月球宮・1

 無言で礼をし入室してきた召使いたちの姿に、ビーレウストは「もう日の出か」と考えつつ枕元の時計を見る。
 召使いたちは音を立てないよう細心の注意を払いながらカーテンを開いてゆく。全てを開いたところで再び礼をし退出。
 外側からは中の様子を決してうかがうことのできない特殊加工の布を使用した天蓋のついているベッドにはビーレウストの他に眠りに落ちているカレンティンシスがいた。

 カレンティンシスが一人で眠っている時は、カーテンが閉められることはない。

 人が傍にいると眠ることのできないビーレウスト。
 カレンティンシスに「部屋に戻れといっておるじゃろうが!」と叱られつつ、暗闇のなかで本の頁をゆっくりと捲り、目覚めるのを待つ。
 暗闇の嫌いのカレンティンシス。
 ビーレウストが一緒にいるときは召使い達は日の出時間と同時に寝室のカーテンを開く。一人で眠っている時は最初からカーテンを閉めない。
 読んでいた箇所に栞をはさみ表紙を閉じ、あけゆく空をながめる。ゆっくりと白みゆく空と消えてゆく星々。
「……ん。貴様まだおったのか」
 とくに変わらない、変える必要もない朝。
「そうだな」
 月ではなく太陽と形容するのに相応しい容貌のカレンティンシスだが、寝起きの頼りなさげな雰囲気はやや月に似たような気配がある。
 その横顔を見ながら、
「月がきれいですね」
 ビーレウストは笑った。言われたカレンティンシスは窓に視線をむけ、空に月を捜すも、どこにもみあたらない。
「月がきれい? どこに月があるのじゃ?」
 布越しに窓の向こうを睨みながら、カレンティンシスは ”おかしな事を言う奴じゃ” と呟きを含んだ声で言い返した。
「今のは本当に月がきれいって意味じゃなくて ”私は貴方の事を愛しています” を ”月がきれいですね” と訳した奴がいたそうだ。もちろん月がきれいを愛していると理解するような文化はなかったが……」
「誤訳じゃろ」
 現実的で判断誤りを嫌うカレンティンシスは一刀両断に切り捨てる。
「そうも言えるな」
「儂ならばそんな意味の解らん翻訳がなされた文など、出版停止させるがの」
「あんたらしくていいや」
 ちなみにカレンティンシス以上に比喩が苦手なビーレウストの親友エーダリロクに聞かせたところ《全王領に意味を理解できるように周知放送かけてからじゃなけりゃ、出版許すつもりにはなれねえなあ》と返してよこした。
「なにを笑っておるのじゃ」
「いやあ……なんとなく」

※ ※ ※ ※ ※

 シュスタークは帝国宰相と共に仕事をしていた。
 元はほんとんど仕事をしていなかったシュスタークだが、最近は ”後継者のお手本” になるべく、謁見してやったり印を自らの手で押したりと中々に忙しい日々を過ごしている。
 帝国宰相が目を通した”許可してもよい書類”を読み、解らないところを脇に控えている帝国宰相配下の秘書官たちに聞き、納得してから許可をだす。
 ”えーとなになに。第50046次移民団派遣要項……”
 黙っていれば神々しく、悩めば理知的に見てもらえる得な容姿の持ち主シュスタークが、様々なことを考えながら書類に目を通していると伝令がやってきた。
「陛下、デキュゼーク親王大公殿下が面会許可をお求めです」
「デキュゼーク? 通せ」
 書類を裏返しにし未決の銀箱に戻して、執務机に肘をついて皇女の到着を待つ。
 扉が開かれまずはシュスタークの護衛である近衛兵達が配置につき、その後親王大公付きの近衛達が次々に膝をついて頭を下げる。
 《親王大公の紋章》 が入った盾を持った親王大公付きの女官長が静々と礼をして道を空け、帝国旗と軍旗が交差している下を親王大公が現れる。
 親王大公が皇帝の執務室を訪れる際の 《正式》 な手順。
 ”正式な訪問方法だが、面倒だな。余はしたことないから良く解らないが……”
 母であった皇帝とは正式な謁見をしたことがなく、親王大公時代がほぼなかったシュスタークは、受ける側ながら聞かされた時、あまりの煩雑さに驚いた。
(親王大公と皇太子では、訪問の際のやりとりが違う)
「父上……ではなく陛下、め、面会じゃなくてえっ……えっぇん……」
 噛んだ親王大公は泣きそうになった。
 必死に練習してきたのに噛んでしまって、悔しくて仕方ないとばかりに下唇を噛む。
「難しいことはよい。何時も通り話す許可を与えようぞ。ほら、普通に話すが良い」
 シュスタークの言葉に目を輝かせ、交差する旗の下から駆け出して足元に近寄り手を伸ばす。
 ”普通に話して良いと言いはしたものの、ここまで自由にして良いとは言っておらぬのだが”
 手を伸ばし「だっこ! だっこ!」と全身で訴える親王大公を見つめるシュスタークの眼差しは優しい。
「下がれ」
「御意」
 皇帝が執務中に娘を抱きかかえて話をするわけにもいかないが、シュスタークに娘の期待を拒否するなどできない。
 全員に下がるよう命じて、
「登ってきてよいぞ」
 自らの太股を叩く。
 膝下の長い足、それを覆う純白の衣に ”むんず” と足をかけて皇女は登り、太股の上に立って顔を近づけてお願いをする。
「あのですね父上、お月さまがみたいのです」
 登ってきた娘を抱き締める。
「月が見たい?」
 シュスタークは皇女に甘い。
 彼の場合は皇女や皇子にだけ甘いというわけではなく、ほぼ全ての者に対して甘いので然程問題ではないような……問題のような。
「観に行ってよいぞ。遠出も良かろう」
「違うのです、父上。違うのです。ナサニエルが言ってたの。お団子とススキ? あと果物を用意して、地上からきれいなお月さまをみるの」
 ”ナサニエル”は皇女の母である皇后付女官長メーバリベユ侯爵ナサニエルパウダのこと。
「? ……地上から月? え、いつでも観ることは可能のような」
 父と娘は上手に意思の疎通ができなかった。

 意思の疎通は上手くゆかなかったが、娘がなにかを望んでいることは解った。銀河を統べる皇帝は、未来の皇帝(候補だがほぼ確定状態)となる娘に、皇帝の権力がなんたるかを実際見せて教える必要もある……
「ある……などと難しいことを考えているわけではなく、父親として叶えてやりたいなと」
 のんびりと教育して ”余より皇帝らしくなったら良いな” 程度で考えていた。
「陛下らしいですわ」
 話をしている相手はメーバリベユ侯爵。皇女が「ナサニエルが言ってたの」だから、本人に聞くのがもっとも早かろうという妥当な判断だ。

※ ※ ※ ※ ※

 侯爵は夫のエーダリロクから「地球時代の古典で、月がきれいですね……の意味解るか?」たずねられた。もちろん彼女も解らず「ビーレウストが言ってたんだ」と教えてもらった。
 折角夫に教えてもらったのだからと、彼女は皇后ロガとの茶の時間に会話にのぼらせた。
「”あなたのことを愛しています” という意味なのだそうですよ」
「月がきれいですね……ですか」
「はい、月がきれいですね、だそうです。語尾は多少変わってもよろしいかと」
 そのような会話をしていたところに皇女がやってきた。
「月がどうしたの! 月がどうしたの!」
 今の話はまだ皇女には早いだろうということで、侯爵は「月見」について教えることにした。

 ―― 大量の食べ物に囲まれて月を観ること ――

 皇女は子供特有の”夜”に興味を持っていた。
 年に数度ある夜の式典に参加する際の非日常が大好き。だが皇女は「早寝・早起き」が生活習慣として組み込まれて、夜起きている事は滅多に許されない。話を聞いた皇女は「これで夜更かしができる!」と考えたらしく、父である皇帝に直々に願い出た……ということだった。
「月がきれいですね?」
「はい」
 それは簡単な説明であったが、シュスタークの胸に響いた。
「…………」
「どうなさいました? 陛下」
「余もロガに言いたいな……と。あの【月】でも良い物かな?」
 照れて顔を伏せ気味にして語る皇帝に、侯爵は微笑み、
「夫に依頼しましょう」
「え?」
「あの人は月くらい簡単に作りますわ。こういうのは ”情緒ある” 方がよろしいでしょう」
「そ、そうだな」
 ロガに愛を語るのなら、少しくらいは豪華にしても良いだろうとシュスタークは同意する。
「帝星近辺の空間を使用することになりますが、許可はいただけますか?」
「もちろんだ」

 皇帝シュスターク。彼の「少しくらい豪華」は、世間一般では「誰も真似できないほどの豪華」なのだが、当然気付いてはいない。

 ちなみに皇帝は毎朝毎晩、隣で眠っている皇后に 《愛しておるぞ》 は欠かしたことはない。今更とも思えるが皇帝としては、「たまに気の利いたことを言いたかったのだ」とのこと。何時も同じでは「飽きられてしまうのではないか?」 なのだそうだ。
―― 飽きるだなんて、そんなことないのに…… ――
 侯爵から報告を受けて、第三子の皇子を抱きながら、ロガは久しぶりに「困ったような」表情を浮かべた。
 皇后になりつつあるロガだが、時折見せる表情はまだ少女の名残がある。