ビルトニアの女
伝説の大寵妃再び【1】
 マシューナル王国の首都・コルビロ。街と名が付く、人が多く住む場所は防御の意味で城壁をめぐらしている、コルビロも当然城壁に囲まれた首都である。入り口は六つで、そこに兵士が見張りについて首都に入ろうとする者の身分や持ち物などを確かめる。身分は闘技場に参加する目的で訪れるものも多いので、それ程厳密な取調べはない。その代わりと言ってはなんだが、持ち物の検査は少々厳しい。
 そんな持ち物や身分検査を、まるで無視するかのように入り口を通り過ぎたのがドロテア達。慣れている兵士は、ドロテアの顔が見えれば直ぐに検査している人々を脇にやり道を空ける。そんな事をしろとドロテアは言った覚えはないのだが、この国の国王はドロテアが諸所の事情により怖い為、とにかくドロテアのご機嫌を取る、その一環であった。
 本来ならば、色々と訊かれて多分首都に立ち入れないだろうグレイまで、何の問題もなく首都の中に簡単に入ることが出来た。
 御者台で手綱を握りながらドロテアが辺りを見回す
「一年と少しぶりになる訳だな」
 一年ぶりで戻って来たが、それ程街中が変わった様子はない。
「そうだな」
 隣に居て寝ていたエルストも目を覚ました。
「所でどうする?」
「オーヴァートの所で暫く過ごす」
 ドロテアは家を持っているのだが、一年以上も無人のままにしておいた家に戻って、あれこれ片付けをするのも面倒なので、少しの間はオーヴァートの元に滞在して家を徐徐に片付けるつもりであった。オーヴァートの屋敷は王城の隣にあり、王城よりも大きく荘厳だ。何せ夜になると、人々には理解できない光で照らし、夜空をバックにその威容を浮かび上がらせているのだから。何の為にそんな事をしているのかは誰も知らない。門からそんなオーヴァートの屋敷に向かうまでの間に、王城の前を通る事になるのだが。そこで、一人の男が立っていた。道のど真ん中に立っていて、馬車で轢かれても文句は言えないだろうが、この男の場合轢いた方の損害が大きいに違いない。
「レイ、どうした?」
 王城の前で待っていたのはレクトリトアード。
「国王陛下が御呼びだ。先だっての件で謝礼をと」
 すっかり忘れてしまいそうだが、王太子が逃げ出した……そんな小さい事件をも解決した事があった。
「口止めな。まあいい、このままの格好でいいか?」
 旅の最後、明日には風呂には入れるので着替えるのも面倒だな……適当に過ごすか! と着替えてもすらいない格好は、国王に拝謁するには不適な着衣だが、
「ああ」
 この場合は問題にされないようだ。問題にしたほうが問題になる事を、女婿の国王は良く知っている、それ以上にこの出迎えにきた男は良く知っている。見慣れた国王夫妻と、適度に会話し直ぐに王宮を後にした。ドロテアには有難味も何もない国王、マリアもヒルダもそろそろ麻痺してきたのか、国王くらいなら見ても驚きはしない。エルストに至っては目の前で居眠りだってできるだろう。エルストはドロテアに叱られながらだって寝れる程の男だ、その後の惨事は目を覆うばかりだろうが。
 褒美を取らせようと言われたのだが、全員で顔を見合わせて断った。興味がないというか、必要がないモノは貰わない主義。何より、国王などから品物を貰うと後が面倒だ、その事をドロテアは良く知っている。一人馬車で残っていたグレイと合流し、
「取り敢えず、グレイを置きに行くか」
「へい。ところでオレは何処で働きゃいいんでしょう」
「働くと言うよりは、耐えろ!」
「はぁ?」

 物凄く解かりやすい説明なのだが、現物を見るまでは理解できないものらしい。

 王宮から出て、馬車を引きながら全員で歩いてその場所に向かおうとしたのだが……来た。
「ドロテア! 元気だなあぁぁぁ!」
 抱きつこうとした男に
「オーヴァート!」
 クロスカウンターパンチを喰らわせる。勿論、それを顔面に貰う為にわざわざ腰をかがめているのは言うまでもない。抱きつきたいのか殴られたいのか全く不明な男である。
「あの人がお前さんが厄介になる家のご主人様。名前くらいなら知ってる筈だ、オーヴァート=フェールセン」
「ヘ……へい。あの滅法頭のいいって噂の御仁です……ね」
 王宮の前の道で、首絞められている褐色の貴公子に、グレイは噂で知っているオーヴァートの欠片すら見出す事はできなかった……が、特に何も言わなかった。そして「耐えろ」と言われた意味が少しずつ理解できてきた、この人は『変わり者』なのだと。
 そんな足止めをくらっていると、後から声がかかる。
「おい! ドロテア! 落し物」
 レクトリトアードがボタンを持って現れた。ドロテアのような金持ちならいざ知らず、一般人はボタンも中々手には入らない。普通は落ちているのを見かければ拾って、自分のものにするのだが落とし主が恐らくドロテアの仲間となれば、届けるのは当然だろう。王宮を横切り、オーヴァートの城へと向かったと連絡を受ければ、王太子警備隊隊長のレクトリトアードが出向く必要がある。
 一応これでもオーヴァート邸は城で、一般人は立ち入り禁止なのだ。レクトリトアードが持ってきた、蒼い四つ穴のボタンを見るとマリアが声を上げた。
「ああ、私のね」
 馬車乗り場で落したボタンを持ってきたレクトリトアードの姿を目の止めて、オーヴァートはドロテアの手からするりと抜け声を上げる。それ程張り上げなくても聞こえると言う程、見事な“張り”のある声で語りだす。
「ヒルデガルド、略してヒルダ! 正面を切って自己紹介するのは初めてだったな。いや、何せ会えば手を出すからとドロテアが会わせてくれなかったんだ」
 自己紹介してないよ、オーヴァート。どれ程鋭くそれを突っ込もうが、この場合は無意味であった。その男はヒルダの背後を取り、嬉しそうな背中から胸を掴んだ。
「ん〜いいなああ、この柔肌、このふわふわとした胸。お前みたいな、鋭い胸もいいがこの柔かい、揉みほぐされていない処女の胸もいいもんだ」
 お前とはドロテアの事であるのは誰でもわかるが、その隣には現亭主が立っている。普通は口にしないだろう。で、普通は『きゃぁぁぁ!』とか声が上がるようなものだが
「着衣の上から胸揉んだだけで、そんな事までわかるんですか!」
 純粋にヒルダはその能力と言っていいのか? という行為に感動していた。ヒルダももう少し……
「いいの? ドロテア」
 硬い僧服の上から、それ程露骨ではないが確かに触っているその姿に、マリアが眉間に皺を寄せながらドロテアに問いかける。
「良くはねえが……あれ」
 ドロテアが親指で見ないで指差した方向にはレクトリトアード。
「オーヴァート卿!」
「おや、レクトリトアード隊長どうしたんだ? ん?」
 『この男、知っててやってるわ……』マリアも認識した。レクトリトアードがヒルダに好意を抱いている事を知っているか、若しくは今知ったので、ヒルダでからかっているのだ。非常に迷惑極まりないからかい方で、他の女性にしようものなら問題があるが……ヒルダはどうやら気にならないらしい。ヒルダはもう少し色々と学ぶべきであろう。
「触るか、レクトリトアード隊長? 中々いいぞ、ドロテアの胸とは違ってまたこう……青々と葉の茂った桃の木になっている、まだ熟れきれない桃の実のようで」
 詩的に言えば許されるってもんではない。それに対して冷静に突っ込むドロテア
「桃の木に林檎がなってたら大変だろうがよ」
 確かに大変だ。そして、
「桃の実だとすると、細かい毛で痒くなるわね」
 冷たく言い放つマリア。
「いいぞっ! それこそが俺の求めていた回答!」
 益々オーヴァートは喜びだす始末。何を言っても無駄だと、それを理解している男・エルストは無言のまま二本目の煙草に火をつけていた、一本目はオーヴァートが現れた時点で既に取り出していたのだ。
「そんな訳ないでしょう……」
 顔を背けながら、心底困った表情を浮かべるマリアと、エルストが火をつけた煙草を横合いから奪って吸いだしたドロテア。そして
「あのですね!」
 からかわれている事に気付いていないレクトリトアードがオーヴァートに言い寄るが、全くの無意味。
「おお! マリアもすっかりと美しく。その憂いを少し帯びた瞳が」
「あなたが、ヒルダの胸を触る前から居たわよ」
「その絶対零度の言葉。素敵だなあ! 因みに絶対零度ってのはマイナス272.15℃の事だよ」
「嘘教えるな! 絶対零度はマイナス273.15℃だ!」
「ドッチでもいいわよ、私の生活に関係ないもの」
「はぁーははははは! 胸はいい」
 全く会話がかみ合っていない。その脇で、馬車の手綱を持ちエルストの隣に立っているグレイは、前途多難という言葉を自分の脳裏に思い浮かべた。思い浮かべたとしても、誰も責めはしないだろう、むしろ的確な判断だと珍しくドロテアが褒めてくれるかもしれない。
「あの人何者なんですか?」
「オーヴァート=フェールセンだって」
「はぁ……」
 語尾が小さくなるもの仕方ない。話がかみ合わないと判断を下し、
「おい、オーヴァート。レイをからかうのは後にして、この小さい男がグレイ。イシリアで拾った本を写したのがコイツだ。あの本テメエの元に届いただろ?」
 ドロテアがグレイを指差す。突然自分の名前が呼ばれて、褐色の肌と、異様な輝きの瞳に捉えられたときグレイは死すら覚悟した。別に殺そうとはしていないだろうが、何故かグレイは死を覚悟してしまった。
「おお! あの本の書き手か! 見事な写本だ! あの図形の精密さ! あそこまで正確に写せて尚且つ美しいとは! この俺の二万八千分の一くらいの画才があるだろう!」
 微妙な褒め方であるが、それを問いただす者はいない。
「金がねえから、雇って育てろ。絵画なんて金持ちのパトロンでもいなけりゃ描けネエのが実情だからよ」
「ああ、いいさ! 学んでくれたまえ! そして私の仕事をも手伝ってくれ!」
「は、はい。宜しくお願いしや……す」
「衣食住はもう安心しろ。その代わりお前の精神とか胃袋とか頭髪は、諦めろ」
「……へぇ……」
 何となくグレイにも解かった『耐えろ』という言葉と『諦める』という意味が。
 その後、そのままヒルダに歩くように命じると、オーヴァートはそれは情けない格好で付いて来た。胸に触ったまま、腰を屈めて膝を曲げて、ドロテアに髪を引張られながら。そこまでして胸を触り、
「オーヴァート卿! やめてください!」
 レクトリトアードをからかう事に何の意味があるのか? それは誰も答えられない永遠の謎である。別に探る必要もないことであろうが。王宮前を抜けて、黒い光り輝く門塀を怒鳴り声と馬の嘶きと共に歩く、そして門が見えるとそこには少年が立っていた。此方に気付いた少年が走り寄ってくる。
「ミゼーヌ、元気だったようだな」
 オーヴァートの養子、人間としては当代随一の頭脳と優しい人柄の十九は、まだ少年のあどけなさの方が大きく残っている。
「お帰りなさいませ! ドロテア様!」
 嬉しそうに出迎える様は、犬が飼い主を見つけて喜んでいるかのようだ。ドロテアは飼い主と言えないわけでもない。ミゼーヌがオーヴァートの養子となった時、ドロテアは大寵妃としてその名を大陸に知らしめていた時期でもあった。この明らかに色々な意味で破綻しているオーヴァートが、養子になったばかりの孤児の少年に教えるなど無理で、ドロテアが基礎学力をつけてやったのだ。オーヴァートとドロテアが別れた頃にはミゼーヌの基礎学力は完璧となっており、今では学者としての知識ではドロテアは太刀打ちできないほどとなっている。
 だがミゼーヌは、このドロテアを一時期養母とし(ミゼーヌはドロテアがオーヴァートの妻だと信じきっていた)オーヴァートの下に十一年もいるのに関わらず連れてこられた頃のままの、控えめな少年のままであった。……二人が反面教師だったとは言うまい……。嬉しそうに纏わりついて来るミゼーヌに、新たなオーヴァート邸の生贄を案内する。
「こいつはグレイっていう絵描きの卵だ。委細は任せる、絵の勉強用の道具を揃えてやってくれ」
「はいドロテア様。皆さん今日は到着したばかりですから、暫くオーヴァート様の元で身を休めたらいかがですか?」
 その淡い灰色の瞳をキラキラとさせて訴えるミゼーヌに、手を振りながら
「俺はそのつもりだ」
 答える。
「私は帰るは、一応」
 マリアはマシューナルに親と弟が住んでいるのだから、帰るには困らない。
「そうだな、両親も待ってるだろう」
「おおお !マリア!」
「何かしら、オーヴァート」
 門の前でヒルダを離し、膝を付き考えるような素振りをしながら叫ぶオーヴァートに冷ややかな眼差しを向けるマリア。
「あの姐さん慣れてますね」
 その姿に、グレイは圧倒されていたが、
「あのくらい慣れないと駄目だよ、グレイ」
 エルストに気もなにもなく返された。
「マリアの弟に子が生まれてたぞ!」
「……そう。それじゃあね、ドロテア」
 オーヴァートにそう言われても、信用しないのが賢い生き方というものである。マリアは全く信用せずにドロテアに手を振って、
「じゃあな、マリア」
 オーヴァートを軽く無視して、マリアは帰途へとついた。その後姿が見えなくなった頃に、
「今更聞くのもなんですが、マリアさんの弟さんって結婚してたんですか」
 ヒルダが口を開く、胸を触っていたオーヴァートは別の方向にフラフラと歩き去っていた。その問いに、最初はそぞろに答えたドロテアだが、
「ああ。……って! お前が式挙げただろうがっ! ヒルダ!」
 妹の激しい物忘れに、激しく突っ込みを入れた。
「えっ! 誰ですか?」
「ドイルだよドイル! 俺達が旅に出る一週間前にお前が挙げた式の新郎だ!」
「嘘ぉ! 全く似てませんでしたよ!?」
 おまけに全く興味がなかったらしい、新郎新婦に対して……それでいいのだろうな、聖職者。
 どの国でも同じなのだが、結婚はすべて宗教が管理している。聖職者の立会いの元に行われる婚姻の後に生まれた子に継承権を授ける……宗教が「実子」と認めない限り、どれ程声を高く叫んでも財産などは一切貰うことが出来ない。その為、宗教国家は絶大な権力を誇るのだ。何処の国の首都にも、エド法国の大司教か僧正がおり、絢爛な儀式を行っている。勿論彼らが受け持つ仕事の中に婚姻もあるが、大体は王族や金持ち貴族などだけが相手なので、それ程行われるわけでもない。最も数が多い一般市民が結婚する際にお世話になるのは神父だ。一般市民であれば神父に式を取り仕切ってもらうのが普通だ、金銭関係上。位が上がれば支払う金額も跳ね上がる、所得との兼ね合いで神父に依頼するのが最良の選択だ。それに神父もこの結婚式で得られる金で生計を保っているのだから、需要と供給が一致していると言ってもいいだろう。
 本来ならばマリアの弟ドイルと妻のアリーの結婚式も神父に依頼する所だったのだが『ヒルダにやらせても良いぜ、タダで』とドロテアが申し出て、ヒルダも「善い事しました証明書」に判をついてもらいたかったので、簡単に引き受けた。その為、小さな式ではあったが貴族並の格式で式を挙げる事になりアリーは喜んでいたのだが。……式を挙げた本人がこれでは……だが、式を挙げた事自体を忘れてはいなかったので、悪気は全くないのだろう。
「大体何で俺とエルストとマリアが式に足運んでたと思ってんだ!」
「私の失敗を笑う為。若しくは私が失敗しないように威圧する為」
 なんと的確な答えであろう。
「そんなモンの為にわざわざ足運ぶか! ボケェ!」
 略式正装でも花嫁より美しくなってしまうドロテアと、介添人なのに花嫁よりも目立ってしまうマリアと、儀式用の僧服があまりにも堂々としているヒルダ。エルストが「ドレスかヴェールの逸品をプレゼントしてあげた方がいいんじゃないかなぁ……」そう意見したのは、仕方ない事であった。ドレスの方はアリーの実家で準備していたので、ドロテアが急遽オーヴァートの家から豪華なヴェールを持参して、マリアもドロテアもヴェールで顔を隠す事にした。それでも目立ったのは言うまでもない。

『俺此処でやっていけるんだろうか……』

 グレイの呟きなど誰一人聞く事もなく、各々勝手にオーヴァート邸へと足を踏み入れた。屋敷の造りは一般的な王城と全く変わりなく、入り口から続くのは広いホールで、両端に螺旋階段がついている。八階建てのオーヴァート邸の吹き抜けの天井は色取り取りのステンドグラスで覆われており、歩くと水のように波紋を広げる床の上で上部から差し込む色取り取りの光が、それに揺れて澄んだ音を奏でそうだ。
「さあ! 我が家に居るように寛ぐといい」
 持ち主が“コレ”でなければこの世の物とは思えないだろう。喋っているオーヴァートを無視して、吹き抜けのホールを抜け応接室へと入り寝椅子に横になりながら、サイドテーブルの召使を呼ぶベルを引く。
「言われるまでもねえ。お前らも座れよ」
「慣れてるね、姉さん」
 まるで本当に自分の家のように寛いでいる。呼んだ召使に、飲み物やら食べ物の指示を出し、浴室の準備をも依頼して、泊まってゆく事と暫く滞在する事など次々と命じた後、まるで今気付いたかのように
「で、何でテメエまでいるんだ? レイ」
 忘れ物を届けに来て、そのままなし崩し的に此処まできてしまった男に声をかけた。かけられた方は
「さあ……さすがに門前で帰るつもりだったのだが……連れ込まれた」
 不本意というか、なんというかどうにも出来なかったという表情で大人しく答える
「そうかい。……適当に床にでも座って過ごして行けよ。オーヴァートの家に居たって言やぁ国王だって何も言いはしねえよ」
「解かった」
 そう答えて、本当に床に座ったレクトリトアードにエルストが椅子に座るように促すが、ドロテアに床に座れと言われた以上、床以外には座らないと頑なになっているレクトリトアード。それにまたからかいたい気持ちが舞い戻ってきたオーヴァートは、再びヒルダに近寄る。
「ははは、良い子だなヒルダは。まるで娘のようだ」
 言いながら、椅子の背後からヒルダを抱きしめる、この年頃の娘にそんな事をしようものなら色々と問題があるだろう。
「年のころから行けばそうだろうな。遊び倒してこの年になりやがって」
「あの御仁、年は確か……」
「オーヴァートはドロテアより十五歳年上だから、今で四十二歳。若いだろ?」
 グレイの問いに答えるエルストは、レクトリトアードを椅子に座らせる事を諦めた。
「そうですねえ、若々しいって言うか何て言うのか……」
 まさか天下の皇帝捕まえて『バカは年齢より若く見えるっすからね!』とは言えない、例え思ったとしても。盗賊から足を洗った若いのにそう思われた男は、床に座って所在無さげにしている青年に、
「そうそうレクトリトアード。食べたい物があるならミゼーヌにでも言うといい。ヒルダの場合はド・ロ・テ・ア・に・な」
 追い討ちをかける。
「オーヴァート卿!」
 立ち上がるも、側に行く事も出来ずに拳を作ったままのレクトリトアード。渦中のヒルダは全く意味が解からずな状態。
「ドロテア……あれ、解っててやってるんだろうな」
「そりゃそうだろうよ。からかうのには最高だ」
 初々しい反応と言えば初々しいに違いないが、迷惑といえば迷惑だろう。そのやり取りを見ながら、運ばれてきた発泡果実酒を飲みつつやり取りを二人で見つめていた。
「おい、グレイ。お前も飲め」
「は、はい」
 先ほどから何回も『何があっても驚かないようにしよう!』自分に言い聞かせているが、成功しないグレイ。そこにもう一人の人物が現れる、声は低く少々怒ったような雰囲気の喋り方。
「オーヴァート!」
「お帰りなさいませ、ヤロスラフ様」
「ああ、ミゼーヌ。帰って来たのか、ドロテア」
 全身蜘蛛の巣だらけのヤロスラフの帰還である、何をしてきたのか? など聞く気にもならないようで、ドロテアは手を挙げて空いているグラスに果実酒を注ぎ差し出す。それを受け取って飲みつつ目の前の蜘蛛の巣を払おうとしている脇で、落ちた蜘蛛をミゼーヌが拾い集める。
「よお、ヤロスラフ」
「誰ですか、あの御仁は?」
 選帝侯=蜘蛛まみれの男……という認識がグレイに植えつけられたのは必至だ。
「ヤロスラフ。エールフェン選帝侯って言えばわかるだろう」
「はいはい。あの御仁がねえ」
「見た目はオーヴァートより老けてるけど、俺と大差ないはずだ三十五、六だったような……あんまり真面目に覚えてないんだ、後で当人に聞いてみてくれ」
 エルストだからな。むしろオーヴァートの年齢を確りと言えた事が奇跡にも等しい。
「兄さんと同い年くらいには、とても見えませんぜ。どちらかってと、オーヴァートの御仁の方が若く見えるような」
「苦労してるんだよ、ヤロスラフ」
「はあ……」
 この人と一緒に住んでるならそうだろうな……と思っても仕方ない事だ。
「可愛いなあ、ヒルダ。どうだ今夜は私と一緒に」
「オーヴァート卿!」
「どう言う事だ?」
 振り返った瞬間に、首筋の脇から大きな蜘蛛が顔を現す。それを目掛けてドロテアが衝撃波をぶつける。砕け落ちた蜘蛛を見て、ミゼーヌは銀の皿でそれを拾い上げる。銀皿が見る間に色が変わってゆく所から、毒蜘蛛であったのだろう。ヤロスラフ自体は毒蜘蛛に噛まれたくらいではどうと言う事はないが、ミゼーヌは危険だ。だが、そんな毒蜘蛛に興味は無いとばかりに
「レイはヒルダが気に入っている。それに気付いたオーヴァートがからかい続けてる。因みにヒルダは両方の意図などまるで気付いていない。あのまま行けば、オーヴァート対レクトリトアードっていう、闘技場でも見れねえような最高のカードがこの場で実現するぜ」
「ドロテア、前にも言ったが純粋な戦闘能力では私はレクトリトアードにはかなわないぞ。当然オーヴァートにも、そんな事が起こったらどうやって止める気だ?」
「ある程度の所で殴る」
「兄さんの奥方様も強いですよね」
「うん。大陸最強の名を冠してもまだ足りないな」
「兄さん、変わってますよね」
「そんなに変わってるかなあ……ま、変わってるんだろうな」
『普通は女房が昔の男の家に泊まるって言ったら、嫌な顔するもんすよ。その上……』
「俺は結構ドロテアと此処に止まりに来たことあるよ。結構頻繁に泊まってたけど」
「?! 何で俺が考えてる事解かるんすかっ!」
「え? 顔に書いてたぞグレイ」

『怖ぇ……この人』


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