ビルトニアの女
レクトリトアード【8】
 静かな式典が終わり、少しの間を置いて歓声があがり、ファルケスは移動して集まった物達の前で演説をする。それが終わったら大通りをパレードする。
 紙吹雪が舞い、花びらが舞い、きれいな袋に入った菓子が沿道で歓迎する者達に放り投げられる。
 偶に袋には稀に銀貨が入っていたりもする。
 人々はその小袋を求めて大通りに集まり、行き止まりの小径の先には静かなままで。誰も訪れそうな気配はなかった。
「姉さん……」
「話が逸れたな。聞かれた事には答えてやるよ。お前の改派だが、無理だと思うぜ」
「そうですか」
「マリアは比較的簡単に受け入れられるんだよ。マリアに拘りがないとかじゃなくて、ごく普通の人が持つ信仰だから、エド正教の中ならあまり拘りがない。派によって戒律とか違いはするが、そいつは教会内でのことで一般には、なんの問題もねえだろ? マリアはそういう所で生きて来たから、改派もすんなり受け入れる。これがイシリア教徒になれとか、ギュレネイス教徒になれってなら抵抗するだろうが」
 ゆっくりと進むパレードの馬車。久しぶりの顔を隠さない枢機卿の就任式。
 過去を消された死せる子供達以外の枢機卿就任は、過去の王族や貴族出の枢機卿就任式と同じように国からの寄付と援助で盛大に執り行われた。
 ハイロニア群島王国初の枢機卿だったバルミア。ヤロスラフの母親だが、彼女の時代はまだ国力がさほどではなく、夫であった先代エールフェン選帝侯も派手を好まなかったので 《節度ある》 範囲内だった。
「俺はこの通り信仰心の薄い女だ。なによりエド正教徒ってよりも、イシリア教徒に属している部分が多いと自覚している。でも俺はそれ以上に利害に重点をおくから、自分の得になるなら改派はできる」
 だが今回は違う。
 海賊国家はその勢力を大陸で誇示するために絢爛豪華に催した。バルミア枢機卿が就任した時代とは国力が違うことを圧倒的な式で見せつける。
 第一の国家にのし上がろうとしている若い国家は、止まることを知らず、知っていたとしても立ち止まろうともしない。
「最後にエルストだが。あいつの場合は改宗になるから、この場合は論外だけど……改宗はしねえように思える」
「そうですね」
 セツが不在のときに提出された式典の詳細に、腹心のエギとトハは難色どころか拒否を示した。
”宗教としては不適切である” 
 だがクナが二人を止めた。
 許可し散財させたほうが得だろうと。二人もクナの言ったことは即座に理解はできた。
 ここまで大きな式の経費を全額負担するとの申し出は、ハイロニアに対して少なからず重荷になるはずだろうと。
 式を拒否して、費用をそのまま軍備にあてられては、エド法国でも脅威になる。
 ”もっとも良いのは用意させて当日にでも潰すことじゃろが、国家間の不和になるであろうしのう”
 二人は一応の許可を出した。「最高枢機卿閣下の最終決定に従うように」との注意書きを付けて。
 そしてセツは許可を出す。
 『ファルケス』
 『はい』
 『余力はあるのだろうな』
 『なんの余力でしょうか?』
 『十年以内に討つぞ』
 『解りました。ハミルカルの小遣いを減らし、イヴリーンの不必要な化粧代を削って貯金しておきます』
 『では許可をだそう』
 『ありがとうございます ”猊下”』
 猊下に関して否定はしなかった。

 人々の心を一つにする《存在》が消える時が刻々と近付く。

「ヒルダ、お前はセツに初めて会った頃は緊張してただろう」
「はい」
「今は?」
「当初ほどの緊張はありません」
「お前は近付きすぎたんだよ」
「なににですか?」
「神の代理人に」
 思い描いた神ではなく、教えられた神ではない。
 だがいずれ自分が跪く神の代理人は、神そのものであると認められた。
「……」
「俺が皇帝に近付きすぎたのと同じように、お前は神の代理人に近付きすぎた。お互い遠くから見ているべき相手に近付きすぎた結果だ」
 あまりにも乖離し過ぎたその姿だが、支配者としてみると矛盾は少ない。
「……」
 宗教国家の頂点に立つには相応しいが、それを受け入れられるかとなると 《ヒルダにとっては》 別の話だった。
「なにも知らなかったら、神の代理人として認められるし改派にも従えた筈だ。それが出来なくなる程に近付いて知った。知ったことは悪いわけじゃねえが、近付いたことにより自らの理想を追い求める気持ちが強くなったんじゃないか? お前は今まで通りエド正教に従って生きてくなら、改派はしないほうが良い。これ以上セツに、いや次期法王に近付くな。セツ自身は……あれはまあ、あれで見習うべきところは多数あるけどよ? 国のために全裸で囚われるとか。あんな覚悟は中々できるもんじゃねえぜ」
 全く褒めていない上に、言われたヒルダはそんなこと見習いたくはない。
「姉さん、あんまり可哀相なこと言わないでくださいよ。偉い人なんですから」
「いくら偉くても全裸さらす中年じゃあなあ」
「中年中年言っちゃ可哀相ですよ! それに関して私は閣下の肩を持ちますよ、不可抗力ですし!」
「なわけネエだろ。あいつ自分から掴まったんだぜ。自分で全裸の海に飛び込んだんだよ」
 ヒルダの精神や理想の面においてセツは対立するが、人として援護しようと思わない相手でもない。
 ヒルダとしてはここで見捨てたら、まさに神の教えに背くような気がしてならないので、姉を目指して話をすり替える手段に出た。
 話題を途中ですり替えるのは教えに背かないのかなどは愚問だ。
「中年の全裸と言えば! この前エトナの実家に滞在したとき、レイさんがいるってのに父さん風呂上がり、全裸で歩いたんですよ!」
 ドロテアは腰にタオルを巻くまではいいが、留め方が下手ですぐにタオルが落ちてしまう父親の姿を思い出し渋い顔をする。
 娘として明るい表情など一切できない事実。
「一応客のレイの前を全裸で歩くのもアレだけどよ、いい年した娘の前も……昔からそうだったけどな。夫婦二人きりだから気付かないんだろうよ」
 顎に手をあてて、ヒルダから視線を逸らして、他人事のように。
「そうですね。私たちが子供の頃から、風呂上がりは全裸でうろついてましたね」
「思い出すほどに親父の中年裸体が頭に浮かんでくる。自分の父親だからこそ、うざってぇなあ」
 ”あれさえなければ良い父親……でもねえか”
 ふと良い所と悪い所の数を比べたら、悪いほうが僅差で勝利しそうなドロテアとヒルダの父親。この微妙さがなんとも微妙で仕方ない。
「でもセツ閣下の全裸は中年って感じしませんでしたよ。若いって感じでもないですけど、エルストさんよりもしっかりとした雰囲気が」
 ヒルダの記憶には、風呂上がりタオルがすぐに外れて全裸になってしまう父親の裸体の他には、姉の家を尋ねると床に半裸で転がっているエルストの上半身くらいしか思い浮かばない。
 ”思えば何故エルストさんは、半裸で玄関傍の床に転がっているのだろう” と考えたヒルダだが、考えて解るような問題でもなければ、聞く価値もなさそうなので即座に疑問を投げ捨てた。
「勇者が自堕落ヒモと同じ体型だったら、魔帝と戦えねえだろが。でもまあ、確かにセツの体は若かったな。やっぱり皇帝に近いから、似てるんだな」
「オーヴァートさんに似てるんですか?」
「いいや。抱かれてみりゃ、ヤロスラフに近いんじゃねえか。オーヴァートは全く違うからな」
 遠離り消失したエルストの上半身と、入れ替わり立ち替わり訪れたヤロスラフ。
「……? 姉さん?」
「そうりゃそうか。言ってなかったもんな」
「昔の男はミロさんで終わりって言ったじゃないですか!」
 妹に責められる類のものではないが、確かに言い切って”後は登場しねえよ”といったニュアンスを伝えたような気がしたドロテアは、そのままもう一つ教えることにした。
「そりゃな。ヤロスラフは消えた過去の男だから、昔の男には入らねえんだよ」
「消えた過去の男? 無かったことにしていると?」

 音だけの花火が上がる。大量の花火の音は周囲の空気をふるわせて、そしてより一層大きな歓声が重なった。

「俺は覚えてるが、ヤロスラフはもう記憶にない。オーヴァートが記憶弄ったからな」

 一人は歓声に背を向けて、一人は歓声を臨みながら笑った。

「過去の男と全裸中年はどうでも良いとして、改派に関してありがとうございました」
 ヒルダはクーブルシェフに覆われた頭を深々と下げる。
「そうか」
 一本に編んだ髪はしっかりと収められており、一筋たりとも見当たらない。
「戻りましょうよ。そろそろお昼ですし」
「俺はもうちょっと此処にいる。別の奴と話さなけりゃならねえからな」
「解りました。それじゃあ、姉さん。先に戻ってますから」

 ドロテアに背を向けてヒルダは歩き出した。
 アーチの下の薄暗い小径に入り、早くはないがドロテアの前から遠離ってゆく。

**********


 ヒルダが生まれた地方都市ヒンデルにも、似たような小径があったことをドロテアは覚えている。昼間でも暗く冷たい道が幼い頃のドロテアはあまり好きではなかった。
 ヒルダが生まれる時、ドロテアは手伝いをしていた。数の上だけでは四人目になる母親のお産は、子供の目からみてもあっさりとしたものだった。
 産湯をくぐり白い肌着を着せられた、目もまだ開いていないヒルダを産婆から渡されそうになる。
「ほら、お姉ちゃん」
 初めての妹、久しぶりの姉妹。
 ドロテアは手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めた。
「手が痛いから落とすかもしれない」
 切り落とされ治療によって戻った二本の指だが痛み続け、ヒルダが生まれた当時は左手は親指を動かすだけでも激痛が走っていた。
「じゃあここに座って」
 床に座れと言われて、大人しく従った。産婆はドロテアの膝にヒルダをおき、右腕を体に回すように教えた。
「こうやってあやしてね」
 ベッドの上の母親が嬉しそうな表情をしていたこと、ドロテアは知らない。
 膝の上で眠っているヒルダを見つめていたからだ。
 ある日ドロテアは不用意にヒルダの傍に左手を置いた。手に手が触れたヒルダは反射的にドロテアの小指を握り締めた。

―― なんで寄りによって小指なんだよ
―― 普通は小指でしょう。悪いとは……はい、姉さんの言う通り悪いとはちっとも思ってませんけど。仕方ないじゃないですか! 解らないでしょう

 身体中に走った激痛に叫び声を上げ倒れ込む。ドロテアの叫び声に驚きヒルダは、大声を上げて泣き出した。もちろん握っている手に力を込めて。
 指を引っ張るなどということは、ドロテアには思いつかなかった。
 何事かと慌てて部屋に来た両親は、ヒルダの指を開いてドロテアの指をゆっくりと抜く。母親はヒルダを抱いて泣き止ませようとし、父親はドロテアの背中を撫でる。
 声をかけられられないような表情だったと、後に両親はドロテアに語った。切れ落ちてしまった指を急いで魔法で接着したが、僅かな ”ずれ” が生じており、それが激痛の理由だった。痛みを取るには外科手術を受けるか、訓練して ”ずれ” を強制するしかなかった。ただし手術は魔法接合に一般手術を重ねるので成功する確率は低く、下手をすると残っている指全てが動かなくなる可能性があった。
 痛む手を空に掲げて歯を食いしばる娘に、父親は本当にかける言葉はなかった。
 そんな事があった後、薬草の心得のある父親は麻酔を作り指に塗ってやった。怪我をして以来、初めて痛みを訴えることを止めた指。
 だが手全体が動かなくなる。
 痛みを捨ててずっと手を麻痺させておくか、手術を受けてみるか。麻痺状態の掌を見て、成功する確率の低い手術を受るものかと、ドロテアは決意した。


―― 痛くても動くほうが良かった。動かない手なんざ、ないのと同じだ。だったらあの時、伸ばした手ごとゼファーと一緒に食われた方がましだ


 夜眠る時は麻酔で痛みを消し、昼間はヒルダに掴まれただけで体が動かなくなる程の痛みに耐えて訓練をすることに。
 様々ある訓練方法の中からドロテアは、最も難易度が高い魔法を選んだ。
 左指は殆ど動かない上に一本少なく、元々の利き腕は左手なので右手の扱いは悪く、魔力も高くはない。
 魔法を習い始めた当初は「おちこぼれ」以下だったが、誰もおちこぼれとは思わなかった。左手首を右手で握り締め、震えを止めて指を動かす姿は、魔法を教えている教師も恐怖を感じた。動くまでは時間がかかったが、動かせるようになってきてからの取得速度は、当然のごとく群を抜いていた。
 教師がドロテアに魔法の道を進めなかった理由は、魔力がないこともあるが「魔法がこの子の身を滅ぼすかもしれない」と感じたからでもあった。真面目な生徒と、追い詰められたように学ぶ生徒は違う。ドロテアは後者の部類でも限界に近い位置に立ち学んでいたので、おそらくどんな教師であっても身を滅ぼすように感じただろう。

 ”このままいけば、邪術に手を出すかもしれない。それもかなり危険な”

 ドロテアは教師が思った通りの道を歩んだが、そこでも止まらず進み続け、信じられないような大きな変貌を遂げる。

 ヒルダが神学校に入学するとき、二人で公園に行った。

 小柄だったヒルダはドロテアの左手小指を握り締め、引っ張った。
「姉さん。あの木で背比べしましょう」
 ”ぐいぐい” と引っ張られる小指。
「引っ張るんじゃねえよ」
 開放的な空が心地良かったことと、ヒルダの手が小さかったことしかドロテアは覚えていない。

**********


 無意識のうちに伸びた手甲がはまった左腕の先に、遠離り小さくなったヒルダ。
 ヒルダはアーケードのかかっている小径を抜け光の下に出た。大通りに向かう為に右に曲がるときドロテアの方を振り返る。
 肘が曲げられた左手は軽く振られ、右手は何時ものように腰のあたりにおかれていた。ヒルダも笑顔で手を振りかえして、小径を抜けて歓声の上がっている大通りへと駆け出した。
「行っちゃったね」
「手前、どこから出てきてんだよ、オーヴァート」
「壁。この頃壁から登場するのが楽しくて」
「楽しむな」
「……」
「……」
 ドロテアは腕を組み直し、オーヴァートを見上げる。
 ”半端” に壁に溶け込んでいるオーヴァートは、昔見覚えがある 《残酷そう》 な顔をしていた。
「どうした、オーヴァート」
「ヒルダは理想が高すぎじゃないかな?」
「理想は高くて良いんだよ。地に落ちるまでの時間が稼げるだろうが」
 理想が叶う日が来るとはドロテアも思ってはいない。
 理想が叶う日をその目で見られるとはヒルダも思ってはいない。だがヒルダは信じることが出来た。そしてドロテアは遠くから見続けるのだ。
 理想が地に落ち行くか、在り続けるか、それとも登るか。
「そうも言うか。それにしても次の敵に人間を選ぶか人間かっ!」
 オーヴァートの言い表したいことは、吐き捨てた語尾でほとんど理解できる。
「多分なあ。お前がいなくなった時、人々想像で敵を作るだろう。現実にはない、でも強大な敵を」
「その為の宗教だもん。やっと長い下準備が陽の目を見る日が来るんだね。勇者達に”人間に教えるよう”指示を出したアデライドも喜んでいることだろう」
「……本当か?」
 オーヴァートは片足をドロテアの立つ道に降ろして、ゆっくりと壁からすり抜けてくる。長い髪も全てすり抜けて、瞼を閉じ無表情のままドロテアの耳元に囁く。
「さあね」
 それが真実なのか? 虚偽なのか? ドロテアはそれを問わずに両ポケットから一つずつ 《証》 を取り出して返した。
「手出せ。ほらよ、オーヴァート。返却する」
 なにが出て来るかなど解っていたオーヴァートは、掌に落ちてきた学者証と薬学者証の重さに責めるような口調となる。
「努力して手に入れた ”称号” なのに、もう必要無いのか……残念だ」
 自らの手の上に乗っている学者証の重さ。
 ドロテアがオーヴァートの邸にいるとき、必死に勉強して取ったもので、その姿を良く覚えていた。あれ程の努力を、いとも簡単に捨ててしまうことのできるドロテアに呆れつつ、捨てる理由の一部分が《自分の為》であることに喜びを感じる自分を哀れに感じながら瞼を開く。
「手前が残念がってどうするんだよ」
 努力していたことを誰よりも視ていた。
 オーヴァートに ”努力” は理解できないが、必死だったことだけは伝わってきた。その努力の全てが此処に消え去る。
 瞼を開くと同時に、あの時共に過ごした時間も消え去ってしまったことに気付く。
 ドロテアと別れてから時の殆どを止めていたオーヴァートの胸の内を、ドロテアは根こそぎ持ってゆく。
 空虚であった体に宿った想い出が、本当に過去になる。必死に留めていた想い出も《真の持ち主》には叶わない。記憶の中の《娘》は止まってくれることはないのだ。

 その歩みが自らの為であることを知りつつも、それ以上歩んでくれるなと。

「いつかヒルダも返しちゃうのかな?」
 ヒルダが目指そうとするものを得るには、今のヒルダであることを捨てる必要がある。
 個人として信じてゆくために、法王庁という組織から去らねばならない。即ち位を持つ聖職者であることを捨てなくてはならない。
「手前なら解るんじゃねえの?」
 未来を観ることの出来る男を小馬鹿にする。
「視ようと思えば視ることは可能だな。未来ねじ曲がってくれないかなぁ」
 何時もドロテアがするポーズのように、指を顎にあててオーヴァートは首を傾げて舌を出す。
「なに言ってんだよ」
「ドロテアとエルスト、そしてミゼーヌとグレイはいつ死ぬか解らないけど、後は解っちゃってるからさ」
 オーヴァートは自らの寿命までしか未来を観ることはできない。
 だから、ドロテアとエルスト。ミゼーヌとグレイがいつ死ぬのかは解らないが、他は視えるということは……
「精々嫌われて長生きしろよ」
 オーヴァートが長生きするのか? それ以外の者が早死にするのか?
 強大な力を手に入れたドロテアだが、それは解らない。その力を望まなかった。世界を見続けるために、その能力は不要。人々が歩む先を見て、気を回して都合良い道、あるいは悪路を造るつもりなどない。
「冷たいなぁ……ところでさ、ドロテア。その力は何だ?」

―― この身で操ることのできる最高の力を寄越せ
―― 「これ」でもお前には叶わないんだろ? レシテイ。いいや、良いんだ

「手前は解ってるだろう」
「そりゃ解ってるけどさあ。ねえ、ここで言わない?」
「なにを?」


 卑怯な男だと思う。
 取り残されてしまうのだよと良いながら笑う男に、少しでも同情したら終わりだ。
 卑怯な女だと思う。
 取り残されることを知っても、自分の意図に沿った道しか進ませる気がない所など。


「破滅の名だ。お前の身の内にあるゴルドバラガナをも覆い隠す力の名を。言え、娘」
「誰が言ってやるか 《皇帝》 手前が死ぬ時に左の耳元で囁いてやるから、それまで無様に生きてやがれ」
「お前は本当に私には冷たいな、娘」
「今更知ったような顔するな。さて……戻るか」
「じゃ、一緒に行こうか。それでさあ、こっちはまだ持っててくれるかな」
 鼻先に突き返された”学者証”
「何でだよ」
 邪魔だと避けようとしたのだが、
「もう少すると、王学府の入学試験と採点が待ってるから。採点手伝ってくれるよね。大陸が混乱しているからといって、手抜きはしたくないからサ!」
「引き受ける」
 再度《交付》された。
「ドロテアなら引き受けてくれると思ったよ」
 人の命は有限で、時間も限られている。
 ドロテアに必ず魔帝イングヴァールに勝てる自信がある以上、試験も採点も合格発表も通常通りに行うという姿勢を貫く。世界の終わりかもしれない程度で試験を止めるほど、甘くはない。その程度の試験なら、ドロテアは易々と通り抜けただろう。
「混乱如きで入試試験を見送ったり、適当にするようなら王学府は必要ねえ。じゃあ魔帝を攻めるのは合格発表の後が良いか」
 ”まさかあの年に試験をするとは思わなかった” そう言った者達もいたが、試験は公正で何時もと変わらない雰囲気で終了した。
「再来年の試験終了後あたりで良いんじゃない?」
「良くねえよ!」
 ポケットに学者証を押し込みドロテアは歩き出した。当然のように隣に並び歩いていたオーヴァートは、小径でドロテアの腕を引く。
 体勢を崩したドロテアは薄暗いそこでオーヴァートの表情は見えなかったが、見えたとしても変わらなかっただろう。
「今でも愛していると言え」
 必要なのはドロテアの表情。
「いいぜ。幾らでも言ってやるよ。俺は誰よりもお前のことを愛している、オーヴァート。そう今でも変わらず愛している」
 嘘をつくのが得意な女は、かつてを思い出して綺麗に嘘をつく。
 虚に描かれた嘘ではなく真実を混ぜた嘘は残酷だ。それを知りながら、望むのならば叶えてやろうと甘やかに微笑む。
「……行け」
 腕を放されたドロテアは一人で歩き出し、角を曲がるときに小径が視界にはいったが、そこにオーヴァートの姿は既になかった。

「俺も馬鹿だが、手前も救いようのねえ馬鹿だな、オーヴァート」

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