私の名を呼ぶまで【82】

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[82]幸運,  ,大地で働く人

 妃に再婚したことは告げず、離婚していないと思わせたまま、挙式の話を振ったところ、
「拒否された」
「そりゃそうだろう、ヨアキム」
 リザの格好をしているベニートは「今頃言ったのか」とやや呆れた。
「レイチェルさまはどうした! と叫ばれた時のいたたまれなさと言ったら……」
 長い脚を組み直し、ヨアキムは溜息を吐き出す。
 近々、世間的には「愛しい妃」と結婚を控えている皇子にはとても思えない姿だ。
「終わったって言ったんでしょ?」
 ヨアキムはこのとき、妃に逃げられたら困るとばかりに事実を隠し、できる限り引き延ばした。この誠実とは言い難い態度により、妃の魂が強く反発し、納得できないまま挙式当日となった。
 不誠実な態度を取ったヨアキムは、それほど自覚がないことも原因の一つとも言える。
 妃の言い分はもっともなのだが、ヨアキムはそれを聞き入れるつもりはなかった。幸いというべきか、妃は王城から自力で逃げようとはしない。離婚に関してヨアキムを信用していたので逃げ道など模索していなかった。
 自意識過剰であったり、好奇心が旺盛であれば、逃げ道を探っていたことだろう。もっともラージュの王城に逃げ道は存在しない。
 この王城以上に安全な場所はないので、逃げ道など作る必要がないのだ。
 城そのものが呪われているので、危害くわえる ―― 例えば城に火をかけたり、投石で破壊しようとしたり、毒を流し込んだりされると、城そのものが反応して呪い返す。
 即効性の高い呪いで、石がぶつかった直後に石をぶつけた者の手が腐る。それ程の素早さで呪う。建物を内側から傷つけても同じことなので、逃げ道を探さなかった妃は賢い選択をしたともいえる。
 後宮は王城の一部、まともな精神と庶民の感覚があれば、まず傷つけるようなことはしない。

「お妃さまらしいね。ところで私に愚痴を言いに、わざわざ”ここ”へ来たの?」
 その妃が合意しないことなど分かっていたことだろうと、ベニートが笑う。
「違う。お前に確認したいことがあった」
「なに?」
「ベニート。お前、妃に手を出そうとしたそうだが、本当か?」
 妃は言うつもりはなかったのだが、自分がヨアキムの妃のままで大聖堂で結婚まで ―― となった時、思わず口を滑らせてしまった。
「うん」
 問われたベニートは”あ、そのこと”と、簡単に答えた。
「おま……」
「私が誘った時、お妃さまは独身だったから、ヨアキムには関係ないだろう」
 一時隔離した館にベニートは顔を出していた。
 ”行ったら大変なことになる”と言っていたのは本当のこと。だが弟のグラーノが妃に会ってお礼を言いたいというので、彼を連れて皇姉リザの誘いを上手くかわしながら、軽い気持ちで誘った。
「たしかにそうだが、どういうつもりだ?」
「ん? ヨアキム、処女嫌いかな? って思って」
「……」
 処女を除外して後宮に女を収めろといった手前、否定するのも虚しい。ベニートが妃が処女であることを知っているのは、彼が妃の身上調査をしたため。
 当人が言っていた通り、結婚する気配どころか、異性に対して好意を持ったこともない ―― という調査結果が出た。
 もっとも惚れた腫れた、食事も喉を通らない、夜も眠られないなどというのは金持ちだけの特権で、日々の仕事に追われている多くの者たちは、そんなことをしている暇などない。
「お妃さま、あの時はまだ自分はヨアキムの妃だと思っていたし……どう見てもあの目は”女装好きな男と寝るとか無理”と物語っていたね。瞳は実に雄弁だねえ」
 妃は単純に男がそれほど好きではない。格好良い男性を見ようとも、経済力がある男性を見ても、見るだけで終わる。
 そこに感情の起伏などない。正直興味がないのだ。だから妃はこのときだけは「ヨアキムの妃」という立場を使いベニートの申し出を断った。

 もちろん妃がベニートを拒否したのは、当人が語っている部分も多少は含まれている。

「ベニート」
 相変わらずの”過ぎる”悪戯にヨアキムは、いつも通り襟元を掴んで持ち上げる。
 男物とは違う、柔らかな絹がこすれる音、つま先立ちになり華奢……に見せかけてくれる靴の爪先がのぞく。
「ご、え……ごめって」
 ”これからお妃さま関連でヨアキムをからかえる”という気持ちを隠さず、苦しいながらも薄ら笑いを浮かべるベニート。
「ヨアキム! リザになにをしている!」
 そこへこの場の主が戻ってきた。

―― ところで私に愚痴を言いに、わざわざ”ここ”へ来たの? ――

 こことは、エドゥアルドの後宮。
 ヨアキムの側室リザは、エドゥアルドの妃となった。
 公職に就くために必要であった側室エリカは、二人のささやかな式に参列した後、信仰の道へと無事に進むことができた。
 彼女はヨアキムやエドゥアルドとの親交を持ち続ける。

 リザ妃と上手くいかない時にエドゥアルドが手紙を書いて助言を貰ったり、妃とどのように付き合ったらいいか? 分からなくなったときにヨアキムから手紙が来たりと、俗世の皇族から非常に頼りにされることとなった。

「……」
 ヨアキムはベニートから手を離し、女物の服の上から男物の服を無理矢理被せ、タオルに化粧落とし用のオイルを含ませて拭う。
「これはベニートだな? エドゥアルド」
「それはベニートだな……好きにしろ、ヨアキム」
 エドゥアルドは眉間に縦皺を寄せ、ベニートへの暴力的尋問再開を認めた。
「助けて……」

『エドゥアルド皇子は本当にヒースに似てるな。そしてベニート公子……助けて欲しいのなら、もう少し真剣な面持ちで……』

**********

『ヨアキム皇子』
「なんだ? クリスチャン」
『見せようと思っていたのだが、見せそびれていた映像があるんだ。見てくれるかい?』
「ああ」
 以前のノベラ仕様の「剣には見えません。置物にも見えません。使用目的が分かりません」剣から、ラージュ皇国の秘剣に相応しい形に姿を変えた。
 相応しいと言っても、ごく普通のシンプルな形になっただけ。人目を惹く装飾もばっちりと施されており、刃にはラージュ皇国の紋章も入っている。
 以前ヨアキムとエドゥアルドにリュディガーの映像を見せた青玉は、新しい形になった剣の根本に今も輝いている。
 その青玉を光らせ、白く広い壁にちょっとした映像を映し出した。
「これは?」
 見覚えのある通路。出口から差し込んでくる月光。
『虫……オルテンシアを殺した後の映像だ』
「……」
 オルテンシアの首を切り落としたところで、ヨアキムは意識を失い ―― その後、テオドラがやって来て助けてもらったと”妃から”聞いた。
 ヨアキムは自分が意識を失うと同時にテオドラがやって来たとばかり思っていたのだが、実際はそうではなかった。
 ヨアキムの腰にぶら下がっていたランタンを外し、虫と自分の境に油を撒き火をつけ、肩に手を回して必死にヨアキムを引きずって移動させようとする。
 意識を失ったヨアキムの体は重く、妃にはどうすることもできない。
 火が弱まり、照らされている妃の表情は焦り、ヨアキムの体の下に脚を入れて、ようやく持ち上げたスペースを維持したまま、手袋やショールを外し弱くなった火に投げてくべる。
 結局必死に動かそうとしたものの、妃はまったくヨアキムを移動させることはできなかった――
『ヨアキム皇子がお妃さまを選んだ理由は知らないが、私は正解だと思うよ。皇子もお妃さまも、相手を置いて逃げようとしないところが似ているようで、お似合いだと思うよ』
 妃は自分が救出にはまったく役に立たなかったので、助けようとしたことをわざわざ言わなかったのだ。
「……」
『お妃さまのこと、少しは気に入った?』
 ヨアキムはその問いに答えなかった。

**********

 テオドラから渡された「虹色に輝く石」
 これを火にくべると、死体は跡形もなく消えると説明されて渡された特別な石である。
 薪を積んで棺を乗せ火を付ける。燃える炎へヨアキムはその石を投げ入れた。火力が強くなることはなく、見た目も熱もそのままなのだが、棺は見る間に灰となってゆき、死体が燃え尽きたと同時に火が消えた。
 そこに小さな虹がかかり、蝶がその虹の下を潜り抜けてゆくと、次第に薄くなりそして消え去る。
 焼け残った薪が残っただけ。

 焼け跡を見つめヨアキムはテオドラと最後にかわした会話を反芻した。
 マティアスと共に見送り、最後は二人きりになり、
「呪解師テオドラ。あなたに聞きたいことがある」
「はい、なんでしょう?」
「ホロストープの火山で、リュシアンが言おうとして語れなかったことと、真実を知りたい」
 引っ掛かっていたことを尋ねた。
 テオドラは首を傾げ、ヨアキムを見上げてくる。
「……ああ、はい、はい。リュシアンがなにを言おうとしたのか? ですね」
 バルトロはテオドラは”金髪で赤い眼をしている”と言う。
「リュシアンが言おうとしたのは”あの一族はお前たちを裏切るために星術師に剣の達人にしてもらったんだ”と言おうとしました」
 ベニートはテオドラは”黒く長い髪で、灰色の瞳だ”と言った。
「実際はもちろん違います。裏切らないことを分かっていたから、星術で剣の達人にしてもらったのです」
 エドゥアルドはテオドラは”金髪で深紫色の瞳の持ち主”だと言う。
「なぜノベラに依頼したのか? 依頼したわけではありません。ノベラが自らやると言ったので任せたのです」
 妃はテオドラは”灰色の髪を後ろに一本にまとめ、この前買ってもらったピアスのエメラルドのように輝く緑の瞳をしている”と語った。
「真実ですか? 簡単です。クニヒティラ一族は一度たりとも裏切っていない。それだけです。お妃さまの魂と同じですよ。カレヴァ殿は最後までマティアス陛下を、そして故国ラージュを裏切ってはいなかったのです。やむを得ない理由で敵対しただけであって、本質は裏切っていない。裏切りと敵対は別物ですから」
 立ち去るテオドラにヨアキムは一礼をし、顔を上げた時にはもう姿はなかったが、驚きはしなかった。

 ヨアキムはテオドラはライトブラウンの髪に紫色の目に見えたが ―― それが正しいという自信はまったく無い。

「最後の説得を試みるとするか……」
 燃え残った薪を鞘で崩し、ヨアキムは後宮へと戻った。明日は説得されなかった妃と、説得しきれなかったヨアキムの挙式である。


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