ハーフェズの主、将来を気遣われる

 神の子であるラズワルドが王都で危険に晒されることはないが、その養父であるメフラーブは今回の事件に巻き込まれたため、若干の危険があった。
 普通は神の子の養父を害するような不届き者はいないのだが、今回の犯罪は信仰を踏みにじる行為。こういった行為ができる輩は、おおよそ人がしないであろう行動を取る可能性がある。
 それを阻止するためには一目で神の子であると分かる人物が、剣を腰に佩き通うのが二番であった。最善はもちろんこの神の子が住まう宮にメフラーブや乳母奴隷ごと連れて来ることだが、それはメフラーブ側が望まない限りはできないので、二番目の策を取ることになった。

「この私塾、かなり難しいようですが。十一歳のわたしで大丈夫でしょうか」

 マーカーンから渡された書類に目を通しながら、ヤーシャールが不安を口にする。

「ある程度、授業内容は選べるそうだ」

 十五歳で頭脳も明晰なファリドが通わないのは、統括する立場にあり忙しいので、町に出ている時間がないのだ。
 もう一人神の息子で十五歳の武装神官シアーマクがいるのだが、彼は好戦的なので街中で見守り兼護衛などという任務には向かないので除外された。

「そうですか……」

 ヤーシャールは任務そのものには不満はないのだが、自分と一歳違いの神の息子ジャムシドに目を向ける。
 ジャムシドは温厚な性格で、暴力沙汰を嫌う性質の持ち主である。彼のほうが余程適任ではないかと考えたのだが、ジャムシドが選ばれない理由があった。

「こっちを見ないでくれヤーシャール。たしかに俺はお前の一つ年上でファリドのように忙しくはないが、この通りの鍛えてもひ弱だ。下町でなにか揉めごとがあった際に、下手をしたら死んでしまう自信がある」

 ジャムシドは魔物を屠る力を持ち合わせていないので、武装神官ではなくただの神官として神殿付きとして神聖なる場所を守っている。
 神の息子は一応自分の身を守れるくらいに武術の稽古は受けるのだが、彼は自身が言う通り、暴力沙汰は大の苦手であった。
 生来の気質もそうだが、武術の才能がからきしで、早々にそちらの稽古を止めて、神官職一筋に絞っていた。
 何度も言うが神の子である彼が暴力を振るわれることはまず・・ない ―― 偶に酔った異国人が無礼を働きかけることもあるが、彼らを守る武装神官たちが排除する。
 だが今回は私塾に通うことになるまでの経緯から、武装神官を引き連れず単身で通うことになる。
 私塾は下町にあり、下町にはメルカルト神に帰属していない異国人が大勢居る。彼らは下町でペルセアの芳醇なる葡萄酒を楽しみ、時には酒精に飲まれて理性を失い暴れる。それに遭遇した際、ジャムシドはどうするか?
 自らが襲われたのならば逃げるが、高潔な精神を持ち合わせているジャムシドは、力ない民が襲われていたら、勝てないと分かっていても逃げるという選択肢はない。
 また彼は額の文様が小さめで「神官とは格好で分かるが、ぱっと見ただの神官にしか見えない」という、暴力に対する弱点もあった。
 武門の生まれのヤーシャールは、その血に恥じぬ強さを持ち、十一歳ながらそこらのごろつきであれば、十人くらい簡単に切り捨てられる技量を既に持ち合わせている。
 文様もファリド同様、額を完全に覆い隠すどころか、頭頂部にまで及び一目で神の息子と分かる出で立ちであった。ちなみにヤーシャールの容姿だが、ファリドのような清浄ながら妖艶といった雰囲気とは違い、誰が見ても卑しからぬ貴公子然としたものである。

「死んでしまう自信とは、どんな自信ですか、ジャムシド。でもまあ……ホスローは?」

 ホスローはヤーシャールの二歳年上の十三歳の武装神官。
 メルカルトの文様はジャムシドより少し大きい ―― メフラーブの両親たちが一般的だと思う大きさの文様が額の中央にあり、ヤーシャールには及ばないがそれなりの武門の出で、剣の腕も乗馬の技術も悪くはない。性格も穏やかで真面目、勉学を好む神の息子である。

「最初は俺たちもホスローを考えたのだが、ウルクから早馬が来てな。エスファンデル殿下とお妃の間に男児が生まれたので、バナフシェフとホスローを交代させることにした」
「分かりました。……私塾というのも楽しそうですしね」

 授業についていけるかどうか、一抹の不安を感じているヤーシャール。本来は身辺警護目的なので、真面目に授業を受ける必要はないのだが、そこは彼の生来の真面目さから、やるからには本気で取り組まねばと ―― メフラーブについての調査報告書を真剣に読み込む。
 その隣に座っていた「好戦的なので最初から除外された」シアーマクが、葡萄酒が入った杯を口にしながら、その書類をのぞき込む。

「どうだ? ヤーシャール」

 ヤーシャールの背中を強く叩いた。

「なかなかに変わり者の御仁らしい」

 ヤーシャールは間違った部分に打ち消し線の引かれた、メフラーブについての調査情報が書かれている書類をシアーマクに見せる。

「この打ち消し線は……ああ、逮捕時の報告書か。ほとんど打ち消し線で消されているではないか。これは調査報告書ではなく、妄想を書き綴りましたといったほうが正しかろう」
「全て同意する。ここに書かれていて正しいのは、メフラーブという名前。黒みがかった茶色の頭髪に黒い瞳。背は高めでやや痩せ気味。子供の頃から優秀で、学術院を辞めた方が開いた私塾に通い、そのまま私塾を受け継いだ。私塾は大人向けで、代書も行う。錬金術師だがなにを研究しているのかは不明。ペルセア語と薫絹語、ヘレネス語にラティーナ語の読み書きが可能。古代ペルセア語も読めるらしい。書かれていることで正しいのはこの程度だな」
「一枚で足りよう……頭脳だけでみれば邪術の使い手として申し分はないが、邪術のような俗世に関わる術を求めるようなお人ではなかろうに」

 邪術に手を染める人間は漏れなく自尊心が実力よりも遙かに高く、自分が見えておらず、自分を認めぬ人間に逆恨みをする ―― 人間社会において、認めて欲しくて邪な術を用いるようになるのだが、メフラーブはそれとは真逆の人生を楽しげに送っている人物であった。

 メフラーブへの謝罪とヤーシャールの一応入塾を装った警護の方針が決まり、ホスローの旅の安全と再会を祈願し、杯をかわす。
 その後ホスローはこの場に来られなかった神の子たちに、明日旅立つことを告げるために会いに行き、他の者たちは部屋に戻るなり、やり残した仕事を片付けるなりするために部屋を後にし、最後にファリドとアルダヴァーンが残った。
 アルダヴァーンがファリドの杯に葡萄酒を注ぐ。

「ところでファリド。明日メフラーブ殿に届ける書類だ。目を通してくれないか」
「分かりました。どれ」

 葡萄酒が注がれた硝子杯に口を付けてから、アルダヴァーンが差し出した書類を手に取り視線を落とす。その表情は美しいの一言につきる。
 太陽の日差しのような金髪に、神の子特有の金が散りばめられた群青の瞳を持つ、どう見ても男の顔だちなのだが、何故か誰もがその姿を薔薇にたとえてしまう華やかさと儚さと幻想的な雰囲気があった ―― 眉毛の上から頭頂部少し過ぎた所までと、こめかみの辺りまでメルカルトの青い紋章が覆っていること、神官服が青いということもあり「青き薔薇の君」と呼ばれることもしばしば。無論それがファリド本人の耳に入ると、機嫌を著しく損ねることになるのだが、あまりにも似合っているため、言われ続けている。

「ふむ。間違いはないと思いますよ」
「そうか」
「ですが、主犯格の一人、武装神官第三部隊隊長の処罰が書かれていません」

 第三部隊隊長は陰茎、睾丸、陰嚢全てを切除する、もっとも重い宮刑に処され、現在は手厚い看護を受けている ―― 生き残った彼は、見えない犯罪者の烙印の元、生きてゆくことになる。

「その報告書は、十年後にラズワルドに読ませる予定なのだ。十歳の娘に宮刑の詳細は読ませるものではないと省いた」
「そうですか。……たしかに。では処罰は口頭でお伝えするのですか」
「そうするつもりだ」
「異論はございませんよ、アルダヴァーン」
「第三部隊隊長の免職に伴い、人事異動が行われ、第三部隊副隊長にジャバードが就くことになった。隊長は退役間近のお方だから、実質ジャバードが隊長になるのだろう」

 ジャバードはファリドの乳兄弟で、同い年の十五歳。武術の腕は確かな少年。なによりファリドに心酔しており、今回のような事件を起こす危険性は極めて低い。

「ジャバードが、ですか」
「いずれ将軍になる男だ」

 もっともファリドが神に背けば、破滅への道でも喜んで共にするであろうが、ファリドには無縁のこと。

「そうですね。では祝いの言葉の一つでもかけにいってきます」
「ジャバードによろしく言っておいてくれ、ファリド」
「分かりました」

 さきほどの杯を空にしたファリドは髪をかき上げてから立ち上がり、部屋を出ていった。最後に一人残ったアルダヴァーンは空の杯を手に持ち揺らし、月明かりが青い大理石の床に落とした透かし彫りの壁の影をしばし眺めてから部屋へと戻った。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 季節は冬。時刻は夜。気温は水が凍り付く温度よりも下がっている。ファリドは純白の毛皮の外套に袖を通し、体を覆う大きさの金糸で縁取りされた白いシルクを被り宝石が縫い付けられた帽子を被って、冬使用の内側が毛皮張りの馬車に従者三名と共に乗り込み、武装神官団の宿舎へと向かった。
 宿舎前には中心部に躍動感溢れる獅子の彫刻が設置されている巨大な噴水がある。
 噴水は夏場は水を並々とたたえているいるが、今は水が止められている。
 武装神官団の宿舎は三棟あり石造りの六階建て。
 左棟は士官や将軍の住居。彼ら高級士官は下層階に住んでおり、上層階は彼らの付き人の部屋になっている。
 中棟は下層階に食堂や厩などがあり、中層階は士官達の執務室で、上層階は雑務を処理する武官たちが詰めている。
 右棟は武装神官隊員たちの宿舎。隊員は一部屋六人で、これがそのまま小隊の編成となる。

 馬車が宿舎前到着し、ファリドは従者二人と共に降りた。
 夜空は雲に覆われており、青白い明かりをもたらしてくれる筈の月は、その姿を見せてはくれなかった。
 宿舎前に立つ衛兵たちは、ファリドに敬礼して門を開ける。

「さて……今はどちらでしょうね」

 ジャバードは副隊長となれば左棟に住まうのだが、まだ正式発表されていないので右棟にいる可能性もある。
 結局ファリドは右棟を選び、勝手知ったる宿舎を突き進みジャバードの部屋の扉を開けた。

「ファリド公」
「当たってよかった。聞いたぞジャバード、副隊長に就任するそうだな。おめでとう」

 左棟ならば夜間、艶めかしい来客はあるものの、右棟は夜間の来客は許されてはいない。だが神の子となれば別である。
 いきなりやってきた、国王以上に尊ばれる存在だが ―― ファリドは何度かジャバードの元をこうして訪れていたこともあるので、同室の者たちは素早く礼をして、彼らが話し始めるとすぐに素知らぬふりをして過ごす。
 ベッドを椅子代わりにして並んで座り、二人の会話は続いた。

「……ところで頼みがあるのだが」
「なんだ? ファリド公」
「後日ラズワルドの顔を見に行きたいのだが、その際一緒に来てくれないか」
「喜んで。そう言えば、ラズワルド公の乳兄弟の父親は、ネジド公国のサラミスだと聞いたが」

 ネジド公国はペルセア王国の西側に位置する小国。ペルセア王国とアンチオキア王国に挟まれているが緩衝国として独立を保ってる。
 その小さな国の重要人物の一人がサラミス。
 国の中央に関わらない自由気ままな錬金術師メフラーブは、その名を聞いたところで首を傾げるだけだが、ファリドやジャバードのような立場にいる者は、名を聞けば彼の容姿が思い浮かび、経歴も簡単ながら覚えている有名な人物であった。

「半年ほど前に帰国した、あの御仁ですか。ラズワルドの乳兄弟、父親に似ていたら、お前の後を継いで武装神官団団長になるかもしれませんね」

 サラミスは武人として有名で、ナュスファハーンに滞在していた時、何度かペルセアの軍人と手合わせして、その技量の高さを発揮していた。

「先代宰相たる祖父に似たら、やり手の政治家になるかもしれないが」

 サラミスは元々はペルセア王国の東側のサータヴァーハナ王国の宰相家の生まれ。先代宰相の後妻の子で、現在宰相に就いている兄とは親子ほどの年齢差があり ―― 諸々の事情で故郷を出て軍人奴隷となり、その才をネジド公国の公王に買われ重鎮として迎えられている。

「なるほど。もしかしたら両方に似るかもしれませんね。……おや、消灯時間も過ぎてしまったな。悪い」

 ファリドはベッドから立ち上がり、同室の者に声を掛けて部屋を出た。
 消灯時間が過ぎているのだがジャバードはファリドを見送るため、部屋を出た。玄関前には雪をうっすら被った馬車が待機している。

「ファリド公」

 ジャバードはファリドを抱きしめる。

「ジャバード」

 抱きしめられたファリドも抱き返す。

「ファリド公。愛している」

 やや声を低めてそう言い、ファリドを抱きしめている腕に微かに力を込めると、ファリドも同じだけ力を込めて抱き返し答える。

「もちろんわたしも愛しているよ、ジャバード」

 返ってくるファリドの声は軽やか。
 十五年間一緒にいるジャバードとファリド、両者の「愛している」の意味は五年も前から違うものになっている。
 周囲はジャバードの感情を知っているものが大勢おり、ジャバードも隠しはしないのだが、ファリドは気付かない。そして誰もファリドにそれを伝えない。
 ファリドは神の子である。
 神の子は額が青く、銀で神の意匠が刻まれている。それは死ぬ時に消えることもある。だがそれ以外にも消えることがある ―― 性交渉を行うと文様は消え、魔を絶対に防ぐ力も消えてしまう。
 神の子にも個人差があり、性交渉に興味を持つ者もいれば、全く興味を持たない者もいる。
 ファリドは後者 ――
 

「新しい部屋は一人部屋だ。気軽に遊びに来てくれ、ファリド公」
「ああ。ジャバードも気軽にわたしの部屋へ来るといい。昔のように一緒に寝よう」
「……ああ」

 馬車に乗り込んだファリドを見送ってから、ジャバードは部屋へと戻った。