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「それだけで良いのか?」
「はい」
「了承した。下がれ」
「ありがとうございます、陛下」
 部屋を出てゆく皇后に従うハーフポートの目付きは、今まで観た中で最も気に触るものであった。あの男に憐れむ視線を向けられる程に、落ちたという訳か。
 自身から謝罪する事が出来ないのは、プライドなどではない……ただ、言い出せないだけだ。謝罪など、未だかつてした事は無い。ああ、昔まだ下端で働いていた頃に、直属の上司の失態を詫びに行った事はあった。連帯責任とかいうモノでな。
 その時も、余から謝罪した覚えは無い。周囲のモノが頭を下げたのに倣ったまでの事。心の奥底から謝罪などしたこともない。
 余は幼い頃から謝罪するのが嫌いで、謝罪しなくてはならないようなことをする事などなかった。人に頭を下げるのが嫌いで仕方なかった。
 それでも昨日の事は謝罪する気はあった……ただ、自分から進んでする気にはならぬ。
 謝罪しろと、皇后が、インバルトボルグが命じたならば謝罪したであろう。それに“誠意”などという、見る事も触れる事も出来ぬものが存在しているかは別として、頭は下げる。だが漠然とあの娘は、インバルトボルグは謝罪を求めぬのではないか? そのように考えてもいた。
 八年前の事になるか、あれの一族の殆どを殺害したのは。
 何時か責められるであろうと、詰られるであろうと思い続けて毎日暮らすのは想像以上に楽ではなかった。他の誰もが咎めようが白眼視しようが、それは耐えられたが、当人の無視は堪えた。『無視』という言葉は正しくは無いな、正確には無反応か。
 一度感情が赴くままに当り散らしてくれれば、此方も出ようがあるが……そう考えていた。その限界は余の中において、五年で頂点に達する。
 余は恐らく、インバルトボルグが怒るなり、激しく拒絶するなりを欲したのだ。昨日も三年前も、女として欲したわけではない。
 そして、あれの口から罵りの言葉の一つでも聞く事が出来れば、余はこの国に君臨したと実感できたであろう。
 だがその間違った実感を得た事は無い、三年前も昨日も特段の抵抗はない。
 なにか問題があるわけでは無い、知性も知識も人並みだ。市民大学で全過程を学びその成績も悪くはなく、むしろ良い方であろう。それでもインバルトボルグは、抵抗らしい抵抗は見せない。昨晩余の顔を黙って見上げていた表情、八年前初めて会った時とほぼ変わらない警戒心のない……思い出すだけで肺腑の裏側を羽毛で撫でられるような、訳の解からない感覚が齎される。
 皇族をほぼ全員殺害した事も、インバルトボルグを皇帝に推戴せずに余自身が皇帝となった事も後悔はしていない。ただ一つだけこの国の皇帝になっても叶わないのは、インバルトボルグ。あの八年前と変わらない……特段に美しい瞳でもないが、あの視線。インバルトボルグに悪し様に罵られるか、それとも心底軽蔑されるか、何時も咎を責め続けられるか、もしくはあれが泣き暮らすか……余の中ではインバルトボルグにはそれだけしか選択肢はないと思いながら目の前に立った。
 そして今も立ち続けているが、一度たりともそれは叶わない。
 女が、いや他人が自分の思い通りにならぬ事は解かる。それに対して失望する事も多々あり、腹を立てる事も身を持って知っている。だが、インバルトボルグの反応は失望でも立腹でもない、あれは“何”であるのか?
 謝罪を求められなかった事に対し、それで良かったとやり過ごせば良いではないか。
 あれにアーロンの説得を任せればよいではないか……


何時か“俺”を罵り糾弾する日が来ると、それを願っていたが
「それも叶わなくなって久しいな」
”俺”の望みは永遠に叶うことはなかった


 館に戻り、周囲を私兵で取り囲んだ物々しい庭で、私は皇后陛下に話しかけた。
「皇后陛下」
「どうしました、アーロン」
「よろしいのですか?」
「何がでしょうか?」
「皇帝の事です。謝罪を求めなくてもよろしいのですか?」
 皇后陛下はヴェールをあげられ、その表情は驚きに満ちていた。考えた事もなかったのであろう……
「若しかして、陛下が最後に念を押されたのはそれの事でしたのかしら?」
 この方は、そのように思考が向かわぬのだ。ただ、それを向かわぬようにしたのは、ラディスラーオではない。……生まれつきであらせられるのだろう。
「はい。皇帝は皇后陛下から謝罪を要求されなければ、謝罪しないでしょう」
 アグスティンの話を聞いても、ラディスラーオの生い立ちを聞いても、同情はしない。する必要もないだろう。
 マシェラ王女がサバティーヌ王子と結婚したのは、九年前。歳が近かった二人と私は仲が良かった。結婚した二人は我が家に遊びに来た事もある。
 その後マシェラ王女はすぐにフリスアールを身篭った。皇族には連ならない子なので(二人とも末端の皇族であった為)貴族に叙された際には、先輩貴族としてよろしく……そんな連絡も貰った。
 ロイトガルデ処刑後、他の王族の全てが殺害されている事を知って愕然とし、急いで二人を探して、その死体をみつけた。
 生きているなどという淡い期待は持っていない、この種の誤報を出すような男ではない事くらいは当時の私でも理解できていた。
 そして、ラディスラーオは厳格な男ゆえに、死体には「殺す際についた傷」以外はなかった。だが、それが慰めになる事はない。
 ……殺す順番くらい考えてくれても良かったであろう。
 今となっては全てを殺害した事に対して、何を言っても無駄だが「若い夫婦の目の前で生後三ヶ月の実子を殺す」あの神経が解からない。二人は後頭部から射抜かれていた、マシェラがフリスアールの上半身を、サバティーヌがフリスアールの下半身を固く抱きしめた状態で。
「私は陛下から謝罪していただきたいとは考えませんので」
 私は、ラディスラーオを詰りたいと思う事もある。だが……
「然様ですか。出すぎた事を申しました」
 あの男は詰られるくらいの事は何とも思わないのだろう。そして……皇后陛下が一言も責めぬと解かった瞬間の強張った表情。
 この国を奪い取った男の見せた敗北。あれを作らせる事が出来るのは、皇后陛下のみ。あの男はこの国に君臨したが、この国を支配したわけではない……最後の砦なのであろう、皇后陛下は。
「アーロン。お願いがあるのですけど」
「私に出来る事でしたら」
「剣を教えて欲しいの。儀礼式だけでもいいから」
「ええ、喜んで」

 この時私は、皇后陛下が自らその身を守る事ができれば良いと考えて、その役を引き受け剣技をお教えする事にした。

それが運命の引き金になるとも知らず

 後年、ラディスラーオはその事に対して私を一言も責めることはなかった。責められぬ事がこれ程までに苦しいとは……だから、マシェラ、サバティーヌ。私は一生ラディスラーオを詰る事も、責めることもしないだろう。
 私は黙ってあの男を見つめるだけ。見つめ続ける為だけにあの男を生かす。

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