私の名を呼ぶまで【79】

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[79]信心深い,雌羊

 夜半に王城を出て、人々の目につかぬように ――

 ヨアキムはエスメラルダをユスティカ王国へ引き渡すために、バルトロに同行してもらい侍女側室たちをも引き連れ、闇夜に乗じて皇都を出た。
 本来であればエスメラルダの故国までヨアキムが送り届ける約束だったのだが、傷が完治していないので、無理をさせられないとエスメラルダがユスティカ王に手紙を送り、ラージュ皇都からもっとも近いノーバランデ城まで迎えを寄越して欲しいと頼んだ。
 エスメラルダはノーバランデ城へ離婚して単身で向かうと言ったのだが、どれほど丁重に扱っても”過ぎる”ことはない大国の王女。
 ヨアキムはノーバランデ城まで送り、迎えにくる特使の前で、バルトロに離婚手続きを執らせたいと頼んだ。
 エスメラルダはヨアキムの顔を立てるには必要だと――仕方なく同行してもらうことにした。
 彼女は今でもヨアキムのことが好きなので、送ってもらえるのは嬉しいが、やはり怪我が気になる。
「呪解師テオドラが傷の治りをよくしてくれたので、心配はない」
「そうですか」
 馬車で二日ほどのところにある、赤い城壁と水車が特徴のノーバランデ城に到着した。
 特使が来るのは四日後。その四日間を二人は仮初めの夫婦として過ごす。

「あなたには本当に色々と世話になった」
 ヨアキムは彼女に今までのことを感謝した。
「お役に立てたようで」
 エスメラルダが妃の元に頻繁に通っていたおかげで、他の側室が近づけず嫌がらせを受けることもなく、侍女側室たちが先回りして些細な嫌がらせを潰してくれたので――妃は安泰に生活ができた。
「ヨアキム皇子」
「なんだ?」
「買っていただいたこのサファイアのネックレス、お返ししなくてよろしいのですか?」
 エスメラルダは白地に黒糸で小さな花が無数に刺繍されている布で作られた、胸元がやや大きめにひらいているドレスに、サファイアのネックレスをしている。
「もちろん」
 中心に直径六センチほどのサファイア。台座は白金で周囲は小さいながら上質のダイアモンドで飾られている。
 ユスティカ王国の王女であるエスメラルダでも見たことがない逸品。
「宝石商はお妃さまへと持って来たのに、あの方と言ったら」
 薄いオレンジ色の扇で口元を隠し笑う彼女に、ヨアキムは頭を片手で掻く。


 いまエスメラルダの胸を飾っているサファイアのネックレスは、エスメラルダが言う通り「ヨアキムの妃のため」に宝石商が用意してきたもの。
 ブレンダの知り合いである宝石商が、高額な商品を持ってやって来たのは、妃がカタリナたちと共に蛍を見た一週間前のこと。
 かつてそうしていたように、後宮の中央広間に宝石商が商品を並べた。どの商品も誰が見ても高価だと分かる品ばかり。
 昔は側室全員に買ってやっていた時代もあるが、現在の側室たちは【派手なものは好みません。宝石よりも書物が好きです】というスタンスなので、ヨアキムは最初から買ってやるつもはなかった。「買ってやる」と言って否定されるくらいなら、最初から買ってやらないと。
 そのように決めていたので、商品は全て高額な品にするよう命じた。
 妃一人に買う――それでもよかったのだが、せっかくだからいつも世話になっている女性にも贈ろうと、シャルロッタとエスメラルダ、そして側室リザにだけは招待状を出す。
 ブレンダとカタリナは妃と共にやって来るので、個別に招待はしなかった。
”最低でも三個は選んでやれ。そうでなければ、運び代金がでなくて破算になる”
 ヨアキムは妃にそう言い、高価なものを見繕い手渡した。
 その一つがいまエスメラルダの首から胸元を飾っているネックレスだった。
 妃は受け取りカタリナにつけさせ、鏡を持ってこさせて自分の顔を見て――噴き出した。妃は宝石があまりに美し過ぎて似合わないと。
 宝石商はヨアキムの青い眼を思わせる最高のサファイアを持って来たのだが……


「実際私のほうが似合いますけれども」
「ああ。その通りだ」

 妃はその後”これはエスメラルダ姫に似合うはず”とヨアキムに返し、ブレンダにドレスに合う物と、今度作ろうとしているドレスのイメージに合いそうなものを探して欲しいと頼んだ。
 興味はあったようで、カタリナと共に幾つか手に取り、鏡の前で耳元を飾ったり、指先を飾ったりと楽しんではいた。
 ヨアキムからサファイアのネックレスを渡されたエスメラルダは、似合っていたこともあり、買ってもらうことになった。
 離婚し帰国するさいに返そうと考えて――このサファイアのネックレスはそれほど高価であった。
 シャルロッタには結婚祝いとしてブレスレット、側室リザは適切な額のものを選んでいた。なにを選んだのか? ヨアキムは興味がなかったので覚えていない。
 ブレンダにも料金前払いだと言い本人に選ばせたところ、サークレットを手に取った。”これに合うドレスを作りたくなった”とのこと。
 カタリナには固辞されたので無理強いはせず、妃はブレンダが選んだもの一つ、宝石商が選んだものを一つ、そして――

「素直と言えば聞こえはよろしいですが、本当に適当でいらっしゃる」
「申し訳ない。だがあなたが選んだピアスは似合っていた」

 エスメラルダが選んだ「エメラルドのピアス」を購入することになった。

「嫌味に取られなくてよかったですわ」
「ああ」
 エスメラルダは後宮で過ごした短い歳月を思い出し、
「とても楽しかったです。とくにお妃さまがやってきてから」
 ヨアキムに感謝した。

 離婚後彼女は、ヨアキムと妃の二人に手紙のやり取りをしたいと頼んできた。
「私は構わないが、妃は……」
「きっとやり取りしてくださるわ。だってあの方、かなり付き合いがよろしいですもの」
 なりたくもないのにヨアキムの妃になり、それなりに”妃らしく”過ごしてくれた妃。そう考えると否定できない。

「他国の王女と手紙のやり取りは妃の仕事になるでしょう」

 遠ざかる彼女を見送るヨアキムの目に涙はなく、振り返らずに故国のほうだけを向いていたエスメラルダの目には涙が浮かび――

「帰ろうか、ヨアキム」
 側室の半数以上、オルテンシアを妃に間違えた者たちを教会送りにし、残りの妃に妬心を持っていなかったものをバルトロの側室として譲渡し、彼が神に仕えるために後宮を解散するさいに返す手立てを調えたので……ヨアキムはいま独身であった。
「バルトロ」
「どうした?」
「帰りに妃の館に寄って、結婚する。手続きを頼む」
 ラージュ皇族は結婚していないと公職につけない。だからエスメラルダと離婚するまでに、妃を決めなくてはならなかったが、妃以外に妃の座に就けてもよいと思える女性がいなかったので、
「分かった……離婚していたことは、お妃さまには内緒で?」
「ああ」
 だまし討ちになるが妃をもう一度妃として迎えることにした。

**********

誠実な魂についてですか? 性格が誠実なのとは違い、魂が誠実なのは大変ですよ。お妃さまは性格で補っているので問題はありませんが。
誠実な魂の問題というのは【真剣に頼まれたら断れない】性質があるところです。いえいえ、頼まれると断れないのとは違います。普通に依頼されただけなら、 性格で拒否できるのです。誠実な魂が拒否できないのは……例え話ですが【娘を強姦の末殺害された父親に”復讐に協力してくれ。あなたの協力がなければ復讐 ができない”と”誠実に”説得されたら、協力してしまう】という感じです。悪いことは分かっているし、協力したら自分の身が危ないことが分かっていても、 相手が本気で言っていると協力してしまうのです。
善悪を判断するのは性格です。魂は性質ですので善悪の判断はできません。ただその性質に合った行動を取るだけです。
誠実な魂は相手の言動が本気であれば拒否できません。本気であることを誠実な魂は確実に見抜きます。普通の人生を送っていると、それほど真摯な願いと遭遇 することはありません。それにお妃さまは、性格が非常によろしいので。悪い意味ではなく、誠実な魂の持ち主としては最良の性格です。
どうもお妃さまが住み込みで働いていた家の女主が、魂について詳しかったらしく、お妃さまの性格を今のように導いたようです。
女主は性格が悪かった? たしかに悪かったようですが、お妃さまがずっと仕えていたところから、性格は悪いがお妃さまのことを思ってはいたのでしょう。本当に嫌われていたら、お妃さまはさっさとその家を出たはずです。ええ、お妃さまはその判断ができる魂をお持ちなので。
愛を語ったら届くか? 誰が誰にですか? ヨアキム皇子がお妃さまに? 
本心より欲すれば届くでしょう。好きになってもらえるか? ヨアキム皇子が本気で愛すれば、返してくださいますよ。ただし真実でなければお妃さまの心には届きません。
ヨアキム皇子の魂ですか? 皇子の魂は冷淡です。悪い魂ではありません。お妃さまと違い最終決断の際、決して私情を挟まない性質です。
よく言われる王の器の一つでもあります。
……それは無理です。魂の性質というのは色と同じですから。魂は変えられません。持って生まれたものです。無垢ではない無垢というのは存在しません。それは赤を白に変えろというようなものです。


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