私の名を呼ぶまで【69】
[69]私の名を呼ぶまで:第四十一話
妃のいつもと変わらぬ笑顔と、カタリナの申し訳なさそうな笑顔と、ベニートの相変わらずの笑顔に、アイシャの幸せそうな笑顔 ――
ヨアキムはアイシャを伴い、舞踏会に出席していた。
妃を伴ってこなかったのは、彼女はダンスを習ったことがないどころか、見たこともないので踊れないからである。
ダンスの講師をつけて猛練習という手もあるが、そこまで無理をさせなくてもいいだろうと判断し、代わりにアイシャに新しいドレスを妃名義で贈り「代わりに出席してください」とメッセージも添え、こうしてヨアキムが伴っていた。
少し離れた場所には、同じく妃名義で贈られたドレスを着たリザが、夫のミケーレと共に立っている。
「お妃さまにお礼を述べようと思ったのですが、残念です」
そう言っているのはグラーノ。
母親が妃からドレスを贈られ、狂喜しているのを見て、これは是非ともお礼を言わねば ―― と舞踏会に参加したが、目的が果たせず残念がっていた。
ドレスが送られた経緯は”こう”だ。
妃紹介の場でアイシャの美しいドレスを見た母親リザが、アイシャにドレスについて尋ね、妃からの贈り物だと知り、ベニートに「あなたも着てみない?」――昔の悪い病気が再発した。母親リザの再発がなくとも、継続的に女装していたベニート。
そう持ち掛けられ「母上も覚悟を決めて着るべきです。お妃さまとアイシャさまを見て分かるように、ヨアキムは派手なドレスの女性を蔑んだりはいたしません」逆に母親リザを説得した。もともと自分で着たかったのを、息子で紛らわせており……話を聞いたヨアキムがブレンダに採寸し一着仕立ててやるよう命じ、いつも通り「妃名義」で送ることになった。
「お前なら後宮に直接足を運べばいいだろう」
ミケーレは母親リザの息子なので、自由に後宮に入ることができるのだが、彼は家臣としての態度を貫き、決して後宮に立ち入ろうとしない。
「いえいえ、それは。私は正式な皇族ではありませんので。ところでお妃さまは?」
「今頃は後宮の庭で蛍を見ている頃だ」
後宮は原則として夜、側室の外出は禁止されている。そのような規則があるのでヨアキムはレイチェルを連れて庭で説得を重ねていたのだが……
ともかく、そのような規則があるので庭を楽しむにしても、室内から見ることしかできない。妃の部屋から見える庭はたしかに見事だが、蛍を楽しむことはできない。
蛍は成虫になればそれなりだが、幼虫の頃はあまり女性に好まれないタイプの虫。妃の部屋に選ばれるのは、それらを排した場所になる。
だが妃が庭師から「蛍がきれいですよ」と聞かされ、見たいと言ってきたので、ヨアキムは許可を出した。
もちろん一人ではなく、カタリナとシャルロッタを伴うようにと。
舞踏会を終え、ヨアキムはアイシャを部屋まで連れてゆく。自身の後宮は夜も出歩くが、マティアスの後宮をこの時間に歩くのは初めてであった。
部屋の前で足を止め感謝をする。
「助かりました」
「私もとても楽しかった……ヨアキム」
「はい」
「時間はありますか?」
「ありますが。なんでしょうか?」
「少し待っていてください」
アイシャは部屋へ急いで入り、そして小瓶を持って出てきた。
「これは私が今夜使った香です」
「はあ」
「あなたにもこの香りがついてしまったので、これを持っていってやましいことはないと言って下さい」
「はい?」
ヨアキムはアイシャがなにを言っているのか分からず、どうして香を持ち帰る必要があるのかを尋ね”女は他の女の匂いに敏感だ”と言われ、
「妃はそのようなこと、気にしませんが」
気を回す必要はないと言ったものの、アイシャが持って行って欲しいというので、仕方なく受け取った。
皇帝の後宮を出て、護衛として付き従っているアンジェリカと共に自分の後宮の部屋へと帰る。
出迎えた妃は、蛍を見て楽しかったと ―― 珍しくヨアキムに今日あったことを語った。
余程楽しかったのだろうと思い、ヨアキムは香の入った瓶をテーブルに置き、マントを脱いで椅子に腰を下ろす。
カタリナにワインと二、三品料理を持ってくるように命じた。
出歩くのは禁止の時間だが、妃の侍女や護衛、そして食堂に勤務する者たちは別である。
ヨアキムは妃にマントと右腕の香りを嗅がせ、アイシャが妃に説明するように言っていたことを正直に話す。妃はいつも通りの「?」といった表情になり、ヨアキム自身、そんな表情になるだろうなとしか言えなかった。
ワインと運ばれてきた料理。薄切りにしたじゃがいもに塩と胡椒をふり、フライパンで火を通して皿に乗せ、その上にオイルサーディンを盛りレモン汁をかけたものと、厚みのあるレアチーズケーキ。ガーリックトーストと細切り根菜を茹で、スライスした鶏胸肉で包み、オリーブオイルで焼いたものを。味付けは塩とバジル。
妃にも食べるように言うと、最近太ったのでお断りしたい ―― とは言ったが、目の前の温かで食欲を刺激する料理には抗えなかったようで、腹回りを気にしながらヨアキムの夜食につきあった。
「明日の夜は私と蛍を見に行かないか? ソフィア」
若干の間はあったものの、妃から色よい返事が返ってきた。
それから二日ほど雨の夜が続き、時期を逃したか? ―― ヨアキムはそう思いながら三日目に妃と共に夜の庭へと出る。
幸い蛍はまだおり、その闇夜を照らす頼りなさそうな光を楽しむことができた。
二人が蛍を楽しむさまを”蛍側から”オルテンシアが視ているとも知らずに。
**********
蛍が輝く時期も終わり、ヨアキムは水の音しかしない庭を一人で歩きながら”来年も見たいものだな”と考えていた。
いままで足を伸ばして見ることのなかった蛍。思っていたよりも楽しめ、ヨアキムが持つ特殊な虫に対する嫌悪感も少しだがなりを潜めた。
「来年は……一人で見ることになるのか」
妃に荘園は蛍が見られる地域がいいと言われたこと思い出し、少々の寂寥を感じながら。
「……」
後宮はすでに出歩いてはならない時間になっているのだが、女の足音が近付いてくるのが聞こえてきた。
―― レイラか
レイラは体が不自由なので、足音も独特になる。しばらくその場に立っていたヨアキムは、現れたレイラに、感情の抑揚がない声で突き放すよう尋ねた。
「なんのつもりだ?」
ヨアキムは近くを飛んでいる小さな蛾に注意を払うことはなかった。その蛾を通してオルテンシアが二人のことを見て、会話を聞いていることなど気付かなかった。
「ヨアキム皇子……妊娠いたしました」
「誰の子だ」
「ヨアキム皇子の子です」
レイラの表情には狂気とともに自信が浮かんでいた。
その姿を見てヨアキムは”精神が病んだか”と、的確に判断を下す。後宮の側室には珍しくはない虚偽。
「私の子だと?」
「お疑いなのですか?」
ベニートの報告によるとレイラは事故で子どもが産めない体になっている。その”産めない”は、出血を止めるために傷ついた子宮を摘出したことによるもので、偶に世間で聞かれる「奇跡的な妊娠」が起こるような機能が残っている体ではない。
「疑ってはいない」
自分の体のことを知っているレイラが、どうしてこんなことを言うのか?
「ではなぜそのような目で」
気を引きたいにしても、もう少しましな嘘をつけばいいものを―― ヨアキムは軽蔑の眼差しをレイラに向ける。
「確信しているだけだ。それは私の子ではない」
なによりテオドラが子どもができないと明言している。
「私は後宮から一歩も……エドゥアルド皇子ともベニート公子とも会話しておりません」
「ならば妊娠などしていないのだろう。お前の勘違いだ。私はお前の妄想に付き合うつもりはない。妊娠したなどと言い触らすな」
医者をつけて、妄想が激しいようならば隔離しようと、
「お待ちください、ヨアキム皇子」
レイラに背を向けてヨアキムは女医のいる詰め所へとゆき、レイラを診断するように命じた。
蛾は二人の会話をオルテンシアに届けていた――
ヨアキムがレイラにつけた女医だが、レイラの身の上に同情し、彼女が妊娠していないのは分かっていたが、その幸せな妄想を砕くようなことはしなかった。
それが後々、レイラと自分の破滅につながることになる。
**********
妃が好きな飲み物は紅茶ではなくコーヒーで、次に好きなのはチョコレート。
メイプルシロップを塗り砂糖をまぶしたリーフパイと、バターをふんだんに使ったクロワッサンが舌に合う。
街のカフェに付き添っているシャルロッタから聞き、小量しか採取できない珈琲豆を取り寄せようかと考えていたヨアキムの元に、事件の知らせが届いた。
「街で妃が襲われただと?」
知らせを聞いたヨアキムは、妃の状況を事細かに尋ねる。幸い妃は怪我はしておらず、護衛のシャルロッタが少々負傷した程度で済んだ。
シャルロッタはこの程度であれば怪我のうちに入らないから、すぐに復帰するとヨアキムに詰め寄った。
「負傷しているが、問題なく動けるのだな?」
「はい」
「ならば別の任務にあたってもらう」
ヨアキムはレイラを見張るよう命じた。
「なぜ側室のレイラを見張るのですか?」
話せば長くなるなとヨアキムは応接室へと移動し、革張りのソファーに腰を下ろし、シャルロッタにも座るよう指示し「レイラが私の子を身籠もったと嘘をついている」ことを教えた。
「……」
絶対にヨアキムの子を身籠もっていない ―― とは言えないのではないか? シャルロッタの視線はそう物語っていた。
部屋に通い、妃のために下流語を練習していだけだが、側室の元へ通っているのだ、完全に潔白だと思われることはない。
「疑うのも分かるが、レイラは子どもを育てる臓器がないのだ。事故で負傷し、出血がひどかったので内臓の一部を摘出したそうだ」
「確実なのですか?」
「ああ。月のものがおとずれたことは一度もない。侍女からも報告を受けている」
「分かりました。それで見張るというのは……」
「自分が私の子を身籠もったと思い込んでいるとなると、妃を害する可能性が高い。妃に危害をくわえようとしたら問答無用で殺せ」
「お妃さまを守るものとして、お受けいたします」
部屋に戻ったヨアキムは、妃に暴行された際の危険性について説明をした。いままで説明しなかったのは、妃とは離婚し、いずれ後宮から出てゆくので必要ないだろうと考えてのことであったが ―― 説明をしながら、思っていた以上に妃との生活は苦労もあったが”楽”でもあったなと感じていた。
「ヨアキム」
椅子の背もたれに体を預け、指を組み、目を閉じていたヨアキムにベニートが話かけてきた。
「なんだ? ベニート」
「シャルロッタがレイラを見張っている間、私がお妃さまに注意を払っていればいいのかな?」
「ああ」
目を閉じていたヨアキムには見えなかったが、ベニートの笑顔はそれは愉しそうであった。そう悪巧みをしている幼子のように――
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