ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【23】
 呆然としている状態の中、一人大きく息を吐き出したのはドロテアだ。最後の方は大慌な上に、予想外ではなかったにしろ面倒が起きて手間隙がかかったことに怒りを覚え、その怒りを抑えるために肺腑から息を吐き出したのだ。
「ドロテア、お疲れ様」
「ああ、もうしばらく動きたくない。余計な事させやがって!」
 突き飛ばしたフラウナは混乱に乗じて走って逃げ出した、混乱の混乱だったため追いかけた者もいない。既に視界に捕らえられない程、彼は走って逃げていた。それを追おうとした者もいたが、ドロテアが手を振って“やめろ”と命じた。今追わなくても良いとドロテアは判断したのだ、フラウナの処遇を決めるのはドロテアではないクラウスでありチトーだ。ドロテアはあくまでも遺跡の鎮圧に来ただけであって、虫を倒したり上司を殺害しようとした者を罰する権限があったりするわけではない。
「でもあそこで腕が黒い茨で雁字搦めにされてるエルストとクラウスが痛そうなんだけど」
「痛いだろうな……何せ……まあいいや、もう少しそのまま待てって言っておいてくれ」
「わかったわ」
 持てる魔力の全てを使い切りかけたドロテアは、ヤレヤレといった表情でそこに座って首をもたげていた。
 ドロテアに放って置かれた男二人、うち一人は吸い込まれるのに耐えた事や投げ出された際に受身が取れなかった事で、見事に脱臼していた。脱臼は痛むのだが、脱臼以上に腕を支配している黒い物体が痛むために、呻き声にも近い声をかみ殺しながら外されるのを待っていた。
「脱臼は治せても、この邪術は取れなさそうじゃな。見事なものじゃ。どうじゃパネ、お主なら外せるかえ」
 肩がおかしな形になっている事に気付いたクナは、脱臼は治せたものの腕を這い回るそれは取りようがなかった
「無理です、これは」
 知識ではクナを上回るパネも目の前の邪術は見たことのない物である。そんな中、ヒルダが
「ゴルトガラバナですよ、エドウィンさん達がかかっている術の一種」
「あら、普通の人は使えないんじゃなかったの」
「姉さんの手甲ですよ、掌に部分から出てましたから」
 確かにエルストは術をかける前にドロテアの手甲を掴んだのは、マリアも見ていた。あれを作って送った主自体は大したことは無いように思えるも、手甲自体は大した物なのね……
「あれ、凄いのね」
 他の者も、それで納得した。
「そうですね。何せ皇帝金属」
 一人それを語った人間が一番納得していなかったとしても。
『どうしてエルスト義理兄さんが使えるのかは不思議でも……ないか』
 確かに手甲からでたが、あの手甲を媒介として使えたこと自体が不思議なのだ。だからと言って聞いてみてもどうにもなるものではないだろう、何より復活した姉が
「勝手にクラウスを殺して俺がオーヴァートを呼び寄せるとでも思ったか? 俺が総指揮している仕事で勝手な事をしやがって! おい、クラウスを殺そうと思ったら俺に許可を貰ってからやれよ、バカが」
 他の警備隊員を威嚇するように叫びだしたので、思考を中断せざるを得なかった。
「許可だすんですか?」
 ついでに考えてもどうしようもないので、ヒルダは考える事を放棄した。エルストがゴルドバラガナが施されていようがいまいが、ヒルダにとっては全く関係のない事である。
「許可なんか出しはしねえよ、何せクラウスはエルストの友達だからな。っとによ。勝手な推測やら憶測でモノ運びやがって! 俺を誰だと思ってんだ!」
「見るからに友達よね、死に掛かっても助けるんだから」
「それにだ、このエルストの髪の毛どうしてくれる。ヤツが禿げたらどうしてくれる!」
 ドロテアは自分の身体を自分の腕で支える際に、落ちないようにエルストの後頭部を確りと握った。
「それ引張ったの姉さんじゃないですか!」
「クラウスを落すような真似をしなけりゃ俺は後頭部の髪を握る必要性はなかった!」
「そうですけどね」
「薬作ってあげればいいじゃない、アナタ得意でしょう」
 話が見事にずれてゆくが、その間も非常用の救出を行ったエルストと、行われたクラウスの腕は黒い物体が蠢いていた。流動的に動いているそれは、痛むらしく
「あ、あの……ドロ……テア。痛いんですが、どうにかしていただけないでしょうか……ね。ちょっと俺には外せないもので」
 エルストが冷や汗をかきながらドロテアに訴えるが
「自分でかけたんだろうが、少し痛い目みてろ」
 あっさりと棄却された。
「は、はい」
 自分でもそれを呼び出したのは悪いと知っているのか、エルストは黙って引き下がる。最もエルストだ、どんな時でも引き下がるに違いない
「でも痛いって言ってますよ」
「自業自得ってか、大体突き落とされた警備隊長も悪い。それ以上に普通警備隊長ってのは警備隊に警備されてるだろうが? ああ? 皇国の警備隊は何の警備もできない警備隊なのか? 役立たずどもめが」
「役に立たないのは円形劇場での強襲で知ってることじゃないの。でも学者のアナタに劣る本職ってのもどうかしらね」
「マリアも言うな。確かにそうかもしれないが」
「申し訳ご……ざぁっ……」
「必死にクラウスさんが謝ってるんですから、そろそろ許してあげたらどうですか? でも同じ触手が体を突きぬけ蠢いているのに、クラウスさんの方が痛そうなのは、痛さになれてないからですか? やっぱりエルストさんは姉さんに殴られ……」
「言いたい事はそれだけか? ヒルダ」
 ドロテアがエルストの髪の毛を握り締めていた黒い手甲つきの拳に力を込める。ヒルダは頭に腕で防御体勢を作りつつ、後ずさる。周りの誰も助けようとはしないが、それは当然と言えば当然だろう
「違うんですか?」
「その通りだ。……と言いたいところだが、エルストの背中にはハルタスが半侵食してるだろ? その兼ね合いだよ、ハルタスの防御反応で痛みが抑えられてる」
「へえ……でもハルタス神でもあの触手を殺すのは無理なんですか?」
「無理だ」
「じゃあ外してあげましょうよ」
 理論的には配下にする事が出来るが、実際の能力的には人が使役するのは無理とされている最高の召喚精霊神ですら解けないのだから、解いてやるべきだろう。
「……正直に言ってやろうか?」
「はい、なんですか?」
ドロテアは
「見たところ俺には外せない」
 特に変わった表情を作るわけでもなく、声が変わるわけでもなく淡々と口にした。
「うそー!」
 此処で嘘を言うような姉ではない事をヒルダは理解している。この状況でそんな下らない事を言う人間ではない。
「エルストが俺の手甲を媒介にしてかけたから、強いんだよゴルドバラガナが」
「誰でも使えるんですか?」
「一応エルストと俺だけ。コイツは万能だが全能じゃない」
「はい?」
「エルストが使った邪術を解く手法を覚えていないという事だ、この手甲を介して唱えれば可能だろうが俺は知らん。俺が知らないって事は解除がない可能性もあるな、ゴルトバラガナもそうだが邪術ってのは一方通行が多いんだよ、エドウィン達を見てみろよ。アンデッド化したのを解けば生き返るか? と言えばそうじゃないだろ」
「それはそうだけど、じゃあどうするの? あのまんまにしておくの」
「しておきたいのは山々だが、しておいてもいいことは全くないしな……でもなあ」
 ドロテアは眉をひそめ、目を閉じ苦悩するような表情をその美しい顔に浮かべた。何が起こっても驚きはするが悩むような表情を浮かべる事が全くないようなドロテアが額に指をあててみたり、その指を口元に持っていったり、首筋をかいたりして非常に悩んでいた。だが、悩んでいる側でヌルヌルとした黒い蔓がエルストとクラウスの腕の中を蠢きまわっている。額に手を当て両目を隠し、盛大な溜め息の後遂に口を開いた。
「仕方ねえな。やりたくねえが……その前にハルタスを外すか、手順踏まないで消えたら厄介だしよ」
 心底嫌そうな溜め息を、先ほど“死を与えるもの”を葬り去った地面に落とす。本当にやりたくはないらしい、神の力を行使し誰に対しても傍若無人な女がこれほどまでに嫌う理由とは? 溜め息を付きながらハルタスをエルストから外し返還した後、ふぅ〜と再び溜め息をつく。
「外してあげましょうよ……」
 ヒルダが上着を引張りながら、早く早くと急かす。それを少しだけ見下ろし、ドロテアは口元に手を当てて叫んだ
「おーい! オーヴァート! 出てこーい!」
 ドロテアとしてはできる事なら使いたくない禁断の“相手”。やる気なく、だが大声で叫んだ声が空に吸い込まれたて辺りは静寂になる。片腕に肘を乗せ、顎を甲に乗せて目線を逸らすドロテアと、今の不可解な魔法の詠唱でもなんでもない叫びに驚いたヒルダ。だが、驚くのはこれからだ。
「ええ! そんなんで出てくっ……! って! 出てきたぁぁぁ! オーヴァートさんがあぁ!」
 突如現れた、褐色の肌に長い艶やかな黒髪。ついこの間見た時と髪の毛の長さが全く違い、長身のオーヴァートがズルズルと引きずる程の長さとなっていた、皇帝は自分の思うがままに髪の長さを変えられるのだ。
 その伸縮自在の髪はさておき今回は洋服こそ着ているが、その格好は相変わらず変わっているの一言に尽きる。
 黒のレザーパンツにショッキングピンクに染めたタフタを張った膝まであるブーツ、紐は七色なくらいにしておこう、上着は薔薇色サテンでできたガウンに近い形状のものだが片方の袖だけが長方形で地面につくほどで、内側に着ている服の襟は顔の半分まで届くような大きな襟が立っている。縁からキラキラと光り輝く宝石が繋がったネックレスのようなものが幾重にもぶら下がっている帽子を被っていて、何故か片眼鏡はオレンジ色のレンズ。
「呼んだかい、ドロテア」
 一応玲瓏なる冷たく通り過ぎる感じのある声の持ち主なのだが、格好のせいで全く違う声に聞こえてしまうのは、決して聞いているほうが悪いのではなく、目の前の何故か中指だけ二十センチも伸ばした爪にイシリア魔鍵塔の図形を描いて楽しんでいたこの皇帝が全て悪いに違いない。髪が伸縮自在って事は爪も伸縮自在なのだ、当然。
「蛆虫でもそんなにわき出てこないだろうよ」
 人々の色々な意味で度肝を抜く格好だが、ドロテアは髭も剃って服も着ているので許したらしく何時もの毒舌を吐く。だが他にいう事は無いのだろうか? 言っても無駄だろうが。
「皇帝以上! 蛆未満!」
 そのドロテアの声に中腰で右足だけを前に出し、長い右腕も下に伸ばして左腕を高く高く掲げる妙な決めポーズをとりながら訳の解からない言葉を鼻歌交じりに、二重音声で喋りだすオーヴァート。この場にいる全員が大きな脅威の後の果てない脱力を感じつつあったのだが、その疲れた体は再び緊張を強いられた。緊張したところで、どうなるってもんでもないのだが。
「それを言うなら蛆以上皇帝未満だと思うが? そりゃ良いがあれ外して傷を治してくれ」
 とっとと終わらせるのが吉だと、ドロテアは手を振りながらオーヴァートに依頼する。『やあ! 今日もまた会ったね!』などと意味不明な事をはっきりとした声で言いながら、座り込んでいる二人に歩み寄り
「もう、使えないモノつかうんだから。や・だ・よ・エ・ル・ス・ト」
 言いながらエルストの額を人差し指で小突く。『はっは〜ん!』等と意味の解からない事を再び言いつつ、今度は両手を大きく動かし、腰を振り、一言でいえば奇妙な踊りを踊り始めた。殆どの人々が直接見た事がない男、その噂のみの男の奇怪な行動に茫然としている脇で
「使ったのはエルストだって解かってるんだ。オーヴァートって意外と凄いのねえ」
 その程度の動きには慣れっこなマリアと
「いやなのは、こんな鬼気迫った状況でアホな事した警備隊員に言ってくれよ、もう逃げたけどよ」
 やはり慣れっこなドロテアである。
 全く必要の無い変な動きの後、腕を這い回っていた黒い触手は消え去り、二人とも自分の腕を裏表見た後、クラウスは膝を付き丁寧に、エルストは「どーも」と適当に礼を言い終えた。
「待たせた。こやつだな、ドロテア」
 全ての人の視線が、褐色の奇人とやる気ない灰色人と真面目な赤眼男に注がれていたのだが、その声で多くの人が振り返る。そこにいたのは、はっきりとした紫色の瞳を持ち、心持ち太めの眉の間の険しい皺が特徴的なヤロスラフが警備隊の制服を着た男を肩に抱えていた。
 何時の間に現れたのか? 驚きを隠せない人が大勢いたが、ヤロスラフとしては普通に逃げた男を捕まえて戻ってきただけのことであり、あの悪目立ちする主君の悪ふざけが終わったところで声をかけただけ。要するにアチラに皆気を取られていただけである。
「ヤロスラフ、久しぶりだな。ああ! そうソレだ!」
 先ほどクラウスを突き飛ばした男・フラウナが硬直した状態でヤロスラフの肩に乗っている。肩から降ろされても動く気配はない、正確には動けないのだ。人間を動けないようにする事くらい、ヤロスラフにとって容易いことである。
「捕まえてきたか、ヤロスラフ。よくやったなあ」
「労いの言葉など必要ない、オーヴァート。大体、こんなモノ捕まえられない訳がないだろう」
「そうだな。現最強の選帝侯だもんな」
「二人しかおらん」
「ドロテア、ついでにそれも治してやるよ」
 突然ドロテアに会話をふるオーヴァート。オーヴァートが指差したのはドロテアの手。握り締めていたその手を開くと、そこには先ほど捕まり、図らずも毟り取ってしまったエルストの頭髪が乗っていた。
「治すって、どっちで?」
「二十分前で良いな」
「ああ。マリア、みてろ。これが過去干渉ってやつだ」
「髪の毛が消えた」
「エルストの後頭部が二十分前に戻ったんだ。治療するって場合だとこの髪の毛が戻る事はないが、時間を戻すと髪の毛の存在自体が消え去る。本来ならば、あの髪は俺が引き抜いてしまう運命にあるんだが、その因果律をも解除する。それがオーヴァートの力、過去干渉ってのは因果律を断ち切る、消し去ることができる能力を差すのさ」
 さすが万能といわれた力を持つ一族の末裔だ、この力が失われてしまうのは惜しいと誰もが思うが、皇帝唯一の女性が皇帝に気がなく、それを皇帝も許しているのだから他者がどうやった所でどうにもならない。その圧倒的な力と、その説明を聞き呆然としていた人々は、次なる呆然を目にする事となる。
「さてと、オーヴァート」
 そういって、ドロテアはハイキックを放った。ハイキックは形は格好良いが実戦向けではない、かわされやすいからだ。人にキックを見せるようなマネをしない、実戦でしか戦いの型を見せないドロテアは滅多にハイキックをしない、よって人びとがドロテアのハイキック姿をみる事は稀である。その稀が今起きた。
「うわ、蹴った!」
 最もドロテアのハイキックではあるが、身長差でオーヴァートにはミドルキックが入った高さである。黙ってキックされた客呼びピエロも真っ青な格好をした男は
「腹ばいになれ」
 ドロテアの言葉に唯々諾々と従い
「はいはい」
 腹ばいになった。そこに確りと乗り、マウントポジションを取ると
「貴様、俺はあんな話聞いちゃないぞっ! おいっ!」
 全体重をかけて殴り降ろす。
「いや、ドロテア、殴っちゃいやぁん!」
 何の話なのか? 周りの人びとには全く解からないが、現状は喧嘩が始まった……とみて間違いはない。体重をかけて通常人体急所に向けて殴り落すのだから、相当なダメージがあっても良いようなものだが、音は凄いが殴られている相手が『いやぁん!』『もっと!』『惜しい、右に後ちょっと!』とか叫んでいるので、殴られている方のダメージが皆無なのが聞いて取れた。ついでに血が飛び散るような様もない、だが殴る姿勢といい勢いといい箇所といい、武の専門家達が見ても完璧なものであった。
「全然応えてなさそうですね」
 要するに殴られている方が尋常ではないのである。
「そりゃそうよ、あれでも皇帝だもの」
「止めなくていいんですか?」
 ヒルダが最もな事を言うが
「誰が止めるのだ。エルスト、ほら煙草だ。いつも吸っているドロテアの物ではないが、最高級品だこれで我慢するがいい」
 部下であるヤロスラフですら見て見ぬふりというか、気にしてはいなかった。主君がタコ殴りにされているのだから、もう少しどうにかしても良いようなものだが、彼は気にしなかった。そして
「どうもどうもヤロスラフ。いやー大変だったよ。背中も凝った気がするし」
 殴っている女の夫も気にはしていなかった。慣れというのは怖ろしいというかなんと言うか……
「大変そうではあったが、背中が凝るというのは解からんな」
「ヤロスラフの眉間みたいになったって事」
「それは大変だな、早期治療で治るのならば治しておいた方がいいだろう。私の眉間はもう治らん。そうそう、無事平定できてよかったな」
 どうでも良いような会話のバックミュージックは、ボスボス! ガツッ! ゴスッ! といった柔物を金属で殴る音なのだが全く動じていない。
「ドロテアだし」
「確かに。ドロテアに任せておけば間違いはないだろう。あれで、私など比べ物にならないほど、皇帝の忠臣だからな」
そのヤロスラフの言葉を耳にした者達は一斉に、修羅場に近いそこに視線を移し


あれで?


 誰もが心の中でそう思ったが、皆必死になって打ち消した。心の裡までしかりと繕っておかないと何となく怖いような気がしたのだ、誰もが。
「止めなくていいんですか……」
 それでもヒルダは止めようとした、もちろん自分の手で止める気は無いのがヒルダのヒルダたる所だが。
「選帝侯は皇帝を止める事は出来ない。その皇帝ですら止める事が出来ない女を私如きが止められると思うか?」
 オーヴァートが本気で嫌がっていればヤロスラフは止めるが、オーヴァートが楽しんでいるのを知っているヤロスラフは家臣として止められないのである。ただ『殴られて楽しんでいるのだから放置しておいてくれ』とは人に向かって言えない為、言葉を飾った。ヤロスラフには常識というものが確かに存在していた。
 そこに助け舟というか勝手知ったるというかマリアが口を挟んだ、その理論は見事の一言
「エルスト、止めてあげなさいよ。ドロテアの事だからいつまでも殴ってるわよ。オーヴァートが好きで殴られてるのは構わないけど、ドロテアが手を傷めるかもしれないじゃない?」
 皇帝殴るのは良いんだ……。誰もがそう思ったが、黙っていた。そろそろ皆口をきくのも億劫な程の疲れをその身に感じていたからだ。
「そうだな、どれどれ」
 三本目の煙草を吸いながら、エルストはゆっくりと立ち上がり何時ものやる気無さそうな態度で腕を掴んで
「そろそろ休もうよ、ドロテア。眠いし腹減ったし、酒飲みたいし」
 全く持ってやる気なく世界で最も難しいと思われる調停を成功させた。馬乗りになっていたオーヴァートから避ける際に、ドロテアがその仰向けで転がっている“ソレ”の鳩尾付近に、ボスッッ!! という音と共に斜めに踵を落している姿を見た、多くの人は間違いなくドロテアがオーヴァートに対して絶対を持っている事を感じた。
 その絶対が“何”なのかは、人によって理解の仕方が違うのだが、とにかく圧倒的な影響力をまざまざと肌で感じ取った、好むと好まざると。
 ドロテアがマウントポジションから去ると、バッタが跳ねるかのような姿でオーヴァートは飛び起きた。その顔には殴られた痕など一つもない
「あんなに殴られたのに、鼻血一つでないんですね」
 あんだけ殴られれば、普通は鼻血でるもんですけどね……と呆気に取られているヒルダの前で
「伸びが良いのだよ、ヒルデガルドよ! 見るが良い! みょーん」
 自分で効果音までいれながらオーヴァートは秀麗な顔の皮を、人が見てはならない程の長さに伸ばした。伸ばしすぎて顔が顔でなくなっている状態だが、伸ばしている本人はあまり気にしていない。むしろ、顔が伸びて人びとが驚愕の顔をしているのを見るのが楽しいようである。
「す、凄いお伸びにおなりますね」
 ヒルダの気持ち、わからない訳でもない。
「ツラの皮遊びはそのくらいにしておけ、オーヴァート。首謀者の一人はそこにいる、もう一人は大聖堂に身柄を確保している。大聖堂にいるシュタードルはゴルドバラガナにかかっているから、相当な尋問もできるだろう。そこは好きにしやがれ。ついでと言っちゃなんだが、ゼリウスにもゴルドバラガナかけちまえば? 相当な尋問も出来るってもんだろ?」
「それは良い案だ」
 非人道的で法律に抵触しているのだが、相手が悪い。それにゼリウスとシュタードルはオーヴァートが支配する学閥の下部組織によって取り調べられ、処罰されるのだから部外者は口を挟めない。ドロテアがクラウスを突き飛ばした相手を処断できない事と同じようなものである。
「詳細は後でギュレネイスに戻ってから上げる。期間はかからない、むしろかけない。かかったとしたらそれは、実技の苦手な学者が書類を上げられなかっただけだろう」
「了解した。さてとそれじゃあ……な」
 ただ、ドロテアにはフラウナを処断できないが
「たっ! 助けて!」
 オーヴァートにはその権利……ではなく権限があった。ヤロスラフが捕まえてきた言葉と動きを封じられた男は、オーヴァートが触れると言葉を発する事ができるようになった、だた
「金属に埋まってるわよ」
 口を喋ることが出来るようになったフラウナは、光沢のある物体にはめ込まれる。金属に埋め込まれ、そして生きている。どう考えても常人の及ぶ範囲ではない
「オーヴァートがやったんだよ、生きたままな。……当たり前だな、俺を危険に巻き込んだんだから。忘れたかよ、俺が誰なのか! 皇帝の大寵妃、またの名を学者という名の娼婦!」
「その実体はエルスト=ビルトニアの妻!」
 ヒルダの見事なまでの合いの手、そして続く合いの手は
「ふふ、俺は叶わない恋の奴隷、いや恋の精霊、もしかしたら恋のゴンドウガウミゾウリムシ!」
 オーヴァートであったのだが、今一つ意味が伝わりづらかった。人を陰惨な金属に埋め込んだ人物とは思えない陽気さで、スキップしながらゴンドウガウミゾウリムシ音頭を口ずさむ彼に
「それ以上喋るな! いいから帰れ。その人間止めさせられた代物持って、好きなだけ拷問してろよ」
ドロテアは帰れと命じた。そのあまりに軽快にして耳に付く音楽に
「姉さん、ゴンゾミムシってなんですか?」
 ついついヒルダは聞いてしまった。少々略して
「俺もゴンゾミムシは知らん。ゴウドウガウミゾウリムシなら知ってるが! とっとと帰れ! オーヴァート! 連行しろ! ヤロスラフ! ミゼーヌに野菜ジュース飲ませろ! 飯食わせろ! 書庫整理しろ!」
 略した名称を軽く姉は切り捨て、音頭を口ずさむオーヴァートに怒鳴りつける。偶々側にいたクラウスに
「ん〜ゴゾミンムシ……知ってますか? クラウスさん」
 ヒルダは聞いたが
「ゴンドミゾウ……ムシでしたっけ?」
 その手の分野はクラウスの得意とするものではなかった。
「多分ゴドミゾウムシですね」
「ゴドミゾウムシではなくゴンドウガ……」
「なにやらゾウリムシですよね! 解かりますか?」
「も、申し訳ないですが、詳細は後日で宜しいでしょうか?」
「御願いしますね! ミゾウムッチゴの事」
「ゴド、ミムッチ……? 正式名称は……何だったか……覚えているか? お前たち」
「も、申し訳……ありませんが」
 誰もが疲労による眩暈、今すぐ地面にふして寝たいほどの疲労の中その単語を覚えているのは不可能にちかかった。むしろ頭の中を素通りするしかない


クラウス=ヒューダが『ゴンドウガウミゾウリムシ』という正式名称に辿り付くまで、帰還後三日間を要す


「デワ! デワ! デワ! デワ! エルストゥ! 帰ってきたら好きなだけ殴ると良いぞ」
 どうやら危険な目にあわせたフラウナをリンチするが良い! というオーヴァートの計らいというか勝手な処罰であった。
「必要ないですよ。殴る価値もないですし、殴る必要性もないですし」
「なぁ〜ら! この世から消しちゃおうっか!」
 誰も口を挟まないまま、自分本位の行動を取った男はこの世から消されようとしていた
「クラウス隊長……」
 部下が声をかけるが
「私を殺そうとしただけならまだしも、皇帝の大寵妃の身を危険に晒したのだ。オーヴァート様のご決断に口を挟むわけにかぬし、陛下もそれをお望みになるだろう」
 クラウスは頭を振る。
 その直後金属がはじける音が響く、断末の叫び声“は”聞こえなかったのが、顔が残た。頭部だけは残り体は霧散したのだ、そしてその頭部は痛みを訴える、頭部だけなのだから直ぐに言葉は途切れるだろうとおもったのだが、その頭部は延々と痛みを訴え続ける。
 大体の者がその意味を理解した。頭部だけになって失ったからだの痛みを延々と感じ続けているのだ。
「ダミ声がうるせえよ、黙らせろオーヴァート」
 ドロテアのその一言が出るまで、フラウナは全身を失った痛みを感じさせられていた。
「エゲツないなあ」
 黙った頭を前に、エルストは何事もなかったように口を開く
「何されたかは聞かないでおくわ」
 マリアにとってはフラウナが死のうが死ぬまいがどうでも良い事だ。ただ、ドロテアを危険な目にあわせたのだから、当然の報いといえば報いだと、哀れさなど一切感じない。そして、当人は
「それに越した事はないさ、マリア。まあこの俺の仕事の足を引張った時点でヤツがこの地上に生きる権利は無い」
 他の人が言えないセリフを吐き
「姉さんが言うと洒落にならないんですよね」
 先ほどまで“ミゾウムッチゴ”などという訳の解からない単語をほざいていた司祭とは思えない適切な突っ込みを入れていた。
「本当にね。これほどの傍若無人な権力を持った女を説得できると思っている、誰かさんに見せてあげたいわね」
 誰かさんとはチトー以外の何物でもないのは、警備隊の面々は理解した。そして無理だとも痛感した、この女は土台説得できるような者ではない、法王が説得できたのは自分達の統治者とは違う何かを持っていたからであって、絶対に説得など聞かないと。
「そういえば今日の宿がなさそうだな。どれどれ手配してやろう」
 チトーが説得して欲しいと願っている男は、人一人ありえない方法で殺害したことなどすっかり忘れて、相変わらず唐突な会話を繰り広げ続ける。
「あ?」
「我が離宮よ、来い!」
 オーヴァートが手を振り上げると、地中から通り抜け宮殿が空中に現れた。その宮殿の大きさはゴールフェンの首都よりも大きく、そして色鮮やかであった。地中にあったというだけで色が鈍いものを想像しがちだが、色合いの華やかさは現在の建物には見られないものである。城の外壁に宝石らしいものが埋め込まれているのだ。色とりどりに、そして光に輝く。何故この美しい宮殿が地下にあるのか、人びとには理解できなかった。
「始めて見たな、これが地中に埋まっていたゴールフェン城か」
「そりゃそうだろう、地上に出してやったのは久しぶりだ」
「で?」
「ゆっくりと此処で休んで戻るといいよ、ドロテア」
「あ、そーかい。感謝はしねえからな」
「必要ないさ! ドロテアが一声かければ自由になるから、此処から去る時には沈めていってくれ! それじゃあ、ミゼーヌには酒でも!」
「野菜ジュースったろがっ!」
「もうアイツも十八だぞ!」
「十八で肝臓傷めてちゃ話にならねえ! どうせ毎晩酒飲ませてんだろうがっ! 偶には健康を気遣え! アイツは人間だ! 普通の極々普通の!」
「じゃ! ワインのケール割りを!」

「やめんかーーーー!! バカ皇帝!!」
「朕をーバーカー皇帝とー賞賛せーよー!」

 騒がしい皇帝と無言のままの選帝侯は、その場を立去った。その後ドロテアは何事もなかったかのように、立ち上がり城に向かって歩き出す。
「……」
「どうしたの、ヒルダ?」
「地中に元からあった訳じゃないんですね」
「え?」
「姉さんとオーヴァートさんの会話からすると、埋めたんですねわざわざ……」

“地上に出してやったのは”

 他の人はあの行動に呆気に取られ、恐らく気付いてはいない。だが、ヒルダにはそれがワザとらしかったように感じた、オーヴァートの態度がではなく姉の態度が。恐らくそれは他の人に気取らせないようにする為の態度。
「吸血大公の城も地面に埋まっていたけれど……意味あるんでしょうかね?」
「さあね、あの人たちの祖先ですもの、何を考えているのか解からないわ」
「そうですね! それじゃあ私達も行きましょうよ、ゴールフェン城」
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