私の名を呼ぶまで【78】

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[78]火の女神,神にかけて誓う

 柔らかくなるまで野菜と鶏肉を煮込んだクリームシチューと、一口大に切られたパンの食事を終えたヨアキムは、暗くなった室内で眠くもなく、だが起きているのも億劫だ……そんなことを考えることもなく、なにも考えずにベッドの上で黙っていた。
「ヨアキム、起きているか?」
 ドアをノックすることなく、気配を消して音量を下げた声で話しかけてきたエドゥアルド。
「なんだ、エドゥアルド」
 ヨアキムは目を開き、上体を起こして天板に背中を預けた。
「………………」
「用があるのなら早く入って来い」
 本心では”来るな!”だが当事者というか、騒ぎの元凶というか、ここまでエドゥアルドを謀ったのだから……

―― クリスチャン。エドゥアルドのリザに関する記憶を消せないか?
―― 狙っては消せないね。テオドラに頼んでみたらどうだ? それはいや? ……そうか。じゃあ諦めるしかないな

 どうしても避けられないと分かったので、エドゥアルドと向き合い、これからについて話合うことにした。
「お前をからかっていたわけではない。お前があまりに本気で言い出せなかった」
「言われたところで、私も信用はしなかっただろう」
 素直に認められると、ますますばつが悪くなる。
 ベニートが女装した経緯を説明し、
「それはリザから聞いた。弱っているヨアキムの弱味につけ込んで側室になったとは聞いたが、弱味は言わなかった」
 ”弱味”であり、以前エドゥアルドは知っていたことと、バルトロと話したラトカについても全て語った。
 話を聞き終えたエドゥアルドは、少しの間ヨアキムの顔を見つめていたが”嘘だ”とも”信じる”とも言わず、言ったヨアキムも問いはしなかった。

「ベニートに関して、最終的に決断したのは私だ。責任はすべて私が負う」
 本当は責任など取りたくはなかったが、将来ヨアキムは皇帝になり、皇族たちに関して責任を負う必要があるので覚悟を決めた。
「………………」
「ベニートの話を聞く分では、意地になって結婚を申し込んだようだが」
 考え直せ―― ヨアキムは諭したが、それは簡単に砕けた。
「ヨアキム。これを見てもそう言えるか」
 取り出したのはテオドラが術をかけた剣。その剣はあの時と同じく光り輝いていた。
「エドゥアルド……」
 リザへの愛が尽きぬ限り、折れることがない剣。
『私はなんでも切れる剣になったはずだが、その剣は切れないな。さすがテオドラの呪い』
 いつもと変わらないはずのクリスチャンの声に、微量の”呆れ”が混ざっていたような気がした。
「テオドラ殿に説明してもらおうと思っている」
「そ、そうか」
「リザを貰い受けていいのか!」
「譲渡する。手続きはベニ……私がしておく」
 この手続きだけはベニートに任せるわけにはいかないと、確実に譲渡してこの問題を終わらせるのだと、ヨアキムは決意を固めた。
「それと、エドゥアルド」
「なんだ? ヨアキム」
「バルトロには秘密にするんだぞ」
「当たり前だ! 父上にも母上にも言わぬ! そうそう、ヨアキム。私がその、あの……あれ……ああ! もう! 男を妻にするのだから、孫はお前にかかっている。たくさん作って、父上と母上にも会わせてやってくれ! いいな!」

―― 本気でリザ一人だけにするのか……

 その後、一人きりになったヨアキムは、
「愛が真実なのは分かったが……本当にそれが真実でいいのか?」
 呟いたものの、答えてくれる人はおらず、ホムンクルスは答えに窮し沈黙を貫いた。

**********

 椅子に腰をかけるのはまだ辛いので、ベッドの上で仕事をする状態だが、誰の手も借りずに歩くことができるようになった。
 妃との離婚が成立し、エスメラルダとの結婚となり――少しの間、彼女と肉体関係なしの夫婦生活を送り離婚して……
「どうなるのやら」
 離婚した妃は明日、王城を出てグラーノが用意した館へと向かう。
 本来であればもっと早くに妃を王城から出す予定だったのだが、皇姉リザが”お妃さまに不自由がないように”と、離婚後に与える予定であった館にディッカーノ家の使用人を連れて乗り込んだ。
「せっかくだから、女だけで楽しむみたい」
 ディッカーノ邸ではなく妃の館にしたのは、そこでブレンダが持って来たドレスを着て楽しもうと――
「ベニート。お前の母親だろう、どうにかしろ」
「無理! むしろ近づけない。なにせ母上、私に女装させようと……ブレンダやカタリナに女装した姿みせられないから。次々仕事を言いつけてくれ!」
 女装したら間違いなく側室リザになってしまう――
「……」
 妃に面倒を押しつけることになるな……ヨアキムは深い溜息をついた。
「ベニート、呪解師テオドラ殿を呼んでくれ」

**********

 やってきたテオドラはすすめられた椅子に腰を下ろし、ヨアキムが話すのを待った。
「オルテンシアについてなのですが」
「はい」
 オルテンシアの遺体は鉄製の箱に収め、テオドラに封印してもらい、ヨアキムの後宮入り口に置き、エドゥアルドが警備していた。
「火葬するつもりなのですが……」
「火葬しなくても平気ですよ。ラトカ殿のように孵らなかった体には卵が残り、虫たちが孵化することもありますが、融合した体には卵は残りません」
 テオドラから返ってくるだろう ―― 予想通りの言葉に、ヨアキムは自己満足であると認めながら、できるだけ表情を変えずに話を続ける。
「そうではなく」
「違う理由ですか?」
「他者にはオルテンシアか憎い女に見えるようだが、実際の姿はもう人ではない。あの姿を人目にさらすのは忍びなく、あのままの姿で埋葬するのは……」
「元の姿ではない彼女が不憫だと?」
「私が言って良い台詞なのかどうか分からないが」
 ヨアキムがオルテンシアを愛したことはなかった。それは言い切れるのだが、それ以外の感情はあった。
 他の側室にはない、レイチェルに対するものではなく、ヘルミーナに持ったものとはまったく違い、妃に寄せる感情とも違う”なにか”
 死んでしまったので答えを出すことはないが ―― 一度は苦しめずに殺そうと思った相手。死後も最後まで配慮したいとヨアキムは考えた。
「それで火葬ですか。よろしいのではないでしょうか」
「死体を灰にしたいのだが、普通の火で足りるものなのですか?」
 木材を大量に使用すれば灰にはなるが、
「製鉄用の溶鉱炉に放り込むと完璧ですが……そういうことじゃないんですよね。綺麗に幻想的に、かつ美しく、最後には有り触れた灰にしたいんですよね」
「ま、まあ。そういうことです。あなたのような完全な方には意味不明な行動に映るでしょうが……私が望んでいるのは……はい」
 ヨアキムが望んだのは、まさにテオドラが言った通り。
「酷い溶けるような燃え方ではないが、短時間で灰になるような物、探してきます」
「お手数かけます」
「気にしなくて結構です。……ところでヨアキム皇子」
「はい」
「お妃さまにオルテンシアさまの姿について聞きましたか?」
「いいえ」
「お妃さま、まだ王城にいらっしゃいますよね」
「はい」
「では今すぐに呼び、虫が孵ったオルテンシアさまが”どう見えたか”訊いてください。できれば皇族の方をも隣席させて」
「はあ……」
「あともう一つ訊いてください」
「なにを?」
「私の姿を」

******************

 ヨアキムに呼ばれた妃は「しばらく別の館に住むので、その挨拶だろう」と、呼び出された理由について深く考えはしなかった。
 妃について一緒に来たベニート、先に部屋に来ていたエドゥアルドにバルトロも隣席する。マティアスは所用があり隣席できなかった。
「久しぶりだな、ミシェル」
 ヨアキムが声をかけると、妃はいつもと変わらぬ表情で首を傾げつつ無難な返事をしてきた。
 妃はヨアキムの質問に、眉間に皺をよせながら答えた。
 彼女はオルテンシアが変異した姿をはっきり捉えていたが、テオドラの容姿についてはヨアキムやベニートとはまったく違う物を見ていた。
 驚いている皇族たちに気付くことなく、迎えにきたシャルロッタと共に挨拶をして部屋を出て行った。

 妃が部屋を後にすると、隣室からテオドラが現れる。

「オルテンシアの本当の姿を見ていたと」
 ヨアキムは驚き、エドゥアルドは納得する。
「言われてみればあの時、彼女は随分と怯えていた。オルテンシアや人間らしい物を見ていたのならば、あそこまで怯えなかっただろう」
 妃の性格からすると、オルテンシアを見ただけでは、自分にあそこまで必死にしがみつくはずがない ―― エドゥアルドの意見を聞き、ヨアキムも納得し、生死の境を彷徨っていた時、ローゼンクロイツが言ったことの意味を理解した。

―― 他人と同じ物を見て、同じように認識できるのは稀だ。その稀なる相手を大事にするといい ――

 一度きりかもしれないが、妃は自分と同じものを見ることができた。それはヨアキムの心を大きく揺り動かすこととなる。
「バルトロ皇子」
「はい。テオドラ殿」
「バルトロ皇子は魂を見分けること、できますね?」
「はい……」
「お妃さまの魂、分かりますか?」
「誠実だと視ましたが」
「その通り。誠実な魂は正視を持っています」
「正視?」
「お妃さまは生まれつき、偽りを見破ることができる人なのです。魂が美しいとでも言いましょうか。勘違いしないでいただきたいのは、魂の美しさと性格の善 さは同じではありません。魂の美しさは容姿の美しさと同じ。美人でも性格が悪い人いるでしょう。容姿と違うところは、色褪せることがない。容姿は誰にでも 見える分、劣化しやすいのですが、魂はほとんど見られることがないので」
「醜い魂というのもあるのか?」
「あります。ですが己が醜いことを分かっていて、誠実に生きる人もいます。持って生まれた美醜など大したことではありません……では私、お妃さまのお見送りをしてきます」

 残された四人は、互いにテオドラの容姿について語り合ったが、四人ともまったく違う人間を見ていることが証明されただけであった。

 妃は”自分が離婚したことは知らず”言われるまま、皇后とアイシャに挨拶をし終えたところ。テオドラは妃に一つだけ尋ねた。
「お妃さま。私の体には一目で解る欠損がありますが、どうしてヨアキム皇子たちに言わなかったのですか?」

 妃は困惑の笑みを浮かべはぐらかし、テオドラの前を辞した。


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