ALMOND GWALIOR −45
 ザウディンダルが目を覚ますと、隣には既にデウデシオンの姿はなかった。
 居たであろう場所を手の平で触ると、僅かながら温かみが残っていたので、もしかしたらまだ部屋に居るのではないかと、勢いよく起き上がろうとする。その瞬間、体中の筋肉が四方に引っ張られるような痛みを感じ、声すら上げられずベッドに落下するように伏す。
 それでも早く起きようと、ザウディンダルは呼吸を整えて、ゆっくりと身体を起こし素足で床に下りた。
 床に触れた足の裏から上ってくる冷たさと先ほどの痛みを抱えながら、身体を引きずるようにして出入り口に続く隣の部屋へ向かおうと歩いていると、その隣の部屋ではなくテラス側の方から怒鳴り声が聞こえてきた。
 ザウディンダルも知った声だが、彼がそれ程怒鳴っている声を聞いたことは今まで一度もなかった。
『さすがに兄弟だから似てるな……兄貴の怒鳴り声にそっくりだ……』
 怒鳴っている弟の声のするほうへと、身体の重みを全て足に乗せるような重たい歩きで進んで行く。
「……ですから!」
 ザウディンダルが思ったとおり、怒鳴っているのは弟のバロシアン。怒鳴られている相手は、
「お前が怒る必要はない」
 この屋敷の主であるデウデシオン。
 朝食の乗ったテーブルを叩きながら、才能があると評判の末子は帝国の重鎮である帝国宰相に食って掛かっている。
「そんなことはありません!」
 朝の光を浴びて光を乱反射させているグラスや銀のスプーン類。薄いレモン色のテーブルクロス、そしてテーブルの中心にある陶器の篭にふんだんに盛られた苺の赤さ。
 そのテーブルを挟んで言い争う二人と、それを宥めようとしている執事服を着た初老も幾分か過ぎた男。そこに作られている世界を見て、ザウディンダルは一瞬息を飲んだ。何故息を飲んだのかは本人にもわからなかった。
 無理矢理理由をつけるとしたら、部外者の “焦り”
 この場にいる執事をも含めた四人のなかで、ザウディンダル一人だけが部外者であるように本人が強く感じた。
「…………」
 足の裏から体中に広がる冷たさと、声をかけようにも動けない自分。
 怒鳴りあいを眺めていたザウディンダルに、
「目が覚めたのか、ザウディンダル」
 デウデシオンが気付き近寄ってくる。兄が近寄ってくると、気が抜けたザウディンダルはその腕の中に倒れ込んだ。
「あ、ああ……おはよ……」
「おはよう御座います、ザウディンダル兄。すみません、怒鳴り声で起こしてしまいましたか?」
 恐縮そうな声を上げて、バロシアンは寝室へと戻り羽織るものを持って来た。
 薄く柔らかい、部屋着の上に羽織る略式のマントは、部屋の主の香りがするのだが、その主の腕の中にいるザウディンダルにはそれは解らなかった。
 執務服に着替えているデウデシオンの座った膝の上に置かれながら、その柔らかい肌触りのいいマントを指先でなぞり、
「いや、怒鳴り声は聞こえなかった……から気にすんなよ」
 テーブルにある水の入っているコップに手を伸ばそうとする。
 すると脇に控えていた執事が新しい水の入ったコップをデウデシオンに差し出す。受け取ったデウデシオンはそれを一口含み、
「もう少し温めろ」
「畏まりました」
 指示を出す。
「冷たいのが……」
「冷えているのは身体に悪いとの事だ。痛みが引くまで冷たいものは禁止だ。水といえども厳禁だということ覚えておけ。口に入れるものを自分で選ぶな、必ず私や執事を通せ。良いな」
「は、はい」
 デウデシオンが再び受け取り、これで良いだろうと温かさを舌と喉で確かめてからザウディンダルに渡す。その水を飲みながら、何事もなかったかのように朝食を再開した二人の顔を見比べていた。
「ところで兄貴、もう直ぐ式典始まるんじゃねえの?」
「もう始まっているぞ。目が見えなくなったのか? それとも時間を理解できないほど錯乱しているのか? 医者を」
「もう式典始まってる時間なのかよ? 知らなかっ……」
「ばか者が! お前に式典のタイムスケジュールは渡しておるだろうが! 暗記しておけとあれ程重ねて言っていたのに、お前と言う奴は!」
「帝国宰相、落ち着いてくださいませ。ザウディンダル兄は痛みで混乱しているのですよ。ねっ! ねっ!」
 先ほどまで帝国宰相に食って掛かっていた弟が、今度は怒り出した帝国宰相を宥める側に回る。
 その後、何時ものように眉間に縦皺を刻んだデウデシオンが、食後に飲むコーヒーのカップを指で弾きながら、
「陛下のお言葉に従うまでだ。私は式典の最中は一度も陛下にお会いしない。四大公爵を通して正式な通達が出された以上、それに従うしかあるまい」
 ザウディンダルの我侭は、あっさりと通ってしまい一大事になっていた。
「…………ごめんなさい!」
 デウデシオンの膝の上で首をすくめながら、顔を手で隠すザウディンダルに、
「変な力を身体に込めるな。唯でさえ痛みが……ほら、もう少し緊張を解せ」
「帝国宰相は怒ってはいませんよ、安心してくださいザウディンダル兄。それにしても、帝国宰相がどれほどレビュラ公爵を怒っているかが解るワンシーンですね」
 同じく食後のコーヒーを飲んでいるバロシアンが、年長者のように二人に声をかける。
「私は寝室で執務をする。ゆっくりと休むがいい」
「う……うん!」
「ただ、あの四人が帰還した際に少々話があるから出向く、その間は何もせずに大人しく待っておるのだぞ! ザウディンダル」
 膝の上に乗せて、包み込むようにして抱えている[女]でもある弟にかけるには、あまりに厳しい言い方に、
「その状態なのですから、もう少し優しげにお話してもいいような気がするのですけれどもねえ。そうは思いませんか? ダグルフェルド」
 バロシアンは側に控えている、デウデシオンの屋敷の “執事の一人” に笑いを浮かべながら同意を求め、その執事も視線を外しながら軽く頷く。兄の膝の上で事態の重さと、兄が一緒に居るという事実に、その執事らしからぬ態度にザウディンダルは気付かなかったが。


「ライハ公爵殿下、セゼナード公爵殿下、イデスア公爵殿下、ガルディゼロ侯爵閣下が到着なさりました」


 ザウディンダルが喉に強い痛みを感じながらやっとコップ一杯の水を飲み干した頃、奴隷居住区から四人が帰還した。その報告を受け、デウデシオンは膝に乗せていたザウディンダルを抱きかかえると、クッションとブランケットを用意しておいたソファーにザウディンダルを置き、
「少々話をしてくるからな、ザウディンダル。後のことは任せた、ダグルフェルド子爵」
「畏まりました閣下」
「ではな。行くぞ、バロシアン」
 バロシアンを連れて部屋を出て行った。
 扉が閉まった音を聞き終えた後、ダグルフェルド子爵という執事が近寄ってきて、ザウディンダルにブランケットをかけ、ショールを羽織わせる。
「お体の調子は如何でしょうか? レビュラ公爵閣下」
 二人が去った後 “初めて見た執事” を上から下まで何度も無遠慮に睨むようにザウディンダルは見た。
「痛えけど……」
 二人が居なくなった空間にいるこの執事が、何となく引っかかるのだ。
 執事の方はと言えば、その視線など全く気にせずに、彼の仕事を続ける。
「何かお飲みになられますか?」
 痛みから、まだ暫く固形物は口に出来ない事を聞かされている執事がそのように話しかけるが、
「……あのな!」
「はい、何で御座いましょうか? レビュラ公爵閣下」
「さっき、何でバロシアンは騒いでたんだよ」
 ザウディンダルは、食事よりもそちらの方が気になっていた。
 十四人もいる兄弟の中で、バロシアンは大人しい方に分類される。末子気質なのか? それとも戸籍にも正確に載っていない『父親』の気質のせいなのかは解らないが、同じように育った兄達に比べて彼は大人しい。
 気が強いのとは違うが、誰にでも攻撃性を露わにして身を守るザウディンダルにしてみれば、随分とのんびりとした弟だと思っていたのだが、あの弟達を統べるデウデシオンに食って掛かる一面をも持っていることを知り興味を持った。
 訊ねられたダグルフェルド子爵は、
「私の娘の結婚が破談になったことに関してです」
 直ぐに答える。
 あまりにあっさりと、そして全く[ザウディンダルの中]で繋がらない単体の事実に、もっと深くまで訊ねようとするが、
「は? ……っ……」
 乾いた喉と舌が上手く回らない。
「何か飲まれた方がよろしいかと。カフェオレでよろしいでしょうか? それとも、ミントティーがよろしいでしょうか? 少しでも食欲がありましたら、オニオンスープなどはどうでしょう?」
「……あんた、なんで」
 自分の好きな物を羅列され、怪訝な表情で執事を見上げるが、
「私は、帝国宰相閣下の執事です。帝国宰相閣下の弟方が好まれる味は全て熟知しておりますよ」
 “当たり前です” といった雰囲気に頭を下げられ、それ以上言葉が繋がらなかった。
「オニオンスープがいい」
「直ぐにお持ちいたしますので」
 執事が下がった後、
「でも何で執事の娘の結婚が破談になった事で、バロシアンが兄貴に突っかかるんだ?」


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