悪意の肖像
 呪解師テオドラは立ち寄った街で、悪夢師ローゼンクロイツと再会した。
「お久しぶりですね」
 小奇麗な身なりをしていることを確認して 《返せ》 という意志表示として手を伸ばす。
「久しぶりって程でもないような。何だよ」
 テオドラの極印をかくしている手袋つきの手を、ローゼンクロイツは指で弾く。
「お金返してください」
「今手持ちはねえよ。でも少し待ってりゃ仕事が終わるから手に入る」
 半日もしないうちに結果が出ると言うローゼンクロイツの言葉を受けて、
「じゃ、待たせていただきます」
 テオドラは木陰にあるベンチに腰をかけて、《金が手に入るまでの担保代わり》 に取り上げた本の頁をゆっくりと開いた。


13 君の手をとり奈落の底へ



 テオドラは何度か足を組みなおし、本を読みすすめる。
 本は 《悪夢師》 だけが持つ本。《悪夢師》 以外が持っても何の問題もないが、持ったところで意味もない。
 呪解師のテオドラは悪夢師の操る 《悪夢の呪》 を解くことはできるが、悪夢を操ることはできない。
 悪夢師とは自らが 《這い登ることのできぬ、奈落の底に落ちるかのごとき悪夢》 を視て初めて悪夢師となることが出来るとされている。
 占い師が 《占い師》 と名乗れるようになるには、自らの死亡時期を視て始めて名乗ることが許されるのに近い。多くの占い師が自らの才能を封じ込める切欠となる、自らの死との直面。
 悪夢師は悪夢を見る、もしくは見せられる。 その 《悪夢》 が闇の様に暗く、底の見えぬ谷底のように深ければ深いほどに悪夢師の力は増す。悪夢師の才能とは、憎悪や憤怒、絶望を何処まで突き詰められ、それを持ったまま正気を失わないでいられるか。
「熱心ですね」
 突然話しかけられたテオドラは、声のした方を見上げる。
 そこには仕立てのいい服と、人好きする笑顔を浮かべた男性が立っていた。テオドラは栞を挟み、本を閉じてタイトルを男性に見せる。
「《悪夢師》ですか。隣に座ってお話してもよろしいでしょうか」
 テオドラは立ち上がらずに、
「どうぞ。そして私はテオドラと言います」
 挨拶をした。
「これは申し遅れてすみません。私はブルーノと申します」
 隣に腰をかけた男は、テオドラの持っている本のタイトルに強い興味を持っているようで、世間話をしながらもテオドラの膝の上にある本に何度も視線が向かう。
「ブルーノさん、この本に興味がおありですか?」
 ブルーノの眼前に本を近付けながら、テオドラは尋ねる。
 本で半分隠れた顔から、感情の入り混じった表情が見て取ることが出来た。無言のまま動こうとしないブルーノに、テオドラは尋ねる。
「悪夢師になろうとしたが、ならなかった。違いますか?」
 この本に興味があって近付いてきたということは、この本がどのような本なのか知っているに他ならない。
「近いのですが、大きく違います。私は悪夢師になれなかった」
 日が傾き始めた空を見つめながら、テオドラはブルーノの有触れた身の上を聞いていた。
 ブルーノは東の国に住んでいた。物心が付いたころから貧民街に一人で住んでいて、両親の顔も名前も知らなかった。ある日現れた身なりのいい男に手を引かれ、ブルーノはその屋敷で悪夢を操ることを教えられた。
 ブルーノは 《みせられる》 悪夢に耐え切れず、生命の危険を感じて金目の物を持って屋敷から逃げ出した。悪夢の術は極められなかったが、いつの間にか身についていた人並み以上の学識と着ていた洋服の仕立ての良さから簡単に仕事に就くことができ、そこから普通の人生が始まった。
 自分の半生をテオドラに語るブルーノだが、それは悉く過去形になっていた。
 ブルーノの言葉が途切れると同時に、テオドラは視線を合わせず話し始める。
「断っておきますと私は悪夢師ではありません。悪夢師に金を貸して、その担保として預かっているだけです」
「何処まで読めますか?」
「さあ、読んでいる途中でしたので」
 テオドラの言葉に、ブルーノは力なく微笑む。
「私は半ばにも到達できない時点で読めなくなりました。それは一定の悪夢を視ないと字が現れないものなのですよ……私を拾い悪夢師にしようとした男は、悪夢は見たくないが続きが読みたいからと私に悪夢を見せ続けたのです。私は悪夢に押しつぶされて逃げ出しました、今でもあの悪夢を少しでも思い出すと自殺したくなるほど。……その本の最後は一体何がかかれているのでしょうね」
 ブルーノの言葉にテオドラは最終頁を開く。


― その頁に書かれている文字は ―


「ところで貴方は何者ですか? 悪夢師はその本を手放すことはない筈です。悪夢師ではない者が手に入れるとしたら、悪夢師から奪うか高額で買い取るかしかないと教えられましたが」
 テオドラは本を閉じて、ブルーノのほうを向き本を差し出した。
「呪解師ですよ。本、読みます? まだ戻ってくるまでは時間がかかりそうですし」
 ブルーノは本を手に取り、何の恐れもみせないで開く。頁を捲り、戻ってはその頁数を数えてを繰り返し、彼はテオドラに本を返した。
「以前よりも読めなくなっていました」
 悪夢から逃げた男。
「それで良いのでは? 今の貴方は幸せなのでしょう」
「幸せですね、幸せなのでしょうね。一ヶ月ほど前に妻と子が馬車で事故死したのに、私はあの頃よりも不幸ではないのですね。一度幸せを知ると、人はこんなにも弱くなるのでしょうか?」
「客観的な尺度から判断しますと幸せです。衣食住も確保できて、仕事もあり貯蓄もあり、健康的で未来への不安要素は限りなく低い。過去の貴方の身の上と比べますと間違いなく幸せです」
 テオドラの言葉に、ブルーノは頭を下げて立ち去っていった。
 ブルーノの後姿が見えなくなった後に、頁を簡単に捲り読むわけでもなく視線を落としながらテオドラは独り言を呟く。
「あくまでも客観的、よく言えば偽善的、悪く言うと他人事なのでどうにでも言えるだけですが。それにしても、不幸な生い立ちからやっと掴んだ幸せを一度に失っても、尚この本は読めませんか……さて、悪夢師は一体どのような 《悪夢》 を見て、完全な悪夢を操れるようになるのでしょうね」
 ブルーノは拾われた男の元から逃げた。
 彼は逃げただけで、その男を殺そうとはせず殺してもいない。
 ローゼンクロイツという悪夢師は、師匠であった悪夢師のセフィロトを殺そうとしている。テオドラにとって養父にあたるセフィロトが語るには 《悪夢師》 とはそういうものなのだと。悪夢の底にあるものは、得体の知れないものではなく身近にある良く知ったモノであると。彼はローゼンクロイツに対してはそれ以外のことを語らなかった。
 デューンは語る。悪夢は人以外には見ることは出来ないが、人であれば生まれたての赤子でも狂うほどの悪夢を見ることができると。

 《悪夢》 が人の証明であるのならば、最果ての悪夢を見た悪夢師は真の人なのか?

 そしてデューンは語り続ける。完全なる悪夢師だけが、完全な悪夢師を作ることができる。人は自ら最悪を描き見ることは出来ない。もしそれが出来るとしたら、それは……

「ほらよ、金」
 ローゼンクロイツは『裕福な家庭の妻子の乗った馬車の前に人が飛び出し、驚いた馬が暴れて横転した。その事故を起こした、仕事に向かう途中の病気がちな親を養っている、貧しい家の息子に肉体的ではなく精神の破壊を!』との依頼を受け、成功させて金を持って来た。
 テオドラはその金を受け取る。
「ありがとうございます。そして一つ聞きたいことがあるのですが、良いでしょうか? ローゼンクロイツ」
 本を返しながらテオドラは尋ねる。
「何だよテオドラ」
「貴方が視た最悪なる悪夢とは一体 《何》 だったのですか?」
 ローゼンクロイツは乱暴に本を取り上げて、背を向けた。
「教えてやらねえよ。じゃあな、またどこかで会うだろうけどよ」
「たまにはフラドニクスに帰ってきたら如何ですか? デューンも待ってますよ」
「あの吸血鬼が俺に何の用だよ。あんな危険なもの、ピエタの街に返してこい……ああ、ピエタの街は滅んだな」
 テオドラはローゼンクロイツに背を向けて歩き出す。
「おい、テオドラ!」
「はい、何でしょうか?」
「お前はこの本、最後まで読むことができた?」
「さあ、教えられませんね。貴方と手を取り合い、奈落の底へ落ちるなんて真平ですから」
 その奈落の底が人の証明の一つになるのであらば、人である証明を得るか? 得ないか? 貴方はどちらを選ぶのだろう。


《終》


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