ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【19】
 美男美女、昔は美男美少女だったらしい組み合わせ。
 世に言う絶世の美女は、それはそれは美しい最後の皇帝と似合いだったらしい。その当時は「最後の皇帝」なんて言われてはいなかったが、今となっちゃあそれが当然のような呼び名になってる。
 その理由を作った女が自分の妻というのも中々ない事だろう。
「俺は望む相手を確実に孕ませられるから、ドロテアは俺と浮気はできんのだよ!」
 それ、ドロテアの亭主に向かって言うセリフですかい? オーヴァート

 眼鏡を手にもち見下ろす。手入れする必要もない、型崩れする事もない。そんな伊達眼鏡を貰った、結婚祝いだとか何だとかで。沢山貰った中の一つだ
 どれ程握り締めても変形することはない。
“私は夢をみる”
 オーヴァートが自分の事を“私”と言ったのを聞いたのはあの時が最初で最後だった。フェールセンをも殺せる武器を手渡されて、困ったのは事実だが返すのもなんだし返したってどうにもならないと顔にかけてみた。
“やはり夢見たとおりだ”
 何の事だ? と首をかしげた
“私は夢をみる”
 誰でも夢くらい見ると思いますが? そう答えた。オーヴァートは首を振る
“私に元々無駄な事が出来ない体なのだ”
『元々』が気になったが黙っていた。
“私が見る夢は予知夢しかない、つまらないな。何処にいても現実から逃れられない”
 皇帝ならばそんな事もあるだろうなと頷く
“だが私が見た夢で、一つだけ外れた夢があった”
 何ですか?

“オマエとドロテアが子供と一緒に楽しそうに歩いている姿を見た”

唯一間違った夢を見た、そう言って笑った
私は随分と無駄な事が多くなったとも

無駄な事が何なのか聞きはしなかった。聞かなくても解かる、オーヴァートはドロテアの事が好きになったんだ
それが無駄なことなどではないとは言わない
思想や宗教よりも押し付けてはならないことだし、なにより俺自身それほど崇高なものだとは思ってはいない

 プロポーズをする為にコルビロを走り回った。
 大変だったよ、ヒルダが『一週間後に結婚式です』とドレスを持って現れた時は。マリアもマリアで『良いじゃない、結婚する気はあるんでしょう?』と。
 でもそう言われた時でも実感が湧かなかった。自分がドロテアと結婚する事に関して……違うな、ドロテアが結婚する事に関してか。
 断られてもいいやと、花屋で大急ぎで包んでもらったゲンチアナの花束を持って街中を駆け巡った。ドロテアを“探した事”ってのはあの時だけだ。見つけて、ヒルダのことを伝えると、苦笑いしつつ
「で、どうする? 俺はオマエに任せるぜ、ビルトニア」
 およそ、受身とか他人の意見を参考にするとかそういう人間じゃないと思っていたドロテアが、そう聞いてきた。
「珍しいな、そんな喋り方するの」
 探して探してもう夕暮れ時になっていた、ドロテアは右手で左手の甲を叩いて、此処を見ろと言った。それがないのは知っていた、初対面であまりにも印象深かったそれ
「はまらないぜ」
「それを気にしているだけなら、時計でも贈らせてもらうよ」
 なんだろうな、俺は気付いていたんだけど気付かないつもりでいた。クラウスが俺に対する感情を封じ込めたのと同じように気付いていたんだと思う。小金を貰って手伝っていたドロテアの薬屋にあった、決して売らない薬の存在。

「俺と結婚しても子供は望めねえぜ」

堕胎薬は売りさばいていたけれど、妊娠薬は決して売らなかった。ただ、小瓶に入っているのを見ているだけで
気付いていたんだと思う。ドロテアに子供ができない事を
ただ、俺が思っているような単純な理由じゃなくてオーヴァートが絡んでいた事は気付かなかった
妊娠薬が手元にあるのも全く違う理由で、真実ってのは聞かないと解からないもんだな……と。

**********


 天幕の中で体を拭いていたドロテアが布を投げて寄越す。
「ほらよ」
 ちょうど良い熱さのお湯は、爽やかな香りのするハーブと僅かだがあのクラウスを追い詰めた消毒液が混じっている。体を拭くのに適した配合だが笑いがこみ上げて来た。何時教えたらいいもんだろうかな? あの騒動。
「ありがと。それにしても風情があるね。遠くにありえない大きさの虫、近くに通常じゃあ死なないアンデッド。中々ないよな、こんな状況」
 きつく絞りきらないで体を拭く、それを見ながらドロテアは裸に俺の上着を羽織ったまま煙草をふかし
「風情といえば風情だし、どうでもいいといえばどうでもいい」
 曖昧な表情で笑う。この意志の強さのない笑いはあまりみる事はない、外では。
「万全を期して?」
「当然だろ、だから人から離れた場所に天幕張らせたんだろうが。それに態々あんな意味のない生贄陣を引いて残ってた力を全て使い切っておいたんだからよ」
 気分屋に見せかけてその細部まで自分を管理している、ドロテアは。
「いらない事聞いて済みませんでした」
 他人から観ればただの残酷だが、それには隙なく理由がある。
 もう七年も自分の力を管理しているんだ、どのくらい使えばその“元”が“亡くなる”かくらいはドロテア本人が一番よく知っている。
 あたりを見回すと
「ヒルダが持っていった」
 何事もなかったかのようにドロテアは告げる。
 天幕の済みにでも転がっているかとおもった血塗れた布は、デキの良いドロテアの妹であるヒルダが回収してしまった。ヒルダが来るようになってから、僅かだが仕事が減ったと思いつつ唇を重ねた。

これが仕事だとは言わないけれど、仕事であるのかもしれない。
何時までも何時までも、果てることなく続くとしたら。とても幸せなことだ

−過去にその女を抱いた男の事が気にならないか?−

 よく聞かれる
 皇帝の事やレクトリトアードの事が気にならないかって。気にしてもどうしようもないっていうか、知ってて結婚したんだから聞かれる筋合いはないんだが。
 普通に考えれば子供が出来ないからオーヴァートと別れた……だったんだろうが、真実は違ったんだよな。

 急場しのぎのようなプロポーズの花束を渡しながら俺は
「気にはしないよ」
 そう言った。その言葉に嘘はなく、夕日が最後の輝きを地平線に残して沈んでいくまで二人とも動く事はなかった。最後の光が消えた時、ドロテアは俺から視線を外して続けた

「言い直す。俺に子供ができるが生むことはない」

どのくらい使えばその“元”が“亡くなる”か

 邪術は体の力を能力に替える。持って生まれた力に左右される事はなくて、己の体の何かを犠牲にしてその力を得るんだそうだ。
 多いのでは爪や髪の毛、そういえばドロテアも髪と爪は短かった。でも、その程度じゃあドロテアは満足できなかった。
 邪術ってのは結構な矛盾のある術で『邪術を使えるようになる為に体に禁忌の印を描く。弱いものであれば誰でも描けるが、強いものは誰でも描けるわけではなく、生まれ持った力が高いものが描かなくては使えないものが存在する。最高の邪術を使うためには、強い力を持った者が描いた禁忌の印が必要だ』高い力を得る為に身に施す邪術の印を描く為には、強い力を持った者が必要。そしてドロテアの隣には最も強い力を持った人物が存在した。

最高の力を持った者が描いた禁忌
最高の罪を力にかえる

「詳しく教えてくれるか」
「仕方ねえな。ついでに教えてやるとな」
「なんだ?」
「この花束、メリッサの所で買っただろ」
 受け取った花束を抱きこみながら、苦笑いを浮かべる。
「よく解かったな」
 包装紙やリボンで見分けたのか? それとも珍しい色の竜胆だからか? とか思ったんだが
「黄色いゲンチアナの花言葉は“あなたは不公平”もしくは“恩知らず”。俺に向けてが不公平ならオマエに向けては恩知らずだろうよ。好きだったんだろ彼女はオマエの事」
 俺らしい間違いだと、今でも思うよ。
「買いなおしてくる!」
 その俺の情けない声にかかる笑い声、コルビロに響くかのような声の後
「いらねえよ。滅多にねえモンだし、薬草として使えるからな。とっとと乾燥させるか」
 サラリとかわされた。

 思い直さなくても色気もなにもないプロポーズだった。“らしい”といえばらしいけど。

世界最高の女
その過大といえば過大、だが当然と言えば当然の評価を得たのはドロテア自身の努力ではない努力の結果
オーヴァートに愛されようとしなかった努力の結果
逃げようとして結局彼を捉えてしまった
人はそれを罪深い女というに違いない

**********


 体を離して起き上がる。目は閉じているが眠ってはいないドロテアの横顔を見下ろしつつ、壜に直接口をつけて酒を飲む。
 出合った頃から全く変わらない美しい女。

 ドロテアは死ぬまで『その方法で力を得る』邪術を使う体になった為、普通の人に比べて老化が極端に遅い。六歳年下のヒルダと一緒にいても年齢の近い姉妹に見えるくらいだ、化粧を取れば殆ど同年代だ。
 普通は化粧をして若くみせるもんだが、ドロテアは明らかに歳を取っているように見せるために化粧をする。その化粧のお陰で今は年齢の近い姉妹にみられる、ドロテアが邪術を得たのがヒルダくらいの年齢だったから。だがヒルダはこの先も普通に年を取り、ドロテアは邪術を使い続ける為に年を取るのが極端に遅いままでい続ける。
 普通に考えればそれは怪しまれるだろうけれど、ドロテアは『皇帝の大寵妃』だったという過去で、全てを覆い隠す。

 ドロテアが若いのは自分が調合した薬と、人には及びもつかない力を持つオーヴァートが今だその美しさに未練があるためにドロテアの周りだけゆっくりと時間を流しているのだと

 そんな噂もある。オーヴァートは否定しない、それでドロテアが守れるのならばオーヴァートは何一つ否定しない
 それどころか、おそらく噂を流した本人だろうな
 若く美しいままの妻、それは理想かも知れないが……現実はズタズタであちらこちらが切り裂かれ、血を流し続けているようなものだ
 俺はドロテアにその傷を作りながら、流れる血を舐めているようなもの

「オーヴァートはその気になった相手を孕ませることが出来るか? って。ああ、アイツはそういう体質らしいぞ、ただ本気になったのは俺だけらしいが」
 おいおい、だから自分の亭主に向かってそういう事言うか? ドロテア
「聞いたテメエが悪ぃんだろが」

はい、そうですとも。

 悪いのは全部俺で良いんだよ
 横になっているドロテアの髪に指を通す。サラリと指先から落ちてゆく本当は亜麻色の髪だけれど、ランプの赤さにその色はみる事ができない。
「ドロテア」
 ずっと神様なんぞ信用しないで神聖国家で生きてきた俺だが、ドロテアが手に入った事で俗かもしれないが神様ってのは気まぐれを起こすもんだと思えるようになった。
「……早く寝ろよ」
 気まぐれなのだから、残酷さもあるだろうな。
 体に一点の染みもなく、黒子もない透ける様な薄い肌を纏ったその内側にある禁忌の呪縛を描いた男はそれを剥がせると言ったが俺がその禁忌に関して何かして良いはずもないから頭を振った。
 そしたら続けて言った代案。その代案に俺は無意識で頷いた。
「ああ。これ飲みきったら寝る」
 後悔はしない、このままで良いんだ。これで良いんだ。

何一つ悪くないんだからね、君は
悪いのは全て俺にしてしまえばいい

『ドロテアの糧となれ』
フェールセン人に生まれた事を感謝して、その横顔に口付けた

**********


 その気配、どこか同じだった
 自分が聡いとは思わないが、近しい人の事に関しては少しは気が付くと……思っている。
 人は恐怖を感じると暗闇に潜むか、赤々と辺りを照らすかの両極端になる。巨大な虫“死を与えるもの”が捕縛された事で全員が少しばかり緊張を解し、周りを赤々と照らし出す炎の側でみな落ち着きを取り戻し、明日へ向けての準備に取り掛かっていた。
 剣や槍の手入れをするものや、祈り瞑想をし精神を統一するものなど。武器の手入れをしながらクラウスは簡単な指示を出していた。
「此処は……ちょっと待て、付いて来い」
 クラウスはそういうと、若い警備隊員を連れてある人影を追った。カンテラを持ち、小脇に洗濯板を挟み洗濯籠を持った司祭ヒルダの姿をみつけたのだ。ヒルダは人気の全くなくなった街中を目的を持った足取りで歩いていた。ヒルダが洗濯好きなのはクラウスは知った、多分清潔好きなんだろう事も身を持って知りたくもないが知った。だがこの状況で洗濯籠を持ってカンテラを照らしてまで洗濯をする意味が何処にあるのか? 何か特別な目的でもあるのでは無いか? 普通ならばそう考えるのだが……ヒルダは見事に期待を裏切り、ヒルダらしく洗濯場へ向かう階段を降り腕を捲り上げ、袋に入った洗濯物水に浸す。さすがにヒルダも危険を警戒して靴を脱ぎ、足で踏み洗いする事はしないようだが、前かがみになり洗濯板を設置して石鹸を手に持ったヒルダに
「司祭? 殿」
 クラウスは遂に声をかけた。誰だって疑問に思う、直側に巨大な敵がいるのに一人で洗濯するなどとは。声をかけられたヒルダは特に驚くでもなく
「クラウスさん、見回りですか?」
「いえ、司祭殿のお姿がみえたので何事かと後を追わせていただきました。何か御用でも?」
 目の前で洗濯を始めている人に向かって“御用”も“何用”もないとはおもうのだが、クラウスが聞ける精一杯の範囲、そして
「お洗濯です」
ヒルダの答えもクラウスが求めているものとは少々違った
「はい?」

この場でこの時間に一人で洗濯

 全く必要のない行為にクラウスの疑問が大きくなる。それに気付いたのかどうなのか? までははっきりと誰も言い切る事はできないが、ヒルダは布袋の口を開け洗濯物を取り出し見せた。ヒルダがクラウスの前に差し出したのは、血に濡れた布。その布は非常に小さく、特殊な形状をしている。カンテラの灯の下、それを見てクラウスは驚き、クルリと体勢をかえて駆け出しながら
「す、すみませんでしたっ! 出来ればお早めに……少し離れた所でお待ちしております」
 部下と共に、少しばかり離れた場所に逃げるように向かい待機する。その後姿に
「いい歳して血塗れた布でビックリしなくたって、若いなあ」
 そんな言葉を悪意なくヒルダから貰ってはクラウスも立つ瀬がなかろう。ヒルダとは違い立派な男だというのに。
 クラウスが逃げたのは赤い血のついた小さな布、女性のみが使う特有のそれだが、その赤が通常のものではない事を女性ならば直感で理解できたかもしれない。
「違うのですけれどね……」
 そういいながら、ヒルダは人の良さそうな警備隊長のために早めに洗い上げようと手を動かした。指の上を心地よく洗濯板のでこぼこが通り過ぎる、入れる力の量を間違わなければ気持ちの良い摩擦と、石鹸の泡が赤く染まるのを前に複雑な気持ちで擦りあげていた。ふと背後からの灯が動く事に気付き振り返ると、手元を照らすように色々と角度を変えてくれているクラウスの部下の姿が見えた。
心の底からの礼で軽く会釈し、素早く洗う。

これは人間なのだ

どのくらい使えばその“元”が“亡くなる”か

人間には決してなることができない

 やってみたいな、と思った事はある。やり方を教えても貰ったけれど、どういう訳か目の前にいるものは魂すら蘇らない。やり方だけでは到達できない場所がある
「禁断の邪術……か」
 ヒルダはすすぎ終えた洗濯物を絞り、籠に戻して手を洗った。

『この世に血塗られた手があるっていうなら、私なんかもそうでしょうねえ』
いつも洗濯をかってでる妹は、決して姉に強要されたわけではないのだ。
ヒルダはカンテラを持ち、待っていた二人の元へと近寄る。
「お待たせしてしまったようで、戻りましょうか」

姉さんとエルスト義理兄さんが似ているように感じられるのは、何も一緒に暮らしているからだけではない。
私よりも何か近い感じを二人から感じる事がある……いや、あった。
フェールセン人というのは皇帝が作った“者”だ。
姉さんの体の奥深くに皇帝が刻んだ“モノ”がある。
「だから似てやがるんだよ」

−姉さんの身体の内側に宿るものは決して人間にならない−

 だが、真実を知った今でもヒルダは時折それだけが真実では無いような気がしてならなかったのだが、それ以上の真実は姉も知らないのだからヒルダには知る余地も何もなかった。
 ただ、何となくだがヒルダは感じていた。
 オーヴァート=フェールセンにそれを聞けば解かるような気がした。いや間違いなく教えてくれるだろう……根拠のない思い込みと取られても仕方ないが
 だが真実を聞きたくなかったのも事実

オーヴァートの元に近寄るのをヒルダは忌避していた、それを知る必要はないから

**********

俺には才能がなかったからな
それが良かったんだろう
十代半ばで全てが賄える力を持っていたらどうなっていただろう

**********


 聖職者の朝は早い。規律とかそういうものを重んじるので早いのだ、この場にいるのは宗教は別々ながらも殆どが聖職者なので朝は早かった。
 聖職者ではない学者達は夜遅くまで仕事をしていたのでちょっと遅いが、それでも警備隊に率いられてきたので起こされれば起きる。ギュレネイス皇国に居る時点で、一応従順なギュレネイス聖教徒だ。
 一番起きてこないのは、ちょっとみんなと外れた所に天幕を張ったエルストとドロテアだが誰も起こしにいかない。誰が起こしにいけるというのだろうか? あのドロテアを。
「朝食が準備できてから起こしにいくのが一番いいでしょうね」
 マリアの意見に従って、誰も何も言わないしあまり大きな音も立てないで動いていた。五月蠅い! などと言われれば困るからだ。言われるだけならば良いだろうが……
 マリアが朝食の準備をしていると、突如空から圧迫感を感見上げた。
「あれ……なにかしら」
「マリアさん! 姉さんを起こしに行きましょう! 皆さん大事になりそうなので朝食はサンドイッチにしましょう! 歩きながらでも食べられますから! 作っておいてくださいね!」

『食う気満々だよ、このエド正教の司祭……』

 誰もが異変以上にその司祭の物怖じしなさに驚いていた。
「うむ、司祭特製の朝食を準備したらどうじゃ」
 中々にクナも外している。少し離れた天幕へと駆け寄り、「おはよう!」という声と共にバサッ! と入り口を開け
「姉さん! 裸で寝ると風邪引きますよ! エルスト義理兄さんも!」
 大声で言う台詞はとても大変な言葉だが、
『ヒルダ……私、貴女のそう言うところ好きよ……』
 マリアがそう思うくらいで、裸で風邪を心配された姉は何事もなかったかのように起き上がり、洋服を着始める。夜具の上で一人まだ欠伸をしているエルストがいるが、この際無視しておこう。洋服を着終えるヒルダを向き直り、とっとと天幕から出るぞと指で合図する。ヒルダが全く持って気にしなくても、さすがのエルストでも気にするらしい。
 一応ヒルダ嫁入り前だからな……と。ヤレヤレと言った表情で天幕から出ながら一服するが、全く問題の方向を見ようとしない。ドロテアとしては、この状況で緊急事態が起きたとなれば、虫が捕縛されている方向しかない事くらいはわかっていた。
「で、何だよヒルダ」
「変な球体が現れて、変なんです!」
「報告になってねえぞヒルダ。ああ?」
 振り返り、それを見るとさすがにドロテアも動きを止めた。昨日捕縛した“死を与えるもの”の右頭上に虫の頭部くらいの大きさの何かが渦巻いているのだ。
「あれは何だドロテア?」
 ズボンだけはいて、上着を小脇に抱えて出てきたエルストの質問に
「古代魔法だ。おい、エドウィン!」
 答えながら歩き出した。
「何か?」
「大聖堂に古代魔法の使用にも耐えられる石版はあったのか?」
「あるとは聞いていました。ただ石版を実際に見る事ができるのは教父の位に就いた者のみです。教父の位に就いても誰も使いはしませんでしたが……あのような呪文を書いて使ったというのは聞いた事はありません」
「そうか。アレは古代魔法で魔力を吸い上げる、事実上魔法を無効にするモノだ」
「魔力の壷ってやつだっけ?」
「そうだ。……焦ったな“死を与えるもの”め!」
「?」
「“死を与えるもの”の魔力はクナに及ばないって事だ。捕縛の魔法は捕縛された者に術者以上の魔力や法力、邪力のいずれかがあれば逃げる事は可能だ! 奴はそれをせずに外部魔法で解いた、ここにはクナ枢機卿とパネ大僧正がいる。魔力だけなら此方の勝ちだ」
「でも、あの魔法の壷があると」
「大聖堂に石版がある訳だろう? 石版の古代魔術紋様を消せばアレは消えるぜ」
「へえ……でも姉さん。石版って物凄く大きいんじゃないの?」
 両手を広げてドロテアを見つめるヒルダに
「な訳ねえだろう!」
 蹴りを入れながら否定するドロテア。蹴られたヒルダはコロンと効果音でもつけたやりたくなるような、可愛らしい転がり方をした後トウッ! と立ち上がった。言っておくが今は捕らえたいた危険な古代の虫が復活しようとしている最中で、緊迫している状態でありこんな楽しい行動をしている場合ではない。
「私もそう思ってたわ。だってアレが石版に記入したんでしょう?」
 小さな山といっても過言ではない大きさの虫を指差す。
「邪術とか触覚とかでも書けるんだよ。大体ペンじゃ記入できねえ、魔力や魔力を帯びたもので記入するんだよ。それに石版は精々大きくてもこの本程度だ、あれは持ち運び用に開発されたそうだからな。それほど大きいとは聞いていないだろ?」
 ドロテアは手で自分の体よりも小さめの大きさをつくりエドウィンに向き直る。
「はい。その程度の大きさでした」
「へえ……」
「聞けばあの本を写したのは盗賊だな。なら盗賊に盗賊の寄り合い所から大教会に続く道を案内してもらうか。それとエドウィンとビクトール、お前等も付いて来い。大教会に入った後の案内をしてもらう。正し道は秘密にな、死んでいるからいいだろう?」
「わかりました。まさか正門を通らずに大聖堂に忍び込む日が来ようとは考えてもみませんでしたよ」
 血色の悪い、取ることの叶わない文様が浮かんだ顔に最高の笑みを浮かべてエドウィンは頷く。
「ドキドキするだろう」
「ドキドキする鼓動もありませんがね」
「上等だ、エドウィン」
 そこまでいって、ドロテアは近くにあったパンにゆで卵をはさみ、食いついた。
「もそもそしませんか? 姉さん」
「ベーコンと芽キャベツのスープ持って来い」
「そんなモノありません」
「今すぐ作れ。味は濃く、そして香草をきかせて、あと鶏肉焼けたら持って来い。それと倍に薄めたハチミツ水と」

 空は異様な空気に包まれたままであったが、地上はいつも通りであった

 勢いよく食べる脇で、指示を求めに来る地位も名誉も実力もある人たちを、見もせずに指示を出す。
「私達はどうしたら?」
「聖騎士団と警備隊は此処で張っていろ。あの背中を見ろ、“死を与えるもの”の背中に翅が生えてきそうだ。魔法が使えなくなったから自力で攻撃を仕掛けてこようとしているんだろう」
「魔法の壷というのは全ての魔法を?」
「ああ、それこそ敵味方お構いなしだ。隊列を左右に分けて組め、俄かの共同戦線よりも分離した方が伝令上いい。後五人程俺達についてくる衛士を選べ! 早急にだ! 後一緒に来てもいいっていう盗賊もな、金は払うと確約しよう望みのままだ。クナ達は魔法を唱える準備をしておけ!」
「ねえねえ、ドロテア?」
「何? マリア」
 マリアの時だけは何故か食べるをのやめ、向き直り説明を始める。
「普通のアンデッドはアレが出て直ぐにいなくなったけれど、エドウィン達はそのままなのはどうしてなのかしら?」
「ゴルトバラガナ邪術は魔法ではない部分が多い事と、それとまあアレを防ぐようにされているんだよ。魔法にも色々論理があってな……。例えば俺が昔マリアにかけた回復魔法があるだろう? 怪我を治したヤツ」
「ええ」
「でもそれは今、魔法の壷が全ての魔力を吸っても傷が再び開いたりしていないだろ?」
「そうね」
「魔法には属性もあるが、瞬間性、継続性、一過性、永久性などの“性質”と言うのもあるんだ。マリアの傷を治した、確かに瞬時に俺は傷を治したが、それは後にマリアの体自体が治癒するのを先取りしたようなもんだ。傷は治る、そして治ったままでいる。そんな風に魔法の壷も万能ではない、こういった永久性に属する魔法は解除できない」
「成る程、そうよね。治してもらった傷がパックリ開いたら大変よね」
「だが、昨日クナがかけた魔法は継続性だ。この前のコルネリッツオの結界があっただろう? 術者が死ねば解ける、あれが継続性だ。かけた時点から未来へと続くが、それは魔力と命が媒介。結界は主にコレなんだ、力の有無が問われる理由も此処にある」
「へえ……因みに一過性とか瞬間性は?」
「瞬間性の代表格は瞬間移動と透視だ。これは力の有無はあまり問われない実際問われるのは体の造りだ。一過性はシャフィニイに代表されるような攻撃魔法や透明化だ、これは力の有無が問われる」
「もっと細かく分類するんでしょうけれどね。何となく解ったわ、体自身にかかった魔法は専門の術でもない限り解けない、でも体自身を変えるような魔法でなければ解ける。今私に飛行魔法をかけても無駄なのね」
「そうだ。まあオーヴァートあたりになれば、過去干渉という魔法で過去に掛けた治癒魔法を解く事も可能だし、やろうと思えば人を生き返らせる事も可能だ。実際人間で出来る奴はいねえな」
「凄いのね、あの人。あんな人だけど」
 ついこの間、巨大タコと戦っていたオーヴァートを少しだけ見直したマリアだった。取り敢えずマリアもツインテールのピンクリボンは不問だ、そんなのは何時ものことなので。
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