ビルトニアの女
【塔の中 或いは 眠る魚】
 後々この男が俺の人生の一部分に絡んでくるとは、この当時は思いもしなかった。

ジェダという男


 王学府に正式に編入する前に王宮に出入りするはめになった。
 パーティー会場では随分と目立ったらしいが。自分のことだが目立とうが目立つまいが俺に何の関係もない。
「少し散歩してきていいか? 折角の王宮だし、見て回りたい」
「嘘をつくのが下手だが、見て回ってくるのは構わん」
 全く皇帝は話のし辛い男だぜ。ドレスの裾を何度か踏みながら、中庭に出る事に成功した。話しかけられるのも鬱陶しくて、不慣れな中庭で木陰に隠れたのが災いしたらしい。
「……わからねえな」
 雲に隠れた月が現れるのを期待するしかないような暗がり、その暗さから建物から離れていることだけは解る。明るい方に向かって歩けば建物に戻ることができるだろう。
「靴が足にあわねぇな」
 宝石のついた靴を脱ぎ、踵と小指を触るとぷよぷよとした感触と痛みが走る。靴を脱ぎ、草むらに腰を下ろして、暗い雲に覆われている夜空を見上げた。
「わざと……なんだろうな」
 隣においた堅い銀でできた靴の僅かな輝きを眺めながら、この靴を履けと言った皇帝の性格の悪さを閨以外でも味わうはめに。
「性格の悪さは閨でいやという程味わった。出来れば閨以外じゃあ味わいたくないもんだ。捨てられる頃には俺の体はボロボロとは言わねえが……」
 一人呟き溜め息をつく。淫乱だとかそんな簡単な生き物になれればいいんだがどうも違う。皇帝はそれを望んでいないらしい。
 だが皇帝が俺に何を望んでいるのか解かるか? と聞かれればわからないと答える。たかが十年となかほど生きた程度で他人の心理を読み取るなんざ不可能。
 出来るヤツも居るかも知れないが、俺にはそんな能力はない。
「?」
 全く人気のなかった中庭の外れの東屋から僅かながら会話が聞こえてきた。人目を盗んだ会話なんだろう。
 そんな秘密の会話をしている人間に尋ねるのは少々気は進まないが、そうも言っていられない状況だ。
 とにかく捕まえて帰り道を聞き出さなければならないと、手に銀の靴を持ちボソボソと押し殺した声の聞こえる方向に歩いていった。
 夜露に濡れ始めた草を絹の靴下で踏みながら歩く。
 アンクレットがシャラリシャラリと音を立てているが、東屋で話をしている二人には聞こえていないようだった。

「確実なんだろうな」
「確実だと思わないのならば買う必要はない」

 その場には二人が向き合っていた。俺の方向を向いている背の高い人影は俺に気付いたらしく眼が合った。そして俺は足が動かなくなった。目の合ったと思われる相手の仕業らしいがこんな事は初めてだった。
 俺に気づかない相手と気づいた相手の話は続いた。
 話の内容から察するに、俺に気付いていない人物は、俺に気付いている人物から人殺し用の毒を売って貰ったようだ。毒を手に入れた人物が立ち去った後、気づいていた男は俺のほうへと近づいてきた。
「ドロテアか」
 目の前に現れた背の高い男は、俺の事を知っていた。
「俺はアンタの事なんぞ知らねえが?」
 期間は僅かと言えども、皇帝の元にいるんだ。宮殿に出入り出来る人間が、俺のことを知っていても驚く程のことじゃねえ。
「そうだろうな、知らんでも構わない」
 細めた瞳に言い表すことの出来ない恐怖を感じる。何かが間違っていると、恐らく本能が告げている。目の前にいる男は危険だ、その危険さは暴力などというモノではない。そこまでは解かったが、それ以上は解からない。
「まあいいや、オーヴァートの居る方に戻りたいんで道を教えてくれるか?」
「途中まで案内してやろう」
 尋ねておきながら俺は身構えた。背の高い男にも俺が警戒した空気が伝わったらしい
「今は危害を加えたりはせん。もう少し様子を見てみる」
 声も態度も悪くない、異臭が漂うわけでもない。
「俺がオーヴァートの元に長い事いれば大事だとでも考えて危害を食わえるとか?」
 だが “コレ” は危険だと何かが囁く。そして今宵、俺に悪意を抱いているのではないか? そうとしか思えない月が姿を現した。
 男の目と冴え冴えとした月明かり。その時、危険の意味を僅かに悟った。目の前の男の目に虹彩がない……選帝侯ですら持っている虹彩が無い。虹彩のないのは皇帝だけでは?
「中々に賢い。だが、その賢さに足を取られるだろう」
 俺が気付いたことに、男は気付いた。
「ふん、俺は賢くなんかない。その証拠に今あんたに注意されたじゃないか」
 憎悪が人の姿になったのか? 人が憎悪の塊になったのか? 単純な憎悪のレベルじゃない……これを生かし続けている、根源は憎悪以外ない。肩を抱かれて引き寄せられたが、気にしないで隣を歩く。何処に連れて行くのか? 本当に連れて行く気なのか? 問いただす気もない。

「妾妃! その男から離れろ!」

「選帝侯?」
 少しだけ歩くと、背後からいつも冷静な選帝侯の大声で、焦りを含んだ聞きなれない声が聞こえた。
 選帝侯に“妾妃”呼ばわれされている自分の現状にも問題があるが、隣にいる男はもっと問題があるらしい。選帝侯が現れても、男は動じるでもなく、俺の肩を掴んでいる手に少し力を込めただけ。
 露になっている肩に触れている手が、異常に冷たい事に気づいたのはこの時だった。最近、冷たい体の男に抱かれ慣れていたせいか、気付くのが遅くなっていた。
 そして肩を抱く手に力が篭ったのに、その手のひらは全く汗ばむ事がない。
 睨み合う二人、そして選帝侯の背後から男が現れた。貴賓の皇帝。
「記憶には聞いていたがこんな場所で出会うとはな、ジェダ」
 隣に立つ男の名は、ジェダ。
「記憶に聞くとはさすが皇帝」
「早くこの場から立ち去るがいい。娘、お前もそこから自らの足で逃げろ」
「足が動かねえんだよっ!」
 俺の脚は、黒い何かに絡めとられていた。冷たさと同時に感じる、ぬるりぬるりとしたその感触。邪術であると気付くのは、もう少し後のこと。
「大事か?」
「お前は大事だと思っているから、その女の足を冒し肩を抱いているのだろ」
「長い年月見たが、この女が始めてかも知れん。貴様らのような人の形をしているだけの化け物が、情を抱いた相手は」
 男はそう言って、俺の背を叩き倒すと同時に逃げていった。足を膝上まで絡めとられている俺は、突かれた衝撃で前のめりになるが、下半身が不自由な形に固定されているので倒れるに倒れられない。
 選帝侯が腕で胸を押さえ、その黒い呪縛を切り離す。
「直接会うのは初めてだ」
「そのようだ」
 この男達が何故あれを追わなかったのか? 後日知る事になる。
 その時俺は、あの男が邪術を使えるという事しか理解できなかったが、そんな生易しい問題じゃなかったのは、後々身をもって知るはめになった。

八十五代皇帝・ゴルドバラガナに全てを狂わされた男の話。それは不幸への序章


第九章 完


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