水精姫の選択

【12】

 ハイデマリーはパルヴィの部屋の前で、さきほど訪れた際にほどこした細工を確認する。
 歳月を経た古い木材と鉄でできた扉に、それに潜むことができる自分の黒髪を引き抜き蜂蜜で張り付け、扉が開いた場合はわかるようにしておいた。
「はずれていないな」
 封をはずして注意深くハイデマリーは扉を引く。室内から聞こえてくるイリアの寝息。
 陰になりベッドの中にいるのが本当にイリアなのかまでは見てとれなかったため、足音を消して近づいていった。
 異形を狩る彼女にとって眠っている侍女に気取られぬように近づくなど、造作もないこと。
「間違いなく侍女だ」
 薄手の毛布をゆっくりと持ち上げ、隠れていた顔の下半分を確認する。
 次に床に頬を押しつけてベッドの足にも施した封を確認する。ベッドを押すのを手伝ってから隙をついてほどこした、こちらの髪での封もはずれてはいなかった。
 室内に充満する蜂蜜の匂いをごまかすためにイリアに差し入れた蜂蜜を塗った焼き菓子。
 窓の下に備え付けられている棚の上に乗せられている籠に入っていた菓子は一つも手がついていなかった。―― 姫さまと一緒に食べます ――
 赤茶けた髪を二つ結いにしている、そばかすが目立つ侍女イリア。
「義理堅いというべきか、主と同じものを食べるとは不届き者と言うべきか」
 考えながらハイデマリーはイリアを起こさぬように部屋を出て、再度封をほどこして見張りに誰も出入りしなかったかを確認し、朝まで注意深く見張るようにと指示を出すと、ジークベルトに言われたとおりヴォルフラムの元へと急いだ。

◇◇◇◇◇

「こちらです」
 衛士に案内され歩いているパルヴィを視界にとらえたジークベルトは、さきほど会った時には感じなかった異質な力に遭遇することになる。
 その異質な力は初対面ではない。魔人には馴染み深い異形のもの。

―― あのときは確かに……だが、それほど注意深く探ることもしなかった

 ふらふらと歩くパルヴィのを今度は「狩る相手」として見る。
 ジークベルトは剣を止められるように勢いを加減して振り下ろしたが、剣は止める必要もなくはじきとばされた。
 剣を持っていた手に伝わる振動に、ジークベルトは剣を握りなおして今度は歩いているパルヴィに届かない範囲を確認し、力を込めて振り下ろした。だが結果は先ほどと同じではじき返される。
「人間の力とは……ハイデマリー?」
 ふらふらと歩いているパルヴィの通った道をなぞるかのようにハイデマリーが近づいてくる。
「ヴォルフラムのところへ行きなさいと言ったでしょう!」
 得体の知れない力に近付いてきたハイデマリーに早く遠ざかれと指示を出すのだが、彼女は唇を噛み苦い表情で自分がきた道を指さして、ここにやって来た説明をした。
「王女の部屋から最短距離で親父の元へ向かおうとしたら、王女が意識せずに通った道になった」
「ということは……」
「ビヨルクの王女は親父を捜しているか、もしくは城を流れている水路に水精として反応しているかのどちらかだ」
 この先には湯につかりハイデマリーが用意した女と楽しんでいるヴォルフラムがいる。
「彼女は水精なのか?」
「パルヴィ! 聞こえているか? ビヨルク・パルヴィ! ……声は聞こえないようだな」
 着心地のいいネグリジェが片方の肩からずりおち、女性らしさのない胸があらわになっている。その格好に気付く素振りもなければ、ハイデマリーの声に反応もない。
「ヴォルフラムのところに先回りしますか?」
「私が向かう。お前はパルヴィと一緒にきてくれ」
 ハイデマリーは自分よりも強いジークベルト手がでないのを見ていたので、パルヴィに剣を振り下ろすような無駄なことはしなかった。
「わかりました」
 片手に剣を持ち、もう片方の手は無意識のうちに下腹部を守るようになっている自分に気付くこともなくハイデマリーは急いだ。

 湯と共にあたりを濡らしている血を見ても、ハイデマリーは驚かなかった。父親というよりはヴォルフラムという魔人を知っている彼女にとって、これも驚くに値はしないこと。
「親父」
 息絶えている女と、息絶えようとしている女たちを無視し、ハイデマリーは浴びた返り血をそのままにしているヴォルフラムに話かける。
「王妃さまがそんな言葉使いするもんじゃないぞ、ハイデマリー」
 女たちは殺される可能性が高いことを知りながらも、それぞれの野心や事情によりやってきた。どの女も美しく魅惑的な体をしていたが、ヴォルフラムの心を動かすことができず殺害されてしまった。
「わかった。それでな親父、ビヨルクの王女が部屋を抜け出してこっちに向かっている」
「なんでまた」
「まったく分からん。ここに来るまでの間、ビヨルクの王女は寝ぼけて歩いたりしたか?」
「そんなことはなかったな。鼾もかかなけりゃ、寝言も言わない、鼻もつまっちゃいない、静かな寝息だけだった」
 タオルを掴み腰に巻き、ジークベルトの叫び声が聞こえてくるほうに視線を向ける。
「そのお姫さまが、扉も開けずに部屋から出て、ふらふらと歩き回っている。ジークベルトの剣戟も届かない」
「そりゃすごい。あの娘は魔女だったのかい?」
「魔女が進入できない部屋に通したんだから、魔女だったとしても抜け出すのは不可能だ。あの部屋から不思議な力を使って抜け出ることができるとしたら……エルフにも匹敵するんじゃないのか?」
 ヴォルフラムは濡れて顔に掛かる長い髪をかき上げて、それは違うと娘に告げた。

「エルフじゃあ無理だ。抜け出せるとしたら、イトフィルカだけだ」

◇◇◇◇◇

「フリーデリケ、頼むぞ」
「はい。必ずやヴォルフラムさまを足止めしておきますので」
 栗毛の馬に跨った背中に大剣を担いでいる、癖の強い髪を短く切った女性は胸を手で打つ。
「無理はするな、フリーデリケ。あの男は義理娘であろうとも簡単に切って捨てる男だ。なあ、そうだろう? イトフィルカ」
 男は馬十頭でなければ引くことのできない、重罪人を運ぶために設えられた鉄製の護送馬車に乗っている”イトフィリカ”に同意を求めた。
「私がその問いに答える必要はないだろう、幼子よ」

◇◇◇◇◇

 何者かに操られでもしているかのように、覚束ない足取りでヴォルフラムに近付いてくるパルヴィ。
 平行して歩いていたジークベルトは「魔人」としては経験が桁違いのヴォルフラムに尋ねる。
「どう思います?」
「さあ。たしかにエルフに近いものは感じるな。見た目は水精なのに力はエルフ、だが人間……か。それで目を覚まさないのか?」
「何度も呼びかけましたが反応はありませんでした」
「具体的にどうすりゃいいんだ?」
 操られでもしているのかふらふらと城内を歩き回り、呼びかけても返事をしない。ジークベルトが本気を出しても見えない力で弾き、体に衝撃を与えることもできない。
「具体的にですか……あなたあの魔力を切ることできますか?」
 息絶え絶えであった女が断末の吐息に恨みを込めて吐き出したが、その音に二人は気付いていなかった。命じられればなんでも出来る男と、その男に命じることのできる王。
「やってみないことにはな」
 ヴォルフラムはハイデマリーに剣を貸せとばかりに手を伸ばす。
 幅の広い厚みのある赤みがかった剣をその手に渡して、彼女は少しその場から下がり、間に入るようにジークベルトが立つ。
「どんな形でもいいので止めてください。結果が死でも構いはしません」
「了承した」
 パルヴィの行動は不可解だが、解明するよりは安全を確保するべきだとジークベルトは判断した。
 王の意思に従いヴォルフラムはパルヴィの前に立つ。
「よお、パルヴィ。子どもは寝る時間だぞ」
 最後通告を兼ねて血濡れで剣を持っている男が出すような声とは思えない優しげな口調で話しかけた。
「……公爵閣下? どうして私はここ……きゃあああ!」
 パルヴィはその声に意識を取り戻し、血濡れたヴォルフラムを見て悲鳴を上げて気を失った。ヴォルフラムの伸ばした手は簡単にパルヴィを捕らえることができ、血がしたたる床に崩れ落ちることは避けられた。
「血を見て気を失ったようですね」
 ジークベルトも近付きパルヴィに触れてみる。先程までは近づけなかったのだが、いまは簡単に触れることができる。呆気ない幕切れに呆然としているジークベルトと、声を押し殺して笑いながらパルヴィを抱き上げるヴォルフラム。
「そりゃびっくりだ。血を見て気を失う女なんて初めて見たぜ」
 抱くのに剣は邪魔だろうとジークベルトが受け取り、少し離れたところにいるハイデマリーに投げて渡した。
「王女をどうします?」
「俺が預かる」
「それが良いでしょうね。後片付けはいいですから、部屋に戻ってください。それと」
「まだなにかあるのか?」
「魔女たちのところにその王女を連れて行くときは、私も同行しますから」