73

 血は流れるというよりは、落ちた。
 噴出すのではなく、地に落ちていった。
「陛下、お元気で」
 抱きかかえた体は既に力なく、それでも最後の言葉を紡いだ。
「インバルト!」
 焦点が合わない瞳だが、その瞳から涙が零れるような事はなかった。素晴しいと評するしかない表情を浮かべて
「ラディ……」
 最後の言葉は途切れ“去った”
 泣いたり喚いたり痛がってくれれば良かったものを。
 俺が処刑した皇族達は皆、泣いて縋って命乞いをし、喚いて死んだというのに。私が殺さなかった最後の一人は、笑顔を浮かべて穏やかに。
 流れ出した血を集める事も、傷口を押さえる事も何もできなかった俺の隣で、インバルトを殺した男は
「インバルトボルグ・オブ・ハイゼルバイアセルスの死を持って、ハイゼルバイアセルス王国の “終焉” を宣言する」
 高らかな支配宣言をした。国中に放映されていた映像、そしてその宣言。
 クレスターク=ジルニオン十六世の声がインバルトを抱きかかえている俺の頭上から降り注ぐ。
 そして言いながら男は剣を投げ、転がっていたハイゼルバイアセルス王国の紋章が入った剣を粉々にする。刀身は白く柄は朱色と蒼で彩られていたその剣はいとも簡単に砕かれた。
 その硬く砕ける音が響き渡った時、空には別の星も現れはじめる。
 インバルトをかき抱いている俺の目から、涙一つ零れない。息をしなくなった体に何も感じる事もなかった。
 冷えてしまった汗が頬に纏わり付かせる赤い髪を取り除く。
 インバルトの重みと周囲に流れ出した血の匂いだけが、これが現実に起こった事だと俺に教えてくれていた。
 ただインバルトが死んだと、その実感が湧く前に
「寄越せ」
 ジルニオンは俺の腕の中からインバルトを取り上げた。
「これは我が国のモノだ」
 力ずくで奪い去られた真紅の娘に手を伸ばしたが、蹴り飛ばされ、転がる。
「っ……っ」
 息が止まる程の激痛に、ジルニオンを見上げる事しかできなかった。見上げたジルニオンは、正しく『勝者の顔』をして、
「我らが勝利、確かにもらってゆく」
 インバルトを抱きかかえたまま俺に背を向けて、去っていった。立ち上がり追いかけようとしたが、骨が折れたのか満足に立ち上がる事もできない。這うように進んだが、そのうち向こう側から走ってきたハーフポートに止められる。
「あの男を追えば殺されます! 皇后陛下のご遺志を無駄にするな!」
 ハーフポートとアグスティンに止められ、あいつらが去っていくのを唯黙ってみるだけだった。通路に消えて行った赤、藍に染まる空。
 死ねば骸だ、肉の塊だ、腐るだけであって、それに何の価値もない。
 だが……な……
 アレだけは返して欲しかった、アレだけは返して欲しかった。
「もう一度だけで良い、もう一度だけでいいから……会わせてくれ」!
 会ってどうするのだと、ただの死んだその体に、呼びかけても何も返すことのないその身に、会ってどうするのか。
「インバルト……」
 たった一人、ハイゼルバイアセルスの名を継いだ娘。私がその名を継がせてしまった娘。私の……妻だった……
「……もう一度だけ……」


『どうぞ末永くお元気で』


 王国は滅亡した。インバルトボルグの国はインバルトボルグと共に滅亡した……かに思えたのだが。
 エヴェドリット王国は、インバルトに最高の礼葬を施した。あの男は、インバルトに対してエヴェドリット準国葬を行った。気位の高い国が、滅びた国の娘の為に。
「インバルトボルグ陛下の棺を?」
 リドリーは批難の声を上げたが、それを阻止する力は我々には残っていない。
「勝利の旗印として、持っていくのだそうだ」
 ジルニオンはことの外、インバルトを気に入ったらしく……あの王は、正々堂々と戦った者にはそれ相応の栄誉を与えると聞いてはいたが、これ程までとは思わなかった。
 インバルトはジルニオンにとっても特に素晴しかったようで、ハイゼルバイアセルス王国はインバルトボルグ地区と名称が変えられた。
 エヴェドリット王国に征服され、かつての支配階級の名が残ったのはこの国だけ。
 そしてあれはエヴェドリット王国の旗印となった。皇帝の勝利と呼ばれ、征服軍の旗艦に設えられた一室に祭られた。
 ジルニオンは “我らが勝利” 兵士にそう呼ばれる棺を持って彼等は次の征服国へと向かっていった。我が国の多くの民が徴兵にしたがったのは、あれを持って行ったからに他ならない。
 残された我等は、征く国王と大元帥、そして “皇帝の勝利” を見送る。その後、私はジルニオンが征服した国の一つ “ターセン地区” の統治を任され、この地区を去る事となった。
 何故かこの地区を去る時、見送りが多数いた。『お元気で!』口々に叫ばれ、首を傾げるしかなかった。

*


 我々はインバルトボルグの死体に処理を施し、棺の中に収めて “それ”を 持って次の征服国へと向かった。

「インバルトォォ!」
 遠くから聞こえる声が木霊する、裏寂れたラベラント国立競技場の通路。
 私は彼等の横を通り過ぎて、ジルニオンの後を追った。追う……と言うほどでもないが。
「エバカイン、準備は出来てるか?」
「もちろん。今日中に死体の処理は終わる。明日には返してやれるだろう」
 我等の秘密を消してしまえば、この遺体は返してやる事ができる。だが、
「持っていく」
「返さないのか?」
「ああ、持っていく。……気に入った」
 言いながら、抱きかかえているインバルトボルグに口付けようとしたジルニオンの鎖骨に剣を水平にあてる。無論刃をジルニオンに向けて。
「駄目か?」
「ジルニオン。何故ラディスラーオを蹴った? 全国民の前で“あの状態”でラディスラーオを蹴ろうものならば、どうなるか?」
 ジルニオンは笑いながら私があてている剣に身体を押し付けてくる。鎖骨の辺りが軽く切れた。
「あの状態で、バックステップするのも格好悪いだろ?」
 格好は悪くても恨まれはしないだろう。そして……
「ジルニオン。初日に皇后の部屋に行ったのは何故だ? お前はダンドローバー公の想い人には興味はなかったはずだ。皇后インバルトボルグ、ハイゼルバイアセルス最後の王女に何を “問いただしに” 行った? そして何を聞いてきた?」
 ジルニオンは笑いながら私の口に噛み付いた。

− 秘密ですよ
『この手紙の内容お解かりになります? 母が祖父帝に見せ総督を助けたものですの。ジルニオンでしたら解るかと思いまして』
『俺の事はジオで良いぜ。それでこの手紙の内容な……』
−秘密にしておきな

 全く言う気はないようだ……構いはしない……想像はつくからな。
 血が流れる口に噛み付いた後、互いに唇に残った血を舌で舐めながら歩き出す。
「なあ? エバカイン」
「どうした?」
 我等 “人殺しのエヴェドリット” 故に、
「格好良かっただろ」
 それを否定する事はない。
「改めて聞く程の事でもなかろうが」
 お前が戦争である以上、私はお前に従う。

 今ジルニオンの腕の中で眠っているインバルトボルグは、生前に一度だけ全国放送で発言をした。決闘する日の午前中に。我々が制圧下においた、この国の放送用衛星のテストを兼ねてのことであったが。
 「話されますか?」尋ねたら、コクリと頷いた。「緊張しますわ」と言いながら、彼女は語った。

『初めまして、みなさん。エバーハルト・オブ・ハイゼルバイアセルスの娘、インバルトボルグ・オブ・ハイゼルバイアセルスです
みなさんにこうやって話しかけるのは初めてで……そして最後です
……たくさんの事を語りたい気持ちで一杯ですが……全てを語る時間はありません
ですが、これだけは言わせてください。この国を守れなかった私を許してくれとは申しませんが、私に代わって此処までこの国を守ってくださったあの人、ラディスラーオは悪く言わないでください
八年間私の代わりにこの国を守ってくれたラディスラーオを……よろしくお願いします。私の代わりにラディスラーオをこの先、よろしくお願いします』

 彼女の望みどおり、ハイゼルバイアセルス国民はラディスラーオを糾弾する事はなかった。
 それどころか、これまで通りに彼にこの地区を治めて欲しいとまで言い出した。「王国で最も嫌われている男」はその名を返上してしまったらしい。
 もっとも、その地位はジルニオンが引き継いだわけだが。
 そして『かつて −インバルトボルグ− と呼ばれていた赤い髪の女性の棺』こと『皇帝の勝利』の傍に行きたいと、多くの者が軍役に志願してきた。
 それを狙わなかったとは言わない、兵士を手に入れるために、従わせる為に使わなかったとは言わない。この棺を守る為に、彼等が志願してくるのを狙っていた。それは否定しない。
 白い服を着せて、白い布の上に横たえられたインバルトボルグは穏やかな笑みを浮かべたまま眠っている。
 その後の戦争にはずっと連れて行った、ジルニオンは喜んでその棺を乗せた旗艦を率いて戦った。

だが今回は乗せていない、もう「ジルニオンの旗艦」に「皇帝の勝利」を乗せることはない。今度から「皇帝の勝利」は私の旗艦が引き継ぐ事になった。

 私の膝の上に横になり、全身に管を通し薬を取り込んでいるジルニオンが、虚ろな目を開いてふと思い出したように言った。
「エバ。インバルトをあれに返したかったら返していいぞ」
「今更返しようがないだろう。皇帝の勝利と呼ばれる棺。今や我が国の“勝利の旗印”だ」
「そうか……寝る……」
「ああ。起きるまで、起きてからも居るから」
 また薬で意識を失ったジルニオンを膝の上に乗せながら、新しい名前を呟いた。
「ジルニオン=エバタイユ」
 その名でお前がいなくなるとは思ってもみなかった。ジルニオン=エバタイユ、私の名を持って逝く唯一人の男。

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