。
「諸君、よくやった」
ただの人間。
セマクィエルは矢に覆われすでに痛みを感じることのなくなった体を大地に降ろし、フリアエの言葉を思い出しながら目覚めることのない眠りに落ちた。
テオバルトは部下に兵士を任せ、息絶えたセマクィエルを肩に担ぎ、墓穴へと向かった。その背を見て兵士たちは自らに大きな自身を持った。
数で勝てる――
◇◇◇◇◇
その頃、パルヴィはイトフィルカと共にクラントルの背中に乗り、水晶の谷を目指していた。
向かう途中では誰もなにも語らなかった。
パルヴィは周囲の水晶の大きさに驚いたものの無言。イトフィルカもクラントルも道中、なにも語りはしなかった。
目的の場所で降ろされ、
「下りは徒歩でも平気だろう」
クラントルは軽快に走り去る。水晶を蹴る半身馬族の蹄は、パルヴィの知る馬とは違い、軽く音を奏でていると言うに相応しかった。
澄んだ音に耳をかたむけていたパルヴィに、イトフィルカは怖ろしい言葉を投げかけた。
「お前だけがヴォルフラムを殺せる。それがお前の瞳に宿った真実だ。お前の瞳は呪われている」
ハイエルフの言葉に驚き、パルヴィは呪われていると言われた瞳を見開く。
イトフィルカはヴォルフラムに語ったことを告げ、そして呪いについて明かにした。
「私がお前に施した呪いは”もう一つの条件”が揃えば、ヴォルフラムの呪いを解くことができる”呪い”だ」
イトフィルカはヴォルフラムを自由にするつもりはなかった。
それが恨みによるものなのか? 魔人に対する執着なのか? そうではない”あり得ない感情”なのか? 彼女はそれらを時間に織り込み見目を背けることにした。
彼女にはそれだけの時間があるからこそ出来る芸当でもある。
「もう一つの条件……ですか?」
「そうだ。お前がヴォルフラムを愛し、刺せばあの男の呪いは”死”という形で解ける」
パルヴィの瞳の色が時の変化とともに変わる。
イトフィルカはヴォルフラムを呪ったが、同時にもう一人呪った相手がいた。それはいま二人が立っている最も深き谷に、イトフィルカの半身と共に落下していった水精アマーダ。
アマーダは彼を愛し、ヴォルフラムは彼女を利用した。利用されていることを分かっても、なおヴォルフラムに従ったアマーダであったが、最後はここでヴォル
フラムから声をかけられることなく、イトフィルカの半身と共に切り裂かれ、悲鳴を上げることなく絶望とともに谷底へと落ちていった。
その時イトフィルカはアマーダを呪った。
彼女が転生し、ヴォルフラムに再び殺されるように――
だがヴォルフラムを不老にする必要はない。彼にも同じ”人間として”転生するように呪いを施せば、長寿であるイトフィルカはその現場を見ることができた。
だが彼女はヴォルフラムを不老にした。それはアマーダを呪った真の理由と繋がる。
ではパルヴィはアマーダの生まれ変わりなのか? 問われればイトフィルカは違うと答える。
「私がグリューネヴェラー公爵を殺す……そんなの無理です!」
「刺せば死ぬ。あの男にしては呆気ないほど簡単に。だがその為にはあの男を愛さねばならない」
「……どうして、そんなことを……私が」
「お前の意見はもっともだが、答えてやる気はない。お前はヴォルフラムの呪いを解ける。お前以外ヴォルフラムの呪いを解くことはできない。この呪いを施した私、イトフィルカであってもな」
―― 私から離れた私が自由になり、そしてアマーダに囚われて人間の身になって ――
呪った本人が呪いを解くために。呪われた相手が、呪った相手を呪うために。
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