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混凝土(コンクリート)棺・7 - 少年残像≪後編≫
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「リオンテ」
「申し訳ございませんでした、メーバリベユ侯爵」
 リオンテの側に近寄った侯爵は手袋を脱ぎ彼女の頬を軽く叩き、再び手袋をはめて、
「恥を知りなさい」
 はっきりと言いきる。
「……」
 それ程強く叩かれたわけではないリオンテだが、反射的に頬を押さえて侯爵を見つめる。
「何故叩かれたか、理解できていないようねリオンテ」
「メーバリベユ侯爵……本当に申し訳ございませんでした」
 床に膝をつき土下座するリオンテだが、彼女の謝罪は侯爵にとって謝罪にはならなかった。
「貴方が謝るのは私に対してではありません。セゼナード公爵殿下に対してです」
「……」
「リオンテ、貴方は公爵殿下に仕えて十年を越えているのでしょう? それでいながら、何故公爵殿下を信じないのですか」
 侯爵が気分を害したのは、過去の自分に対する悪戯では済ませられない行動ではなく、今の彼女の決断。
「王子を……」
「僭主に関して公爵殿下に報告することが貴方の使命。ある貴方が私を沼に突き落としたことなど、その報告の中では些細なことであり公爵殿下は笑って済ませられたでしょう。公爵殿下が貴方が幼き日に未熟な嫉妬により起こした大事にならなかった事件で解雇するような人だと? 貴方は私を突き落とした程度で解雇される程度の部下なのですか? なによりも公爵殿下は貴方の十年以上の忠誠を無視して捨ててしまうような方なのですか? 貴方は公爵殿下をどのような方だと思って仕えてきたの? 秘密をばらされるのが嫌で僭主に魂を売った男に従った? それも一面では正しいでしょうが、貴方は貴方の中にある “王子” しか見ていない。公爵殿下は貴方が考えているよりもずっと大きな方ですよ」
 リオンテは “四人の正妃候補の中で美貌は好意的に見てやっても四番目だが、迫力と気品は文句なしに一番だ” と帝国宰相にも言われた女性を見上げる。
「侯爵……」
「貴方は王子を愛しているのでしょう。私も公爵殿下を愛しています。だから言い切れます、貴方の愛している王子と私の愛している公爵殿下は違います。私は私の愛している公爵殿下が正しいとは言いませんが、少なくとも貴方が思っている王子よりは正しいとここで言い切ります。公爵殿下は貴方を許します、だから全てを自らの口で語ってきなさい。それが私に対しての謝罪です。今すぐに王子に謝罪してきなさい」
 リオンテが立ち去ったあと、侯爵は椅子に座り手袋を新しい物に取り替える。
 その際に脇にいた部下が差し出がましい口をきく。
「リオンテ・フィレンギラの処罰はいかがなさいますか?」
 彼女にとっては当然の事だったが、侯爵にとっては看過できない発言であった。
「お前は何を考えてそんな発言をしているの?」
「あ……え……」
「リオンテ・フィレンギラはセゼナード公爵殿下の部下、それに対しての処罰を私が決めるですって? 貴方のような人が権力者と結婚したら、夫の権力を自分も使えると勘違いして越権行為を行なうのでしょうね。私は私の権限を知っている、よってリオンテ・フィレンギラに対して何の処罰も望まない。ロヴィニア王子の直属の部下を処罰する権利は、ロヴィニア王子の妃であってもない! 王子の権利と妃の権利は別の物! 一つ勉強になったかしら?」
 侯爵は見事にロヴィニア王の期待に応えた。
 ロヴィニア王が皇帝の正妃候補を選ぶ際に重要視したのは、権力を判断できるか否か。皇帝の正妃が皇帝と同等に近い権力を使えると勘違いすることは、ロヴィニア王家としては存亡に関わる。皇帝に近付き過ぎていると見られている二代続けての外戚王家から出した ”王族外” 正妃が、越権行為を働くことは破滅に繋がりかねない。
 侯爵はその点の判断力に優れ、誘惑に耐えうる意思の強さを持っていた。
「申し訳ございませんでした!」
 その後お茶の用意をさせて全ての者を下がらせ、彼女はテーブルに肘をつき窓の外を眺める。
「部下を躾けるのも主の仕事ですからね。それにしても、ライバルを自分で増やしてしまって……私としたことが」


 今頃謝罪しているであろうリオンテが本当の王子に触れられることと、ますます彼女がエーダリロクに魅せられてしまうだろうという思いを胸に秘めながらメーバリベユ侯爵は目を閉じた。


 未だ犯罪者扱いのリオンテは、警備つきでエーダリロクの部屋へとやってきた。エーダリロクはその警備を全て下げて二人だけになる。椅子に座っていたエーダリロクは立ち上がり、片手に書類を持ちリオンテの元へと近づいてゆく。
 図案化された鈴蘭の手袋がをはめた手がリオンテの頬にむかって伸びる。
「あの……公爵妃に言われて、その……」
「俺、ずっと前から知ってた」
 もう片方の手に持っていた書類を床に投げ捨てる。
「えっ!」
「お前がメーバリベユ侯爵を沼に突き落としたの知ってた。正確に言うと見たから俺は沼に身を沈めてメーバリベユ侯爵を助けた」
 エーダリロクはリオンテが侯爵を沼に突き落としたことを知っていた。大事に至らないで終わった、些細な出来事。エーダリロクにとってはそんな出来事だったが、事件を起こした女がそれを気に病み、それを黙ってみていただけの卑怯な男が、さらに卑怯に脅しの材料に使うとは思いもしなかった。
「王子……」
「お前の目にゃあ見えなかったんだろうな、そしてシーゼルバイアの目にも映らなかったらしい。お前がやったことだから、俺は謝らなかったし言いもしなかった。お前がメーバリベユ侯爵に謝るなら謝れば良いだろうって思ってな」
 突き落としたリオンテは悪い。だが見ていたのならば止めさせるべきであり、悪いことだと理解していたのならばエーダリロクに指示を仰ぐべきであった。
 ただ黙ってそれを見ていて、証拠映像を撮り、のちに脅しの材料に使う。あの時エーダリロクが側にいたから侯爵は無事だったが、報告書には “シーゼルバイアはナサニエルパウダ妃を助けるつもりは一切なかった” と書かれている。
「……」
 そう彼は後の取引材料になる証拠を掴んだことに満足し、助けるつもりなど全く無かった。
 シーゼルバイアは言うだろう “あの時リオンテが侯爵を突き落とさなければ、リオンテを使おうとは思わなかった” と。だがそれは誰も信じない。彼は卑怯であり、愚劣なのだ。たとえリオンテが侯爵を沼に突き落とさなくとも彼はなんらかの “王子” には知られたくない情報を持ちリオンテを自由にしただろう。
「悪かった」
 床に投げられた報告書に視線を落としているリオンテにエーダリロクは頭を下げる。
「王子? 頭を下げないでください! なんで王子が?」
「当時の俺はそう思った。だが今なら違うとはっきりと言える、部下であるお前の行為を当時の侯女に詫びお前にも謝罪させた、人を導く立場の者としてそうしなくてはならなかったのだ。当時の俺の判断の間違いだ、人の上に立つ人間でありながら判断を誤った。これを謝罪せずに何を謝罪しようか。許してくれとは言わない、言ってしまったらお前は俺を許すしかないからな。あの日の俺の判断の誤り、それを覚えていてくれ」
 “大事にならなかった”
 それがエーダリロクの判断だった。だがその場で大事には至らない小さな出来事が、大きなことに繋がることまでは考えが及ばなかった。
 多くの者は考えが及ぶことはない、だがそこまで世界を読めなくては支配者ではいられない。小さな判断と決断の間違いが、人に罪を犯させ人を傷つける。その全てに責任を負う、それが《彼》の考える王子であり、王族。
「……王子」
「重大なる過ちを犯した私をまだ王子と呼んでくれるか。まだ蒼生として私を王子と仰いでくれるか? お前を正しく導くことのできなかった私を」
 かつて地球にあった月と良く似た銀の輝きを持つ真直ぐな髪と、瞼を閉じるたびに星が瞬くような光をみせる睫、その奥にある蒼と翠の瞳。鋭い眼差しの奥にある何かは優しさよりも、狂気を孕んでいるかのような恐ろしさがあった。だがその恐ろしさは支配者としての威厳を人々に与える。
「許してください。貴方の部下でありながら貴方の信じられずにあの男に従ったことを。貴方を信じられたなら……私を蒼生と呼んでくださいますか」
 優しさだけでは決して君臨できない世界に、確かに立ち支配した男の血を色濃く引く王子はリオンテの手を握り笑う。
「私が王子でなくなったとしても、お前たちは私にとって蒼生だ。忘れるな、私はお前たちを愛している」
 王子の笑顔にリオンテは泣きたいのを我慢する。王子は決して自分を個人として愛さないことをはっきりと言い、自分はそれに答えた。好きになってはいけない相手ではなく、王子は自分を個人としては愛さないこと、それを受け入れた自分に彼女はまだ胸のうちに残る王子への愛情が痛み、それは涙を誘う。
 シーゼルバイアに抱かれ、およそ自分で汚されたと諦めた相手の視線が自分の胸をかき乱す。
「リオンテ、もう一度主と部下としてやり直したいが、良いか?」
「あの、でも私を部下にしていては公爵妃に悪いと」
「何故だ?」
 かき乱された胸のうちは、嵐が去ろうとしていた。王子はリオンテの問いに不思議そうに言い返した後に、疑問を解くようにそして納得してもらえるように説明を始めた。
「……」
「お前は私の部下だ。私の失態を許してくれた部下を私は守るし、公爵妃は私の部下に口を出す権利はない。なによりも妃は部下を悪し様に罵るような女ではない」
 王子個人に対する自分の愛情は、王子の信頼する妃によって鎮められた。
「もう一度チャンスをいただけますか」
 リオンテは公爵妃を脳裏に描き、その描いた顔が彼女の輪郭に先ほどの言葉を蘇らせる。
「ああ、今度何かあったら私に言え、お前が正しければ私は前を助ける。お前が間違っていたら正しい道へと導く、だから部下になれ」
 それはかつて内乱を平定した男そのもののように見えた。


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