ビルトニアの女
レクトリトアード【14】
 夕暮れを過ぎたエド首都は、いつもよりも明るくそして人々の楽しげな声があがっていた。
 本来ならば静寂な広場で、フジツボを引き剥がし、いつのまにか”フジツボ祭り”が開かれていた。開いたのは先日派手な就任式典を行ったファルケスたちハイロニアの一党。
 彼らは海上や海際に住んでいるので、調理方法も多数知っており、広場はそれは楽しい祭り会場となった。
 騒ぎを好まないというのが聖職者の建前だが、街に住んでいる者たちは祭りなどがあったほうが楽しい。とくに長年魔王の影に怯え、魔物の跋扈に行動を制限され、そしてこれから訪れる悲劇的な終末になるかもしれない魔帝との遭遇。
 それらの過去と未来を一瞬でも忘れたいと、楽しみに身を委ねる。
 それは享楽ではなく、明日への糧となるものだ。
 聖職者はそれを認めないが、認めてもらえないとしても彼らは楽しむ。
 その広場へと法王がセツとともに訪れた。さすがに驚き人々は静まり返るが、
「続けてください。楽しんでいる姿をみたいのですよ。この目で直接」
 法王は続けるように促し、すっかりと藻やフジツボがこそげ取られた船底に自らの足でゆっくると歩み近寄り、船体を見上げた。
「この船で向かうのですね」
「ああ」
 隣のドロテアが答える。
「空飛ぶ船とは、御伽話のようで素敵ですね」
 塗装は剥げ床板は痛んで軋み、竜骨にも大きな亀裂が入っている古び解体されるだけだった船は、空を飛んだただ一つの船として名を残す。
「お前だって空飛べるだろ。アレクス」
「単身で空を飛ぶのと、船で大空を翔るのは違いますよ」
 楽しげな声を聞き、その輪に入りたいと思えど、決して入る事の出来ない立場の法王。
「……乗ってみるか? 試しに人を乗せて飛ばせしてえ」
「えっ! 良いんですか!」
「ああ。俺の力で動かすんだが、此処まで大きいのは慣れてねえからな。失敗しても、お前なら死なないだろ」
「はい!」

 ちなみにドロテア、試し乗りはさせるつもりだった。もちろんその時の乗員はエルスト。

 船をもう一度空に飛ばすということで、周囲にいた人々をよけさせて、地上から甲板までを繋ぐ光り透き通った階段をドロテアが用意する。
 話を聞いたセツは、
「法王を一人で乗せるわけにはいかない。それにアレクス、あの女を信用するな!」
 前半は枢機卿として、後半はセツ自身として引き留めるも、
「大丈夫だよ。落ちたって私は平気だよ」
 ドロテアを信用しきっている上に、自らの力を理解している法王は楽観的だった。
「そういう問題じゃねえ!」
 小声で乱暴な口調になったセツのやや右前方から、
「妾も乗っていいかえ?」
 法王に負けず劣らずの王女さまも、空飛ぶ船に乗れると聞いて目を輝かせてやってきた。
「法王庁でちゃんと仕事するってなら良いぞ」
「クナ、貴様!」
「良いではないかえ、セツ。なあ、ドロテア卿よ」
「なんだ、クナ」
「この祭りのフィナーレとして猊下と妾、そして希望者を乗せて空を飛ばしてくれぬか」
「フィナーレなあ。命の保証がなくてもいいならって前提で、乗りたいヤツを募れよ」

 ドロテアが動かすというところで怯むかと思われたのだが、夜空を舞う船に乗れるというのは恐怖に勝る魅力があったようで、希望者が殺到してしまい、
「大丈夫だよ、セツ。私が子供たちは守るから」
 結局、希望した子供を優先的に乗せることになった。
「そういう問題じゃねえ……」
 恨みがましさを隠さずドロテアを睨むセツと、そんな視線を”ものとも”しないドロテア。
「最高枢機卿ってのも大変なもんだな」
 そろそろこの二人のやり取りと姿も見慣れてきたエルストは、自分が試乗員にされなくて良かったと思いながらワインを口に運び、
「そうだな」
 同じく”試し乗り要員”にされるんじゃないか? と思っていたビシュアが返事をする。
「底は抜けないようにできる。でも人同士がぶつかって潰れたり、呼吸が苦しくなるのは防ぐのは面倒だな」
 ドロテアが乗れる人員を観ながら決め、船首に立ち人々に背を向けて、右手を前に伸ばし、左手を体から少し離す。息を吸い吐き出しながら船を浮かせた。
 その時の感触は乗っていた者にしか解らない特殊な感触だったという。言葉にすると”雲に乗ったらこんな感じだよ”というもの。
 もちろん雲には乗る事はできない。だが幼い日に夢見た「雲に乗る」という希望を叶えたら、こんな感覚だろうと。
 上空の冷たい風が船の上を通り抜け、その風の先にある物を観た時、子供たちは夜風に遊ぶ亜麻色の髪と闇夜に浮かぶ白皙の肌とその美しさに、空飛ぶ船に乗っていることが誇らしくもなった。
 ドロテアは前と下を見ながら、高さを測り速さを計算し、曲がるときの角度を考え、勢いで人が振り下ろされないようにするためにはどうしたらいいか? を考えているだけで、後ろの子供たちやクナ、そして法王の感動は預かり知らぬ所だった。
 その姿がより一層美しさを際立たせていたのかもしれないが、ドロテアとしてまさにどうでも良いことだった。
「ほっほっほっ! 驚いたぞよ」
「クナ様!」
「びっくりしたけど、楽しかった」
「猊下」
 船を着陸させ、一度目に乗る事のできなかった子供たちを乗せて再度飛び上がる。一度目に乗った子供が数名混じっていたが、ドロテアは特に咎めることはしなかった。
 試し運転を終えて、船から降りて片付けに背をむけてドロテアは船を見上げる。
「あの程度じゃ死なねえことは解った」
「すごく嫌な台詞ですよ、姉さん。子供たちも喜んでくれて良かったですね」
「……まあな」
「その空白はなんですか?」
「深い意味はねえよ」

 夜は変わらず、そして朝も同じように訪れる。
 白亜の街は昨晩の名残を残したまま、朝日が照らす。
 あれ程までに夜は明るく楽しかったはずの場所が、朝日に照らされて少しばかりの寂寥を感じさせる。
 廃船は朝日を背に風に揺れることもなく、その場に座している
 日の出の前から修道士たちは動きだし、祈りを捧げ朝食を取り、各々の仕事をはじめていた。
 この船が今日旅立てば、広場は何時もと変わらない姿に戻る。

 荷物の運び込みや、法王への挨拶など、次々と用事を終えた者たちが法王庁をさってゆき、法王庁も静けさを取り戻しつつあった。
 その静けさは嵐の前の静けさというものであり、決して平穏にかえるものではない。誰もが解っているその時を前に、人々の神経はより研ぎ澄まされ、静けさを求める。

 法王庁を最後にあとにしたのは、
「行くぞ、エルスト」
「ああ、ドロテア」
 エルストとドロテア。
 ドロテアは腕を組み、法王庁の入り口でそれを見上げていた。
 白亜の宗教がこの先どこへ向かうのか? ある程度は解っているが、ドロテアが触れる問題ではない。
 魔帝と呼んでいるイングヴァールとの戦いの結末は、新たな戦いの幕開けとなる。―― 戦わない方法はないのでしょうか? ―― という考えはドロテアにはない。むしろ世界を一度放り投げてみたいとすら感じている。
 皇帝亡き後、世界はどうなるのか? それを見るためにドロテアはいるのだ。
「ドロテアさん! エルストさん!」
 入り口を見上げていたドロテアは、背後から声を掛けられて振り返った。
「何だ? ミンネゼンガー」
 先程まで旅に出る者たちの挨拶を法王として受けていたはずなのに、いつの間にか上質ではないフードと、すり切れそうなズボンをはき、リュートを持った吟遊詩人の格好で法王庁から出てドロテアの背後に回っていた。
「……」
「お前が好きだった煙草は、海に捨ててきた。今頃ネーセルト・バンダの王子の棺と共に海底に眠ってるだろうよ」
「あの……その……さようなら!」
 菫色の瞳は揺れたが、決して涙を浮かべることはなかった。法王の――さようなら!――の意味をドロテアは知っている。自らの決断が向かう先は”ここに残る”者たちにとっては別れなのであることを。
「じゃあな。ミンネゼンガー。五年後あたりには会えるかもな」
 寿命より先の未来を観ることが出来ない皇帝の一族。
 五年後に死ぬ彼はその先になにがあるのかは観ることはできない。
「さようなら、アレクス……じゃなくて、ミンネゼンガー。またね」

 終わりを迎える法王アレクサンドロス四世。その先がなんであるのか? 
 法王は眩いばかりの光に照らされている通路に向かって、両手を広げて去っていったドロテアと、ポケットに手を入れたままついていったエルストの後ろ姿を見送った。

 法王はその場に残り、澄み切った青空を見上げる。程なくして広場のほうから大きな歓声があがり街中に響き渡る。
 朽ちかけた船が薄い白い雲が広がる青空を渡るさまは、幻想的とは違うが喜びの声をあげるに相応しい眺めであった。

空を飛ぶ海鳥よ
どうか私を大陸へ連れて行ってくれないか
この高き山を  その翅で
越えられぬこの高き高き山を  荒れ狂い  船の通られぬ海を
あの大陸へ  あの大陸へ
私を連れて行ってくれ

「さようなら……さようなら……」

空を飛ぶ海鳥よ
どうか私を故郷に連れ戻してくれないか
ああ遠き故郷に 思いを馳せる
もう戻れぬこの身は 大陸で眠りに付いて 私の思いだけが
あの島へ あの島へ
私は戻ってゆけるのだ


 ドロテアとエルストが法王アレクサンドロス四世の前に現れることはもうない。


第十七章 【レクトリトアード】 完


Copyright © Iori Rikudou All rights reserved.