呪解師のテオドラは目的地に向かう途中、中流の家庭が並ぶ通りで雨に降られてしまい、軒先を無断で借りて雨宿りをしていた。
軒先を借りている家は周囲と似たような、ごく有触れた石造りで白壁、窓は小さめで出窓には赤い花の生けられた花瓶が置かれ、その奥にはレースのカーテンが掛かっているのが見える。
『部屋数は多く見積もっても九部屋、一部屋の造りを大きく取っているとすると六部屋くらい』
テオドラは足元を流れる、一時的な小さな流れに映る窓を見つめならそんな推測を立てて雨が止むのを待っていた。
03 ホワイトノイズ
既に夕刻近かったことと、突然の雨による暗さで窓から徐々に明かりが漏れ始める。
窓とカーテンの向こう側を楽しそうに通り過ぎる子供達の影と漏れ聞こえてくる楽しそうな声と雨音。
「旅の方、よろしければ雨が止むまで我が家で休まれてはいかがですか?」
軒先を借りている家の道を挟んだ向かい側の家に住む女性が声をかけてきた。
「ありがたい言葉ですが、もう直ぐ雨も止むと思うので結構ですよ」
テオドラは断ったが、女性がどうしてもと聞かないので、相手に聞こえない程度の溜息をつきつつ、道を小走りで横断して招きいれられた家に上がる。
家の中は殺風景だった。
窓際は並びの家と同じようにしているが、家の中は人が住んでいるとはとても思えない閑散とした有様で、テオドラは家の中に荷物がないかを探すも、目に入る範囲には家財や荷物がつまっているような箱は一切見当たらなかった。
「引越しされるのですか?」
雨の湿気を含む外の空気よりも冷たさを感じさせる室内。
「いいえ」
女性の声に含まれている冷たさが室内の温度を下げていると、テオドラは疲れたような唇から発せられる言葉を眺める。声からもたらされる冷たさは、濡れるような冷たさではなく乾いているような寒さ。
「では、これから荷物が運び込まれるのですか?」
「いいえ」
彼女がテオドラに何を求めているのか?
「雨宿りなさってた家……」
女性は含みを持たせて会話を切る。
話を聞きたい素振りを見せて欲しいことを理解して、テオドラは弱くなり始めた雨音を聞きつつ瞼を閉じる。
「雨宿りしていた家が何か?」
「幸せな家族です。優しい旦那さんに綺麗で気の利く奥さん、利発な息子さんに可愛らしい娘さん」
「雨宿りしている時にも、楽しそうな声が壁の向こう側から漏れ聞こえていましたよ」
「私、ラブレーさんを殺しました」
濡れた靴から染み出す水が床板の色を濃くするが、暗く明かりの灯っていない室内では僅かな違いなど見分けはつかない。
「ラブレーとは誰ですか?」
「向かいの旦那さんです」
暗い家に差し込む唯一の明るさをもたらす向かい側の家の主は、この家で殺害されていた。
「理由はありませんけれども、幸せそうな家族が憎くて」
冷たさ以外の感情を感じさせない女性は、その僅かに届く明かりを眺めながら呟いた。
女性の声に嫉妬も憎悪もテオドラには感じられなかった。
女性はラブレー氏を殺害したと同時に、全ての感情を喪失していた。一時的なものかどうか? テオドラは女性を見るだけで、そのことに関しての判断を下すことはできない。
女性の感情は《呪》ではない故に。
「ラブレーさんが好きだったわけでもありませんし、ラブレー夫人が嫌いだったわけでもありません。嫌いもなにも……」
女性はテオドラに話しかけるような口調で、だがテオドラを全く無視して話続ける。
女性は裕福な夫と死に別れ、一生不自由しないほどの遺産を手に入れた。住んでいた街では遺産に群がってくる有象無象に嫌気がさし旅をすることにした。
金には不自由ないので、滞在中は家を一時的に借りて住み、ある程度滞在するとまた旅に出ることを繰り返す。
「滞在先で幸せそうな家族をみると、殺したくなるの」
「そうですか。雨が止みましたので、お暇させていただきます。ありがとうございました」
テオドラは女性に背を向けてドアノブに手をかけると、背後に女性が立ち、その手に手をそっと添えてきた。
「今のお話は嘘ですからね」
女性は《笑顔を上手く作った》つもりだったのであろうが、その顔は闇夜にも溶けることの出来ないほどにどす黒く、テオドラ以外の人間が見たら叫び声すら上げられずに腰を抜かすような《笑顔》だった。
「そうですか」
テオドラは女性の手を掴んで引き離し往来に出た。
雨上がり特有の土の匂いを含んだ、生臭さにも似た空気を吸い込んで依頼者の下へと歩き出す。
同時に背後が明るくなる。女性が部屋に明かりを灯したようだったが、テオドラは振り返ることなく歩き続ける。
依頼者の家で一週間ほどの仕事を終えて、朝と昼の間の中間の時間に依頼者のもとを辞す。
頭を下げ続けている依頼者をも振り返ることなく、晴天を仰いで外で食べられる食事を買い、公園のベンチに座りもう暫くしてから食べようと膝の上において青空を楽しむ。
「おとうさん! こっち!」
軒先で雨宿りをしていた時に聞いた子供の声が近付いてくる。父親と母親と男の子と女の子。
父親は飲み物の入った篭と敷物を持ち、母親は手料理がたくさん詰められているだろうバスケットを持ち、男の子はリュックサックに公園で遊ぶ道具を詰め込んで、女の子はお菓子の入った飾りのついた小さな鞄を持って母親と手を繋いでいる。
テオドラの側を家族が通り過ぎ、声が小さくなってゆくのを聞きながらテオドラは買った弁当の包みを開く。
食べ終えてベンチから立ち上がり、屑などを手で払いのけて包装紙をゴミ箱に捨てる。
あの日来た道を通ると、あの女性が居た。
髪を振り乱し叫ぶ女性を、人々は無視して作業を続けている。
「私がまだ借りている家に、勝手に人が」
女性の叫びを無視し《通り抜けながら》女性が借りている家に次々と荷物が運び込まれてゆく。
往来に椅子を置き、荷物を運び込んでいる人達に指示を出している妊婦。
女性はテオドラに気付き半狂乱のような素振りで近寄り、妊婦を指差しわめき散らすが、その声はやはりテオドラ以外には聞こえない。
青空を彩る雲の端に隠れた月のごとく、殆どの人の目にとまらず、声も聞こえない女性の訴えにテオドラは心中で尋ねる。
― この家、気に入ったんですか? ―
「ええ、とっても気に入ったのよ」
テオドラは値踏みするように《新しい正式な主》を迎え入れた家を眺める。
耳元では女性がわめき続けていた。
「なにか用事でも?」
女性の声を消しさるような男性の声がテオドラの背後からかかる。
「この家を買われた方ですか?」
「そうですよ。あなたに何か関係でも?」
文句でもあるのか? といった風にテオドラに喧嘩腰に声をかけてくる男性に、
「なにもありませんよ」
テオドラは笑いを返した。その笑顔に男性は驚き半歩だけ下がる。その男性の脇を抜けてテオドラはゆったりと歩き出す。
女性は声を唯一聞いてくれるテオドラに追い縋る。
― そろそろ別の家を借りられたら如何ですか? 幽霊さん ―
テオドラは《女性の幽霊》を見ることなく話しかけた。
「私はあの家が気に入ったの!」
《女性の幽霊》はこの世に多種多様な未練を残し、幽霊となったはいいが本人が望むような《幽霊》ではなかった。
《女性の幽霊》が望んだのは、他人の不幸。
自らがとり憑き生きている者に害を成す。《女性の幽霊》は死ぬだけで簡単に悪意と憎悪で望むような災厄を人々に与えられると勘違いしていた。
それらを望み彼女は自殺する。
彼女が自殺にいたる経緯は、テオドラに話した身の上の結果だった。《女性の幽霊》は自殺して、生きていた頃以上に無力な己に愕然とし、生きていた頃と同じく現実から目を背ける。
他者を自分が苦しめているという空想よりは妄想。
何もすることの出来ない幽霊が唯一満たされる無害で憐れな妄想。
生きていた時と違うのは、女性を諫めるものが誰一人存在しないこと。
死後妄想を続ける彼女は、ついには《死》という事実すら己の中から追いやり空想の世界に浸り続けた。
― あなたに隠し資産があり、私に依頼するのでしたらあの家に《呪》を施しましょう、あなたとあの家を一体化させましょう ―
《女性の幽霊》の全てが歪む。
テオドラの意見を聞き入れるということは、かつて望んだ《災厄》をもたらす存在となれることを意味し、それは同時に己の中から消し去った《己の死》を認めることともなる。
「テオドラ、遅かったな」
荷馬車三台を率いてフラドニクスに戻ってきたテオドラを出迎えたのは、ディーン。
「遠回りしてきた。ムーラシーを通って」
ディーンは召使に荷物を運び込むように指示を出す。
「そりゃまた随分と遠回りしてきたな」
「私には興味はないけれど、ディーンは興味あるだろう? 昔の布だ。やるよ」
運びこまれたのは布。
「この量でこの保存状態か、一財産だな。この商標は、フレスト商会か。ムーラシーを拠点にしてた名門商会だな」
「フレスト商会について書かれている本はある?」
ディーンの書架をあさりフレスト商会の項目に目を通す。
そこには《女性の幽霊》の名が確かにあった。それだけを確認して、テオドラは再び書架に書を戻して何事もなかったように自宅へと帰っていった。
《終》
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