ビルトニアの女
赤い川は海に還りその花は散るのみだと【16】
「たぁ!」  脆くなっている腕を叩き潰し、こびり付いた肉片を払いながら人間であれば顔の部分を打つ。赤黒く膨れて元顔もわからないそれの骨を砕くつもりで警棒を叩きおろすと、本当に骨が砕ける感触が手に届く。どうやら相手は非常に骨が脆くなっているようだった。地下に居たせいなのだろうか? それともこの形状が何かを意味しているのか? それを確認するよりも私は目の前の敵を倒す。
 敵の数はそれほど多くはなく、私一人でも充分に片付ける事が出来た。骨を砕きながら魔法を唱えて切り裂く。
 その中から出てきたのは巨大化した“食い荒らす者共”。ギュレネイスにおいて脳を食い荒らしていた小さな虫は、宿主の体内を食い荒らし恐ろしい程に成長していた。空気に触れた“食い荒らす者共”は無言のままミミズのようにのた打ち回りながら体に亀裂が入り、中から体液を飛び散らして息絶える。それを視界の端に捕らえながら、まだ動く、人間の皮を被っている者共を殺す。単純作業のように骨を砕き、魔法で切り裂き巨大になった虫を空気に触れさせるを繰り返し、七体も切り裂くと辺りは宿主の血と虫の赤い体液でできた小さな湖となっていた、そして私も制服が血を吸い重くなっていた。
「あと一体か」
 敵に一気に近づこうと床を蹴り上げたつもりだったのだが、靴底が滑った。血と肉片に足を取られたのだ、だがそう考えると同時に見上げながら警棒を口の突き刺しながら魔法を唱える。降りしきっている血の雨を防ぐ為に頭を下げると同時に、突き刺した物体をそのまま壁に投げつけた。
 濡れた柔物が壁にぶつかり、内部が砕けたような音を立てて床にズルズルと落ちて動かなくなる。それを前に、血の中にいる私も座り込み呼吸を唱える。
 あと体に響いてくる足音はない。これで全てを倒し終わったのだが、いまだ警戒を解かないまま。
「クラウス!」
 早く脱がなければ血が乾いて、皮膚にくっついて面倒な事になるな、そう考えていた時に足音が再び響く。
「怪我はないか」
「この程度相手なら返り血は浴びても怪我などしない」
 差し出された手を掴み、立ち上がる。床は地でヌルヌルとしていて少し体勢を崩しかかったが、転ぶことなく立ち上がった。私を見て、遅れてきた盗賊は目を見開き驚きの表情を隠さない。だが
「全部倒しちゃったんですか。凄いですねえ」
 司祭と
「本当に強いわねえ、予想以上よ」
 聖騎士は殆ど表情を変える事なく、倒れている死体をのぞいていた。胸元からハンカチを出し私に勧めながら
「一応ギュレネイスの武官トップなんだから、強いんだってば」
 エルストは笑っていた。女物の繊細にして高価なハンカチ、血や体液で麻痺した鼻に届く刺激的に感じる香り。エルストが咥えている煙草の香りだった。ハンカチで口元をぬぐい
「本の方は?」
 ここに来た目的を問うと
「無事に手にいれた。さてと、急いで戻るか」
 片目をつぶりながらそう答えた。

**********

 本拠地に戻った六人だったが、一人が異様に目立った。言うまでもなくクラウスだ。
 黒い制服は血で濡れ異様な黒光りをして、黒い髪はあちらこちら固まってしまっている。白い肌は朱で染められ赤い瞳と同じような色と化していた。
「クラウス隊長!」
「お怪我を?」
「自分の怪我ではない、返り血だ」
「後の五人は」
「護衛は私の専門だ」
「でも、エルストは」
「エルスト=ビルトニアに傷でもつけたら、私たちは解職だろう。解職で済めば良いがな」
 エルストはハッセム隊長立会いのもと、本を学者達に引渡し後、もう仕事はないとその場を立ち去り煙草に火をつけてクラウスの方に近づいてくる。そしてバタバタと走り回っているヒルダとマリアも側に来て
「クラウスさん! 指示より何よりまずは体洗ってください! そんな真っ赤な体してうろつき回られても困ります」
 ビシッ! と人差し指を突き立ててクラウスに詰め寄る。普通は真っ赤な血に染まった男というのは、物語としては絵になるが現実的に考えれば感染症の宝庫である。訳のわからない物体の体液を浴びるわそこに座り込み着衣が体液を吸い込むわ等非常に危険な事をしたクラウスは
「申し訳ない、ランシェ司祭殿」
 そう言いながら、自分の姿に申し訳ないという表情を作ろうとしたのだが、固まった血糊が表情を変える事を阻止していた。
「洗い場に底の浅い大きな桶を準備しました、今大急ぎでお湯を沸かしていますので体を洗ってくださいね」
「場所さえあれば水で結構です」
「水じゃあ血は落ちませんよ。血というか体液というかはね、石鹸つけて綺麗に洗ってくださいね」
「でしたら警備隊の者に準備させます。ランシェ司祭殿にご準備していただかなくても結構ですが」
 クラウスがそういうも、ヒルダは全く聞かずに続ける
「病気にかかりますよ。感染症の原因ですよ、目とか鼻とか口とか生殖器とか粘膜はきちんと洗い消毒しないと。この狭い結界の中です、一人が感染症に掛かると最早手の施しようがありません」
 握り拳を作りながら声高らかに力説するヒルダの前に、警備隊長以下隊員及び聖騎士団員は動きが止まった。
「ヒルダ……俺は慣れているからいいけどさ……」
 “生殖器”それに対してヒルダが何ら悪いイメージや恥ずかしいイメージなどを抱いていない事をエルストは知っているが、若くて稀なる美しさを誇る女性聖職者が真剣な顔をして男性に向かって“生殖器”などと口にするのは、聞いている方が辛いのだ。だが、ヒルダは追い討ちをかける
「あと肛門も内部まで綺麗に洗ってくださいね、体液が浸透しているといけませんから、それとうがい。うがいも内臓や胃を洗う為に飲んで吐いてくださいね! 今消毒液を準備します。この姉さんの持たせてくれた万能消毒薬を削って煮出しますので体を洗って待っていてください!」
 円形状に固められた薬草を握り、片手にはいつの間にかナイフを取り出している。確かにドロテアが後発酵させて作った手間隙のかかった消毒用に使える薬草の塊であるが……エルストは軽く頭を抱えつつヒルダの方を見て情けない声を上げる。
「ヒルダ……そんなモンまで持ってきてたのか?!」
 その薬草用品を置くとヒルダは再び、妙に自慢げにヒルダは金属の物体を取り出し指差す。よくよく見ると、どうやら袋に一纏めにされてはいっていたものらしい。
「はい、医療用の浣腸器です」
 もはや誰がヒルダを止められよう。思えば『あの』ドロテアですらヒルダの手により無理やり急いで結婚させられたのだ、この無駄な勢いがあるヒルダを前に止める術を持つ者は皆無。特に『良い事をしている』と自信を持っている時のヒルダは誰の手にも負えない。
「……」
 実際誰も口を挟めないでいたのだが、背後から来たマリアが口を開いた。
「ヒルダ、それの使い方知ってるの?」
「全く知りません! でも姉さんが書いた備品目録の注意書きに『浣腸器は警備隊員なら“確実”に使える』と、確実の部分が強調されて書かれています。まさか医療品まで拷問に使ったりしているわけじゃあないですよね?」
 その姉と同じ鳶色の大きな瞳と形の良い唇、通った鼻筋に美しい形をした眉、綺麗で繊細な顎の線……とにかく美を表現する言葉の全てを使ってもその表現に負けない美しさを持っている聖職者は言葉を選ぶ事はなかった、その強さまさしく姉譲り。そしてヒルダの言葉は当たっており実際はその“まさか”でもあった。嘘の下手な隊員は目配せをして表情を硬くしていたが、それにヒルダが気付いたかどうかは不明である。それを横目に
「あー、ヒルダ早く消毒液作ってきてくれないかなあ」
 エルストは肩に手を置いているクラウスの硬直している様を手で感じつつ笑いたいのを我慢している。この場で笑えば絶対にクラウスに八つ当たりされるのを知っているからだ。
 八つ当たりしたくなるクラウスの気持ち、解らないでもないだろう。
「じゃあ、私がお湯運ぶわね。クリシュナ、お湯加減はどうかしら」
「はい、かなり沸きました」
「いや、マリア俺が運ぶよ」
そうエルストが立候補したのだが
「あなたはクラウスの体を洗ってあげなさいよ。全身隈なく洗い上げないと大変な事になるでしょう。私、洗ってあげるの嫌だから、男の人なんて触りたくもないし。まあ、エルストだったら洗ってあげてもいいけれど」
 クラウスに対してはにべもなく、そしてエルストにとってはありがたい言葉と共に体洗いを命じられてしまった。
「そうですね」
 基本的にエルスト、抵抗したり意見したりはしないドロテア関連に関しては。
「はい、洗濯石鹸。最低でもこれ一個は使い切りなさいよ。それと果物ナイフ、これで洋服切って脱ぐと良いわ。あと食器洗い用の海綿古くなったのを四個くらいで良いわね」
「あの、せめて新品の海綿一つくらい下さらないでしょうか……マリア。全部お古だと可哀想かと……」

**********

 エルストの果敢なる意見申し立てにより新品海綿一個と保湿溶液の確保に成功し、クラウスは隊員に指示を出し言われた場所へエルストと共にむかった。
 水汲み場のある三和土に口の広い桶が一つとその脇に水運び用の桶が二つ置かれており、どの桶からも暖かそうな湯気が立ち上っているのだが、
「何故、ど真ん中なのだ……」
 冷たい水のある空間のど真ん中に桶がそれだけ置かれているのだ、
「深い意味はないとおもう……脇に寄せて衝立代わりになるものを今持ってくるから、湯に体をくぐらせて血で肌に張り付いた服を切っておいてくれよ」
「解った」
 湯をかぶり、服に直接石鹸をつけしごくようにして洗う。殆ど泡は立たないが、皮膚から布が離れはじめそれを果物ナイフで裂きながら汚れた服を脱ぐ。だが
「痛っ!」
 血を浴びた髪と後ろの襟がくっつき思うように取る事ができづ、クラウスは無理やり引っ張っていた。髪の毛ごと切ろうと手探りで髪を持ち、ナイフを髪に当てたのだが
「無理やり引っ張ったり切ったりしてどうするんだ。髪を洗わないと取れなさそうだな、待てよ今洗うから」
 衝立を立てながらエルストは苦笑いを浮かべていた。クラウスは見た目も性格も繊細そうなのだが、ある一点で非常に大雑把であった。自分に関する事などに対しては多分エルスト以上に大雑把である。
「別に洗ってくれなくても構わんが」
「洗えってマリアに言われたんだから、それに俺仕事ないしな、他の隊員は仕事があるだろ? だから俺で我慢しておけ。ちょっと待てよ今衝立をして足りない部分はシーツで影にするからな」
 部屋の隅に衝立で仕切りをつくり、洗うために上着を脱いで袖を捲り上げていると
「はい、お湯の変え持ってきたわよ」
 入り口を隠しているシーツをめくり上げながらマリアが言うと同時に入ってきた。思わずクラウスはマリアに対して背をむけるのだが、そんな事全く気にせずにマリアは空になった桶と持ってきた桶を交換し出て行っていった。その動きには全く無駄がない、そして無駄がない分エルストとしても困った。
『マリアもヒルダももう少しクラウスを意識してくれればなあ……クラウスが居た堪れないよなぁ……』
 自分がそんな扱いをされるのは別に構いはしないのだが、目の前の成人男性それも結構な美男を前に全くの無視街道を走っているヒルダとマリアを前に、身内の者として謝りたくなったりもしたが、謝るとますますクラウスのプライドを傷つけるのでエルストは止めておく事にする。
 男の沽券とか矜持とかいうのは色々難しいものなのだ。
「耳とか頭とか背中を洗うから、そっちは前を頼むわ」
 咥えていた煙草を三和土に投げ捨てると、泡を立てた海綿を握りながら血でぬれている背中に湯をかけて洗いだした。
「痛かったら言ってくれな」
「海綿で何処をどうやって痛くなるんだ?」
「そーなんだけどさ。あと優しすぎたら言ってくれ、ほら最近はドロテアの体しか洗わないし」
「のろけか?」
「そうかも知れないけど、それにしても泡立たないな。虫の体液が混ざっているせいだろうかな」
「気分が悪くなる事を言うな」
「いや、真実だし。それにしてもあんなに虫大きくなるんだな、あれ恐らく他の虫をも食って成長したんだろうな、そうでなけりゃあれ程重くなるはずないから」
「そうだろう。だが、重くなり過ぎたせいで殺すのは簡単だった」
「クラウス強いからさ」
「……お前警備隊辞めてから随分たつが、体つき衰えていないようだな。鍛錬でもしているのか?」
 洗うのに邪魔だと上半身裸になったエルストの体を見て、昔と変わらない筋肉のつき方にエルストは尋ねる
「そりゃまあ警備隊にいるよりは厳しい生活を送ってるから。お前が座ってる桶くらいの大きさがある籠を背負わされて急な斜面を登るとか……色々」
「でも、楽しそうだな」
「まあね。ご褒美ももらえるし」
「やはり良い女か」
「うん、当然。高級娼婦も貴族の令嬢も町娘も売春婦も敵じゃないなあ。オーヴァートが泣いて縋っただけの事はある」
 おまえ、それら全部に手を出した事があるのかエルスト……と突っ込む部分だろうが
「のろけも自慢もそこまで行くと返す言葉がない……まあ、幸せで何よりだ」
 クラウスは外してしまった、ここらあたりが面白味のないクラウスらしいとこなのだろう。
「まあね」
 エルストもなれているのか外された事に関しては何も言わず、クラウスの頭を掴んで鼻を近寄らせる。エルストには殆ど無臭に感じられるが
「殆ど流れた。においが染み付いているような感覚は暫く離れないだろうけど、もう一回くらい洗うか」
 頭から体液を被った方はそうもいかないだろう。
「手間を掛けるな」
 クラウスはそう言いながら目から不意に目からこぼれた涙を手でふき取った

 此処までは普通だった、後は言われたとおり口に体液が入った恐れもあるので消毒液を飲んで吐くのも大丈夫、目を洗うのも鼻を洗うのも意地や努力でなんとでもなる。だが突然現れた若き司祭によってそれは大変な方向に進む

「クラウスさん! 大丈夫ですか?」
 現れた世に言う『ドロテアの妹』ことヒルダは、追加の石鹸を持ってシーツをあけてはいって来た。そこに元々赤い瞳を充血させて、殆ど目が赤くなっているクラウスを見て声をかける
「ああ、ちょっと目が痛く……」
 確かに目は痛いのだが
「うわ! 感染症ですよ! 目は弱いんですから! 早く洗いましょう! さあ、洗って差し上げます。奉仕の一貫として体を洗って差し上げる過程もありましたので上手ですよ、さあっ!」
 そういいながら司祭服を脱ぎ始めるヒルダを前に
「ヒルダ……」
 さすがのエルストも頭を抱えてしまう有様だった。
 エルストのように着衣が上と下が別々のものであれば良いのだが、ヒルダが着ているのは上から下まで繋がっているチュニチック上の物。一枚目の司祭服を素早く脱ぎ、下着と司祭服の間にきている服になるヒルダ。厚く刺繍などを施された固い司祭服で隠れていた美しく女性的な曲線が露になる。文句のつけようがない美しいその体を前に
「ちょっ! ちょっとお待ちくださっ!」
 クラウスは正常な反応を示した。その反応を示させたヒルダは全くそれを知らないでカロットを脱ぎ大きな三つ編みに結っている髪を纏めてあげる、ますます体の線を露にし美しさを増す。扇情的な体を見慣れ抵抗力があるエルストは『ひゅぅ〜』位ですむがクラウスはそうはいかなかった
 脇にあった桶を抱きしめて体の前を隠しながら腰で後づさるクラウスに、脱いで肩にかけていた服を衝立に投げかけて笑顔で近寄ってくるヒルダ。
「照れるようなお年頃でもないでしょう、クラウスさん」
「でっ! ですが、司祭殿がそのような事をしなくとも」
 三十にもなった男だ、確かに黙って洗われれば良いようなものだがクラウスはそれが苦手なのだ。いや、通常の状態だったらまだ我慢できただろうし、洗おうとした女性がこれほど綺麗でなければ良かっただろう、だが悲しいかな目の前にいる司祭服を脱いだヒルダは姉に負けないほど美しく、それを見たクラウスは世に言う「立派な成人男性の通常あるべき反応」に襲われていた。クラウスはエルストに自分が抱いている桶の方を指差し必死に無言で訴える、それに気付いたエルストも声に出さないで『本当か?』と聞き返す。その間にも海綿に石鹸をつけて体をこすろうとするヒルダ。

まさしく攻防が始まろうとしていた

 桶を持ち上げて確認したエルストが笑い、クラウスがエルストを殴ろうとするが動きようがない。それを前にエルストはついに現れた笑顔と体つきの美しい義理妹の背後に回り
「ヒルダ、ヒルダ! ちょっと待ってやってくれ、ヒールーダー! ヒールーダーさーまー!」
 ヒルダを羽交い絞めにしながらエルストが叫ぶ、その姿はどっからどうみても喜劇。桶抱きながら必死に深呼吸して落ち着けようとしているクラウスも喜劇、いや悲劇だろうか?
 マリアが『消毒薬を煮出したわよ、薄めるのはヒルダに任せるわ。私希釈率とかいうのの計算できないから』と呼びに来てくれなければ間違いなくクラウスはヒルダに全身くまなく洗われていただろう。その状態のまま……そうなっていたらそれこそ男の沽券に関わっていただろう。
 桶を抱きしめながら濡れた髪を振り乱した全裸の男と、義理の妹を押さえるのに精根使い果たした男がその場に残されて
「ヒルダに悪気はないんだ……多分」
 ため息交じりに言うと
「ああ……」
 桶を抱えたまま冷や汗で体が冷えた事に気付いた男は頷いた。が、直ぐに暴風は戻ってきた。軽快な足音と共に桶を脇に抱えたヒルダが戻ってきたのだ。そして笑顔で二人の前に立つと
「エルスト義理兄さん! 使う消毒液の濃さはこのくらいでいいでしょうかね、こうもぅ! ムグッ……モゴモゴ」
 エルストはヒルダを再び羽交い絞めにして、口を手でふさぎながら顔を覗き込み苦笑いを浮かべながら
「はいはい。若くて綺麗な娘さんが、そこに使う液の濃さなんて口にしない、しない」
 ヒルダをとめた。上目遣いにエルストをみながらヒルダは頷き、口から手が離れる。
「ぷはぁ〜口にしてはいけないんですか?」
「そうじゃないんだが、そのギュレネイス国家的にはあまり表立って口にしない言葉だから、聞きなれなくてねぇ」
 『女に幻想を持っているような年齢でもないが、男ってのは女性に対しての幻想ってのは何時までも持っているもんなんだよ』と口にしたかったが、とりあえずエルストなので口にはしなかった。エルスト一人であればなんとも思わないのだけれども。
「そうですか、解かりました」
 そういって桶をエルストに渡し、腰に下げている布袋から器具を取り出し始めた。『必要ないですよ』と声を大にしていえないのが辛いところだ、クラウス。だが実際あの虫の体液と血が混じった場所で座り込んだ以上、拒否するわけにもいかないのだ……が。桶に入っている液体を見てエルストは小指でそれを味見し、ゲフッ! という声を上げながらそれを吐き出す
「ヒルダ! これ、濃過ぎるって! 何倍に希釈したんだ?」
 舌を指でこすりながら焦りの色を浮かべた表情を前に
「三倍です」
 自信満々に答えるヒルダ。
「爛れるってそれだと!」
「ええ! 爛れる? 何がですか? あ、でも間違ったんですか?」
「六倍の間違いじゃないのか?」
 言われてヒルダはポケットから希釈方法などが書かれた紙を取り出し目を凝らす。
「……あ、本当だ。で、でも爛れたら魔法で治しますから」
 とはいうが、そんな生易しいものではない。むしろ魔法で治せる程度ならばドロテアは原液で使わせるだろう。わざわざ希釈率まで書いた紙を渡したのだから、それの用法を間違うと大変な事になるのだ。ヒルダが得意なのは外傷治癒魔法であって内臓などを治す薬湯など造詣は深くない、その事をまざまざと見せ付けられたエルスト
「いや、薄めような……ショック状態、ってか死ぬから」
 だが事細かに説明する気にはなれなかった。
「じゃあ今すぐ薄めてきますのでお待ちくださいね!」
 足音も豪快にその場を立ち去ったヒルダを前に、体が冷え切ったクラウスは小さなかすれた声で
「エルスト、一つだけ聞いていいか……」
 質問をした。ずっと聞きたかった事だ
「なんだ?」
「あの司祭殿はいつも“あんな”感じなのか?」
 非常に言葉を選んだ迂遠的な言い回しだが、誰にでも通じる言葉だった
「大体はな。でも可愛いモンだよオーヴァートなんかに比べる……」
 言い終わらないうちに再びヒルダの足音が響き渡り
「エルスト義理兄さん! クラウスさん! 今度は大丈夫ですよ」
 ワイン瓶を五本も抱えて現れたヒルダ。希釈した分量を全て持ってきたのだ。
「どうぞ! 全部使って洗ってください! 遠慮は無用です!」
「ヒルダ……それ全部使ったら、クラウス死ぬよ……」
「えー。何でですかー。確りと沢山消毒した方がいんじゃないんですか?」
「色々とねえ」
「そうですか。では、お手伝いしますよ。これをここに入れればいいんですか? エルスト義理兄さんこれが」
 言いながら次々と袋の中から薬を取り出してくる。
「いや、大丈夫だから。俺一人で大丈夫だからヒルダ」
「気にしないでください、介護も課程の一つで下の世話もした事ありますから! さあっ! 遠慮しないで私の方にこぅモゴッ、むけてムグムグ!」
「ヒールーダーァー!」

クラウス=ヴィル=ヒューダ
彼の人生最大の敵、それは
ヒルデガルド=ベル=ランシェなのかもしれない


 吐いたり泣いたり桶抱えたまま焦ったり、クラウスの消毒には実に三時間に及んだ。三時間のうち三十分以上はヒルダとエルストの攻防だったのだが、それには触れないでおこう。そしてクラウスのその時の去就にも触れないでおこう。
「寝ちゃいましたね。疲れているのもそうですが、何か入れてましたね消毒液に」
 飲ませる消毒液にエルストが袋から取り出した何かを入れていたのにヒルダは気付いていた。ヒルダが気付いたのにクラウスが気付かない訳もないのだが、なんとなく隠して欲しそうだったのでクラウスの前でニコニコと下着姿になり注意を逸らしていた。勿論ヒルダは自分の下着姿に興味を持たせようと考えたものではなく、下着と司祭服の間の着衣を脱ごうとすると広げるような状態になるので目隠しができると思ったのだ。ヒルダの目隠しはクラウスが頭を下げ全くエルストの行動に気付かないで済んだ。クラウスは色々とすまなかっただろうが……
「睡眠薬を、俺も適当に使ったからいつ起きるかわかんないんだけどね」
「他の人だったら毒薬を混ぜないとも限りませんからね。経口の次によく使われる毒の投与方法ですもんね」
「……知ってた?」
「目録の注意事項に、ほら!」

『浣腸器・警備隊では主に自白剤の投与方法として用いられるが経口よりも吸収率が高い為、ショック状態に陥り死亡する事も多々ある。毒殺の基本的な手法の一つ。使われる者は最も信頼している者に使用させる事。それで死んだらソイツが間抜けだったという事だ。ちなみに、毒以外にも器に薬が塗られている事もあるので重々注意しろ、消毒液で一回煮出せ。詳しくはエルストに聞け』

 毒と魔道のドロテアらしいメモである。

「『浣腸器は警備隊員なら“確実”に使える』なんて何処にも書いてなかったんだ」
「はい、意訳です」
 意訳といえば意訳だが、全く意訳ではないような気もするが敢えてエルストは口を挟まず、目録の注意事項を濡れた指でなぞり字を読めないようにしてヒルダに返した。それを受け取りながら
「出世街道を歩き続けるってのも大変ですね。さて、私は食事の支度をしてきます。エルスト義理兄さんは疲れきった警備隊長さんを警備していてくださいね」
 そういって、ヒルダは立ち去った。当然しっかりと司祭服を着て。
「ドロテアの妹ってよりは、聖職者も色々派閥があるからなあ。それにしても老けたなあクラウス、俺より若いのになぁ」
 多分、戦いや警戒以上にヒルダに疲労困憊にされたクラウスは寝息すら聞こえないほどに深い眠りに落ちていた。
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