ビルトニアの女
邂逅【8】
 その疾走は人々の脳裏に焼きつく。
「レイ! レイ! 落ち着いてレイ!」
「うあぁぁぁぁ!」
 大の男(エルスト)を髪にはっつけて走り回る男。王城を破壊した彼は国民のもう一つの拠り所をも破壊した。
 もう一つの拠り所・ハルベルト=エルセンの霊廟。
 王都の外れにある霊廟は、レクトリトアードの襲来の際に難を逃れ、先ほどのドラゴンの襲来にも何とか耐えた。霊廟の周りを竜騎士が取り囲んでいたが、中に入れずにいた所を見て、人々は霊廟に直一層の敬意を払った……のだが、それも今夜で終わりのようだ。
 ハルベルト=エルセンは王女と共に国を出た。国を出た建国者であり勇者である “彼” の棺が此処にあるのは、彼の死後、父親であったハルベルト=エルセンと共に弟に国を任せて去っていった王女が、棺を国に持ち帰ってきたのだ。
 王女は国王である弟に、父の遺言を伝える。その遺言に則り、国王は “勇者” の霊廟を作り上げる。
 その委細は伝わってはいないが、何か重要な目的の為に “建てられた” それだけは確かであった。現在の国王マクシミリアンも知らない、何か。何時頃から失われたのか定かではないのだが、この国の霊廟の存在意義、そして真の目的は現在には伝わっていない。
 マクシミリアンの祖父で前国王ジョルジ四世も、霊廟の本当の意味を知らなかった。唯、ジョルジ四世は何処でそれが失われたかは知っていた。
 霊廟の意味を記録した物が存在していた場所・エド法国。
 ハルベルト=エルセンの遺言に「必ずエド法国で保管し、即位後法王に会ってそれに目を通せ」とあったため。エド法国側も国を任せて旅に出たアレクサンドロス=エドが旅立つ前に残した幾つかの言葉にエルセン王国の事もあった為、彼等は特に疑問を感じず勇者達の遺志を継ぎ保管する事にした。
 それは未来永劫続くように思われたのだが、七十三年前の焚書のせいで失われてしまう。当然写しなどなく、伝承は失われてしまった。その事に関してエルセン側は何もいえなかったのは、焚書を推し進めた法王がエルセン王国の王族だったために。
 ジョルジ四世が「勇者」に拘ったのは、この伝承を知らない自身が王であることの焦りがあった。
 規律正しく、誰にも非の打ち所の無いといわれるような王子であったルートヴィヒにも、ジョルジ四世と同じ焦りがあった。
 彼等は「知らない」と言う事に、言い知れない恐怖を感じていたのだ。それが何を伝えていたのか? わざわざ棺を持ち込み、霊廟まで建てさせ、別の国に伝承を保管させた遺言。王に即位した後にしか見る事を許されなかったそれに書かれていたものは?
 どれ程想像を豊かにしても、全く見えてこないのだ。だが、少しだけ手がかりがある。
 手がかりとは、歴代の法王が管理しているエルセン文書。「法王」だけは手にとって見る事が出来た。何人かの法王が、見てはならぬとは思いつつもそれに目を通し、傍に仕える者に口にしたと記録にある。

 『国が滅亡しないようにする事が、最重要事項』

 思わせぶりなその一言、それが意味する所は、今だ解明されていない。
 失われた文書とは別に「ハルベルト=エルセンの棺」をおさめる為に作られた霊廟。その霊廟にある碑文『皇帝には逆らわない』
 彼等の祖先が何処から生まれたのかを考えれば、特におかしくは無いのだが、能力的な問題から考えても、誰も抵抗などする筈もない。実際、オーヴァートがドロテアを怪我させた相手の一族を殺すように命じられ、人々がそれに強制的に従わされた時であっても、誰も「逆らおう」などとは思わなかった。
 圧倒的な強さの違いから。人々はそれを知っている為に。ならば、何故わざわざそんな事を残したのか?

 それも解明される事はなさそうだ。

「レイ! 止まって!!」
 髪につかまってエルストが笑いを含んだ声でお願いするも、全く聞こえないようでレクトリトアードはひた走る。
 彼は走って走って、煉瓦造りの飾り気の無い中にも落ち着いた雰囲気のある霊廟に激突。そのまま導かれるかのように、棺安置室まで突進。
 ついには、
「レイ! ちょっと! 待って!」
 側面に勇者達の生涯が簡素化された図柄のレリーフが施された棺に激突、レクトリトアードの力により軽い音と共に棺は砕け散り、破片は壁に突き刺さる。
『あれ? 中身何もない?』
 髪に捉まりながら、踏み潰されくだけた棺の中を瞬間的に覗いたエルストは、鉄の棺の中に何も入っていない事だけは見て取れた。
『空? ……遺体? 腐った? でも骨なら500年近くは……あああ!』
 再び煉瓦にぶつかり、外に出て走りまわるレクトリトアード。
 止めようもない男しがみ付いているやる気の無い男。だが例えどれほどやる気のある人間であっても、この状態のレクトリトアードは止めようもないだろう。それを考慮してみれば、しがみつく男の気力など元から考えてやる必要などない。
 しがみついている男のする事と言えば、
「どいて! どいて! 激突すると大変だよ!」
 そう叫ぶだけ。その叫び声も建築物が破壊される音の前には、風の囁き……いや、無用の長物。
 エルストの避難を勧める声が人々に届いたかどうかは解らない。当のエルストも周囲を窺う余裕はない。髪を握っている指や腕の力が限界近くなり、痺れはじめてきた。だが、ここで手を離せば、地面に強かに叩きつけられた後、妻に強かに殴られる。それらを回避するためには、死ぬ気でレクトリトアードの髪にしがみ付いているしかない。
「レイ! 止まって! 止まった方が! いいよ! はい! そこの人! 避けて!!」
 『こういうの、苦行って言うんだろうな』
 平素、夫婦生活の方が余程苦行の男がしみじみと思う言葉は、重みがあるのか無いのか?
 王都を揺らす暴走を続けていたレクトリトアードと、背中付近にくっついているエルスト。
 建物を粉砕し走り続けた男は “ぐるり” と一周し、走り出した元の位置に戻ってくる所だった。

**********

「捕まえるだけは捕まえたらしいな」
 瓦礫を弾き飛ばし駆けずり回る男の姿を捕捉したドロテアが、指をさす。
 指し示されなくてもセツもその方角を見る。“あれ” を無視していられるほど、セツも暢気ではない。
「何事だ」
「何処かの色好き聖職者共の言い争いを止めようと、俺の元に来ようとした女顔の男を、親切心で案内した男達の末路」
 ひどい言い草だ。
「走っている方は?」
「小さい人と言いつつ、首根っこを掴んで俺に向けて差し出した」
「首根っこを掴むのは俺もよくやる。小さくて歩くのが遅いからな」
「道理でアレクスの奴、無抵抗なわけだ」
 法王の僧服は重いため、セツはそうやって『持って』移動することがある。普通に抱きかかえる事や、持ち上げる事をしないのは、セツ自身もかさばる僧服を着ている事と、首根っこを掴む以外の持ち方では、アレクスの僧服が崩れるためだ。
 その点、首根っこを掴んで進むのは少し着衣が上に上がるだけで直すのが簡単。
「ごめんなさい、抵抗するものだとは知らなかったので」
 申し訳なさそうに答える法王は、それが驚きや失態になるなど全く知らなかった。それは幼い頃から聖職者として育った為、常識を知らないというよりは、
『知ってるとか知らないとかいう問題じゃねえだろ……明らかにバカなだけだろうが』
 思ったが、ドロテアは口にはしなかった。
 口にした所で無意味なことは誰よりもよく知っている、この法王の根底はあのオーヴァートと同類なのだから。そして大の大人、それも上司の首根っこを掴んで歩く最高枢機卿は悪びれなどせずに
「ではまず其方を止めよう」
 走り回っているレクトリトアードの前に出た。髪にしがみつくエルストを物ともせずに、塀や霊廟を体当たりで吹き飛ばして走っていたレクトリトアードはセツに激突し、やっと止まった。
 「メキッ!」やら「バキィ!」やら「ゴスッ!」なという音が複合したとしか思えない、不思議な音が周囲に響き渡って止まった “それ” にセツは本心より賛辞を送る。
「大した脚力および首の力だ。それとエルストも良く手を離さなかったな」
 髪の毛を掴んで振り回され続けていたエルストは、どうもと軽く会釈しながらやっと髪を離した。その後レイは、背後にいる『首根っこを掴んで持って歩いてしまった偉い人』にひたすら謝っていた。ついでにエルストも一緒に謝っている。
 謝り慣れしているエルストのその低姿勢ぶりは、見事としか言い様がない。謝らなくていいですよ! と訴えるアレクスの言葉を無視して、ひたすら謝るレクトリトアード。その流れるような長髪は、全く損傷を受けていない。
「髪の毛もたいしたモンだ。それでそこでヒルダに首……おいっ! ヒルダっ! そのまま首絞めてると死ぬだろが!」
 いくら鍛えていても腕力はやはり男には敵わない。それも相手は国のトップを守る地位に実力で就いた男。その男相手に腕力では阻止出来ないと悟ったヒルダは、
「だって、クラウスさん強くて腕じゃあ逃げられるんですもんっ!」
 足でクラウスの首を締め上げていた。
 ドロテアは自殺するのを阻止しろと言ったのだが、あのままヒルダが内腿で締め上げれば、間違いなく死ぬ。
 全く阻止になっていない。むしろ勢いは『自殺幇助』……いや『宗教戦争』と言った方が正しいか?
「あのチトーの子飼いはどうしたんだ?」
 ギュレネイスの黒い僧服を着た男が、エドの女性司祭の見た目だけは艶かしい太腿に締め上げられている姿を見ながら、セツは見下ろしていた。
 チトーの子飼いなど、セツが率先して助けるはずもない。
「お嬢さんって声かけちゃったんだってさ。年齢から言ってもお嬢さんじゃあねえよなあ」
 四十間近の男法王に向けて発する言葉としては最も不適切。そう見えてしまう方にも……と思うような人は誰もいないようで、セツは淡々と言葉を返す。
「お前が “男” だと言わなければ何の問題も起こらなかったのでは」
 その通りなのだが、言った本人は悪びれもせずに。
「ついつい、からかい甲斐があるんで。からかい甲斐があるって事は真面目って事なんで、自害しようと必死だ」
 テメエが止めろよ、と指をさす。
 『全く遣り辛い女だ』セツはその言葉を口にする代わりに舌打ちをして、二人を見下ろした。
 ヒルダが間違ってクラウスを殺せば、国際問題になる。チトーの子飼と次期枢機卿候補が関係する殺人事件、そんな事が起これば解決するのはセツの仕事。
 後片付けが出来ないわけでもなく、それは仕事だが、要らない仕事を今増やすのは賢明ではないと、言葉一つでそれを排除する事にした。
「自害する前に、ヒルダの足に挟まれて息が止まりそうだが。確かに真面目だろう、生娘の生の太股に頭を挟まれているというのに気付かないくらいだからな。俺なら嘗め回して外すが」

 その外し方もどうかと思いますよ、セツ様。

 セツの冷たい言葉に、若干何かを取り戻したクラウスは、自分が置かれている状況を鑑みて
「……ぶっ! 司祭! あまりにもっ! あれ! あれです! ぐっ! 苦し……」
 再びパニックに陥った。
 クラウス仰向け、ヒルダは顔に乗って太腿で絞めている最中、ついでにその僧服の中は下着だけ。
「お前も性格悪いな、セツ」
「ランシェ司祭! あのっ! その! っ……あああああ!!!!」
 悲鳴なのか奇声なのか、断末魔なのか何なのか、それらの声が入り混じった悲鳴を上げるクラウス。
「知ってるだろうが、ドロテア」
 チトーの部下には容赦ないセツと、
「お? めきめきめき! ですね」
 容赦のないヒルダ。
「おい、ヒルダ。もう外しても大丈夫だぞ」

 史上稀に見る、悲惨でいながらどうしようもない局地的宗教戦争は、こうして幕を閉じた。


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