PASTORAL −184

 自分の繰り出した拳が、こんなにゆっくりだとは思わなかった。
 目の前にいたゼンガルセンは、突然消えた。膝を折って身体を沈めてかわして、掌で俺の顎を捉えながら立ち上がった。ひっくり返りながら、それを理解した。
 背中から倒れる前にと、足を下ろそうとしたけれども、既に宙に浮いた足首は握られて身体が宙に浮いて、次に叩きつけられる。一体、何なんだ? 
「どうした? それで終わりか?」
 全く息の上がっていないゼンガルセンに、
「……はぁ……っ……」
「そうでなくてはな!」
 踏み込んで、着衣を捕まえた。
 殴る蹴るでは敵いそうにはない、だから服を掴んで身体を密着させて、力でねじ伏せようとしたんだが……さすが、エヴェドリット!
「この程度の力で、押さえつけられると思ったか!」
 頭突きされた瞬間に鼻と頬と目の奥の骨が、折れるというよりは粉々になった。自分でも解る……あ……眼球が……右眼球が外れて……
「ほぉ……貴様―――があるのか。―――など千年も前に完全に消え去ったと思ったのだが、貴様は本当に奴隷皇后に似ているのだな」
 熱と音が耳の奥を支配して、何を言っているのか聞こえない。何だ? 何を言ってる。
「な、なに? 今、なんと? 何が消え去ったと?」
 喉に落ちてくる血を吐き捨てながら、ゼンガルセンを左目で睨む。俺の言葉に、
「*神*だ。もしかして貴様、知らんのか?」
 両手を広げ、何かを答えた。
「げほっ!」
 それを聞き返す余裕もなければ、落ち着きも無い。
 勝てるわけが無い、この男に暴力でも権力でも勝てるわけがない!
「あの男、本当に甘いな! 貴様に教えておらんのだな。それとも貴様が取るに足らない相手なのか! どっちなのであろうな!」
 それでもな、
「うぉぉぉ!」
「いい声だ!」

 全く届かないんだ。……身長が足りないとかじゃなくて、どれほど手を伸ばして殴ろうとしても、蹴り飛ばそうとしても、

「楽しめる、だが弱い」
「がっ……ごぼっ……」
 床に叩きつけられるだけ。天賦の才ってのがこれ程までの物だって……悔しいけど、敵わない。
 何処もかしこも血が噴出して熱くて、意識が遠のきそうだ。
「まだ抵抗する気はあるか……ほう? まだ笑う余力はあるか?」
 俺は母さんの為だけに抵抗してるわけじゃない。ここで屈服したら、俺自身の存在が……屑で下衆で……価値ないものになってしまう。
 ちょっと前までなら、それも受け入れてただろう。歯食いしばって我慢したさ。でもそれは大人だからじゃなくて、悲しいかな自分が自分の事を嫌いだったから。
「当然だっ!」
 もう力のないに等しい手で、ゼンガルセンの顔を掴み指に力を込める。
「いいな! その諦めの悪さ!」
 言いながらゼンガルセンは顔を近づけてきて、唇に噛み付いて、そのまま引き剥がした。

 俺は何時の頃からか、自分のことが嫌いじゃなくなった。それは……

「何をしておる、リスカートーフォン公爵」
 紅蓮の髪を持つ皇帝。
 この人の傍に居るようになってから。
「お兄様! お兄様!」
 下唇が無くて喋り辛いけど……
「落ち着けエバカイン。治療してからゆっくりと話せ」
「ゼンガル……セ……あ」
「安心しろ、何も起こらぬから。早く治療してくるのだ、エバカイン」
「御意……」
 悔しいって言うより、無力さが憎い。
「大公殿下! 動かないでください! 早く用意しろ!」
 結局何も出来ないんだろうか……

************

「何、勝手なことを仕出かしたケネスセイラ」
「デバラン侯爵……」
「ナダ大公から聞いたぞ」
「あの私生児は」
「あの私生児が帝国騎士の能力を有している事など、このデバラン疾うの昔から知っておる。疾うと言っても、あの小僧が世に出て三年だがな」
「……」
「あの私生児は自由にしておいてやってこそ、サフォントに対し影響力を持てる。ここで私があの私生児を奪えば、あの “真祖の赤” を持つ大天才サフォントが本気で牙を剥いてくる。そうなれば厄介だ。お前如きには、あのサフォントを止められはせぬ。それにしてもクロトロリアの子にあれほどの天才が現れるとは」
「勝手をし、誠に申し訳ございませんでした」
「其の通りだ。貴様は私の意志を聞いてから動け。いつ貴様は自分の考えで行動する自由を与えられたのだ? 指示なければ動けぬ男は、黙って指示を仰げ。この馬鹿者が。下がれ、バレハンレザレロストに良く似た男め! 居るだけで腹立たしいわ!」

************

「大公殿下、お体は如何ですか?」
 負傷するのに必要だった時間は僅かだったが、治療するのにはそれの倍以上の時間がかかったらしい。
「…………」
「どこかに違和感でも?」
 俺が無言でいたら、周囲がざわめき出した。俺が無言なのは……ちょっと思うことがあるからだ。
「ラニアミア大公。身体は……動かしてみなければ何とも言えないが……なあ? ここにある治療器は元々は何処にあった? これは最初から……何て言うんだろう」
 何だろう? これに似た機器に入ったことがあるような気がする。
「これは、蘇生器です」
 円柱の中が液体で満たされている。そこに入れられて、色々なコードをつけられていたらしい。
「蘇生器? 私はそれほどの怪我を負っていたのか?」
 蘇生器って使用するとかなり高額だよね? 機動装甲の出力くらい必要な……そうか! これ、機動装甲の搭乗部≪カーサー≫に似ているんだ! 蘇生器って元々カーサーに簡単な治療装置をつけたところから始まったんだもんね! 多少怪我しても、攻撃の手を休めるな……ってことらしいが。
 これの開発は未だに帝国騎士本部の開発部門が独占してやってるんだろうなあ……
「はい。……それと、大公殿下は体質が少々変わってらっしゃるので、大事を取って蘇生器で。軍人であらせられる大公殿下はご存知でいらっしゃるでしょうが、蘇生器は元は軍用で、装置内部をバラーザダル液で満たします。通常ですと液を調合してストックしていたりはしないのですが、帝国騎士は何時いかなる時でも搭乗できるように最低限のバラーザダル液は保管されていますので、蘇生器を使わせていただきました」
 俺が聞きたいのはそういう事じゃなくて……蘇生器自体は昔からある。機動装甲の発達の歴史と平行しているものだから。
 でも[タイプ]は時代によって違う。
「なあ、このタイプは帝国騎士団では何時頃に開発され、試験的にでも何時頃から使用されていたんだ?」
 ラニアミア大公が他の医師達と顔を見合わせて、全員首を振って大急ぎで調べ始めた。
「遅くなって申し訳御座いません。このタイプが開発されたのは三十年ほど前で、二十年前頃から帝国騎士には使用されておりました。そこでの臨床試験を経て、五年ほど前に宮殿で使われる事が決まったものです」
「五年より以前は、帝国騎士の支配下にあった……ってことか?」
 俺はほとんど宮殿にはいなかったから、宮殿で見たわけじゃない。
「はい。空母には備え付けられてはおりましたが」
 それ以前に空母? 俺は戦争に行ったのもつい最近の一度だけ。当然負傷もしなかった……じゃあ、何処で俺はこれを「見た」んだ?
「何か問題でも?」
「いや……何も」


 俺は帝国騎士団本部なんて行ったことないよな


 そんな会話をしていたら、お兄様がおいでになられたので、俺は母さんの結婚についてお兄様に話した。
 話したけれど、母さんは母さんで既にゼンガルセン王子を受け入れることを決めたと、お兄様に告げたと聞かされた。それを聞いて徐々に俺は冷静になってきて……とんでもない事を仕出かしたことに気付いた。
 カッとなって殴りかかって……うわぁぁ……
「エバカイン、共に参れ」
「は、はい……」
 お兄様に、ゼンガルセン王子に対する謝罪方法を尋ねたいと思います……なんかもう……ごめんなさいです。理不尽でも階級が下の者が我慢するってのが、階級社会の処世術なのに……知ってた筈なのに……

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