ビルトニアの女
ビルトニアの女【5】
―― ハイロニア群島王国

 海と共に生きるハイロニアの者たちにとって、海は決して優しいだけの存在ではないことをは知っている。
 輝き穏やかな緑を含んだ青い海、荒れ狂う灰色が混じった海。
 いま彼らの前に広がる海は、覆われた闇との境が曖昧となった黒。だが海は白い波飛沫を上げ、彼らの王と共に戦っていた。
 ドロテアがハイロニア王国の護りに送ったのは、海神リヴァス。ハイロニアの王ハミルカルは、奇しくもドロテアと同じようにリヴァスの頭に立ち、神には影が朧げにしか見えない敵がいる方向に、ファイヤーボールを放ち場所を教える。
 ハミルカルの腹心であり、世界で最も残酷な”人間”であるファルケスは、神を置き去りにして魔物を切り裂いていた。
 魔物の血はファルケスの血に染まったとまで言われる髪ほど鮮やかな赤味はなかったが、肉の感触は人間のそれに似ており、血と死と殺戮をこよなく愛する、法王の座を狙う聖職者を満足させる。
 殺すことが好きなファルケスだが、いつまでもこの享楽を味わいたいとは思っていない。ファルケスは己の体力が無限ではないことを弁えており、法王の座を狙っているのだから死ぬつもりもない。
 よって”きり”の良いところで敵が引き上げてくれることを、いまエルセン王国で長い舌を出し、敵を挑発し手で肉を引き裂きながら殺している、人々に慈悲の教えをに与えたと言われているアレクサンドロス=エドに真面目に心の底から祈った。
 戦闘が忙しく楽しいアレクサンドロス=エドは、その不遜な祈りを受け取りはしなかったが、ハイロニア群島王国を襲っていた者たちが一斉に引き上げた。
「突然、なんだ?」
 ハミルカルはもはや後ろ姿も見えないが、彼らが向かった方角を見る。
『呼ばれたようだ。集合命令が掛かったと表現するべきだろうか。目的地は奴等が来た場所だ』
 号令をかけたのは選帝侯の血筋なので、リヴァスにも聞こえなかったが、ハミルカルよりはずっと遠くまで見ることができ、ハイロニア近辺からだけではなく、パーパピルスからもマシューナルからも襲っていた魔帝の配下が、続々と帰還していることが解った。
「誰が?」
「なんのために」
 飛びハミルカルの隣にきたファルケスも尋ねる
『敵は劣勢のようだ。しかし敵も運が悪い。あの女がいる時に攻めてくるとは』

―― 敵には勝ち目はない

「全軍トルトリアに終結か。可哀相に」
 例外なく全てがドロテアに殺されるのだろうと、ファルケスは死に滅びゆく彼らに、死者に手向ける祈りを皮肉混じりに、血濡れた剣を片手に捧げた。
「リヴァス」
『なにを聞きたい、海の王』
「どうしてお前たちは、あいつらを排除しようとしなかったんだ?」
『お前たち人間にとってこの世界は唯一のものであろうが、我々にとってこの世界は取るに足らないものだ』
 まだ荒れている海の上で、ハミルカルは神に問う。
「勝てない相手がいても気にならない?」
『そうだな。あの闇の中にいる存在とやらと戦い勝って、我等になにがある? 我々はこの世界の支配者ではない。この世界の支配者は、あの闇の中にいる存在だろう。正統なる支配者を押しのけてその座を奪うつもりはない』
「その考えがあったから、最高神の座をアレクサンドロス=エドに譲ったのか?」
 アレクサンドロス=エドは奪ったのではなく、彼らは神格を剥奪されたのではない。彼らはこの世界を支配したことなく、この世界を守る存在でもない。
『そうだ。なぜ我等がこの世界に固執せねばならぬのだ。なによりこの世界は”異質”だ』
「異質?」
『そうだ。この世界は我々にとって異質だ。詳しい理由は、この世界の正統なる支配者が知っているのではないか?』
「それじゃあ、聞いても答えてもらえないな、ハミルカル」
「一生解らないままだろう」
『そうか』
 二人と会話しながら、リヴァスの視界は遙か遠く砂漠へと注がれていた。血と腐肉と叫びに突進してゆく「敵」と呼ばれる存在たち。それらを受け止めるではなく、無視するように殺してゆくドロテアの姿。

**********


 ウィンドドラゴンは頭上に立つドロテアの命令に従い、口から衝撃波を打つ。その都度、凶暴さを物語っていた大きな牙が吹き飛び、粉々になってゆく。魂なき朽ちるのみの体は、
「撃て!」
 ドロテアの声のままに動き続ける。かつてその身を護り、人間の精一杯の叫びとともに放たれた一撃を無慈悲に弾き返していた鱗は、衝撃波を放つと同時に弾け飛び、血に染まった砂漠に降り注ぐ。
 無慈悲であった鱗は守るべき魂なき後も無慈悲で、飛び散る破片は敵も味方もおかまいなしに切り裂いてゆく。
 腕を切り落とされた人は叫び助けを求め、仲間が助ける。腕を切り落とされた死体は無言のまま動き続け、首をも落とされるも尚、動き続ける。
 ドロテアは足元で叫ぶ者たちの声など無視し、腕を組み左腕の手甲を握り絞めて周囲を見渡す。
 トルトリアはまだ形が残っていた。
 砂に埋もれた家々。噴水の形状を失い、水が溢れ出しているだけの場所。砂の上で散ってゆく者たち。
 嗅ぎ慣れた血の匂い、慣れた異質な暗さも、最後の決戦の場に生まれたこと。それら全てがドロテアにとって腹立たしかった。
 トルトリア王国は魔帝イングヴァールの侵攻を阻む世界の筋書き通りに出来上がったもので、役割は終えて王国は消え去ってもいいはずなのだが、イングヴァールを倒しても、この砂漠の中に僅かでもトルトリア王国の形が残っている限り、人々はここにトルトリア王国を再建することを諦めない。
「もう、終わりにしようぜ!」
 ここにトルトリア王国はもう必要はない。
 オーヴァートが望む滅びのためには、ここにトルトリア王国があってはならない――
 ドロテアはウィンドドラゴンの頭を踏みつけている足に力を込、もはや口でもなんでもない衝撃波が出るだけの場所を斜め下方に向ける。
「破壊しろ」
 ウィンドドラゴンの衝撃波が小さな家々をなぎ払う。敵も味方もいない方向から、敵と味方が混在する方向へと次々と破壊してゆく。
 血を吸わされた砂を舐めるように、死が留まり続けた家を持ち主に返すかのように。ここに国があった痕跡すら消し去るように。
「弱ぇ! 朽ちろウィンドドラゴン!」
 ドロテアはウィンドドラゴンにもっと、何もかもが無くなるように攻撃しろと指示を出す。腐り脆くなり、鱗を失ったウィンドドラゴンの体は、肉と腱になる。その腱が切れて凶器となって地面を抉り、肉が血の海に落ちて、そのどす黒い鉄錆びた海を蒸発させる。
 下あごを支えていた筋肉が衝撃波に削られ、顎が骨ごと落下し、多数の兵士を巻き添えにした。
 即死しなかった兵士たちの叫びを聞きながら、ドロテアはまだ攻撃を続けさせる。ウィンドドラゴンは自分の喉を消滅させ、胸を消しながらトルトリアを消し去ってゆく。
 人々を攻撃しようとしていた選帝侯の類縁が、惨状に言葉を失う。人々が死ぬことは気にはならないが、人々を殺しているのが同じ人間であり、なによりも、
「どうして、誰も助けを求めんのだ」
 誰もドロテアに助けを求めず、批難の声を上げることもなく、恨みがましい目でみることもない。
「世界はドロテアがどのような存在か知っている。だから助けなど求めない。批難もしない。この世界はあの女の思うがままになるしかないのだ」
 幅と厚みのある大剣を自らの右前方に構えながら、ヤロスラフが答えてやった。エールフェン特有の深い紫色の瞳は、イングヴァールの闇の下でもその色を失わない。
「……」
「イングヴァールに下ったお前の仲間たちに言ってやった。もう一度繰り返してやる。世界はもう、皇帝のものではない。ドロテアのものだ」
 ドロテアは自らの両腕を解き放ち、空を飛ぶ鳥の翼のような形を取って、ウィンドドラゴンを空へと持ち上げた。
 地上から離れた足から硬い爪が剥落し、大地が逃がすまいと手を伸ばしているかのように脚が引きちぎられているかのように裂けてゆく。
 ドロテアはウィンドドラゴンの頭に膝をつき、指先まで翼のようであった手を握り拳にかえて、上顎も残っていない頭を叩いた。
 僅かに残っていたウィンドドラゴンの頭蓋が割れた。その骨の隙間から衝撃波が無数の小さな光りとなり当たりに解き放たれる。
 頭を失ったウィンドドラゴンは体は次々と腱が切れて肉をまき散らして壊れていった。その衝撃波の中、ドロテアはヤロスラフと話をしていた選帝侯になれなかった相手を、いつもの通り見下す。
「貴様はなにを考えている」
「問いに答えて欲しいのか? それなら名前くらい名乗れよ」
 話しかけたドロテアの瞳に映ったのは、縦に切り裂かれた名も知らない相手。
「名前を知りたかったか?」
 背後から切り裂いたヤロスラフの問いに、ドロテアは首を傾げ戯けた表情を作る。
「さあね。ところでヤロスラフ」
 人間の死体の上に降り注ぐ灰燼となった”それ”を無視する。
「なんだ? ドロテア」
「俺は依頼された数の兵士を殺害したが、神ではなく”俺が殺した”と生き延びた奴等にしっかり刻まれたと思うか?」
 精霊神の力を得たドロテアは、もっと簡単に、こんな惨状を作らず兵士たちを消すことはできた。だが敢えて砂にまみれ血を溢れかえらせ、朽ちた肉を引き剥がし骨を砕き、むごたらしく兵士たちを道連れにして殺害し、その死をも否定し戦わせた。
「答えが欲しいか? ドロテア」
「さあね」
 尋ねておきながら、どうでも良いとばかりに、はぐらかす。
「ならば答えないでおこう。敵は減ったが、まだ殺すべき相手は残っている」
「頑張れよ。選帝侯」
 ドロテアは亜麻色の髪をかき上げ暗き黒い闇を見上げる。
「ドロテア」
「どうした? ヤロスラフ」
「人がどう思っているかは解らないが、俺の血に繋がる奴等の考えは解る。”我々が人間に恐怖を与えにきたというのに、なぜ人間が仲間である人間に恐怖を与え、人間はあの人間以外恐怖せぬのだ”……恐怖を与えるために気合い入れてやってきただろうあいつらに、かなり同情している」
「ヤロスラフに同情されちゃあ、あいつらも立つ瀬ねえだろから、俺が直々に殺してやるとするぜ」
 ドロテアはそう言い、戦っているマリアの元へと向かった。

**********


「もうちょっと頑張ってくれないかしら」
 マリアは自分を乗せて飛びながら、選帝侯らしきものと戦っているアンセフォに、頑張りを求めていた。
「充分頑張っている」
「私の槍が届かないんだけど」
「無理して戦う必要ないだろ。あんたは俺に敵の大体の位置を教えてくれるだけでいい。リヴァスが向かった先の男はそうしている」
「私は自分で戦いたいの」
「……好戦的だな」
「そうかしら?」
 マリアに言われたアンセフォは、形状を変えた。
 彼は人間にとって鳥に見える形状をとり、マリアを首と頭の間の位置に乗せて戦っていた。光りが失われた世界であっても輝きを失わない再生の鳥。
 大きさも巨大で、両翼を延ばしきるとエルランシェの端から端まで届く。彼はその大きさを瞬時に縮めた。翼一枚を馬一頭分ほどに。
 マリアは今度は背に乗る形となり、
「これで槍は届くはずだ。で、どっちに向かうんだ?」
「あっち」
 マリアは穂先で相手を指し示す。
「そっちか」
―― いったい、どこから穂先を見ているのかしら?
 体を回転させ指し示した方角に突進してゆくアンセフォ。穂先を見ているような素振りはいっさいないのだが、指示通りに間違いなく突き刺さるように飛ぶ。
 
 口が悪くて喧しくて、横恋慕した挙げ句にドロテアに殴り倒された神だが、いまの彼はそんなことをしでかしたとは思えないほどに神々しかった。

 マリアたちの相手は”男性”人間の形状に近いので、選帝侯の一門であることと、深紫色の瞳を持っておらず黄金を武器としないのでエールフェン選帝侯類縁ではないことはマリアにも解る。それ以外の解ることと言えば武器に明るくないマリアにとっては初めて見る形であったこと。
 マリアの目からみると相手の武器は、伸びる背骨のように見えた。見た目は一本だが、振り下ろすと節と節の間が伸び鞭にも似た動きをする。初めて見る武器なので、どう戦えばいいのか? と悩みもしたが、離れていては攻撃できないことは明かなので、まずは近付くようにアンセフォに指示を出した。
 相手は乗っているマリアなどものの数には数えておらず、相手はアンセフォだとばかりに攻撃を加える。マリアの目では捉えられないほどの速さで、武器を横に動かしアンセフォの体を側面から打つ。
「武器か?」
 アンセフォは見えず聞こえずだが、自分が殴られた衝撃だけは解る。
 マリアが指し示す方角から少し離れて上昇し、見えないものに対して尋ねた。
「武器も見えないの?」
「見えないな。あの武器は、あいつら自身を変化させて作った武器だろうな。厄介……」
 頭上から急降下してやろうと、世界を覆っている闇に闇を重ねた膜に傍まで上昇し、落下体勢を取ったとき、相手が背後から殴られているのを目撃し、
「きた……」
 攻撃方法を変えることにした。

 後ろから殴ったドロテアと共闘することに――

「どうした?」
 まさに”不意に”背後から衝撃を受けて弾かれた男は、振り返り身構えてから自分を殴った相手を見る
「……」
「まさか”背後からは卑怯だ”とか言うんじゃねえだろうな」
 男は自分の表情を見ることができないのは幸いであり、ドロテアにその表情を見られたことは、敗北も同然であった。
 一言で言い表すならば、ひどい顔。
 自分を殴り飛ばしたのがヤロスラフであったなら、男は目を見開き口を歪め、歯軋りをすることはなかった。
 相手が対等、もしくは地位を奪うために存在する相手ならば。だが男を殴り痛みを感じさせたのはドロテア。
「人間が、良い気になるな」
 それは男にとって名もなき存在。
 どれほど強くあろうが、それは人間であって人間でしかない。
「無様に腹ぶち抜かれて血反吐まき散らしたセラフィーマも、似たようなこと言ってたぜ」
「……」
「選帝侯になれなかった屑が」
「人間!」
「手前に言われなくても俺は自分が人間であることくらいは、知って”いた”! さあ、来い……ああ、手前の名前はなんだ?」


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