魔法は精神力と体力のどちらを使うかと問われれば「精神力」と誰もが答えるが、体力がなければできるものではない。
精神と肉体、両方が揃ってこそと、
「お前のところのセツなんか、隠しきれない体力ってか体格だろが。あの体格で体力なかったら死ぬぜ」
「はあ。できれば最高枢機卿と言って欲しいのが正直なところです」
ドロテアが”見るからに体力がありそうな人”を不躾に例として上げた。あまりにも不躾過ぎたのでヒルダは曖昧さしか感じられない表情で首をひねるが、それでも”体力と体格”に関しては否定しなかった。
性別も年齢も不詳とされている枢機卿だが、誰がどう見ても男。それがセツなのは、世慣れていない学僧にすら知られている。
毎日の魔法練習のあと、焼き菓子を専門に扱っている店や、ミゼーヌが少しの間働いていたパン屋などに立ち寄り、多種多様な種類を二つずつ買い、公園のベンチに座る。
互いと互いの間に買い込んだ大量の「甘味」を置き、ドロテアは背もたれの後ろに右腕を降ろして、左手でシロップ漬け杏子が乗っている一口サイズのパイを掴んで口に運ぶ。
「どれから食べようかなあ」
体が正面を向き、菓子が脇にあるドロテアとは違い、ヒルダは体全体が菓子の方を向いている状態。
「最終的には全部腹に収まるんだから、どれから食っても違いないだろ」
「そういう物ではありませんよ、姉さん」
ドロテアは足を組み、空を見つめる。
「あ! 姉さん」
パンプキンペーストを練り込み平らな形で焼いたパンを持ちながら、ヒルダは、ベンチの下に転がっている男を指さした。
「なんだ? ヒルダ」
「向こう側から足取りも重いというか、ふらついているエルスト=ビルトニアさんとかいう人が」
ヒルダに言われてドロテアは、目的もなく見上げてた夕暮れ寸前の空から視線おろし、指が向けられている方角に鳶色の瞳を動かした。
成人しているので身長は伸びることなく、極度に体型の変化、特に太ったりしなければ、まめに洋服を新調する必要はない。特に食事にも困るような生活をしていたら、洋服など”着られればいい”と判断を下してもっとも切り詰められる。
そんな雰囲気を如実に表しているくたびれた服と、
「酔っぱらってるんでしょうか?」
「酔ってるよりからな、腹が減ってるように見えるけどな」
空腹と表現するよりなら、不健康な生活を送っているのだろうと言ったほうが正しいに違いないと思わせる顔色。
切り詰めた食費がどこに消えたのか? 何に使われたのかなど聞く必要もないような”みてくれ”
「エルスト=ビルトニアさん! こっち! こっちですよ」
迷い腹を空かせている動物を呼び寄せるように、手招きをしつつ食べ物も見えるように差し出すヒルダ。
ドロテアは完全に無視したまま、プレーンのフィナンシェを掴み一口で半分ほど頬張った。
「どうぞ」
二人の前に現れた”不摂生”を絵に描いたようなエルストは、軽く挨拶をしつつ、ヒルダが差し出した焼き菓子を、ありがたく頂いて口に運んだ。
「どうも」
ヒルダはエルストに「えさ」与えつつ、現状を尋ねる。
そろそろ夕食の準備が始まり、人家から離れている公園だが、風に乗って調理の匂いが運ばれてくる。
各家庭の夕食は統一されてなどいないため、雑多でまとまりがない。そのまとまりのなさが、家に帰りたいと思わせもする。
甘そうな香りや、非常に美味しそうな香りなどではなく、ただ誰かの帰りを待つための料理が出来上がる途中の匂い。
それらを感じながら”今日の晩飯はどこで食うかなあ。久しぶりにヒルダとじゃなくて、オーヴァートのところで食うか……それとも帰るか”自分の夕食について考えていた。
「お金がないんですか」
「そういうこと」
「では仕事をしましょうよ!」
「いやあ、そう簡単に仕事って見つからなくて」
―― そもそも、手前は仕事を捜してねえだろが
足を組み直して背もたれを抱えるかのようにしていた右腕を持ち上げ、こちらも組んで頭に置きながら、たまに仕事を依頼する相手をあきれた面持ちのまま眺める。
「仕事ですか? 全くないのでしたら、教会の下働きなどはいかがですか? 下男ってやつですけど」
「いやあ。教会で働くってタイプじゃないんで」
元は宗教職だった男は、過去など忘れ去ったかのように嘘をつく。
「難しい仕事はないので。どうですか?」
「ヒルダ。その男は見て解る通りってか、以前説明した通りギュレネイス皇国の首都出身のフェールセン人だ。お前が紹介できるのはエド正教の教会だけだろ? こいつはギュレネイスの神聖教徒だ」
”あー”
そんな声が聞こえてきそうな形に口を半開きにし、目蓋を閉じて脱力するヒルダと、痒くもない頭をかきながら、顎を前に出して二、三度頷くエルスト。
「さてと、俺は飯を……自宅に戻る。好きに飯食って帰れよ、ヒルダ」
ドロテアは立ち上がりながら告げ終える前に歩き出した。
「はあい。それじゃあ姉さん、また明日! それと残ったお菓子はもらって良いですか!」
返事をせずに手を上げて帰る後姿を見送る形になった二人は、姿が見えなくなるまで「見送って」互いに顔を見合わせた。
「エルスト=ビルトニアさん。まだ空腹ですか? よろしければ、おごりますよ。今回一度きりですが」
「じゃあおごってもらおうかな」
ヒルダは頷き、残った菓子を手提げに詰めて、
「では美味しいお店に案内してください。個人的な希望としては、昨日の夕食は肉料理だったので、本日は魚料理がいいですね。コース料理よりも家庭料理が希望です。料理上手な女主人の店というのが理想。デザートは充実していなくても良いのですが、コーヒーの種類が充実し、かつ淹れかたが……どうしました?」
顔を抑えて笑いを我慢しているエルストを、心底不思議だといった表情で見上げるヒルダ。
「いやあ……はっきりと希望を言う人だなあと思って」
「そんなに珍しいですか?」
「俺が昔付き合ってた人と逆過ぎてさ」
エルストが昔付き合っていた女性は、食べたい物はある? と尋ねると「何でも良い」と答えるのだが、店に向かうと「違う所がいい」と言ったり、食べた後に「今日は、食べたくなかった料理だった」などと告げてくるタイプだった。
そのためヒルダのはっきりと述べ、適切な店へと案内したら絶対に文句は言わないだろうと確信できてしまう姿に、好感を持った。
もちろんその好感はあくまでも他人に対する節度ある好感であって、愛情とは全く結びつかない。
「はあ? まあ……良く解りませんが、昔付き合っていたという人は、姉さんでないことだけは解りました」
「ヒルデガルドのお姉さんはねえ」
「ヒルダでいいですよ、エルスト=ビルトニアさん」
「じゃあ俺もエルストで良いよ」
暗くなりつつある空、道に面した窓硝子から漏れてくる、店内に灯り始めた明かりがぼんやりと道に模様を描き始める。
「帰った」
家へと帰ったドロテアは、いつも通り返事のない帰宅の挨拶をする。ただ声と同時に室内に明かりが灯されはする。
「俺がいない時でも、薄暗くなったら明かりを点けても良いんだぜ」
「お前には関係ないことだろう、ドロテア」
「家主の意見に、そんな言い方するのは手前くらいのもんだジェダ」
そうは言いながらドロテアもジェダの返事は解っていた。
「この本が必要なのではないか?」
「ご名答」
ジェダは読んでいた本の表紙を見せ、ほくそ笑む。その表情の変化にドロテアが気付いたかどうか? 気付いたとしても、表情の変化を一々問うようなドロテアではないので、会話とはならない。
その途切れてしまう会話を何度も繰り返し、日々が続く。
ジェダの隣に座り本を取り上げて目を通す。
魔法の基礎中の基礎を馬鹿丁寧に書いた本を真剣に見つめた。
夜遅くまでゆっくりと、だが微睡むのには丁度良いようなリズムを持ったまま頁は捲られ続ける。
日々は全く同じに繰り返されることはなく、会話は途切れながら続いた。
**********
基礎の基礎を、更にかみ砕いて懇切丁寧に説明されたおかげで、ヒルダの魔法構成は速くなった。
ただし”格段”のような立派な言葉はつかない。ついたとしても”ほんの少しだけ”が精一杯。
魔法に縁のない人にとって”今”と”以前”の速さの違いなど、全く判断は付かない程度だが、ヒルダとしては満足できる「進歩」であり、ドロテアも認める「成果」となった。
そしてすっかりと定位置になった公園のベンチに座り、菓子を広げる。
同じベンチに座り続けていたところ、勝手に”定位置”と認識されてしまい、先客が二人の姿を見て「済みませんでした!」と走って逃げるのを目の当たりにしたのが、約二週間目の出来事。
それ以降もなぜか時間になると空いていて、終いにはマリアが「持って行けって言われたから。食べてね」と書き置き。
書き置きが飛ばないように重石に使われている、タオルケットにくるまれた土鍋の中にはシチュー。
「いつから公園のベンチが俺達専用になったんだ?」
「さあ? でもオロール……一緒にマシューナルに来た同期ですが、そのオロールに、似たようなこと言われました」
二人は専有しようと思ったわけではないのだが、いつの間にか専有と認識されてしまっていた。
「違いますって言って歩くのも馬鹿馬鹿しい」
だが訂正しようとしないあたり、ドロテアであり、
「滞在期間中だけなので」
ヒルダである。
ドロテアは座ってすぐに懐から取り出した煙草ケースを開き、一本取り出して口にくわえて、
「吸わないよな? ヒルダ」
蓋を閉めずに念のために尋ねる。
「もちろん吸いませんよ。むしろ、姉さんが吸うとは知りませんでした」
「俺だって、自分が煙草吸うようになるとは思ってなかったぜ。初めて吸った時、唇まで火傷した。火傷しなかったら、吸い続けはしなかっただろうな」
片手で器用に蓋を閉め懐に押し込んで、指に挟んでいる煙草の先へと持ってゆき、指を押しつけて火をともした。
「生活に根ざした魔法の使い方ですね」
「そう言われたのは初めてだ」
肺まで吸い込み吐き出した紫煙が空に登りゆく様に、変わった口調が特徴だった恩師を思い出す。
「お前、本当に良く食うな。ビルトニアの野郎も驚いてたぜ」
「ビルトニアさんが小食なだけだと思いますよ。あの体格で、あれでは力がでないでしょう。生きていくのは、体力勝負です」
「それはまあ……認めるけどよ」
そして、久しぶりに思い出したのだが、思っていた以上に哀しいと感じない自分にドロテアは気付き、時間の流れというものを実感した。
「ちょっと肌寒くなってきたな」
「そうかもしれませんね」
ヒルダがベルンチィア公国に帰る日が近付いてきた。その後の道がどうなるのか? ドロテアは考えもしなかった。
自分の人生を歩むのだろうと。
まさか勘違いしてマシューナル王国にやってくるなど ――
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