PASTORAL −179

 サフォント帝はエバカインの元へ向かい、ゼンガルセンとエバカインの喧嘩にもならない一方的な殴り合いを制した。
 重体ではないが重傷を負ったエバカインの治療を命じ、サフォント帝はゼンガルセンと共にその場を後にした。ゼンガルセンは悪びれる様子もなくサフォント帝に従って歩く。
 皇帝の肖像画が飾られている回廊に入り、自分の父親であるクロトロリアの肖像画の前でサフォント帝は足を止めた。
 無表情のままそれを見上げるサフォント帝に、ゼンガルセンが声をかける。
「陛下」
「どうした公爵」
「あえてお前をレーザンファルティアーヌと呼ぼうか」
 そう言ってきたゼンガルセンに “良かろう” の意を込め、声を出さずに笑い返す。
「何だ、ゼンガルセン」
「お前、異母弟に教えておらんのだな」
 ゼンガルセンのその問いに、サフォント帝は頷く。
 [異母弟に教えていない]それは自分達の根幹。
「この事実は永遠に語らぬ」
 遅れて迎え入れられた “皇子” には語らないと “皇帝” は決めた。
 ゼンガルセンは公爵でいる間はその決定に逆らうことはない。
「それを我に教えていいのか? 我が黙って従うと思っているのか?」
 もしもエバカインが “真実” を知るとしたら、二つのルートがある。一つはゼンガルセンがサフォント帝を討った後にエバカインが生き延びている場合。もう一つは、
「教えねばなるまい。貴様がエバカインの母を妃とするのならば、そこから伝わる事を考慮せねばならぬしな」
 ゼンガルセンから事実を聞かされた母親・アレステレーゼの口から語られる場合。
 アレステレーゼは現段階では知らないが、知らされれば “息子も知っている事” と考え、それをもとに話をする可能性もある。
「アレステレーゼはただの下級貴族だ。だが、あの男は違う。あの男は間違いなく我々と同じところに属する――――――であろうが」
 暫し見詰め合うと、サフォント帝は腕を組み、問いただす。
「お前はエバカインの母に全てを語るのか」
「語る。そのエバカインの母の事だが、本当にエバカインの母にしてやると交換条件を出す。あの二人を親子にしろ」
 ゼンガルセンが皇君エバカインの義理の父になるにはこの方法しかない。
 ゼンガルセンはエバカインよりも僅かながら年下のため、直接的には養子にできない。
 帝国の法律では年長者を養子にする事はできない。だが、アレステレーゼはエバカインの本当の母親であり、当然相応の年であるので “養子” として “わが子” を迎えることができる。妻が結婚前に迎えた “養子” 故に、リスカートーフォン公爵家に携わる継承権が与えられる事もない。
「宮中伯妃の座に留めておいたのが災いしたか」
 それと、宮中伯妃は養子を得られる地位でもあった。
 “宮中伯妃” は “宮中伯妃” という爵位。この爵位は字を見ても解るとおり “妃” 所謂 “女性” に与えられる称号であり、それを継承できるのは当然ながら “女性” のみ。
 今養子に迎えるのは “男性” であるエバカイン。
 即ち、この養子縁組では何の権利もエバカインには継承されない。ただ、戸籍上「親子」となるだけ。
「もとより継承させる気がなかったのだから、仕方あるまい」
 だがその、何の権利も財産も相続できない、唯の親子という繋がり。それが二人には何にも変えがたい関係であった。
「宮中伯妃はその条件で妻となるかな」
「なるだろう。例え、息子の頭をかち割った男と同じ顔であっても」
 ゼンガルセンの自信の根底は、サフォント帝にもわかっていた。
 二人の殴り合いの理由、それはアレステレーゼに関すること。エバカインはゼンガルセンに試されたのだ、どれ程まで母親を大事に思っているかを。
 養子にして母親を人質とし自分の意のままに動かせるかどうか? を調べる為にもゼンガルセンはエバカインに重傷を負わせるほどの “試し” を行った。それは、エバカインとアレステレーゼにとって不幸かもしれないが、合格であった。
 エバカインは母親を人質に取られれば “ある程度” ゼンガルセンの意思に従うことを、エバカイン自身が証明してしまった。
 その証明を打ち立てたゼンガルセンは、アレスレテーゼを完全に手中に収めることに決めた。嘗て、自分とよく似た叔父がアレステレーゼの目の前でエバカインを殺したことを知りながらも。
「調べたか」
 その事に遂に到達したゼンガルセンに、サフォント帝は薄い笑いを浮かべて返す。
 それは特別隠していたことではない。エバカインという名の人間に誰も興味を持っておらず、誰も調べようとはしなかった。ただそれだけのこと。
「シャタイアスが調べた」
「使える男であろう」
「ああ。あの男は使える。王の第一子に生まれ無かった事が悔やまれるほどに」
「余もそう思う」
「だから、あの男を使っていいのはあの男以上の者だけ」
「それがお前だと? ゼンガルセン」

「そう、我とお前だけだ、レーザンファルティアーヌ」

 “お前だけが我の相手よ” そう笑うゼンガルセンを前に、サフォント帝は “皇帝として” 告げた。
「ゼンガルセン」
「何だ、レーザンファルティアーヌ?」
「ゼンガルセン、必ずやアレステレーゼを “母” にしろ。そして、エバカインから皇位に繋がる道を完全に遮断せよ」
 母にしろ、即ち子を成せ。
 “皇子” の “実の母親” が再婚し、別の男の子を生めば “皇子” から皇位継承権は完全に消え去る。
 エバカインは正式な皇位継承権を持っていないが、他の皇王族よりも高い地位にある皇族。その特例的な立場は、再び特例を生み易い。
「お前の望みはそれか」
「そうだ」
「確かにいいな。それは確かにいいだろうな。我には関係のない事だが」
「何れ解る事であろう、貴様の後継者が誕生すれば」
 サフォント帝がエバカインを心の安らぎにしているのは、何よりエバカインが自分の敵ではない事にある。
 サフォント帝にとって最大の敵は「実子」
 ゼンガルセンは敵ではあるが、敵とはっきりと口にして良い。だが実子、要するに後継者となれば敵と口にしてはならない。自らの後継者として帝国を維持できる能力を皇帝自らの手で持たせてやらねばなない。
 皇太子にそれ相応の知識と能力と力を与える。野心のあるものならば、皇帝の座を得ようと戦いを挑んでくることもあるであろうし、皇太子の親が皇帝ではなく実子に早く皇位を継がせたいと殺そうとすることもある。
 そうであったとしても、皇帝は後継者とその親を敵であると公然と口にするわけにはいかない。
 誰かが娘の心に入り込み父である自分に害心を抱かせるように暗躍することも考慮せねばならない。サフォント帝にとってザーデリアは可愛い娘であると同時に、ゼンガルセン級の敵でもある。
 今までは娘一人を見守っておけば良かったが、これからは三人の妃とその子達にも目を配らねばならなくなる。
 そのまだ生まれてはいない「わが子」の母、それは潜在的な敵。
 政略結婚だから敵となるのではなく、皇帝の妻ゆえに敵なのだ。相応の家柄の王女で、皇帝の子を多数産み、その子が剰え有能であれば、皇帝は褒めながらもその才能と人望を妬まぬようにして、それでいて警戒しなくてはならない。それを警戒する時、わが子とその母親の二人を警戒せねばならない事、サフォント帝は知っている。
 何せ彼女達は王女、実家の権力を強める為には邪魔とあらば皇帝を殺害する方向に傾くこともは、過去にしばしば見られた。
「レーザンファルティアーヌよ、我は解らぬ。我等に子孫を残すという本能はない。我等の本能は唯破壊のみ、ただ殺すのみ。犯す暇があったら殺せ」
 だがエバカインは違う。
 彼はサフォント帝に忠実で、サフォント帝の子を身ごもることもない。エバカインはどれ程自分が愛しても、決して子を産むことはなく、子を産まないことを誰も責めない。当然のこととして扱う。
 それがサフォント帝にとって何よりも気安かった。
 サフォント帝はエバカインの寝顔を見ながら、思うことが度々ある。
 “エバカインが女であったらどうしたであろうか?”
 何度も思いはするが、答えは昔から出ていた。
 答えは……


 遠くから礼をし、エバカインの治療が終わった報告を持って上がった従者に解ったと返し、
「そうであったな。さて、余は治療が終わったエバカインの元へ行く。ではなリスカートーフォン公爵」
 ゼンガルセンにそう告げて去っていった。その背を見送りながら、ゼンガルセンは頭を下げた。
「それでは失礼いたします、サフォント陛下」


 答えは昔から出ていた。
 答えは……妃としては迎え入れなかった。それはエバカインの地位や生家の問題もあるが、何よりエバカインに自らの敵を生ませたくはない故に。
 だが自らの敵となる「実子」がいなければ、唯でさえ地位の低いエバカインは身の置き場がない。昔とは違い、妃や夫となったからと言ってまったく仕事をせずに後宮だけにいるわけではない。軍人として戦場の赴くものもあれば、政治の中枢で活躍するものもある。だが、どれ程の功績をあげようとも皇帝の配偶者である以上、親王大公の親にならねば認められない。
 男女であれば、それは絶対のこと。
 それにエバカインだけに子を儲け、その子を慈しんで優しく育てる事も可能だが、残念がらそのような子は皇帝にはなれない。
 他の妃を蔑ろにした時点で、その子は既に敵を大量に作ることになる。サフォント帝の母であったリーネッシュボウワのように生家や後宮に多大な権力を持っているのなら、他の妃に子を作らない事も可能だろうが、エバカインにはそれもない。


 自らの愛情がエバカインを窮地に陥れることはあっても、全てを解決する事はない、その事をサフォント帝は良く知っていた。
 愛情如きでこの帝国の全てに立ち向かえるなど、考えたこともない。それが帝国というものの本質だとサフォント帝は誰よりもよく理解している。


 治療を終えたエバカインが居る部屋へと入ると、医療用スモックを着て呆けて座っていた。
「エバカイン、傷は治ったようだな」
 サフォント帝が声をかけると同時に、エバカインは駆け寄ってきて頭を下げて懇願する。
「陛下! 陛下! お願いがあります!」
「どうした?」
 サフォント帝は聞かずとも解っていたが、黙ってその訴えを聞いた。
「母と……リスカートーフォン公爵の結婚を、許可……なさらないで、いただきたい」
「エバカイン、それはそなたの母の決定に叛くこととなるが良いのか。そなたとゼンガルセンが乱闘をする前にその意思を受け取っておったのだが」
「……」
「エバカイン、そなたは純真にして母を思う心が篤い。それは良いことだが、ゼンガルセンはそれを試したのだ」
「ため……した?」
 下げていた頭を上げ、唇を振るわせる。
「ゼンガルセンがそなたの母、エミリファルネ宮中伯妃を妻に迎える理由。それは宮中伯妃の息子が皇君であるからに他ならない。皇君となった息子が母親であった女性をどのように思っているかを知りたいが為にやったことだ。性質は悪く、そして結果も悪かろう。そなたにとってエミリファルネ宮中伯妃は何物にも代えがたい相手だと証明してしまった」
「あ、あの……」
「サフォントの皇君であるそなたが誰よりも大事にしている女性、その価値は計り知れぬ、そうゼンガルセンは見た。皇族とは王族とはそういうものだ」
「母さんのこと……そんな……」
「エバカインよ。冷たいようだが、エミリファルネ宮中伯妃とゼンガルセンの婚姻、余は認めようと思っておる。宮中伯妃本人の意思もあるが、そなた、これからレオロとその類縁を自分の力で裁きにかけると申したであろう。その最中、宮中伯妃が奴等から害される可能性もある。無論、余とてそなたの母を見捨てることはないが、余には手を出せぬ相手がおる。牽制はするが、レオロ共がそこに助けを求めたとしたら厄介なことになるであろう。それに対し、ゼンガルセンはそのような制約はない」
「で、でも……」
「だがそなたがそれ程までに嫌うのであらば、余が白紙としようではないか」
 サフォント帝がこのように言ってくれた以上、本当に白紙に戻してくれるだろう事は解る。
 だがエバカインは愚かではない。
 唯でさえ緊迫している皇帝がリスカートーフォン公爵の関係悪化を招きかねないことを依頼すること、そして今サフォント帝が言ったとおり皇王族に類縁を持つレオロ侯爵と事を構えるとなれば、母の身が危険にさらされる可能性があることも。
 『デバラン侯爵ってのは、お前が言ったとおり四十二代皇帝の帝妃だった方だ。だが、この方が後宮の実質的な権力者でもある。陛下はあの通りのすばらしいお方でいらっしゃるから、この侯爵の専横をコントロールしてなんとか被害が拡大しないようにしているが、お前の……そのクロトロリア帝の頃は、目茶苦茶だったって聞くぜ。デバラン侯爵の意見の方が通るけれど、建前上は皇帝を立てなきゃならんから命令系統は混乱ばかりだったって。ただ、陛下も何とか管理なさってくださってはいるが、後宮内の権力はまだ侯爵のほうが強いらしい。陛下も中々立場的に大変な所があるらしいぞ。外戚のケシュマリスタ王は頼りにならんし、母后は既になく、現時点では御后もいらっしゃらないし、ゼンガルセン王子とはしのぎを削ってる。お前も後宮でこれから生活するなら、あまり目を付けられんようにしたほうがいいぜ。特にお前は陛下が御一存で強引に皇族にしてくださったんだ。デバラン侯爵に話を通しもしなかったらしいから、面白くないと思っている可能性もある』
 サフォント帝が貸してくれた皇帝の旗艦でサベルス男爵が語ってくれた後宮の実情。
 エバカインが今までのように、何もせずに他の者にレオロ侯爵のことを依頼して終われば宮中伯妃は狙われることもないだろう。
 だが、エバカインはそれで終わるつもりはない。野心などではなく、皇帝に仕える家臣として、また高位の立場にあるものとして普通の立場の者では手も出せない犯罪者を見つけ出し裁きの場に引き出す。それが皇族に迎え入れてくれたサフォント帝に対する自分なりの恩返しであり、またこの立場におかれた以上避けては通れない道だと考えていた。
 ただ、エバカインには身内を攻撃するという考えがなかった。言われてみればそれは当然のことなのだが、エバカイン自身がそのような物の考え方をする人間ではないので、簡単に思いつく事はできなかった。
 既に戸籍上では別人となっている宮中伯妃。だが、感情では永遠に親子。
 母を人質に取られれば、エバカインは自分が強く出られないことも解る。この先皇王族を相手にするとなると、危険は増す。

 ゼンガルセン王子には何の制約もない。そして何よりも強い
 
 それらを考えて、エバカインは言葉を撤回した。
 母は幸せになれないかもしれないが、それでも安全に生きていて欲しいと息子は願った。そしてそれを叶えてくれそうな者の一人が、ゼンガルセン。
「いいえ……母がそのように申していたのでしたら……出過ぎた真似を……陛下の……」
 頭を再び下げたエバカインを優しく見つめ、
「エバカイン、着替えよ。そして付いてくるが良い」
 着替えるように命じ、サフォント帝はエバカインを連れてゴンドラを遊ばせている運河へと向い、そこでサフォント帝は皇帝としては珍しいプロポーズを行った

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