ビルトニアの女
さよなら【3】
 食後、廃墟の宿の中を勝手に片付けて宿代わりにして、日の高いうちに四人は眠りについた。
 ドロテアが目を覚ました時は、夕方が過ぎ紺色の空に星が顔を見せようとする頃となっていた。目が覚めた順番は、どうやらドロテアが最後であったらしい、ドロテアは魔力や邪術を使い果たした後の痛みが過ぎてから寝たので、一番遅かった事もあるのだが。それにしても、四人で一緒に寝ていて最後に目を覚ましたのは珍しい事だった。マリアが出かける準備をしている時に目を覚ました時、他は誰もいなかった。紺色の空気を前に目を擦りながらドロテアはマリアに声をかける。
「マリア。この方角の、あの白く大きい家。あれがネテルティの家だ」
「ドロテア? 思い出したの」
 あれ程思い出せないと言っていたドロテアの、突然の言葉にマリアは心底驚いた。そのマリアを前にカンテラをだし、話し続ける
「吸血城で螺旋階段の中心を落下している時に思い出した。あそこに子供が遊ぶ場所がある、噴水もあって尼僧が面倒を見てくれる場所で、当時、俺にも友達も多数いた。今となっては殆ど死んだが。友達の一人に“最後の日”より幾分前に死んだ少年がいた。家の階段から落ちて首の骨を折って死んだそうだ。母親が気付いた時は既に遅かった。その後亭主に追い出された、愛人がいたらしいな。女たちの井戸端会議で聞いた」
「それが、ネテルティさん……」
「ああ。間違いないはずだ。ネテルティじゃ解らないさ、当時はマリーダ夫人って呼ばれてだんだからな、結構上流階級の夫人だったぜ。息子は歌が上手でよくピアノを弾くと音に合わせて歌ってた」
「そっか……」

二人姉妹って変な言葉だけれど

“はい、二人姉妹です!”
“そうなの、仲は良いの?”
“はい!!”
“テメエでハイって言うな!”
“そう、二人姉妹なの……”

−そうずっと二人さ−
 それでネフェルティさんは納得したんだ。マリアはその言葉を飲み込む、
「そして息子の名前が、ゼファー」
「ゼファーって」
「忘れている訳だ、弟と同じ名前だからな……マリーダと今でも表札が出ていると思うから、探し易いはずだ」
「ええ、行ってみるわ」
「ほらよ、カンテラ。ま、盗賊もいるから気をつけろ」
「ええ」
「何かあったら、叫べよ」
「もちろん。助けてもらうわ」
 歩いていくマリアの後姿を見ながら、ドロテアは煙草を口に挟み
「やれやれ、後の二人は何処にいったのやら」
 文句を言いながら、火をつけた煙草を咥えたまま宿を出た。

 ドロテアも廃墟となった故郷を見るのは当然ながら初めてだ。立ち入り制限などもあるが、それはドロテアにとっては何の制限にもなっていない。『行きたければ自由に』と言われていたが、行く事はなかった。望郷に囚われなかったとは言わないが、それが薄れていった事も事実。漠然とした大きな復讐心も、次第に霧散してゆく。魔物という大きな範疇だったそれは、普通の生活で殺す事も多々ある。それを繰り返しているうちに、自分の弟を殺した魔物でなくても殺せば気が晴れるという事実を知る。真摯に弟を殺害した魔物だけを殺す事を目的としているのなら、他の魔物を殺したとき僅かなりとも良心の呵責があるべきだろうが、それがなかった。それどころか、別の魔物を殺害して気分が晴れやかになる。
 それを実感した時、復讐という感情の出所が、弟の死ではなく自分の手に関するものだと理解した。最早、復讐を口にするなど弟に対しての冒涜だろうと思い、それらを封印した弟とそれらを取巻く全てを。自分の意識の中の出来事なので、明確な何かがあるわけではないが極力弟に関する事を思い出さないようにした時、弟の同じ名前の友人の存在を、そっくりそのまま記憶の底に追いやっていたのだ。あの時気付いていれば、ネテルティが死を望んでいた事を、理由と共にはっきりと思い出しただろう、思い出したとしても止めはしなかっただろうとも。

 星が灯を降り注ぐ廃墟の頭上で、子供の頃は“寝なさい”と言われても、二人で示し合わせて、起き上がり窓からこっそりとのぞいた夜景。あの時の星の輝きを最早感じることはない。それが成長したことなのだろうと、瓦礫を避けながら歩く。

一人見つめる故郷に懐かしさは最早ない
故郷は残念ながら此処ではない
望郷を誘うにはあまりに壊れてしまっている
生家は残っている筈だが、足を運ぶ気にはならなかった
生家もすでに自分にとって懐かしさをもたらさない

 自分自身の為に復讐しようと思いもしたが、それも諦めた。王学府を卒業し、オーヴァートの元を離れ本当に一人になった時、復讐するという程の気力が残っていなかった。オーヴァートに対して全てを置き去りにしてきたから、それは二度目の終末人生の区切りではなく終末。それでも抜け殻にもなりきれなかった、空虚さを埋めるのにそれから六年近い年月を要した。

「ヒルダは家の方に行ってるだろう」

**********

 水の花を持ち、聖典を持ち、カンテラを持ち一人で廃墟を歩く。ギュレネイスで出合ったシルダとバリスタは、洗濯物の入った籠を持ってくれた二人は、バツが悪そうに語った。二人はドロテアと弟のゼファーの友達だったのだ。顔を見た時、間違いなくドロテアと思ったらしい。まさかその下の妹にあたる、ヒルダだとは思わなかった。当然だろう、ヒルダの存在すらなかった時代の友人なのだ。「みんな元気か?」 と聞かれたので、ヒルダは正直に答えた。
「ゼファーと言う人は知りません。多分死んでしまったのでしょうトルトリアで」
 彼等は悲しそうで、残念ながら私は悲しくなかった。

 言葉でしか解らないから。兄さんがいた事は、言葉でしか解からないのであまり悲しくはない……つもりだったのだが、実際兄を目の前にすると、悲しいのかどうなのか理由は解からないけれど涙が出た。

“広場から南に伸びる大きな道を進んで坂を上って、突き当たった所を左に曲がって五軒目”
“確かにそこだよ、よく迎えにいったもんな”
“同い年の中じゃ、ずば抜けて頭の良い子だったし”
“ねえちゃんも綺麗だし”
“オヤツ貰って、遊びにいったよ。よく”
“ああ。遊びに誘いに行くと、いつもねえちゃんのピアノを黙って聞いてたな”

 おとなしくて可愛らしかったという兄、もしも生き延びていたら私達はもっと変わった人生を送っていたのだろうか? でも思い描く事すらできない。だって私は、ずっと幸せだったから。二人の言葉を反芻して、ヒルダは歩いた。彼らが教えてくれた通りに。人気の全く無い住宅地を歩いて、そして
「あ、ここだ。……ただいま! そして初めまして!」
 二階建ての石造りの家は、半壊していた。入り口は開かないので、雨戸が外れている窓から入り込む。室内は、大慌てで逃げたのがわかる……その時のままの状態。飲みかけだったにちがいないカップが転がって、風化してガチガチになったクッキーらしいものがテーブルにあがったまま。
 脇にはボロボロになった布と、錆びてしまった針、産着を縫っていたらしい。歩き回れる箇所は少なかったが、壁の埋め込まれた木の柱に背比べの後が残っていた。家族で使っていた馬車にも残っていた同じ文字が帰された、小さな目盛が僅差で争っているその跡。ドロテアの頭文字と、知らない名前の頭文字。母さんでもない、頭文字は父さんと同じだけれど、父さんはこんなに小さくない。
 此処でドロテアと、死んだセファーは測っていたのだろう。馬車で見つけたその傷跡、訊きたかったが訊けなかったのは、幼いがならに解かっていたのだろう。
「あ、家にも跡があるんだ……」
 年子の姉と弟の背比べの跡は、いつかは弟の方が伸びただろうが、幼いままで終わってしまったので姉の方が高いまま。大きく年の離れた背比べとは少し違うけど……。
 ヒルダは自分で自分の背を測り、
「よいしょ、この柱にキズ残してっと!」
 ゼファーが大好きだったという水の花を、その傷の前に置き
「それじゃ、また帰ってくるからね!」
 聖典とカンテラを持って家を出た。

ねえ、此処からどんな景色を見ていたのですか?

永遠に訊ねる事はないだろう疑問を胸で呟き、ヒルダはもう一つの目的の場所へと向かう。

**********

 宝物庫を前に、お預けをくらった状態の盗賊達は、とりあえず一晩過ごすことにした。未だグリフォードは扉の前から動かないし、両脇にはドロテアに似た幽霊が二人いて、クルクルと走り回っている。陰気な幽霊は怖いだけだが、陽気な子供の幽霊は何故か寂しさを誘う。ドロテアの手元を離れた幽霊・アーサーは徐徐に姿が退行してゆく。彼は自分の姿を自分で保てる事はない、放置しておいても綺麗に消滅するだろう。一人道に迷うかも知れないが、幸い確りとした兄もいる。
 盗賊達、と一括で語られているが当然名はある、遅ればせながら紹介しておこう、ビシュアとニルスとグレイとラビオーンとフェーズ、そしてリド。ビシュアとリドは、内縁関係と言っていいだろう、ビシュアの簡単な容姿は前に述べた、リドはドロテアと同じくトルトリア人なので色彩は同じだ。顔の造りはドロテアよりも地味……十人並みと言えば十人並みの顔立ち。背はドロテアよりも高く、細身だ。踊りを生業としており、ちょっと大きい酒場のステージなどで踊っており、ビシュアともそこで知り合った。前は結構踊っていたが最近は病が悪化して、殆ど踊ることもなくなった。ヒルダが見立てたとおり、内臓疾患で、エルストが感じたとおりその病は死に向かうのみである。不治の病に冒されているのだ。
 ビシュアは元々、石工の息子だったのだが、辛い仕事に嫌気がさして家を飛び出し盗賊になった。それ程指先は器用ではなかったが、それなりに努力して普通の盗賊くらいの技能は手に入れた。石工の息子だったので、庭石などに目をつけて盗みを働いた。他の人が盗まない物を、鑑定して盗めるのは中々に重宝されることに気付き、それから真面目に盗賊の勉強をした。盗賊の勉強というのは、罠の解除方法や真贋の見分け方など、結構ある。
 色々と出来るようになると、今度はパーティーを組むようになった。気質が良く、思慮深いが大らかで面倒見が良いビシュアは、多数で組んで仕事をする事が苦ではない。今回は、結構大きな仕事なので、罠の解除に詳しいニルスと、腕っ節には自信のあるラビオーン。フェーズは、隠れた街道などを良く知っている、そしてグレイ。グレイは代々盗賊なのだが、技能的には大したことはない。今回も誘ったのではなく、舎弟を自負しているので付いて来た、といった所であった。
 ビシュア自体は、宝も欲しいがリドを一度故郷へ連れてきてやりたかった事もあった。中央のシュスラ=トルトリアの棺と言われるモノが見える場所にテントを張り焚き火を見ながら、ビシュアは溜め息を付きながら口を開く。
「あいつら、宝は興味ないようだから、明日あいつが居なくなったら開けてみよう」
「そうでしょうね。あの女でしょう? 皇帝の愛人だったやつ。凄い宝石持ってるとか聞いた事がある」
 盗賊達にしてみれば、羨望の眼差しだが“あの”オーヴァートの今の城に入り込む気はない、特にビシュアは。ビシュアは生まれがエルセン王国、あの国ではとにかく“皇帝”に恭順する事を重要視しており、その教育だけは一般にも浸透させられていた。
「そうだ……どうした? グレイ」
「あれ、その女の妹じゃ」
 カンテラの光に気付いたグレイが指差した先にいたのは、ヒルダ。
「そうだな」
「何してるんしょ?」
 ヒルダは先ほど、魔物達を呼び出していたドロテアが居た場所に来ると聖典を開きだし、腕に持っていた聖印を取りだし聖書の上に乗せた。その仕草、信仰が深くなかろうが別の宗教であろうが、理解できる。死者に捧げる祈り。何に対して祈りを捧げようとしているのか? 興味を持ったビシュアが声をかける。
「おい! 何しようってんだ?」
 かけられたヒルダは、特に気負うでもなく答えた。
「お祈りを捧げるんですよ」
「明日なんじゃないのか?」
「それは、グリフォードさんやエドウィンさんの為。私が此処にきたのは先程私達が殺した魔物の為に」
「おいおい、ソイツは……」
「祈りは私の仕事ですから。人というのは殺して祈るものなのですよ。祈りというのは、罪がなければ必要ないものなのですよ」
「偉い坊さんの言う事は解からないな」
「ただ、祈りたいだけだと思ってくれれば結構ですよ……イシリアでは宗教の違いから死者に祈れませんでしたが」
「あんた達、イシリア行った事あるのか? 俺もイシリア出身なんだ」
「へえ。そうだ! イシリアの盗賊寄り合い元締のお孫さんって知りませんか? 絵が上手なグレイって人」
 同じイシリアから逃げ出した、同じ盗賊であればその行き先を知っているのではないか? とヒルダは訊ねた。すると、
「こいつだろ」
 ビシュアからあっさりとした返答がもたらされた。
「俺でしょうね」
「そうでしたか。そうだ! イシリアが壊滅的な被害を受けたのご存知ですか?」
「噂じゃあ聞いたが、詳しい事は」
「残念ながら亡くなられましたよ、お祖父さん」
「……そ、そうか……爺さんもそろそろ歳だったしな……」
「それでですね、グレイさん。絵を学びませんか? 元々その目的だったんでしょう? イシリアを出たのは」
 グレイの目的は確かにそうだったが、何の蓄えもなく、頼りになるのは昔居た盗賊寄り合いくらい。絵の具を買う金を稼ぐ為に盗賊するような毎日で、直ぐに諦めた。絵の勉強をしないか? と言われるのは嬉しいが
「そうだけどよ。何処で?」
 それに飛びつく程、浅慮ではないらしい。良い話には裏があるのが常だ。グレイが“行く”といえば連れて行かれる先は、オーヴァートの元。絵の具代も、カンバス代も、スケッチブック代も、絵筆代も苦にしなくても良い場所だが、それ以上の“アレ”が待っている。奇行の彼が。そしてスカウトする人も、少しばかり変わっていた。
「是非とも、その才能を欲している人がいるので、との事です。明日出立前に姉さんに聞くといいですよ」
「いや! 行くって言ってねえし!」
「そうですか。人が羨む才能を、人が羨む環境で伸ばせるのに残念です」
「いや! 行かないとも言ってねえよ!」
「人生の決断ですから、さっさと決めてくださいね」

普通は悩んで決めろというのではないだろうか?

 思ったのだが、誰も口にしなかった。しようが無かったのだ、そこまで言うと、ヒルダは再び精神を集中させて祈り始めた。何にせよ、死者に対する祈りを妨害するのは、不信心な盗賊でもしてはいけない事だと理解しているので、その場を立去った。一人殺害した魔物への祈りを済ませた頃、マリアが歩いてきた。どうもマリア、道を迷って中央広場に出てしまったらしい。瓦礫だらけで、道が寸断されている初めて訪れた暗い街中で目的地を見つけるのは、容易な事ではない。
「ヒルダ、良いかしら? ちょっと一緒に来て欲しいんだけど、道がどうにも解からなくて……ピアノ?」
「調律が狂ってますが、ピアノでしょうね。姉さんでしょう」
「相変らず上手ね……指が揃っている頃のピアノ聴いてみたかったわ」
 今ほど上手ではないだろうと、マリアは思う。恐らく、上手であろう今の方が。それでもマリアは聞いてみたかった、
「九本の指で弾いているとは、本当に思えませんよね……ねえ? マリアさん」
「何?」
「オーヴァートさんって、姉さんの指治せたんじゃないのでしょうか?」
「どうかしら……ドロテアの事だから断ったのかも知れないわよ」

**********

12の鐘が鳴る昼に
金に輝く華を持って歩こう2人で
12の鐘が鳴る夜に
銀に輝く砂丘を見よう2人で
金と銀の都を 時を告げる鐘が鳴る
指折り数えて 眠りましょう
眠りましょう 眠りましょう

**********

 ヒルダが行く場所には心当たりあるものの、エルストが行く場所など心当たりはない。探そうかと思っていたのだが、歩いている途中、探す気もなくなったドロテアは懐かしい場所に立ち寄った。朽ちかかった温室、ガラスで覆われた室内には多数の大きな樹木が植えられている。無事に生き延びた樹木は、ガラスを破り外へとその枝を突き出しているのが、カンテラの僅かな明かりでも見て取れた。
 中心にある噴水と、壁際にある楽器類、そして散らばった多数の小さな黒板。親が忙しい時に、子供を預ける場所。修道女や神父が預かり、字を教えたり楽器を教えたりしてくれるので、忙しくなくとも預ける親もいた。無論、無料ではないがそれほど高額でもないので、何時も沢山の子供達が声を上げて遊んでいた場所。
 ドロテアが始めてピアノを弾いたのもこの場所である。ギィ……と蓋をあけ、砂にまみれた鍵盤をポンと叩くと、外れた音がする。調律が完全に狂ってしまっているピアノを前に、立ったままピアノを弾き始めた。曲は覚えている、呪文を覚えるよりも簡単な譜面。既に弾かなくなったが、それも眺め覚えていた。
 だがこの場で、どんな曲を弾けばいいのか? ただ指を走らせ、踊らせ、外れてしまった音を叩き続けた。
「音階狂ってるね」
「ああ」
 入ってきたエルストの声を聞いて、ドロテアは弾くのをやめて噴水の縁に腰をかけた。エルストも隣に腰をかけて、噴水を背に二人とも大きく育ちすぎた樹木の葉の隙間から見える夜空を見上げている。
「力使い切ったようだけどさ、どうする?」
「今は必要ない」
「そうか」
 噴水に背を向けていたドロテアが、少しずつ動きエルストに背を向ける。噴水の噴出す音のみが、室内に響き渡る。外は静かで、夜風は冷たさを帯びてくる。
「ドロテア」
「なんだ?」
「泣いてるなら、胸貸すけど」
「絵面としては美しいだろうが、実際はお前の服に涙と鼻水と、濡れて溶け出した化粧まで付いて洗うのが面倒だぞ」
「俺の服洗うの俺だから、いいよ」
 そういってエルストがドロテアの手を引くと、朽ちかけていた噴水の縁が壊れてドロテアが水の中に落ちた。子供の遊び場にある噴水なので、深さは大した事はなく濡れた上半身を腹筋で起こすだけで、顔が水面に出る程度。バシャバシャと耳元で聞こえる水音と、薄暗さ。水面に顔を浮かせたドロテアの耳元に、エルストが呟く
「               」
ドロテアは黙って星を見上げたまま、エルストを抱きしめた。幼い時、あれ程近くに見えて手を伸ばし取ろうとした星が、とても遠い事を知った。

**********

 ヒルダとマリアが、ネテルティの家にたどり着いたのは、午前一時を回った頃だった。夜の闇も深く、広場でも盗賊が寝ずの番以外の者が起きている影はない。ピアノの音も聞こえる事はなく、二人の足音だけが響き渡っていた。近くにきて、一軒一軒表札を確かめる。
「こっちのようですね、マリアさん! ありましたよ! へンツォン=ヴィル=マリーダ」
 その中に目的のものをやっと発見した。
「貴族だったんだ」
「物腰穏やかな方でしたからね、入ってみましょうか?」
 マリアはネテルティの遺品の髪飾りを持っていた。これをトルトリアのどこかに置きたいのだが、追い出された家は不適だろう……だが、適当な場所が見つからない場合は、息子と暮らした家においていくのも良いだろうと思っていた。本当ならば墓に行きたいのだが、墓場が何処なのかもわからないし、大体墓が何処にあるのかも解からない。幾らドロテアでも、ネテルティの息子の墓が何処にあるのかなど解からないだろう。そして何より、墓が残っているとも限らない、壊れてしまっている可能性もある。
「そうね」
 言いながら二人は比較的綺麗に残っている家に足を踏み入れた。何故かこの家は綺麗であった、壊れている箇所も殆どない。ただ、ギィィ……ギィィィという音を立てながら、揺れる軽そうなそれがなければ、快適であっただろう。
「……これって、一つのホラー現場なんでしょうか?」
「……そうね、さすがに吃驚したわ」
 表札がかかっている場所から一番近い所にある扉から入った二人を出迎えてくれたのは、カラカラに乾いた首吊り死体。
「崩壊する前に自殺したようですが、チョンチョン」
“チョンチョン”などと言いながら、ヒルダは突く。突くと、軽いそれは、良い勢いで揺れる。
「でもドロテアが言ってたけど、此処の主、ネテルティさんの夫って愛人がいたからネテルティさんを追い出したそうよ。どう考えても、その頃は愛人と我が世を謳歌してそうな時期なんだけど」
「愛人って、あの螺旋階段の下で首が変な方向に折れてるミイラですかね?」
 大きい室内なので、カンテラの明かりが微かに届く程度なのだが、螺旋階段らしい影の下に、これまた前衛芸術のような形のミイラがあった。側に寄り、ボロボロの着衣から女だと解かる。
「らしいわね。足滑らしたのかしら?」
 大きい螺旋階段を見上げながらマリアが呟く、脇で階段の手すりを触っていたヒルダは
「間抜けな体勢です……あっ! これ」
 声を上げた。
「どうしたの、ヒルダ?」
「この階段って、呪われてます」
「え?」
「呪いの元を呼び出してみましょう!」
 この流れの中に、恐怖もなければ、他の人に聞くという行為がないあたりヒルダらしい。魔法を唱え終わると“呪い”という言葉に似つかわしくない少年が現れた。
「ネテルティさんの息子だから……ゼファー?」
 マリアがそれに驚いている脇で、ヒルダはゼファーと会話する。
「どうやらそのようです。どうやらゼファーさんを突き落とし殺害たのは、この愛人のようですね。あそこでプランプラン揺れているミイラ化した首吊り自殺体こと実父も知っていたようです。なんて悪党なんでしょうね」
 その後、彼らは仲良く暮らし始めたが、母親を追い出した父親と、自分を殺した女に恨みを抱いたゼファーが、二人を追い詰めた。女はゼファーの霊に驚き、階段から落下して死亡。そして父親は、息子の霊を前に怖ろしくなり逃げ出そうとしたのだが、部屋の扉が全て開かなくなっていた。何度も体当たりしても開かない扉と、螺旋階段の上に立つゼファー。
 恐怖に耐えかねて、父親は自殺した。その直ぐ後にトルトリアは崩壊、その際生き物もいなければ呪われていたこの家は、魔物達の襲来もないまま此処に至ったのだ。自殺者の霊は、確りとした祈りを唱えない限りその場に残る、無念の死を遂げたものも。
「当然、この場に留まってる訳よね、悪党達も」
「そうですね」
「ゼファーの霊は還してあげましょうよ。それ以外はどうでも良いけど、私は」
 私怨を晴らしたゼファーの霊も、悪霊の部類に既に入ってしまっているが、ヒルダがいれば問題なく解決する。
「私もどうでもいいです」
 本当にそれで良いのか? 聖職者。
 そんなヒルダが死人還りを唱えようとすると、少年の霊はついて来て欲しいと言い出した。自分の躯が眠っている墓で、マリアの持っている母親の遺品と共に送って欲しいと。ヒルダもマリアも快諾し、墓場へと向かった。墓は比較的綺麗なままだった。倒れているものや、風化しているものが多かったが、それらを踏み越えては「すみません!」と祈りながら二人はゼファーの墓に到着する。
 確かにゼファーと刻まれている、歳月を経た墓の前に、ひしゃげた銀の髪飾りをコトリと置く。すると、ヒルダが魔法を唱える必要もなく、ゼファーは消え去った。ネテルティが迎えに来たのだ。
「良かった、ですね」
「そうね……良かったわね。戻りましょうか、そろそろ眠くなってきたわ」
 【ありがとう】と生前と何ら変わらない声で感謝された二人は、空に上がっていた親子に頭を下げた。
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