ビルトニアの女
邂逅【7】
 ドロテアの性質を良く理解しているセツは、話が終わるまで待っていた。ドロテアの会話、特にヒルダやマリアとの会話に割り込むのは危険だと、その男はそう理解していた。その話している間に、セツは避難させていた聖騎士達に指示をだし、散会させその場に残っているエド正教徒はセツとアレクスと、ヒルダだけであった。
「俺以外、人間で召喚したヤツはいねえから、俺が呪文をカスタマイズした」
 『認めたくはないが、性格は似ているかもしれん……誰が認めるか!』
 そろそろ素直に認めたらどうだろうか? 三十代も終わりになっている最高枢機卿よ。そんな神の啓示が不真面目無信仰な男に降りてくることはなかった。降りてきたとしても、手の甲で虫を振り払うかのようにして、認めないであろうが。
「なるほど。だが聖水神ドルタの力を持っているとは知らなかった」
 不敵な女に警戒心と[楽しさ]を込めた声で話しかける。
 力は確かに脅威だが、それを脅威と感じるのは為政者としての事。敵に回れば恐ろしい力を前に、のんびりと現在の関係、他者から見れば[蜜月]が永遠に続くと考える程甘い男ではない。
 だが、それを除外してしまえばセツの心は確かに躍っていた。
 自分が信奉しなくてはならない神によってその地位を落とされた精霊神。祈っても手に入れることができない、圧倒的な力を与えてくれる精霊神。
 その力をドロテアという女が支配している事実。
 自分にも機会は無いだろうか? それを使ってみたいと思う欲望。
「手に入れたのはついこの間の事だ。入手経緯は教えてやらねえが、お前なら調べようと思えば簡単に調べられる筈だぜ、セツ。海賊にでも聞いてみな」
「あの海賊、お前の事を聞いて答えるかどうか……何にせよ、神の力を二つも従えた女とは恐れ入る」
「お前らの宗教世界観じゃあ、精霊神は格下だろが。そんな格下神の力使ったところで、驚いてちゃあ不味いだろ」
「アレクサンドロス=エドから力を借りた事などないからな。精神的支柱よりも、直接的に力を貸してくれる方がありがたいものだ。私には精神的支柱など必要は無い、必要なのは自らの意思だけ」
「最高枢機卿が言って良い台詞じゃねえだろ。手前らしいが」
「それはお前も同じことだろうが」
「俺は神に従順だぜ。神が俺に従順であるうちはな」
「それには同意する。私も支配に使える間はアレクサンドロス=エドに従ってやる気になる」
「手前……本当に次法王になんのか」
「その座に就く気はあるぞ」
 周囲に聖騎士が居なくて良かったのか、こんな会話をする為に周囲から部下達を遠ざけたのか? そこら辺は余人の知るところではないが、ドロテアは “気に入った” といった素振りで手を軽く叩き、斜め向かい側にいるマクシミリアンを見据えた。
 正確にはマクシミリアンの隣にいるホフレだが。
「俺はご機嫌なので教えてやろう!」
 その声が届く範囲に居た者達は全員足を止め、振り返る。
 そこには笑っている女がいた、確かに笑っている美女なのだが 
「どこら辺がご機嫌なのかしら? ドロテア」
 そのままなのだが[ドラゴンを殺した女の笑顔]としか言い表せない表情を浮かべ、マクシミリアンとゲルトルートをとらえていた。
「すごく不機嫌だと思うよ」
「私も相当不機嫌だと思うんですけどね、姉さん」
 不機嫌と解っているドロテアを、三人が止めるはずもない。
 ドロテアは声を張り上げて、
「聞け! 生き残った勇者共とエルセン国王! 貴様等が倒さなければならないのは “魔帝” と呼ばれるヤツだ! 今見た “黒き水の聖水神・ドルタ” をも封じ込めていた程の力を持っている」
 あまりにも簡単に、敵の名前を群集に告げた。
「誰でしたっけ? あの派手な神様見習いがあっさり告げた事に怒ってたのは」
『ドロテアだよ、ヒルダ』心で答えるエルスト。
「そうねえ……らしいといえばらしいけど、言っちゃっていいのかしら?」
『でもね、マルゲリーアに書類渡したし、そこからオーヴァートの元に届いてるからもう……だと思うよ、マリア』やはりのんびりと、一人煙草をふかしながら心の中で返答、要するに沈黙を守った。
 呟いた二人も、エルストから返事が欲しかったわけではないのでどうでも良いのだ。だが、突然[全人類の真の敵]を語られた方は “どうでもよい” では済ませられない。
「何だと……」
 元々顔色のよくないマクシミリアンの顔色は、見る間に青褪める。それに追い討ちをかけるように、
「聖地神・フェイトナも聖風神・エルシナも解放を待っている。そして “魔帝” が降り立つその場所は “エルランシェ” だ。今は無き、銀色の砂漠に残る廃都、あの場所こそが魔帝の降り立つ場所だ」
「嘘……」
 自分自身の故郷、そしてゲルトルートが人生の全てをかけて[取り返さなければならない場所]を告げる。
「恐らく、シュスラ=トルトリアは知っていてその場所に首都をおいたのだろう」
「だから首都名が “聖異郷” なのか」
 異郷に通じる場所。そこを敢えて『聖』と評したのは、敵の実体が自分たちの主の祖先だと知っての事だったのかもしれない。
 それを人々に告げなかったのは、作ったアデライドの意思なのか彼等の意思なのか
「そうだ。後に国が滅ぼされたのもこれで意味がわかったな。精々頑張って聖地神・フェイトナと聖風神・エルシナを解放しな! 従えて俺の元に来たら聖水神・ドルタはくれてやっても良いぜ。どう考えたって開放を待ってる二神を従えなきゃ、勝ち目はねえな。報告はオーヴァートに届けた、恐らくこれから暫くの間 “エルランシェ” は立ち入り禁止になるだろう。財産どころの騒ぎじゃねえだろうよ」
 魔帝がドラゴンをも瞬殺した力を持つ神を「捕らえていた事実」に市民は驚き、[財宝が手に入らない可能性が高い]事を知ったかつての貴族達は、その事にショックを受けた。前者は純粋な衝撃、後者は身勝手な衝撃。
「まぁ、場所がトルトリアだから、過去のトルトリア貴族なんか討伐隊兵士として集められるんじゃねえの。今でもトルトリア貴族って名乗ってれば……の話だけどよ。ここでリストでも作って送っておいてやろうか? 義勇兵とかいってよ。復興を望む貴族様なんだから、さぞや立派に戦ってくださるだろうよ」
 一瞬の沈黙の後、目配せをして目を閉じ、頭を振る面々。
 彼等は自分が苦労して財宝を手に入れるつもりなど全く無い。誰かがトルトリアを復活してくれた後に、財宝の分け前を当然のように受けて生活するのが、二十年来の夢。
 それを手に入れる為に今まで「トルトリアの元貴族」と名乗っていたのに、それが元でドラゴンを消失させる力を持つ神をも捕らえていた相手と戦う事になるなど、想像することを拒否するほど恐ろしいこと。
 彼等がどういった行動に出るか? は誰もが簡単に想像できる。
 財宝は欲しいが命はもっと欲しい。彼等は元貴族ではあるが、現在は貴族扱いされてはいない。そうなれば、兵士として前線に借り出される。そんな事を彼等は望んではおらず、そんな事をするくらいならば最早手に入らぬ財宝を夢見て、最後の王族姫にすがる事など何の価値もない。
 命惜しさに逃げた後、彼等に旗印にされた姫がどうなるか? 
「ばらしていいの?」
 俄かにざわめき出した人々を、半眼で見下しながら、
「平気だ。そろそろオーヴァートに届いただろうから、適当に対処策を練るだろうよ。その一環としてあの場所は立ち入り禁止ってのが妥当だし、俺がそう言ったんだ立ち入り禁止にするに決まってる」
 ドロテアは口元を歪めてそう言い放った。

**********

 エルセン崩壊とゲルトルートの身辺に劇的な変化を与える言動をもたらした一行は、後の事は知らないとばかりに移動を開始した。
 ボロボロなエルセン王国だが、何とかマクシミリアンが平常心を取り戻し、この状態であっても賓客に対して礼儀を持って接しようと、役立たず勇者達が寄宿舎に辛うじて残った王宮の丁度類を運び込み、体裁を整えてエド法国とギュレネイス皇国の面々に「此処を使ってください」と差し出した。
 本来ならば、宗教が違うので別々の場所を用意するところなのだが、崩壊した王都ではこれが限界だったようだ。
 クラウスはエド法国側で体を休める必要もないのに休めているエルストの所に、用があり向かっていた。用というのは昨晩、何事が起こったのか事細かに説明してくれた礼。そして、それを理由にしてエド法国側を偵察する為に。
 間違いは起こらないとは思ってはいるが、それでも警戒や見回りはした方がいいだろうと生来の真面目さから行動に移した。ちなみに今、クラウスがぴったりと付いていなければならない相手、チトーはプライベートというか真面目なクラウスを外して何処かへ出向いている。
 女性のところだと報告を受けると『精々何事もなければいいが』とクラウスは何時ものようにそれだけ答えて興味を失っていた。
 丁度ホールで東側と西側に別けられているのだが、そのホールまで来たところで、クラウスはある人物に出会った。
「まさかこの様な所でお会いするとは」
 白銀の破壊魔・レクトリトアード。
 確かに、こんな所で会うとは思いもしなかっただろう。そして彼が此処まで他国を破壊するとは想像もしていなかっただろう。
 クラウスに声をかけられたレクトリトアードは『何時会った……ああ! そうか! ギュレネイスが……何かを持って来た時の』甚だ適当だが、記憶力自体は悪くは無いので無難にクラウスの事を思い出して、話を返す。
「はあ。もう会う事もないでしょう、自分は隊長職を辞しましたので」
 白銀の髪に青の多い瞳を持つレクトリトアードと正反対の容姿を持つクラウス。
「そうですか。……羨ましいですね」
 クラウスはレクトリトアードに対して普通に会話を始めたが、
「はあ?」
 レクトリトアードはそういった会話に非常に疎かった。
 家族やらなにやらのしがらみに囚われている警備隊長と、天涯孤独の元親衛隊長は、永遠に重なる事がないと思われる。それが違和感なく会話が続けられるのは、レクトリトアードが極端に無口なせいだろう。クラウスが何を話しかけても、

「はあ」

「そうですね」

「でしょうね」

「そうでしたか」

 その四通りの返答しかない。それさえ気にならなければ、いい話し話しかけ相手にはなるだろう。
 見ているだけなら会話しているような、傍で聞けば会話になっていないような会話をしていると、レクトリトアードの視界に見慣れない人物が歩いているのが入った。リュートを持った金髪の小柄な人物。
 一応この場には、法王、最高枢機卿・司祭閣下がいるので、部外者に目を光らせる必要がある……という意思の元、レクトリトアードは建物内を歩き回っていたのだ。そこだけはクラウスと同じなのかもしれない。
 聖職者の格好をしていない、部外者としか思えないその人物に二人は声をかけた。
「何か困り事でも? お嬢さん」
 クラウスにお嬢さんと声をかけられた、金髪で菫色の瞳をした華奢な人物は、二人の顔を見ると少しだけ笑って、
「あの、ドロテアさんの所へ行きたいので、案内していただけないでしょうか?」
 礼をした。
 その礼儀正さと、大人しそうな雰囲気に、本当にドロテアの知り合いなのだろうか? と二人は思わなくも無かったが、
「お知り合いですか?」
「はい」
「……あっちだ、付いて来ると良い」
 連れてゆくことにした。
 ドロテアがいる部屋へと向う途中、レクトリトアードとクラウスよりも小柄な人物は歩くのが非常に遅かった。
「……歩くの遅いな」
 途中何度もレクトリトアードは足を止めて、その人が来るのを待つ。
「女性ですし、背もそれ程高いわけではないので歩く早さは違うでしょう」
 共についてきたクラウスも、直ぐに追い抜いてしまうのだが、何とかその人物に歩幅をあわせる。
「でもドロテアよりは高い」
「あの方と一緒にしては」
 やっと追いついたその人の襟を掴むと、レクトリトアードは持ち上げる。
「レッ! レクトリトアード! 殿!」
 親猫に咥えられて運ばれている子猫のような体勢になった人物に、
「走る!」
 そう言って、レクトリトアードは走り出した。
 別にその人物に恨みがあった訳ではない。ただ、女性に不必要に触れては悪いという気持ちから、出来るだけ触れないで持ち運ぼうと考えて、襟首を掴んで走ることにしたのだ。
 その発想はちょっと変わっているとしか言い様がないが、レクトリトアードとしては必死に考えた結果だったのだ……らしい。
 できるだけ揺らさないように、その人を運びドアをノックする。
「ドロテア。この小さい知り合い話、あるそうだ」
 そしてドアを開きながら、その人物を差し出した。
「こちらの女性、ドロテア卿のお知り合いで間違いありませんか?」
 背後から来たクラウスが、任務よろしく声をかけてきた。
 室内にいたドロテア、エルスト、ヒルダは首根っこを掴まれて縮まって笑いを浮かべている、金色の長髪と菫色した瞳を持つその人物に、どういう表情を浮かべていいのか、少し悩んだ。
「……間違いは訂正するべきだぞ、ミンネゼンガー」
 ドロテアはあきれた顔で、ソレを言った。
「す、済みません……」
 レクトリトアードはドロテアの知り合いだという事を確認したため、ミンネゼンガーなる人物を床におろす。
「レイ、その小さいのは法王だ。ついでに言えば、クラウス」
「言っちゃ駄目! ドロテア! やめて!」
 エルストが笑いを浮かべながら、本気かどうかは知らないが一応止めようとする。そのエルストをヒルダが見事な羽交い絞め。
「法王は正真正銘男で、お前より年上だ」
 “空気が変わるというのは、こういう事を言うんだ!” 遊び半分でエルストを羽交い絞めにしていたヒルダは、肌にそれを感じた。
 二歩後ろに下がり、クルリと向きを変えたレクトリトアードは廊下の壁に向って駆け出す。彼の身体を持ってすれば、普通の壁など無いに等しく、壁は砕け散ってゆく。いとも容易く破壊した “それ” は、街中へと光の矢のように放たれた。
「エルスト、レイを止めろ」
 エルセンを再び恐怖のどん底に落としかねない男、レクトリトアード。
「頑張って追いかけてみるよ」
 その男を何時も操るのは、この姉妹。妹には自覚はないが、姉には自覚がある。
 自覚が無いほうが厄介というが、この場合自覚があったほうがはるかに厄介だ。そんな壁を破壊し、行く先々でものにぶつかって破壊して回るだろう、生きた伝説をエルストに追わせ、
「ヒルダ」
「はい」
「申し訳御座いませんでした! 猊下とは知らず数々の暴言を。クラウス=ヒューダ、無礼は死んでお詫びをさせていただきます!」
 目の前で、胸を突こうとしている男を、
「止めろ」
「了解! 逆十字固め!」
 止める任務をヒルダに受け持たせた。
 何も告げなければクラウス、こんな事にならなかったのだが……。
「で、どうしたんだ? ミンネゼンガー」
 脇で、死ぬ! と叫ぶ警備隊長と、エド正教体術教義派のヒルダが激しい格闘を繰り広げる中、迷惑極まりない法王(法王には罪はない)に、来た理由を尋ねた。そこでやっと、のんびりとした法王は、
「セツが! セツが喧嘩し始めて」
 珍しく声を荒げた。荒げるといっても、
「死なせてください!」
「駄目です!! 自殺を阻止するのも聖職者の仕事です! 阻止する過程で息絶えてしまった場合はしかたありませんが!」
 これに比べれば可愛いものだが、とにかく珍しく声を荒げ、セツが大変だと告げてきた。
「そんなん、止められるだろ?」
「そ、それが」
「誰とだよ」
「チトー五世と」
 まだ喧嘩してたのかよ……とドロテアは額に人差し指を当て、
「政治的な話なら、俺は止められんぞ」
 永遠に歩み寄れなさそうな二人の喧嘩などドロテアの知ったところではない。政治的な事柄に口を挟むということは、どちらかに味方して最後まで、それこそ論争が終結を見届けるまでの責任感がなければしてはならない事だというのがドロテアの持論。
 この時点で、ドロテアは二人の為政者が喧嘩している理由は政治絡みだと思っていたのだが……
「違うんです! あのっ……マリアさんを取り合って、一触即発なんです」
 変装した法王が呼びに来た理由「女絡み」それもよりによってマリア。マリアのことに関しては、最後まで口を挟むというか小姑と姑と近所の小母さんよりも口を挟むドロテアは、それを聞いて立ち上がった。

 空気って変わるもんなんだな……クラウスは死ぬ死ぬ騒ぎながら、その怒気を確かに感じることができた。

「色惚け……いや呆けてはいないか、色好き聖職者共め!」
 空間が怒りに満ち溢れるというのはこういう事を言うのだろう、そうとしか表現できない状態を作り上げた主に、心底済まなさそうにアレクスが懇願してくる。
「ドロテアさんに……お願いしないと……」
 別にアレクスは何も悪い事をしていないのだが。
 とても困っているのです、助けてください……駄目ですか? のような雰囲気を少しだけまとっているオーヴァートの従弟を前に、深いため息を一つ付き、
「頭痛てえ……最高枢機卿と司祭閣下が一人の女を巡って対立か?」
「事態はかなり深刻でして」
それは確かに、深刻だろう。周囲にいる警備やら部下にとって、これ程口を挟み辛い問題はないだろう。
「何処で騒いでやがるんだ!」
「あ、あっちです!」
 その声を受け駆け出したドロテアの後姿は、近年まれに見る程に真剣さに満ちていた。
 廊下を走り、背後から『つ、次右ですっ!』などという叫びを聞きつつ、ドロテアは走った。突き当たりの聖騎士と警備隊員が見張っているその扉の前に、
「どけぇぇぇ!」
 叫びながら突っ込んでいった時、見張りはしゃがんで頭を守ったという。
 それでは見張りの意味がないのだが、彼等は何のお咎めもなかったそうだ。
 その踏み込み、そして身体全体をバネのように使った拳。見事にソレがはいった扉、軋む暇すらなく弾け跳んだ蝶番。
「うぉらああ!」
 飛び込んできたドロテアの叫びにかき消されたが、扉は結構な音を立てて床に落ちた。
 そんな事気にせずに、ドロテアはチトーに近寄っていった、
「閣下!!」
 動けない護衛が叫び声を上げる。
 物理的に動けないのではなく『学者を呼ぶ際に必要な大寵妃』の体などを手荒く触れてもいいのか? それが脳裏を過ぎった為だった。
 うかつに触ると、あの奇人……もとい、世界最高の人物が現れる可能性があるのだから、動けなくもなる。
 護衛を怯ませる過去を持つ女はチトーの前までくると、座っている椅子の背もたれに手をかけ、顔を近づけ噛み付くような勢いで話始めた。
「クロード。言い忘れていた事があった」
 本名を怒鳴るように言いながら、顔を近づける。
「……何だね、ドロテア卿」
 その時の表情、他者は窺う事はできなかったが、チトーが視線を逸らした所から、それが『どんな雰囲気だったか』は推測できたであろう。
「センド・バシリアで一年以上前に施設と言う名の秘密組織が、火災と爆発で壊滅したのは知ってるな」
 突然第三の国の名が出てきて、周囲は驚くが
「父の昔の愛人が支配していた秘密……まさか?!」
「俺達、あのババアに監禁されてなあ『美人だから』って理由でな。テメエも似た様なもんだろう? あんな女みたいのを侍らせてんだろ? あの時、俺達は非常に迷惑した!」
『よく思い出したわね、そんな昔の事……』
 チトーに右手首、セツに左手首を握り締められていたマリアは、右手首の力が弱くなると同時に掌が汗を噴出させたのを感じた。
 チトーもセツも手袋をしているので、直接触れてはいないのだが、それでも焦っていることが解る程の汗を、確かに手首で感じることができた。そして、
「それは……済まなかった……な。愛人はな……」
 何か色々と思い当たってしまったようだ。
 背もたれから手を離し、
「セツの肩を持つ気はねえが、チトーてめえも愛人いるだろう? 多数。そいつ等を片付けねえうちはマリアをギュレネイスにはやらん、俺が許可しねえうちはな!」
「何故マリアの……」
「ドロテアが行くなって言うなら、行かないわ」
 マリアはそう言いながら力なくなったチトーの手から、払うようにして自分の手を引き抜く。
「私の愛人は、全部処分……」
「出来ねえ事は言うな。だが選りすぐって少しは身奇麗にしやがれ、聖職者!」
 チトーはドロテアを前に敗北した。
 敗北というよりは撤退。彼は、自分の乗ってきた船へ戻る事をつげ、最後にそれでも、
「気がむいたら何時でも来るといい、マリア」
 そう言って手を握る。中々にいい度胸だ、さすがはセツと舌戦を繰り広げるだけの事はある。
 引き揚げようとしているそのチトーに、
「ああ、クラウスは少し遅れるが気にするな」
「ゆっくりと戻ってきても良いと伝えてくれ」
「あんな真面目なやつ、そうそう置いておきたくはねえが」
 さっさと帰れとばかりに、ドロテアはチトーに手を振った、顔の前などを飛びまわる羽虫を払うかのような仕草で。
 警備隊隊長を一人残しギュレネイス勢が去った後、
「帰りやがったか」
 消えた足音に、舌打ちしながらドロテアは口を開く。
「感謝はせんぞ」
 というセツの言葉に、
「当たり前だ。チトーの上には誰もいねえが、セツの上にはアレクスがいるからな。何か嫌な事でもあったらアレクスに言いな、マリア。夜這いされそうになったとか、手篭めにされそうになったとか、無理矢理寝所に来るよう言われたとかよ」
「貴様らしいな」
 相変わらずの言い方に、セツも若干 “地” が出てしまっている。
 そのセツにドロテアは追い討ちをかけるように、セツの膝の上に腰をかけ、
「その気は全然なかったのか? だったら悪かったな? ごめんなさいね、セツ最高枢機卿閣下。お許しになって下さいません事」
 唇を舌で舐め、殊更色っぽく声を上げた。
 それは確かに美しく、艶もある。
「……貴様という女は」
 ヴェールの下に隠れているセツの表情は若干変化したが、声は変わらないままで話続ける。
「ああ? テメエも下心がねえわけじゃねえんだろ? 嘘付くのは良くねえことだぞ。聖典の一節にもあるだろうがよ」
 そう言って、ヴェールの下にある顎に手をかけて顔を近づける。
「誘いは部屋で受けようか。それと確かに下心がないとは言わん」
 ドロテアはセツの膝の上から立ち上がり『だろう』といった表情でセツを見下ろす。
 おそらく、既婚女性と時期法王の間で交わされるには、不適切としか言いようがない会話。
 しばらく二人がにらみ合っているような状態になった、そこに一言を投げかけたのは聖騎士になったばかりの女性。
「それはご安心ください、ドロテア卿」
 振り返るとその女には僅かに、そしてその女の隣にいるヤツには相当見覚えがあった。
「ええ、それはないわ」
「門番と大臣の姪か。無事に聖騎士になったんだったな」
「私達と同部屋ですので、絶対にお守りしますから。例えセツ枢機卿でも部屋には入れません」
 満面の笑みの奥にある意思の強さというか、何というか。
「……」
「こう見えても私、ドロテア卿をも首都に入れなかった女です」
 ドロテアを首都に中々いれなかった事で聖騎士に推薦されたアニスと、
「例え枢機卿と言えども部屋に入れる気はないわ」
 権力を失って自由になったイザボーは、静かながら確実に『男性のセツ』拒絶した。
 それはもうきっぱりし過ぎて、部屋の隅にいたミンネゼンガーことアレクスが笑いを抑えるのに必死になる程に。そして部屋にいた聖騎士達は、そこに見たこともない吟遊詩人がいる事に気付かない程に唖然とした。
「……くくくく……はははは! セツ、どうやらテメエも苦労しそうだなあ」
「障害は多いほど燃える……とでも言っておこうか」
「マリアに惚れられたらいいだけだろが」
「貴様に勝てるとは思えん」
 その声に『それが出来たら苦労はしない』という音がにじみ出ている。
 何にせよ、一段落付いたので忘れていた重大事を解決するために、セツを連れて行く事にした。
「それはそうと、少し協力しろ」
「なんだ?」
「今の出来事のせいで色々と問題が発生している」
 正確にはドロテアが発生させたのだが、そこら辺は無視し、セツと連れてきた“吟遊詩人”のみを連れてドロテアはその場を去った。
 後に残ったのは、扉が壊れた部屋と、
「偉そうだって聞いてけど、本当に偉そうなのね」
 最高枢機卿に対する言動を目の当たりにした、イザボーの実感だけ。
「ドロテアは猊下にもあの調子よ」
「……」
 『そこの隅にいたのが法王なんだけど……あ、猊下ってちゃんとつけなきゃ』

 マリアの聖騎士としての生活は、法王を確りと呼べるか? 最高枢機卿は本気か? など、色々な問題があるが、何とか始まるようだ。


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