ビルトニアの女 外伝1
貴方を抱いた日
―― 五話よりも前 ――

第六話・いつか残酷を知る時まで


 俺は一時滞在用の部屋を押しつけられた。
 天井から床までの大きな窓に、ライディングビューローと書棚。クローゼットにはいつのまにかあつらえられた大量の服。革張りのソファーに大理石のテーブル。部屋の中心に飾られた花とその前に並べられている宝飾類。
 皇帝の周囲に侍っていた女たちが身に付けているものとは違い、ごく普通のデザインだった。王族が身に付けるような宝石を近くで見たことのない俺だが、それでも本物だと解る輝きを放っている。
 絵画も部屋の壁を飾っているが、俺は生憎絵画には詳しくない。
 標準的な風景画くらいなら見てもわかるが、シュールレアリズムや前衛になると、なにが良いのかさっぱり解らない。
 飾られている絵は風景じゃないから、俺の感性の範疇外だ。
「図書室は自由に使用していい。今のところ外出は禁止だ。他の聞きたいことは?」
 図書室の場所を詳しく聞き、最後に一応尋ねることにした。
「それほど長居するはずもないが、一応名前を聞いておこう。あんた誰?」
 部屋の説明をしてくれた男の名前を尋ねる。聞かなくても知っちゃいるんだがね。
「フェールセン選帝侯ヤロスラフだ。俺は聞かれなければ名乗らないことにしているのでな。貴殿が言う通り、そして俺のいままでの経験からこの邸に長居する女はいない。よって貴殿の名も覚えるつもりはない」
「俺もそう思う。だから用があったら貴殿でいいぜ。それほど呼ばれることはないだろうがな」

 あの主にしてこの部下ありってところか

「そうか。物わかりが良くて助かる」
「じゃあ、用があるときにでもな。選帝侯」
「ではな」
 俺は名乗らないで終わった。
「選帝侯に”貴殿”って呼ばれるのも、おかしい気もするが。考えても仕方ないか」
 ”愛人と呼んでくれ”と言えばよかったと思ったが思い直した。
 多数の愛人の一人だから、愛人なんて呼ばれたらややこしくなるだろう。貴殿でも代わりはなさそうだが。
「すぐにここから出て行くだろうからな」
 王学府に在籍している学生は基本は寮生活だ。
 王族などであれば自宅にあたる城から通うこもあるが、普通は寮住まい。
「追い出されても食いっぱぐれることはないからな。あ、親にも連絡しておかなけりゃな。学費をマシューナルに振り込んでくれって」
「手紙でも書くか」
 皇帝のもとにいるということは、書く必要はねえだろう。
 王学府移動と学費の件。それとヒルダの近況を尋ねる手紙をしたためる。
「ああ、もう夜か」
 遅くに起きたせいで、手紙を書き終えて頃にはすでに空は夕暮れの終わり時になっていた。暗くなり始めた空から、前に食事をとった時間を思いだしてしまい、意識よりも大分遅れて空腹が目を覚ました。
「夕食は運ばれてくるだろうな」
 運ばれてきたらそいつらに手紙を出すように依頼しようと思いのんびりとしていると、扉がノックされた。ノックの仕方から召し使いだろうと判断し、当たってはいたんだが、
「いいぜ」
「失礼します」
「食事だよな? 運んでこないってことは、呼び出しか?」
「はい」
 残念ながら料理は運ばれて来ず、今日も皇帝の顔を見ての夕食となるらしい。夜が一緒なんだから、夕食くらいは別にしたいんだがな。
「解った着替えてから行く」
 召使いに廊下にいるように言い、一人でクローゼットにむかった。軽く眺めたときには気付かなかったが、普通の町娘や学生が着るような服はほんの僅かで、ほとんどが貴族の子女用の豪華なドレスだった。
「手前に普通の服をかけて隠しやがったな」
 私服でいくわけにも行かないだろうと、一人で着ることができるドレスを選んで着替え、手紙を手にもって、廊下に待たせていた召使いの案内に従って食堂へとむかった?

**********


 宮殿などに無縁の生活を送っていたドロテアにとって、現在《人が生活している》建物のなかでもっとも豪華な場所であるオーヴァートの邸には純粋な興味を持った。
 興味を持ち目を楽しませるのに相応しい建物で、見ていても飽きない細工がいたるところに施されている。
 だがそれだけだった。


 この場所は人が住む空間ではない


―― これが支配者の住居なのだろうか? ―― ドロテアが首を傾げるほどに生活感が存在しない。それも生やさしいものではなく、徹底されている。ここには多数の召使いがいて働いているが、彼ら彼女らの存在すら消し去る。
 墓場でも芽吹く草や虫たちの足音で生は存在するが、ここにはなにもなかった。生活感ではなく生命そのものがないと感じる程に。
 のちにドロテアはこことよく似たところを知り、納得することになる。それは”古代遺跡”
 オーヴァートの祖先や選帝侯の祖先が建てた、人を排した建築物。オーヴァートの邸もヤロスラフともう一人の選帝侯が建てたもので古代遺跡とも言えた。
 ドロテアが連れてこられた部屋は細長いテーブルがあり、ドロテアが座る位置の真っ正面にオーヴァートが座っている。
「似合うな」
 給仕が引いた椅子に腰を掛けてオーヴァートと向かいあう。
「似合うな」
 なにを指し示したのかは不明だった。用意されていた洋服のことか? 宝石か? それとも両方か? ドロテアには興味のないことだったので深く尋ねることはない。
「そいつはどうも。手前のセンスが良いってことかな? 依頼がある。この手紙を俺の両親に届けるように手配してくれ。学費の振込先が変わったことを教える手紙だ」
 ドロテアが人差し指と中指の間にはさんで”ひらひら”とさせてた封筒に、オーヴァートは寄越せという仕草を取る。そうするとドロテアの手元にあった手紙が瞬時にオーヴァートの手のひらに移動した。

―― これが世にいう瞬間移動か……

 初めて見た《皇帝》の力に呆気に取られ、なにも思うことなくただ純粋にドロテアは驚いた。
「そうか。だが学費程度、私が用意するが」
 オーヴァートは手元に呼び寄せた手紙を召使いに渡す。指示を出しはしなかったが、召使いは音もなく退出していった。
「手前が学費を用立てようがなにしようが勝手だが、俺の両親はまだ俺がパーパピルスにいると思ってるんだから、当然向こうの王学府に振り込もうとするじゃねえか。それを止めさせるためにも移動したことを知らせる必要があるんだよ」
「そういうことか。私はそんな生活をしたことがないから解らないな」
「解る必要はないだろ」
 ドロテアはスープを口元に運び、行儀悪く舌打ちをする。
「この味、嫌がらせだろう」
「もちろん。だが王族は薄味が基本だからな。どうだ? 王家の食卓は」
「最悪だ」
「そうか。それは良かった」
 塩味が微かにする程度の薄い味付けの食事を口に押し込みながら、ドロテアは自室に戻ったら別の料理を運ばせようと考えていた。

**********


 トルトリア人は濃い味付けを好む。
 地上でもっとも濃い味付けの料理を好む人間だ。トルトリア人が住む土地の暑さには、そのくらいの味付けが必要だった。
 王族は薄味が基本だ。毒殺を恐れ、僅かな味の違いもすぐに感じ取れるようにと。美食のに耽る王族ほど殺しやすいものはない。
 私は人間が作る毒どころか、神の造る毒ですら死なない。毒程度で死ねたら、どれ程楽だろうかと考える。
 毒を用いなくとも死ぬことはできる……死ぬことだけは。
 食事をとっていると、床の上を不規則に歩いている音が聞こえてきた。サンダルの音だ。この邸でサンダル履きなのは一人だけ。
「この娘か」
 仙人髭を生やし、櫛が通らないだろうと思わせる無造作過ぎる頭髪の学者たちの頂点に立つ老人。
「アンセロウム」
 砕け散り存在しなくなったグレンガリア王国。その王国で生まれた最後のグレンガリア人。
 このアンセロウムの故郷が砕け散ってから王学府が設立された。人間程度が使うには無理がある古代遺跡を管理下に置くための措置。
 無駄な努力だ。管理下に置こうとなどせず、消え去ってしまえば楽になれるだろうに。
 そんなことを考えるのは私だけであろうが。
「ほお。えぇのお。どうじゃ? オーヴァートと別れたら儂の愛人にならぬか? 齢百四十四歳。まだまだ現役じゃ」
「考えておく」
 アンセロウムの名は知っているだろうドロテアは、怪訝さを隠さないで小柄な年寄りを頭の天辺から爪先まで不躾な視線で繰り返し見て、スプーンを皿に置いた。
「食事は終わったのか?」
「終わった」
「なれば、この娘を貸しや、オーヴァート」
「解った。アンセロウムと共にゆけ」
 立ち去るドロテアの後ろ姿を目で追った。いいや、追ってしまった。
 正面だけではなく後ろ姿も美しい、もしかしたら顔よりも後ろ姿のほうが美しいのではないだろうか? とまで思う程。
「ヤロスラフ」
 その後ろ姿が消えた扉を見つめたまま、ヤロスラフを呼ぶ。
「なに用で?」
「パーパピルス王国の状況はどうなった?」
「宰相のトリュトザと国王フレデリック三世の亀裂は絶望的だ」
「なにか言いたいことでも?」
「一緒に食事をしていたのは誰だ?」
 料理ごと残っている皿を見てからヤロスラフが聞いてきた。珍しいことだ。
「ドロテア。アンセロウムが話したいことがあると言い連れていった。今夜もあれにする」
「そうか。ならばアンセロウムとの話が終わるまで宰相と国王が不仲に至った説明でもしよう」
 アンセロウムは天才ではあるが、稀代の変人としても有名だ。闘技場好きとしても有名で、私に「闘技場があるから住む場所を移動しよう」と言ってくるくらいに変わっている。
 その言葉に後押しされて、私は住む国を変えた。
 昔はパーパピルス王国にいた。
 父親がパーパピルス王国の王子だったので。あの頃私の後ろを付いて回っていた、妾腹の子ミロ。
 中々の才能があるとミロの父親にあたる国王に告げると、あれは嬉しそうにミロに王学府に入学することを薦め、ミロも嬉しそうに、そして父母の期待に応えるべく努力し、王学府に合格した。
 あの頃のミロは私のことをなにも知らず、ただ兄のように慕っていた。今となってはどうか?
 私は人の信頼を裏切るのが好きだ。快感をも覚える。私の人生における僅かな楽しみの一つだ。歪んでいようがなんであろうが、これは止めるつもりはない。

**********


 ”奇人”って名高いアンセロウム。実際は常識を持った奇人だった。
「お主、学府を移動して良いのか?」
「いいぜ。パーパピルスに未練はねえしよ。国王ってのにも興味はねえ」
「なるほど。じゃが一ヶ月は待て。儂の一言で明日からでもマシューナルで学べるのじゃが、一ヶ月経ってもまだオーヴァートがお主を手元においていたら、このままマシューナルで学べ。そうでなければ、別の国で学べ。お主の経歴からすると、ベルンチィア公国が妥当せあろうな」
 まあな。アンセロウムの言いたいことは解る。
 パーパピルス王国を捨てて、エルセン王国のマクシミリアン四世に喧嘩売って、皇帝に捨てられた愛人となりゃ。残る軍役がなくて女が学者になれるって国は限られている。バルガルツ大洋を越えてネーセルト・バンダ王国まで行くのは遠すぎるから、隣のベルンチィア公国になるな。
「異存はねえよ。それにしても、稀代の変人学者は意外と普通のことを言うんだな」
「まあのぅ。それはさておき、お主は学者を目指しているのならば、オーヴァートの母親のことは知っておるか?」
「解るがなにを指しているのか解らねえな。名前くらいなら知ってるぜ、ラシラソフ=リシアス」「それで充分じゃ。ではもう一つ聞くが、リシアスの妹は知っておるか?」
「ラシラソフ=ランブレーヌだろ」
「ランブレーヌに子がいたことは?」
「あっと……子供はいたな。たしかネーセルト・バンダ王国の王子で、もう死んだって記憶してるが」
「ふむ、間違っておらぬ。よろしい」
「なんだよ」
 俺には天才にして奇才の考えることは理解できなかった。
 後々オーヴァートが考えてることは、全部とまではいかないが理解できるようになった。だがアンセロウムは、あの爺が死ぬまで理解できなかった。理解させてくれようとしなかった、ってのが正しいんだろうな。
 あの爺は本当に天才にして鬼才にして奇人だった。

**********


”また俺かよ”
 呼び出しに嫌だという感情を全身から露わにしてドロテアは現れた。
 部屋の入り口付近で服を脱ぎ全裸になってから入り口扉を閉める。なかなかに効率のよい脱衣方法だと、少々だが感動を覚えた。
 「1、2、3、4.....」と数えながら私のほうへと向かってくる。灯りのない部屋を歩数で計っているようだ。
 ベッド傍まで辿り着いたドロテアを抱きすくめる。
「なにを吹き込まれた?」
「知りたいのか?」
 面倒臭そうな感情を露わにする。
「知りたいな」
「”オーヴァートは男もいけるクチじゃ”って。まあ噂で聞いてたから驚きはしなかったけどな」「それだけか?」
「そんなに気になるなら、俺の頭のなかのぞけばいいだろ? 手前なら簡単にできるだろうが」
「ふむ。ではそれに関して知りたいことはあるか?」
「男とやるとき、手前はどっち? 男に抱かれて喜び感じる方?」
「それだけか?」
「それ以外なにがあるんだよ。寝るならとっとと寝ようぜ。ところで、俺の質問に答えてねえぜ」
「お前の想像通りだ」
「そうかい。俺には関係のないことだけど、答えてくれてありがとよ」

 優しく抱いたつもりはないが、最初の頃とは違い、ドロテアは事後でも意識が残り、会話することができる。

「今飼っている男の愛人の名前を教えてやろうか?」
「いらねえ」
「あっさりとした女だな」
「そうか? それはそうと、アンセロウムが俺に話したのは男の愛人に関してじゃなくて、ラシラソフの話だ」
「そうだろうと思った」
「思ってたなら、わざわざ聞く必要ねえだろ。俺は寝る」
「話をしたい」
「俺は手前と睦言かわすつもりはねえよ」
「愛人の仕事だと言ったらどうする?」
「たしかに俺は手前の愛人だが、俺は”権力の愛人”であって”男の愛人”じゃあねえ。権力に体があって、それが俺を抱ける体だっただけのこと。俺にとって手前は権力、手前にとって俺は忘れ去るだけのものだ。俺と手前の間に感情も言葉も必要はない」

 皇帝は人間ではない

「若いというのは残酷だ。とはよく言った物だ」
 私が呟いた時、ドロテアはすでに眠りの中にいた。聞いていたとしても私には言われたくはないだろうな。

―― 残酷だ ―― 

第六話・いつか残酷を知る時まで[終]


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