ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【18】
 イシリアの空に響き渡る嬉しさをたたえた声。
「やった! 外れましたよっ!」
「盗賊たちに感謝ね!」
 各々の努力とドロテアに対する恐怖と盗賊たちの頑張りで、時間はかかったが見事にそれ以上の犠牲を出さずに全ての鍵を解除する事ができた。
 魔鍵の解除後、有象無象のアンデッドは動きを止め地に崩れ落ちた、そしてそれとは別のゴルドバラガナにかかっている数名が発狂を繰り返していた。
 ゴルドガラバナ邪術のアンデッド化はドロテアが言ったように生前のままのアンデッドであり、食事などをする事ができないが空腹は感じる。食事をする事はできるが、満腹感などはなく、ただ胃袋に咀嚼した食べ物が積み上がるだけで、内部で腐ってゆく。
 その果てない空腹からくる飢餓感と、終わりの見えない毎日で神経の弱い聖職者はついに発狂した。だが、発狂しても次の日には再びそれが治ってしまい、その事に絶望感を覚え自殺したものもいたが、自殺して痛みに耐えねばならないだけで彼らは死ぬ事がなかった。
「姉さんが来るまで我慢できれば良いのですが……」
 言うものの、三ヶ月以上の飢餓感は神経を衰弱させるのに充分どころではない時間だった。
「エドウィンは強いのね」
 一人じっと耐えるその姿に気遣いマリアが声を掛けると、少しだけ時間を置いてエドウィンには珍しく歯切れが悪く
「……私には……昔発狂したのやも知れませぬ」
 マリアの質問にそう答えた。
 魔鍵塔の結界の消失によりアンデッドは全てその動きを止めたのだが、その結界が外れた事による内部の力均衡の変化により表れた“危険な生物”を全員が肉眼で確認してしまう。
「城門の外に出ることは可能だとは思うが……此処に居たほうが安全かもしれないな」

**********

 結界がはずれ、見事なイリーナの手綱さばきでイシリアの首都・ゴールフェンに到着したドロテア達は城壁よりも相当遠くで馬車を降りた。
「さてと」
 長時間移動する乗り物から降りた時、誰もがする“伸び”を繰り返してドロテアは武器を運んでいる荷馬車の方へと歩き出す。
「どうするのじゃ」
「狼煙あげて中と連絡を取る。準備しろ!」
 白い煙が立ち昇るのを背にドロテアは城壁の中を鋭く見つめていた。

『何か……厄介そうなモンが見えるのは気のせいか? 気のせいにしたいが……チッ!』

心の中で舌打ちをしつつ、内部の者たちの連絡を待っていた。

**********

「あの煙!」
「到着したみたいね。コッチからも狼煙を上げましょう」
 ドロテア達が上げた狼煙に結界の中で恐怖に慄いていた者達が声を上げた。ざわざわと、そして嬉しさをかみ殺したような悲鳴を。特にイシリアの人々は半年以上恐怖に耐えて、やっと開放が近づいた瞬間だ声が上がってもおかしくはない。
 急いで彼らは狼煙を準備して上げる。
 ドロテアが確認した煙は『厄介そうなモン』の向こう側に見えた。ドロテアは最初にギュレネイスから部隊を送り込んだ場所に一番近い城門の側から狼煙を上げたのだが、エルスト達はイシリアの人々の結界の中に移動して生活していたので思った以上に隔たりがあった。
「あっちの入り口から入るぞ」
 イシリアの城門は三箇所、その中で一番近そうな門へと馬車を走らせ門の前に到着する。
「さてと。おい、お前ら結界を張れ」
 門の前に結界を張らせ、城門を魔法で打ち砕く。砕けた城門の向こう側は静謐とは全く違う静けさを湛えていた。見渡せば地面の上に転がる溶けかけた人間と、それに群がる鳥。
「な、なんじゃ?」
 嘴に腐った眼球を咥えた鳥がクナの声に反応し振りかえる、濁った球が目である事に気付くのにそう時間はかからず、理解した瞬間にそのおぞましい姿に息をのみ後ずさった。
「アンデッドだった奴らだ。もう死骸だけどな」
「じゃあ、俺がいって中の奴らを外に出す。ソレまでの間にここらに魔法磁場を張って天幕を準備して飯作っておけ、解ったな」
 悠々と腕を組みアンデッドが敷き詰められた地面の上を歩いていくドロテアの後姿に
「さすが……じゃのお」
としか評する事ができなかったのは、至極当たり前に違いない。

「あれが“死を与えるもの”か……まあ唯のデカイ虫だよな」

 アンデッドだったものと、鳥の間を歩きながら中心にある大教会を抱くかのように座っている甲虫に似た巨大な虫を視界の端に入れる。その虫もおそらくドロテアに気付いているのだが、その虫にとって人間など警戒するに値しないものであった。その人間がどれほど凶悪であるかなど、虫は知る由もないのだから。

「あそこか」
 結界に足を踏み入れて、開口一番
「よくやったな」
 誰よりも偉そうな言葉を吐き
「さてと、とっとと出るぞ」
「危険では?」
「危険だろうがなんだろうが、ここにいても何の解決にもならないだろうが。とっととアレを倒して帰還するぞ」

**********

 エドウィン達を含む全員が城壁の外に出て、クラウスやハッセムはクナ枢機卿の挨拶に向かったり、他の者たちは水汲みにいったり……など色々な作業を開始した。そんな中、ヒルダは学者達から本を借りてドロテアの元に駆け寄る
「みてみて、姉さん。コレが盗賊のお爺さんのお孫さんが書いた本。コレのお陰で解除できたの!」
 この本を手に入れる為に払った犠牲はとても大きかった、その一番はクラウスの矜持だが……その事は追々エルストがドロテアに話すだろう。ヒルダに手渡された本の表紙をめくっただけでドロテアは声を上げた。
「……スゲエじゃねえか。大したもんだこれ程のモン描けるヤツがいたとはな。オーヴァートの元にも居ないぜ、これ程のモノを描けるヤツは」
 古代遺跡やそれに類するものに関連する書の中表紙に必ず描かれる文様。その文様が最も難しいと言われているのだが、
「皇代書にも負けないぜ、これ」
 皇代に描かれた書物にも負けない精巧さを誇っていた。皇代の書物など普通の人は見る事はできない
「これは大教会で写したのか?」
「らしいよ」
 エルストが答える。そしてその答えにドロテアは顔の半分を手で押さえながら笑う。
「全くいるところにはいるもんだな天才が」
 望んでも手に入らない才能がある事を知っているドロテアは本を閉じて、少しだけ羨ましそうにその本を見つめた。

『幸か不幸か天才ってのは、自分が天才かどうか自分では見極められないんだよな。自分が天才だと思えるヤツは天才じゃあない、皮肉なもんだぜ』

「ドロテア、あれが本体らしい。魔鍵塔を解除したら突如現れた」
「デケエ虫だこったな、あんなのがここの地下にはウジャウジャいるのかと思うと考える事を拒否したくなるな。よお、エドウィン。そうそうあの手紙、届けたぜ」
「感謝しています。礼金はこの騒ぎが終息しだい銀行から」
「いらん、死者から金を取る趣味はねえ、動かねえ死体から引っぺがすことならあるがな。クナ! “死を与えるもの”を捕縛しろ!!」
「申し付かった」
「全員でクナが魔法を唱える間、護衛しろ。そしてコレを使え」
 ドロテアは方から剣をはずしクナに投げつける。
「この剣は?」
「それを持って魔法を使えば、自分の実力以上の魔法を使うことが出来る。セツもそれで俺の魔法を防いだ。俺というか神の力だがよ」
「それはそれは」
「その後、それの正統な持ち主らしい男が握ったから益々威力が増した。それを使えばお前でも“死を与えるもの”をも捕らえられる筈だ。此処で死んだらそれまで、ってことで諦めろよ」
「解かった」
「その間に現状を聞かせてもらおうか」
 クナが魔法は無事に届き、“死をあたえるもの”を見事に捕縛した。人間如きにしてやられるとは思っていなかった虫は呪文をかけられた後、それを引き千切ろうと暴れているが成功する様子はなかった。捕らえられてしまった時点で、抵抗しても無意味。まして魔法の捕縛は物質のように疲労するわけでもないのだから、暴れるだけ無意味というものである。
「それなりに効いたじゃネエか。後は明日に備えて体力を温存しておけ」
 ドロテアはそう言い、クナに手を振り話を聞きだす。
「じゃあシュタードルは大教会の中に居る訳か。それにしても三ヶ月も良く篭ってたな……まあ、地下通路から食糧を運び入れていたんだろうけどよ」
 クラウスも黙ってヒルダの料理攻撃に怯えていたわけではない、ゼリウス他の者達の口を割らせ状況をまとめていた、口を開くものはあまりいなかったがそれでも僅かな情報は集まっていた。それらをドロテアに伝えていると
「娼婦がでかい口を叩くな」
 ゼリウスは歯軋りの下から毒を吐く。娼婦という言葉が誰を指しているのかわからない者はほぼいないだろう。その言葉にと、楽しそうに舌を出し笑いを浮かべて近寄る
「別に、まだ何も言ってネエだろうが? これからだぜ、ジジイ。オーヴァートにその汚ねえ額を床に擦り付けて拭けといわれて水ぶっ掛けられた年寄りが」
「貴様!」
「チトーにするか? テメエにするか? その最終決断を下したのは俺だ。若い頃の判断だったが、間違ってはいなかったようだな、こんな下らない事を真剣なツラして起こすんだから、一国の支配者としては落第以前の問題だ。ああ、だがテメエを司祭に推しておけば良かったかもな、そしたら今頃ギュレネイスはエド正教に乗っ取られているに違いない。キレの一つもない頭脳と大胆さの欠片も無い性格じゃあセツを抑えることなんざデキやしねえよ、その前にセンド・バシリアが攻めてくるかもしれねえけどな。どっちにしろ、過去の遺物に頼らざるを得ない貴様も過去の遺物であることを思い知れ、役立たずの不能モン」
 普通の人間なら馬車の中で言葉を考えていたのではないか? と言いたくなるほど見事に棘のあるセリフが澱みなくゼリウスを攻撃する。
「せめて無能にしてやったら、不能は可哀想だよ」
「不能と無能って何か違うんですか?」
 ヒルダの笑顔の質問は、たまに怖いことがある。ドロテアは、心底どうでもいいように手を振り
「気にすんな。さてと、おいそこのクラウス拷問隊」
 新しい名称で彼らを呼ぶ。
「ギュレネイス警備隊だって、ドロテア」
「クラウス。お前の部下貸せ」
「それは構いませぬが」
「殴れ、テメエラ。ゼリウスじゃなくてその周りのヤツラをな」
 今まで暴行などは控えていた警備隊だが、管理者が殴れといえば殴らざるを得ない。だが、部外者に殴れと言われると“いつも殴っている”とはいえ、躊躇いをおぼえるのも事実だ。何せ青空の下、別宗教のお偉いさんもいれば別の国の一般市民もいる場所で殴る。命令されたからとはいえ殴るのには相当な努力が必要だった、何時もとは違う努力が。ドロテアのその言葉に、一人の男が
「口は決して割らんぞ」
 表情を強張らせつつ、笑いを浮かべる。いかなる拷問にも耐えてみせるといった表情を浮かべた男に
「何言ってるんだよ? 大丈夫か? 俺が何時、何かを喋れと言った? 幻聴でも聞いてるのか。おい、薬でも投与したのか」
 ドロテアは限りなく冷たい。
「してないよ。もったいないからな。一人幻聴なんじゃないか」
 エルストもヤレヤレといった表情で答える。
「死なない程度に、そして激痛を与えるように殴れ」
「殴るだけですか」
「ああ、殴れ。無抵抗者を殴るの得意だろうテメエラ」
 警備隊に対するこの言葉は、最早枕詞に違いない。脇でヒルダが不思議そうに
「殴ってどうするんですか? 喋らないって言ってますよ」
 当然な事を聞くが
「別に何も望んじゃいねえよ」
「な、何もって……」
「大体、誰が口を割れと? この俺に向かってその口を利くほうがバカなんだよ!」
 血というよりは体液の中に沈んだ死体の姿の崩れ方に、アンデッドを見慣れて崩れ去る肉塊に慣れたはずの者達ですら足が後退する。ドロテアの全身からあふれ出てきたかのような黒い触手が、鋭い勢いで捕らえられている一人の男の中に入り込む。
 入り込んだと同時に、男は内側から押されたかのように体の内側を外に押し出されて死んだ、その赤黒い血肉を黒い“魔の舌”が蠢き続ける。
「うわああ! 本当に死ぬんだ」
 もちろん違法ですし
「生きている人に魔の舌を使うとああなるの……凄いわ」
 公衆の面前で生きている人間に使う人はまずいない。
「欲しい情報なんざあ、これで取れるぜ。へえ、随分とチンケな事で。この程度の報酬でこんな事件起こすたあ、引き受けた方も屑だな」
 腕から黒い触手を出したまま、見下し飛び散った肉片を踏みつける女を前に虚勢を張れるほどの度胸はなかったらしい。誰も彼もが黙ったところにコポコポとそしてシュワリシュワリと炭酸がはじける音が響く、音の主は当然エルスト。転がった死体に興味の一つも持たないで彼は麦酒を7、生姜を2.5、檸檬を0.5絞りいれたカクテルビールを作っていた。
 それをちょっとでも近寄ったら殺すぞ! と唸らんばかりの触手が暴れている腕にそれが入っているコップを渡しながら
「イシリアビールって癖もなくて炭酸も弱いんだよ、ドロテアの口に合うように混ぜてみたんだけど? どうだ?」
 物事に動じない男と呼ばれるだけの事はある。そのコップを受け取り、一気とまでは行かないが勢い良く飲んでいる脇でエルストが
「喧嘩して良い相手じゃない事、教えておいてやるべきだったかなあ」
 死体に向かい笑顔で今更遅い意見を述べる、その顔に教えてやろうとった気持ちがあったことなど微塵もない事がうかがえる。人が悪いわけでもなく、底から怖ろしいわけでもない、ただこの男は決して教えないだろうという雰囲気。掴む事ができないその雰囲気が、違う意味でゾクリとさせる。
「別にいいんじゃない? どうせ殺されちゃうんでしょ」
 マリアは素気なく
「それにしても姉さんみたいな娼婦さんって実際いるんですか?」
 そしてヒルダは楽しい質問をエルストにしてきた。義理兄に娼婦のことを尋ねるのも変わっているといえば変わっているが。ヒルダにふられた言葉に、眉間に皺を寄せ全くの別方向を向きながら、
「いるわけないだろ……ヒルダ」
 小さな声でエルスト一言そう呟いた。

こんな喧嘩上等な娼婦、いるはずもない

 ビールを飲み干したドロテアはコップをエルストに投げつける、効果音をつけたくなる程の触手を両腕から放出させてゼリウス達の周りを囲み、煙草にを咥えてエルストに火をつけさせる。咥えたまま、口から煙を吐き出し直ぐに煙草を投げ捨ててゼリウスの側による。煙草の煙をしわがれた顔に叩きつけると同時に
「娼婦なりの歓迎ですが、お気に召しませんでしたか。ゼリウス閣下! さあ呆然としてないで殴れ! 死にそうになったり痛みが麻痺したら治せよ、お前らの治癒魔法はその為にあるんだからな。おい、他の詳細も報告しろ学者達! そして提出書類は出来てるんだろうな、この程度で書類作成できませんでしたなんてのは理由にならねえぞ! おら! オーヴァートを呼び戻したいなら、何時いかなる場所でもテメエの皮膚を紙にして血で書類を上げろ! 王の娼婦の命令だ!」
 号令とも恫喝とも取れる声を上げると同時にゼリウスの顔をかするように蹴り上げる。
 鼻の軟骨が折れる音と同時に痛みに対する声が響き、そして鼻血が噴出す。後ろ手に縛られたまま痛みに悶えるゼリウスを前に蹴り上げ見下すドロテア。

風が一陣通り抜けた

 木枯らしでもなければ、新緑の爽やかな風でもない。それはただの風で何をも運んでは来ないはずだが、見事な恐怖を人々の心に届けてくれる。
 慣れているヒルダは
「イヤミ上等」
 慣れているマリアは
「ムチャクチャ上等」
 慣れきっているエルストは
「でも言っている事に間違いなしだから困るよな」
 そして笑う。
「でも、まあ、引き締まってきたわね、将軍が来たから」
「将軍っていうか総統って雰囲気ですけれどね」
「あの、二人とも今のドロテアの正式な肩書きは王学府属専任統括管理官って言うんだよ」
 間違っても総統でも将軍でもないのだが、正式名称がもっとも違和感があるのは何故だろう?

「所でこの背後にいる元・警備隊の偉かったかもしれない隊員のようなツラをした男は誰だ?」
「よく解かりますね、姉さん。顔見ただけで」
「陰険面だからな。弱者を虐げる事を法律が許可している国において実力を発揮しそうな男だ。そこにクラウスが座ってたら意味解からなかっただろうけどよ」
 口が悪いのも此処までくれば誰も止められまい。まだカクテルビールを飲んでいるエルストが
「レッセンだよ。ドロテアは知らないかもしれないけど、十年前は有名な次期警備隊長候補だった人」
「なる程なあ、人を見る眼がないとこうも落ちぶれるもんなんだろうな。まあいい、首謀者はゼリウスだからな、それだけいりゃあ事足りる。余計なコイツは殺す」
「殺しちゃうんですか、やっぱり」
「解かってるんだろうが、こんな何時脱走して背中に剣投げてくるようなやつを置いておけるか。おい、パネ!」
「何用でしょうかな」
「生贄陣を描けるか?」
 生贄陣は文字通り生贄を捧げる陣で、大陸で奉じられているアレクサンドロス=エド以外の精霊神はそれを求めるとされている。もちろん、アレクサンドロス=エドを奉じている彼らがそれを知っていても構わないが、する事は禁止されている。が、
「はい。グランツア、エリネーデ、パロウース、描くぞ」
 パネ大僧正はあっさりと宙に書き始めた、老人派閥にずっと属しながらも当人の柔軟性は高いらしい。彼がが書く魔法陣は手ではなく魔力で文字を刻んだもので、かなり高等なものである。
「は、は……はい」
 少し遅れている彼らにそう告げる
「命には直ちに従え」
 パネは最高の生贄陣を書き続ける。脅しなどではなく、本当にぶち込まれるのだが生贄達はまだ「脅しではないだろうか?」と淡い期待を持っていた。相手を知らないとは全く持って幸せである。
「あの人たちの半数くらいを生贄にするんですか」
 本来ならば、身を張って阻止すべき立場だろうヒルダ、だがヒルダにその気配は全くない。むしろ、そんな事を考えている気配は全くなく、宙に描かれている始めてみる生贄陣を前にそのスペルを読みつつ、手を叩いているくらいだ。
「生贄陣で毒神・ロインに捧げる。一応呼び出したからな、そのせめてものお礼というか嫌がらせっていうかな。ロインだってこんな腹黒そうなオヤジを多数貰ったって嬉しくはない、だからくれてやる。それにしても一人くらい腹黒だが美しい女とかいないもんかなあ、神様も可哀想だろうがよ」
傍若無人にして身勝手としか言い様のない言い方に
「折角助けてくれたのに嫌がらせされるのか……」
 エルストは一人再び酒を注いだグラスを持ちながら、この場を収めるなんて事は考えず成り行きを見守って……見守りすらしていないか。
「手間隙かけた生贄陣が必要だったりしないと、誰でも簡単に呼び出せたら困るだろう。おい、死ぬ前に何か言い残したい事でもあるか? 綺麗にまとめて恨み言くらい言ってみな」
「き、きさま、おぼえてお……」
「独創性の欠片もないとは言わないでやろうか。その程度だろうよ、死んだら是非とも俺の行かない世界に行きな、勝てそうにもないだろ。あの世じゃあお前らが上位に立てる世界機構だといいな! さあ、やるぞ」
ドロテアはあの手甲のはまった手をスラリと伸ばし、
ここに捧げよう、人の世では裁けぬ悪意に満ちたその者達を 人として扱うにあたいしない 悪鬼の如きこれたちを 神の世界の労力とせよ
ドロテアが呪文を唱え終えると当時に、彼らの姿は消え去った。
「こんなに綺麗に消えるんですね」
「ああ、この先どうなってるかは俺も知らねえけどよ」
 言いながら取り残されたゼリウスを見下ろす。まだ流れている鼻血と、配下の消失で顔は青ざめ死人のような状態で、喉に落ちてくる血に喘ぎながらドロテアに助けを求める。そんな声に耳を貸す気もなく、ドロテアは
「なあに、死にたきゃ死ねばいい、ゼリウス。死んだ程度じゃあ逃れられないからなあ。それと生贄になれなかった貴様等は、こいつらに殴られ続けていればいい。なあに、俺は暴力での自白は信用しないから語る必要は無いぞ。じゃあな」
そういって、その場を立去った。

**********

 一通りの報告を受け、明日何をするべきかを決めて解散となった。解散と言っても、生きている者たちは一塊になっている状態。
 そこから少し離れた場所に陣取っているのがドロテアだ。乗ってきた馬車の搭乗口に腰をかけて、エルストが天幕の準備をしている後ろで煙草を吸っていると
「何難しい顔してるんですか、姉さん!」
 はい、食事です! とヒルダが現れた。それを受け取り、エルストの分を馬車の中に置くとドロテアは質問に淡々と答える
「シュタードルは何を考えていたのかと想像していた」
「は?」
「シュタードルがイシリア教国の古代遺跡を稼動させ、何をしようとしたのか? ギュレネイス皇国の首都を撃つ事はできない。あの場所をぶち抜ける威力を持った兵器なんぞ皇帝の力くらいしかない。もしくはハプルー空中遺跡を使えば何とかできるが、それにしても……考えられるのはギュレネイス皇国を首都以外孤立させる事だろう。首都以外ならば撃ちぬけるからな」
「ギュレネイス皇国から撃ち返されるとは思わないんでしょうか?」
「動かせネエよ。フェールセンの古代遺跡の制御装置は城の中にあるんだから誰も動かせない。人は俺でもない限りはいれねえからな。だが攻撃はできなくても防御は完璧に近い、皇帝がいないから完全とは言い切れないが」
「そうなんですか」
「首都は撃ち滅ぼされはしないが、餓死するハメになるだろうな。貧困の極地に至った時、チトーが失脚すると思ったんだろうか……自分勝手な妄想だしチトーが失脚しても国はそう簡単に滅びはしない」
 温い……と言いながらドロテアは差し出された粥を啜った。
「でもそんな事をしたら、学者達が平定しにくるんじゃないんですか?」
 学者が来る、別に学者だけではなく兵隊をも持って現れ遺跡の奪取を優先的に行う、それは誰もが知っている事実だが、
「シュタードルはバカだからなあ……稀にそこまで思いつかないヤツもいるんだろうよ。シュタードルよりはよほど頭の良かったコルネリッツオでも遺跡を稼動させたんだからな、どちらも自信過剰で上手く立ち回れるつもりだったんだろうよ……人は思っている程自分が賢くない事を理解しようとしないからな。いずれにせよ、シュタードルのお陰でイシリア教国の滅亡は二十年以上は早まっただろう。なんにおいてもそうだが、相手を追い詰めるのは危険だなと何時も感じるな。国を滅ぼそうと思うなら尚更」
 首都の人口が六割近く失われ、その中には国の中枢についていた者が多く含まれている。閉ざされた空間にあった数ヶ月の間、滅びさった村もあるに違いない。
 国の指導者の迷走、人口の激減、元からの弱った経済基盤を間違いなく直撃する。一年二年ではないが国は滅ぶのは明らかだった。これで国があり続けられるのならば、滅ぶ国はこの世界に存在しないだろう。
「イシリア……滅ぶんですか?」
「困惑したような表情だが、どうした?」
「だって滅んでも……上手くは言えないけれど、良くない事が起こりそうな気がしますよ」
 ヒルダの胸中に湧き出る漠然とした不安、言葉にすればそれが最も近い。
「確かに爆弾を抱えるハメになるだろうな。思想や宗教は捨てろといわれて“はい、わかりました”とはいかない。出来るならば逃げ道を確保してやった方がいいんだが、そうもいかねえのが実情だ」
「逃げ道?」
「イシリア聖教を奉じるのを許可する事だ、イシリア教徒が建てた国では無い別の国があれば、奴等は戦争に負けて領地を譲る際多くは其方に流れて、この国も火種を抱えることは無いんだが。残念ながら今大陸にイシリア聖教を奉じるのを許可する国はないからな。宗教はそのままで世界各国に散るだろうよ、そうなると厄介な事この上ない」
「改宗目的じゃあないんですか?」
 ギュレネイスはイシリアを制圧して改宗させて統治するのが目的と神学校で習っていたヒルダにとって、姉の意見は驚きであった。
「お前が読んでる教科書は古い上に宗教に比重が置かれているからな。確かに昔は改宗目的だったろうが、今の司祭がそんな金にも何にもならないような事で戦争を繰り返すと思うか? 欲しいものがあるんだよ」
 戦争の目的はその時の支配者の考え方によって変わる。今の支配者が何の為に戦争を続けているのか?
「イリシア教国の領地内にギュレネイス皇国が欲しがるものが?」
「コイツだよ」
 ドロテアは啜っていた粥のはいった椀をヒルダの前に出した。
「俺は食糧を最低限しか持たせなかっただろう? 移動に制限があるせいもあったが、前にエドウィンの家で食事を出された時に鎖国状態での食糧の多さに驚いたからな。探せば備蓄庫に多数あるはずだとそれ程多く食糧をもたせなかった」
「穀倉地ですか? 確かに此処に着てまだ食糧に困ったことは無いですね」
 ここにヒルダ達が最初に到着した時も、餓えで動けなくなっている人々はいなかった。備蓄庫に多数の食糧が保管されていたことを思い出す。
「その通りだ、鎖国状態でもギリギリながら食糧の自給自足が成り立つくらいには。ただの宗教戦争だけで此処まではひっぱらねえよ、特にあの現実主義者のチトーはな。獲って支配して国が弱体化したら本末転倒だ。アイツは国を強国にする為に戦争をして国を獲るつもりなんだから」
 これがゼリウスであったならば改宗を強制し、拒否する者は拷問を加えそして処刑してエド法国から宗教戦争を挑まれて……という道をたどったに違いない。だが、イシリア教徒に改宗したら高位につけてやる、と厚遇しているチトーが無理やり改宗を推し進めるとは考え辛いし、無理な宗教裁判をしてエド法国につけ入られる隙を作るのは考えにくい。
 元々同じ宗教を媒体としており、国交はなくても宗教的にはつながりがある以上、チトーがするはずもない。ちなみに宗教的なつながりとは、前にも書いたがアレクサンドロスの名は三宗教の合意が必要、などにあげられる。
 反目はしているが根底では繋がっている、根を切ってまで改宗を推し進める事を選ぶような狂信者は今現在の宗教指導者にはいない。
「痩せた土地で人が移ることができるって、グレンガリア残島とかですか」
 嘗て古代遺跡の恐ろしさを知らずに、遊び半分で操作し自滅したグレンガリア王国の領土の一つが今も海に浮かんでいる。大きさはそれなりにあるのだが、地表をかすめた砲撃のエネルギーと強い潮風により大地は全く緑がない。人が住むのには苛酷と評する以外なく、誰も手をつけようとはしない罪の大地。だが、
「そうだな。だがあそこはお前も知ってる通り、トルトリア王国領だったために今は皇帝の支配下だ。イシリアが国を失ってもそこに逃れる事はできない」
 大地である以上、そして人が生きている以上“そこ”には所有権を求めるものが現れ、そして領海を欲する。滅んだ国の砕け散った大地は別の国の配下となり、そして今は誰も顧みないただの島として海に佇んでいる。
「そういえばずっと聞きたかったんですが、オーヴァートさんが亡くなったあと、旧トルトリア王国領はどうなるんですか?」
 オーヴァートには養子はいるが、普通の人間であるのは誰もが知っている。オーヴァート=フェールセンという過去を支配した一族に対する畏怖、そして実際信じられない力があってこそこの平定が成り立っている事は世事に疎いヒルダでも解かる。だがそのフェールセンとていつかは死ぬ、その後を引き継ぐ者がいなければ人々は、このゴールフェンの遺跡を使おうとして自らを破滅に追い込んだイシリア教国と同じ道を歩むのは明かだ。
 そのヒルダの問いにドロテアは
「知らん」
 あまりにも簡潔に、そして正確に答える。
「知らんって……」
「オーヴァートが生きているうちに誰かが旧トルトリア王国領を手に入れて何らかを建国しなけりゃ、また国同士が取り合うだけだろよ。人は甘え過ぎているんだろうよ、皇帝に任せておけば大丈夫だと。何時までも皇帝はいるわけじゃない……あのフェールセンの破滅帝国が滅んでから既に千年以上の月日が流れたんだ、そろそろ人は辛くても自分達だけで進む道の安全を確保するべきだろう……ってもな、奴が、初代皇帝が全てを破棄していてくれればこうはならなかっただろうに」
 全部とは言わないが殆どの攻撃に特化した遺跡は初代皇帝が作ったものだ。
「破棄されていれば破棄されていたで人はもっと違う苦難を持っていたに違いないですよ。どんなに危険な物であってもある物はあるとして進むべき道を模索するべきなのでしょうね。それに足を絡めとられることなく、それに溺れることなくそれと共に」

 ヒルダは強いぜ、俺以上にな

「……そうだな、さてと、俺は寝る。お前も明日に備えて置けよ」
「はーい。明日も朝食持ってきますからね」
「イリーナと仲良くしてやんな」
 去ってゆくヒルダの背に無表情ながらドロテア言い知れぬ感情を抱いた。
 確かに世界は抑止力を失って迷走するかもしれない、だがしないかもしれない。それは無責任かもしれないがオーヴァートがいなくなってみなくては解らない。世界は皇帝の抑止力を求めていた、そしてその次世代の抑止力を作る事も出来た、誰でもない自分が。
 それを全て捨てて今この場にいる。いつか各々が欲望の為に遺跡を使い滅んだとしたなら、それは自分が世界の抑止力を生まなかったせいなのかもしれない、無論後悔などしないが。
 だが
「ある物はあるものとして……ね。中々言うじゃねえかヒルダ」
 人間は世界を圧倒する抑止力を失っても、間違いだらけでも意外と生きていけるのかもしれない。
「世界を万能に制御できる種を絶つのが自分だとは、そうなるまで考えもしなかった……誰も考えもしないよな」

俺の子供を産まないか? それは世間一般ならばプロポーズなのかもしれないが
ドロテアとオーヴァートの間では別れの前奏曲だった
愛しているから別れるとは、まるで物語みたいだ

「いいさ、世界が滅んでも。俺は生きたいように生きていくんだから」

 この世界、お前以外全ての生き物はこの世界の為にあるが、ドロテア、お前だけはこの世界を好きに使うといい
 この世界はお前のためにあるのだから
 男はその言葉を繰り返した

**********

髪は長めだったような気がする
灰色の髪と青空を薄めたような瞳

 エルストは
「細かい作戦はドロテアがこれから立てるって言ってた、殆ど頭の中にあるはずだから明日にでも。一回しか喋らないから聞き逃しはないように厳重に注意しておけばいいはずだ」
 今の所、クラウスを殺害する機会はないだろうと警備を解くことにした。フラウナが危険な事は解かっていても、この場で伝えるのは得策ではない事、何よりフラウナに自分が狙われていることをクラウスが知らないわけがない。そのことを重ねて注意する気にはならなかった。
 どの警備隊員をどう配置するか? どう配置すればドロテアの意に添うことが出来るかを話し合っていると、一人の布音が多い人間が近寄ってきた。二人が視線を向けると、こちらに向かって歩いてくる
「これはパネ大僧正」
 クラウスは頭こそ下げないが、膝を付き礼をする。エルストの方は
「よお、久しぶり」
 軽く手を上げて、少し頭を動かした程度だった。
「エ、エルスト?」
「エド法国では会話することはなかったな」

落ち着いた雰囲気と、その魔力を通した声

 クラウスは立ち上がり埃を払う。
「よろしく頼む、クラウス隊長」
「勿体無いお言葉ですパネ大僧正殿」
 クラウスの受け答えは極々普通のものであったが。
「……」
「よろしく、エルスト殿」
「よろしくな、パネ大僧正」
 クラウスとパネ大僧正の会話は、何処かぎこちなかった。その短い言葉だけ交わすと、パネ大僧正は直ぐに立去り、その後姿を見送りながら
「どうしたんだ、エルスト?」
 やや影になったエルストの顔に、僅かだが『何か言葉では言い表しにくい』感情が浮かんでいるのを見つけ、不思議に感じていた。クラウスに話しかけられたエルストは、目で追っていたパネ大僧正の後姿から目を離し
「いや……それぞれの生き方ってモンがあるんだなあって、しみじみと」
 いつも通りの表情に戻っていた。
「何が、だ」
「クラウスは立派になったな、って事さ」
 そしてクラウスの頭を子供のようにポンポンと撫でる。触るなと、手で払いのけ
「子供でもあるまい……し」
 いつも何をしたいのかわからない男に、子ども扱いしたことに対して少しだけ苛立ちをこめた視線をぶつける。それを受けて、どうなる相手でもない
「そうだな、もう子供じゃないよな。そうそう、クラウスは嫁貰わないのか」
 突然、どこぞの酒飲みオヤジの世間話以下のランクに落ちる会話を繰り広げる。
「下らない話をするな」
 全く持って下らない話で、言った当人もそれを知っているのだが
「そう言うなよ。結構心配してるんだぞ、お前真面目だけど女を見る目はあまり確かじゃなさそうだから」
 エルスト本人としてはクラウスが自分以外の人に意識を向けてくれることをも願っての言葉だった。
「余計なお世話だ!」
「女を見る目だけは自信があるからさ」
「それは認める」
「クラウスは三人の中で誰が好みだ?」
 三人が誰かなどとくどくど説明する必要はない。この場で三人とエルストが言うのはドロテアとヒルダとマリア以外いない。
「答える必要はないだろうが!」
「そーか、残念だ」
「だが、お前の妻が一番美しい……と思うぞ、エルスト」
「そりゃどうも。見る目あるだろ?」
「まあ」
「最も、俺がドロテアを選んだわけじゃなくてドロテアが俺で良いと言ったんだけどな」
「皇帝やレクトリトアード殿を差し置いて選ばれたのだから」
「差し置いたっていうか何ていうか。まあ明日はよろしくな」

 人間というのは良くできていて勝手に解釈してくれるものだ、良い方向だろうと悪い方向だろうと
 強い意志を持っていれば人に真実を知らせなくても生きていける
 人が間違った自分の姿を勝手に追う姿を横目に生きていけばいいのだ

**********

 誰に探られるわけでもないのだが、人間は無意識のうちに都合の悪い事を語らないようにするものだ
 俺が最初にドロテアに語ったときもそうだった
 後で“前に言ったときと違うんじゃないか”と言われた時
 マズイという気持ちよりも、覚えていてくれた事が嬉しかった

まあそういうわけだ、ちょっと当時の他人に語るには辛い話だった

でも実際何処にいったかまでは知らなかったから
? ……そうだな、そう思うよ

「一つの嘘をそれらしく語るには、七の真実と一つの他人の知らない雑学と一つの風景を混ぜるといいぜ」

**********

髪は昔と同じで短めだった
灰色の髪と青空を薄めたような瞳
昔、家を出るときに先立つものがなかった
“先立つモノ”の認識自体が殆どなかった

一週間に一回必要なものが届けられるから買う必要がなかった

 特に目を引くものがあるわけでもないが、決して貧しい食卓ではなかった。一人で食事をして食後の祈りを済ませ、部屋へと戻る、少しして階下で嫌な音がした。金切り声というものだ、一人で食事をした時は間違いなくそれが訪れる。それを聞きたくなく家をコッソリと出る、両親も知ってはいるがなにも言わない。夜空を眺めながら悲しく惨めに自分の事を感じた。そう感じた瞬間、家に戻る足が重くなる。
「このまま何処かにいこう」
 アテは全くないが、何処かへと行きたかった。人目を憚りながら裏路地を歩く、裏路地を歩く事すら許されない身分の自分。朝の開門と同時に首都を出るつもりでいた、此処よりいいところがあるなどと言う幻想は持っていないが、此処にはいたくなかった。フードを目深に被り、物乞いのように路上に腰を降ろしていた。
「何してるんだ? エウチカ」
 暗さとフードで殆ど見えない状況で声をかけてきたのは、この町で俺を知っていながら普通に接してくれるたった二人のうちの一人。手には鞄、飾り気のない従順なギュレネイス教徒が着用するのに相応しい黒地に銀色の縁取りがされた長めのコート。
「お前こそ、こんなに夜遅くに何を?」
「私塾の帰り。また残されてさ」
「やる気がないからだろう」
「話を逸らしているけれど、どうした?」
「……夜が明けたら俺は此処から出て行く」
「じゃあ家に来るといいよ」
「ご両親は?」
「恒例の死んだ伯父への祈りの為にバシュミナの街まで。何時もは俺も一緒にいってるんだけど、そろそろ俺も総合学院の試験受けなきゃならないからなあ。だから勉強しろって置いていかれた」
「いいのか?」
「構いはしないよ。ただ、みつからないようにね」
「慣れている」

人に隠れて動く事に慣れていた

 時計に囲まれた家に招き入れられ、台所で作ってきてくれた暖めたミルクと親がおいていったと言うスマドレーヌとコーンとジャムを出されて食いつく。
 此処から出て行くのは止めないが金は持っているのか? と聞かれたが。金はもっていない、家にもまったくと言っていいほどなかった。人との交流がない家だ、金などあっても仕方ない。
 いつも一方的においていかれる食い物、布、日常雑貨。それらに好みなんて物は全く介在しなかった。
 何故そんな俺が金の存在を知っているのか? それは命乞いをする者や命乞いに来るものが金を持ってくるのだ。

俺達には通貨は全く無意味だとは知らずに

 買収されないようにする為にも、あくまでも通貨とは切り離された生活を送らされるらしい。
 俺が金を持っていないと知ると、家中にある無数の時計に手をかざし“これとあれと……あれもだな”と言いながらそいつは無数の時計から何箇所か選び、それを手に持ち盤を外す。そこには小さな瓶が押し込まれていた。その瓶を開け何枚かの金貨を取り出す。
 全ての時計から瓶を取り出し金貨を抜き取った。その後鍵のかかっていた引き出しになにやら細工し、そこからも金貨を取り出し
「持っていけばいいよ」

世に言う犯罪

「貰う事は出来ない」
俺はそれに敏感に反応する。
「いいよ、いつか出世したら返してくれれば。それまでの貸し」
 今思えば素晴しい特技だ、時計屋を営んでいたその家は時計で埋め尽くされていた。その中から秒針の僅かな音の違いから何かを隠されている事を聞き取るなど。俺は差し出された金貨を手に取り握り締めた。俺の手に乗り切らない程の金貨を前に泣いていた
「必ず、返す。必ず返すから」
「泣くなよ」
「何で、悲しいんだろう、な」


これが今生の別れになると二人とも知っていた
柱時計が時を知らせる鐘を打つ
テーブルの上には最低限度の路銀と冷えたミルクと菓子が乗っていた皿
翌日、家にあった日持ちする食糧と毛布、水筒に地図を入れたリュックサックを渡してくれた
俺は見送りを断り“ビルトニア”と看板の出ている家を後にする
見送られたらまた泣き出しそうだった


 城壁から出て人が集まっている場所から少し離れた所に一本の木がある、そこに背を預けたエルストと反対側に立つパネ。夜がおり始めた空に灯をともしまだ色々な準備をしている人々の音を耳で聞きながら、二人とも暫く黙っていた。
 先に口を開いたのはパネ大僧正で、その声は魔法を通したものではなく、また儀礼の一つもないままに笑い声を含んだ声は闇夜に良く似合う穏やかな声でもあった。
「明敏というか聡いと言うべきか……お前の女の好みは聞いた事はなかったが、玄人好みと言うべきか? だが相当に美しいのだけは確かだな。多くの巡礼者や花街の女、そして数多の王女を見たが美しさは足元にも及ばない。あの口の悪さでも品があるとは……神も認める美しさだとは、恐れ入る」
「俺も聞いた事なかったな。お前さんの好みは?」
「誰だろうな。だが、本当に美しいなお前の妻は」
「それにしても、元気そうでなによりだ」
「そちらもな」
「そのエトワールの模様から察するにヒルダと対立派か」
 聖職者、それも位がついている者は長い帯状のものを首から提げておりその模様で属している派を周囲に知らせる。今エルストと話をしているパネは縁取りがオレンジで、大きく刺繍されている聖典の詩編とそれを縫い取った銀糸と黄緑糸からその位と派閥が知れる。
「随分とエド正教に関しても詳しくなったようで」
「適当に、おざなりに」
 他人が口にすれば“謙遜”とも“莫迦にしている”とも取れる言い方なのだが、この力の抜け切ったエルストが言うと“なんともエルストらしい”という言葉に収まってしまう。
「……私はもう良いが、あの隊長には協力してやれ……私が言うまでもないかもしれないが。あと借りていた金を返そう」
「いらない。ドロテアも言ってただろ、死んだヤツからは金は取らないって。ま、何かあったら出来る範囲で協力はするよ」
 去っていくパネ大僧正の背を見送りながらエルストは煙草を咥え吸うことなくぼんやりと昔を回顧する。
『歩いてる後姿全く変わらないな』

**********

 勝手に鍵を開けた引き出しの中に入っていた金を使ったのがばれたのはあれから十年以上過ぎてから。
 親が俺を涙ながらに叱る姿を前に、その時の俺はいまのようにぼんやりと回顧していた。
 そういえばあの時金を渡したエウチカはどうしているのかな……と。
 死んだとも生きているとも聞きようがない。
 正直に言いなさいとは言ったが、エウチカに渡したとはいえるはずもない。ただ、黙って親としては正当な怒りをやり過ごすくらいしか方法はなかったし、考えもしなかった。
 親の金を勝手に使うような子に育てた覚えは無いといい続ける年老いた両親を前に、頷くことはなしない。
 俺は確かに勝手に使った、それは否定しない。ただ、勝手に使って悪かったとは微塵も思っていない。
 親には親の正義と理念の世界があるように、俺にも世界がある事をその時朧げに頭の中に描くことが出来た。

まあ、上手く立ち回ってしっかりと俺が働いて拝借した分を足しておけば良かったんだろうけれど

忘れていたよ、ごめんな父さん、母さん。不甲斐ない息子で済みませんね

……

 でもどうなんだろうな? 勝手に使ったものを後で補充しておけば罪にならない? それは間違いじゃないか? 俺は勝手に貴方達の金を使った、それを責められ咎を負う、それでは駄目なのだろうか?
 何も言い訳する気も起きず、俺は国境を跨いで引越しする事になった。見事にお膳立てしてくれたクラウスに感謝の意をこめながら。
 エウチカがマシューナル王国にいるとは思えなかったし事実見つける事は出来なかったが、そこで
「よお、メシ馬車のなかにあるぜ。粥だから水吸って食いづらくなってるかも知れねえけどよ」
 絶世の美女と出会う事になる。当人はマリアがいるので「絶世の美女一歩手前」と言うが、中々どうして。
「ワインで割るか」
「いや、それで流しこむから混ぜないで!」
「同じだろうが」
「やーめーてーくーれー!」
 勝手に金を持ち出す隙すら与えない“隙があって持って行ったものに関して文句は言わんよ、例え命であってもな”。だから真相も語ったわけだ、ドロテアなら全てをみて判断を下してくれるだろうから。
 親には言えない物事の真相を。案の定、笑って“それで良いんじゃねえか”と。そう答えてくれる事を知っての打ち明け話だったから、卑怯かもしれないが。

結婚する前は知らないフリをしていたけれど。

“そのクラウスの遊び相手になっていたクラウスより五歳年上の男は、直ぐにクラウスの前から消えた。いや、家からも消えていた……家出だったらしい。家が家だったから両親も探すのを諦めたし、何処にも頼めなかった。
 クラウスと俺の二人で城壁の外まで出て探した記憶もあるが、見つかりはしなかった。あいつ、元気かなあ……ああ、済まない話が逸れたな。”

「前に言ったときと違うじゃねえか」
よく覚えていてくれたね。

ワインに浸された粥をかき混ぜながら
「クラウス、ドロテアが一番好みだってさ」
 そんな無駄口を叩きながら流し込む。奇妙な味がするがとにかく飲み込む。“ほらよ”と差し出されたにんじんのポタージュを続けて飲んでいる脇で、軽く一言
「クラウスのヤツ、誘惑でもしてやろうか?」
「可哀想だからやめてやってくれ」
「誰が?」
「俺が」
ドロテアは笑いながら俺の唇を指でなぞり、それを舐める。

 この地上に存在していいのか? と神に問いただしたくなるような女が目の前にいる
そして皇帝はこの女だけを地上に存在させたいと願った
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