忠実なる老犬よ 宇宙の果てを見遣れ【01】
 シュスタークの決定を受けて巴旦杏の塔が閉鎖され――第一子が無事に一歳を迎え、ロガのお腹では第二子が元気に成長している。
 そんな八ヶ月の大きなお腹を抱えてその報告を受け取った。
 ロガが住んで居た奴隷衛星の住人全員を、開拓団に組み込み移住させ、
「衛星は閉鎖します」
「そうなんですか」
 故郷は閉鎖されることになった。デウデシオンから報告を聞きながら、ロガはなにを言っていいのかよく解らなかった。
 ロガは政治的な事柄に関して、一切口を挟まない。
 当初は解らないから、解るようになってからは「帝国宰相の決断が最善」だと思えるようになったため、無用な口出しはしない。
 もっとも理解できるようになったのは、かなり年を経てから。
 二人目の皇女を身籠もっている頃は『よく解らない』状態であった。

―― ゾイも開拓団に入るそうです

 それを聞かされた時、ロガは泣きそうになったが、泣いてはならないと目元に指をやり、出来る限り誤魔化した。
 柔らかな光を湛える琥珀色の瞳が揺らいだことは解ったが、デウデシオンは敢えて知らぬふりをして、ゾイを呼び寄せたことを告げて部屋を去る。
 ロガは膨らんだ腹を抱えて注意深く立ち上がり、ゾイが通されたというボーデンの部屋へと散歩を兼ねて歩いて向かった。

 ゾイが開拓団に入らなくても、今日はゾイを呼んだ――

 人々に傅かれながらボーデンの部屋へと入ると、そこには地べたに座りボーデンを心配そうにのぞき込むシュスタークと、離れたところで立っているゾイが目に入った。
「ゾイ」
「ロガ……皇后」
「ありがとう、ゾイ」
 側へと行き手をボーデンの元へと手を引く。
「ナイトオリバルド様。ちょっと離れてくれませんか? ナイトオリバルド様が側にいると、ゾイ緊張しちゃうので」
 言われたシュスタークは弾かれたように立ち上がり、
「そ、そうだな。あの、お、お別れ……あの、ゆっくりと見取れ……でもなく。余、余は離れる!」
 言葉を選びようがない現状に困り果て、シュスタークは遠ざかった。
 残念というべきか、おめでたいというべきか、気が利くロガの女官長メーバリベユ侯爵は結婚七年目にして無事にエーダリロクと結婚、そして妊娠し、現在は大事をとって休んでいるため、人払いなどをしてくれる人がいないのだ。
「ボーデン、ゾイが来てくれたよ」
 ロガは立ち上がる時と同様に注意深く、老衰で寿命を迎えるボーデンの隣に腰を下ろした。ゾイは身軽に膝を折り、ボーデンの鼻先に触れた。鼻先はすっかりと乾いてしまっており、目蓋も半分程度しか上がっていないボーデンだが、久しぶりに自分に触れてくれたゾイの手を舐めようと舌を動かそうとする。
 ゾイは舌の側へと手を動かした。ゾイの手を舐めボーデンはその感触に満足げ――に二人には見えた。
「ロガ、ゾイ。余と他の者たちは別室に移動するゆえに、あの、あと、あの、よろしく! ボーデン卿、いままでありがとうございました!」
 ボーデン最後の時を飼い主とその友人だけにさせるべきだと気付いたシュスタークは、尽きぬ感謝を短い言葉にした。
 ボーデンは言葉が分かったとばかりに、力はないが、
「ばう……」
 鳴いて返事をしてやった。
 周囲の者たちはシュスタークに従い、早々に部屋を後にする。
 二人きりになり、ボーデンを見つめる。ロガとシュスタークの第一子の誕生を見届け寿命を全うするボーデンの表情は、非常に穏やかであった。
「……なんでこのぼろぼろの布の上に寝てるの」
 ボーデンはゾイが布の切れ端を集めて作ってくれた布の上で、最後の時を迎えようとしている。
「ボーデン、これ以外は嫌みたい」
「家にいた時、この布じゃなくて私たちのベッドに潜り込んでたくせに」
「そうだね」
「もっと、綺麗な布とか、いっぱい、あるじゃない……ーデン……」
 ゆるり、ゆるりと目蓋が落ち、浅かった呼吸が遠ざかってゆく。
「助けてくれて、本当にありがとう」
 自分を救ってくれた時に負った消えない傷跡を撫でながら語りかけるゾイの言葉が終わると同時に、ボーデンは目を閉じその生涯を終えた。
 犬としては稀に見る波瀾万丈な生涯を送ったボーデン。
 ロガもゾイ同様に泣きながらも、立ち膝をしてゾイの頭を抱き締める。

 ぶら下がるようにロガにしがみついたゾイは、大声をあげて泣いた。

 手触りの良い柔らかな布に気付くこともなく必死に、爽やかな香水の香りも解らないほどに。そうしてしばらく泣いていると、ゾイの胸元になにかがぶつかった
「……動いた?」
 視線を下に向けると、それはロヴィニア王子の妃になることが決まっている第二皇女が眠り育っているお腹。
「うん」
 ロガのお腹の中にいる第二皇女の動きが、触れていたゾイにも届いたのだ。
 ”煩い”とばかりに蹴られたのか? それとも”慰め”ようとしてくれたのか? 
「いい大人が何時までも泣いてちゃ駄目だよね。ロガ、立ち膝辛いでしょう。座るなりなんなりして!」
 袖口で涙を拭い、ゾイが立ち上がる。
「大丈夫」
 同じように泣いていたロガを座らせ、自分に触れた辺りの腹部をさする。
「ロガは大丈夫でも、私が心配なの。ここで待ってて、人を呼んでくるから」
 ゾイはロガを座らせて、シュスタークたちが去った方向へと向かって走りだす。召使いたちとシュスタークを呼んできたゾイは、
「ボーデンきょうぅぅ……」
 ボーデンにしがみつき、泣き崩れるシュスタークと、
「ナイトオリバルド様」
 必死に宥めるロガの図に”どうしたものか”と困り果てていた。
 ロガの体調を考えると、泣くのを止めてください ―― なのだが、ゾイにはそんなことを告げる勇気はない。
 ”はいはい”と言った感じで、泣いているシュスタークを立たせて移動させることができるのは、やはりメーバリベユ侯爵くらいのもの。
「ボーデン卿! 余は……余は……」
 言葉に詰まりながらボーデンの遺体に話しかけているシュスタークの元へ”こうなること”を想像していたデウデシオンが、二人の愛娘にして次期皇帝でもあるデギュゼークを連れてやってきた。
 人間の一歳児と変わらない頼りない足取りと、
「しゅ、しゅ、しゅす」
 父親譲りの滑らかざる舌の動き。
 ロヴィニアの血が強ければ一歳未満でフルネームを苦もなく発音できても驚かれないのだが、残念ながらデギュゼークはそうではなかった。

 ゾイは初めて間近で見た皇女に、幼い頃のロガの面影を見つけた。左右が違う瞳と、ぱっと見た目、ロヴィニアの血が強く出ておりエーダリロク寄りの容姿だが、パーツのどこかにロガを思わせるものがある。それに気付くのは、ほんの僅かなロガの昔馴染みだけではあるが。

 父親の名前を言いきることを諦め、デキュゼークはボーデンに近付く。
「?」
 デキュゼークが近付くと、何時も顔を擡げ軽く鳴いてくれたボーデンが動かないことを不思議に感じたが、死んだことが解らないので、まだ暖かさの残るボーデンの体を小さな手で撫でる。
 こうすると何時も「良く出来たな」と何時も褒めてくれるシュスタークを見上げる。
 シュスタークは期待に満ちた娘の眼差しを受け止め、慈しみを込めて頭を撫でてやった。
「本当に良い子だ、デキュゼーク」
 父親の普段とは違う微笑みを見て、デキュゼークは解らないなりにも感じるものがあった。死や哀しみをまだ知らない少女は、母ロガの服の端を掴んだ。
「おしっこ」
 これは事前に教えているのではなく、おむつに致してしまってからの報告。一歳児なのでこれでも充分なのだが、
「余に似てしまったのであろうか」
 成人してからトイレで苦労し、転げ回ったシュスタークは本気で心配していた。
「ゾイ、ちょっと待っててね」
 ロガはデキュゼークを連れ、デウデシオンが後を付いて別室へと向かう。
「……」
「……」
 残されたゾイはボーデンの側へと近寄りしゃがみ込む。
「あのな、ゾイよ」
「はい」
「開拓団に入ると聞いたが。生きているうちに戻ってくることは出来ないぞ」
 デウデシオンからゾイが退職し、他の奴隷たちと共に開拓団に入ったと聞かされたシュスタークは「苦労して合格し、働いていたのにどうして……」と不思議に思い、デウデシオンに理由を尋ねた。
 デウデシオンは「退職理由は一身上の都合……大体はこれで通ってしまうので。私も理由は解りかねます」このように答えるだけに留めた。
「覚悟の上です」
 シュスタークに告げなかったこととしては、デウデシオンはゾイを呼び出し、退職せずに開拓団をまとめる立場となるように説得したが、ゾイはそれを受け入れなかった。
 権力を手放すことを恐れる男には解らない決断。
 故にそれ以上、説得することはしなかった。
「そうか。人生をしっかりと考えているそなたの下した決断だ、残れなどとは言わぬが……余になにか言いたいことなどはあるか?」
 ゾイは礼儀として正しいのかどうかは解らないが、立ち上がりシュスタークを仰ぎ見ながら、言葉に甘えた。
「何を言ってもよろしいですか?」
「もちろんだ」
「迎えに来て下さい」
「え?」
「すぐにではなく、いつか迎えに来て下さい。帝国の支配領として認められる際に、必ず退位した皇帝陛下自ら足を運んでください」
「……」
「一生懸命開拓します。ロガが帝国の中心で支配者を産み育てるのなら、私は宇宙の片隅で帝国の礎の一つを開拓します」
 いつかシュスタークとロガの子孫がやって来る ――
 その約束を果たすには、あの暗黒時代のような内乱を避ける必要がある。
 身内同士で殺し合うのは極力避けてくださいと、
「必ず迎えに行く! 必ず!」
 伝わったかどうか? ゾイには解らないものの、シュスタークだけは信用できる気がした。
 他に言いたいことはただ一つ。
「それとロガのこと幸せに……」
 ボーデンは居なくなってしまったので、残る気がかりはロガ。
 ゾイと入れ違いに省庁試験を通り、帝星に残ることになったロレンのことは、あまり心配していない。ゾイ自身、一人でやって行けたのだから、ロレンなら大丈夫だろうと。
「それは本当に自信がなくてなあ……はあ、その……」
 背が高く表情は見ることは出来ないのだが、困り果てていると全身で物語るシュスターク。
「あのー陛下。最後まで聞いて下さいませんか?」
「あ、ああ。話の腰を折ってしまったな。なんだ?」
「ロガのことを幸せにしてくれてありがとうございます……と言いたかったんです」
「あ、ああ! そう言ってもらえると!」
 幸せな家族というものを知らないシュスタークは、まったく自信がなかったのだが、ゾイに言われて少しだけ自信を持つことができた。
 ゾイをのぞき込むようにして微笑んだその表情は、皇帝というよりも好青年といった方が解りやすい。そんな気さくな笑顔であった。
「これからもロガのこと、よろしくお願いします。かなり我慢強い子なので、結構自分の内に溜めてしまう癖があるので、上手く発散させてやってください」
「う、うん! 解った」
 自信の”芽”にのし掛かる責任。だが、シュスタークは忠告を受け取り、より一層精進することを決意した。
 シュスタークは何時も決意するのだが、方法はあまり解らない。
 ただ人はいいので、ゆっくりとだが決意に向かって進むことができる。たまに回り道をしたり、転がったりするが、その歩みを止めることはない。
「最後に。ボーデンにも良くしてくださり、感謝しております。気難しい老犬だったとは思いますが、本当に……」
「最高の御仁であったよ。犬というか……たしかに気難しくはあったが、一緒に居られて楽しかった」

 着換えたロガと、花瓶に生けられていた花を一本抜き取り持って来たデキュゼーク。
「ゾイ、これ」
 幾重にも重なる濃いオレンジ色の花びらが目を惹く、大きな花を必死にゾイに突き出す。
 ゾイは隣に立っているロガを見てから頷き、
「ありがとうございます。親王大公殿下」
 体勢を低くして花を受け取った。小さくて柔らかな指先と、子供らしい薄い爪。
「ともだちー」

 満面の笑みを浮かべるこの皇女が皇帝となった姿を見る日はないが、皇女が皇帝になると信じてゾイは生きてゆく。

 シュスタークはデキュゼークを抱き上げて、ゾイとロガから少し離れる。
「シャバラにもよろしくって言っておいて」
「シャバラからは”ロレンのこと頼む”って言って欲しいって……ほんの少しでいいから、気にかけてあげてちょうだい」
「うん。元気で」
「ロガもね……あのさ、ロガ。頼みがあるんだけど」
「なに? ゾイ」

「ボーデンを閉鎖された衛星に埋めたいんだけど……」

 ゾイはボーデンの遺体を引き取り、閉鎖される故郷に埋葬する許可を貰った。当初は一人で戻る予定だったのだが、
「ロガに会ってきたのか」
 シャバラが同行を希望し、あっさりと許可された。


novels' index next  back  home
Copyright © Rikudou Iori. All rights reserved.