繋いだこの手はそのままに − 208
「……」
 カルニスタミアは基本目覚めがよく、知っているものであれば寝起きの目に映るものであっても即座に判断できる。
 だが現状は判断したくなかった。

―― 兄貴……? いや兄貴が隣に寝る筈がない

 温もりに包まれた寝具から身体を起こして、隣で眠っている「金髪でケシュマリスタ顔」
―― 兄貴である筈はないから、あーランクレイマセルシュは……既に帝星に。ザセリアバも帝星に向かった。ラティランクレンラセオはまだ合流しておらぬであろう。ということは……
 兄とよく似た「自分の寝室に、自分の許可なく入ってくることができる面々」の名を心で上げながら動かし辛い口元を撫でる。
「……」
 口の周りの「覚えのない粘着質な物体」
 冷や汗が背筋を伝うということを初めて体験しつつ、再度右人差し指で口の端を撫でる。そうすると黄色みがかった粘着質の物体。
―― 儂、なにか間違いでもしたか……この際間違いは構わぬ! 相手が誰であるかを! 間違いを犯した相手が兄貴でなければ!
 じっくりと見て味さえ確認すればすぐに飴だと解るのだが、知っているが認めたくない相手が隣に寝ている状態で、記憶にない粘着質なものが口の周りについている。
 迂闊に口に入れて味わうのは危険だと判断し、
―― あーガーベオルロドは……違うな。誰だ、誰がいる! ……
 必死に「兄に見えるが違う人」を探し求める。
 帝国上層階級に多い容姿だが、ここに来ることが出来る該当者は少ない。寝起きの爽やかな思考は即座に濁り、ある一人を無理矢理はじき出した。
「貴様、ハセティリアンか?」
 従軍しているかしていないかも不明だが、容姿は見たことがあり”これに似ている”と確信が持てるカルニスタミアが出した答え。
「誰がハセティリアンじゃ!」
 丁度目覚めたカレンティンシスその答えに一気に頭に血が上り、そのままベッドの上に立ち上がって否定るす。

―― 無駄な思想の模索であった

 カルニスタミアは肩を落とし首をもたげ、あたかもカレンティンシスに跪いているような形となった。
 それを見ていた家臣二名が駆け寄り、
「カレンティンシス殿下! 抑えてください」
「殿下!」
 怒りを抑えてくださいと着衣の端を掴み頭を下げる。欠けている一名のプネモスは治療中である。
 二人に諫められて”怒ってはいけない”ことを思い出したカレンティンシスは、どうして「ハセティリアン公爵」の名前が出たのかは追求してはならないと飲み込み、
「目が覚めたか、カルニスタミア」
 優しく声をかけた。
 二十三歳のカルニスタミアには聞き覚えのなく、そんな優しげな声をかけられる理由も見当たらず顔を上げて首を捻ってから、
「リュゼク。王は頭の調子が悪そうだが」
 本人がつい一時間前までそうであったことなど知らずに問う。
「殿下……あの、お戻りに?」
「どうした?」
「貴様が子供に戻っておったんじゃあ! 儂に兄上様遊ぼうと! 治ったのじゃな! 治ったのじゃな!」
 もう少しゆっくりと、時間をかけて現状を説明するべきです……そんな意見を出せる余裕を持っている者などここには居なかった。
 居たとしてもカレンティンシスの暴走を止められはしなかったであろう。
「は?」
「貴様が! 貴様が! 渦巻き棒キャンディーを所望して積み木で、知恵の輪の解き方を教えー!」
「殿下! カレンティンシス殿下。カルニスタミア殿下が戻られたことが嬉しいのは解りますが、このままお喜びになりますとカレンティンシス殿下が倒れてしまいます。落ち着いてくださいませ」
 カルニスタミアが戻ったことは嬉しいが半面、もう懐いてはこないのだという事実を寂しいと感じ、寂しいなどと思ってしまったことに腹を立て、そして眠る前の「宝物だ」と語ったことを覚えていたらどうしようかと考えると恥ずかしく、だがやはり覚えていて欲しいと思いながらも……そんな複雑な感情が入り交じり、カレンティンシスの感情は怒りに近い所に勢いよく駆け上がり息が切れてしまった状態。
「キャンディー?」
 口の端についている粘着質の物体に関する手掛かりを得たことと、何時ものカレンティンシスの態度にカルニスタミアは正気を取り戻しつつあった。
 ベッドの周囲を見回すと、そこには確かに小さくなった《らしい》渦巻き棒キャンディーが転がっていた。
「顔を洗ってくる。その間に兄を落ち着かせておけ、リュゼク、アロドリアス」
 カルニスタミアはベッドから降りて洗面所へと向かう。
 瑪瑙細工が施されている扉を押し開き、小さなタイルでモザイク画が描かれている通路を裸足で歩き、上半身全てを映せる高さと大きさを持った鏡の前にある金の蛇口の洗面台の前に立ち、自分の顔を見る。
 注意深く拭い戦死など恐れぬ男が怖々とそれを舐める。
 口だけではなく細胞の全てに、脳の全てに広がる甘さ。
「飴だな……」
 兄とおかしなことをしたのではないことを確信して、オリーブ色の石鹸を手に取り泡だてて口を重点的に顔を洗う。
 湯ではなく水で泡を流し、水を含んだ髪をかきあげて自分の顔を再び見る。

―― なんじゃ? なにかを忘れているようじゃが……

 カルニスタミアは目覚める直前にザロナティオンやラードルストルバイアが認めた存在である《ラヒネ》とはっきりと接触してきた。
 だがそのことを目覚めたカルニスタミアはすっかりと忘れさっていた。
 それが《忘れた》ことなのだが、元々存在を認めておらず、シュスタークやエーダリロクほど支配されたこともないカルニスタミアには思い当たらなかった。
 必死に忘れたことを思い出そうとすると、目覚めた時には覚えていなかった幼児化していた時間のことを思い出し、
「……」
 己の奇行をまざまざと、まるで他人が記憶していてくれたかのように見せつけられ、徐々に膝から力が抜けて、遂には酔っぱらいがするかのように膝をつき洗面台に俯せる。
 かなりの間そうしていると、
「カルニスタミア」
 カレンティンシスが心配して洗面所へとやって来た。
「動けぬのか? 動けぬのならばリュゼクを呼んで来るぞ」
「いいや……心配をかけて……。隕石はまだ持っていてくれるか? 後日受け取りに行く」

―― それは地上に堕ちる ――

 カルニスタミアが自分の発言を覚えていたことに驚くも、否定はされなかったことに安堵し、
「解った。ほれ、行くぞ」
「畏まりました」
 連れて洗面所をあとにした。

 蛇口から一滴の水が落ち、扉は閉じられた。

 カルニスタミアが元に戻り”少し一人にして欲しい。見張りがつくのは構わんが”と言ったので、側近のアロドリアスを残してカレンティンシスはリュゼクと艦橋へと向かい、もう一人の側近であるヘルタナルグに面会を許可してやり、周囲から隔絶されている指揮官用の部屋へと入りそこから画面に映る宇宙を眺めていた。
「よい機会じゃ、リュゼク。正妃についてじゃが」
「はい」
「あの正妃の警備を引き受けるか」
「テルロバールノルの代表としてならお受けいたします」
「そうか。今回の襲撃の結果からして、身体能力は低いが判断能力はそれなりにあるようじゃ。前者はどうにもならぬから後者を磨いてやれ」
「はい」
「あの琥珀の瞳は知性を感じさせる」

「王、陛下が面会をと。すでに艦橋扉前にお出でですが、如何なさいましょう」
 ボウカドゥーズ公爵が二人に皇帝の訪問を告げにやってきた。
「陛下が?」
「お通ししろ」
 礼儀作法に厳しく、訪問も親兄弟であろうとも手順を踏まないと決して会わないといわれている王家だが、皇帝が自ら出向いているのを拒否するような王家でもない。
「それが陛下、通達していないことを扉の前で思い出されたようで、儂に”代わりに伝えてきてくれぬか”と、ありがたきお言葉を」
 王同士の面会も書面に不備があったと言い、皇帝や帝国宰相をも引き摺りだして調停騒ぎになる王家の王。それを良く知っているシュスタークは、扉の前でタウトライバと共に悶々としていた。
 ボウカドゥーズ公爵の言葉を聞き、カレンティンシスはリュゼクに部屋を整えておくよう命じ、艦橋入り口へと向かい出迎える。
「陛下」
「カレンティンシス」
 出迎えにいまにも用件を言い出しそうなシュスタークの耳元で、
「陛下立ち話は駄目です」
 タウトライバが囁く。タウトライバの方を向き、頷いてカレンティンシスの案内に従い部屋へと向かう。
 巨大なシャンデリアが天井を飾る豪華さと、壁に貼られた緋色と金の壁紙に、大理石の彫刻が並ぶ派手な部屋へと通され、シュスタークが座るために王家国旗をかけ、背後には王家軍旗を掲げたリュゼクが立っている椅子まで行き腰を下ろして、カレンティンシスからの挨拶を聞き終えてから、シュスタークはやっと用件を口にできた。
「カレンティンシス! 頼みがある」
「儂に頼みですと! 何を仰る! 陛下が儂に頼みなどと言いなさるな!」
 リュゼクの主はまさに主であった。
「あ、そ、そうか。だがな命令するのは少々問題というか……僭主にも関わるというか」
 僭主という言葉が出て、思わず室内に緊張が走る。
 警備に付いているタウトライバもシュスタークの訪問の真意は知らない。カレンティンシスの所に行くので警備を請け負ってくれと頼まれてここまでやって来たのだ。
 まさかザウディンダルのことについて―― タウトライバとリュゼクが緊張に奥歯を噛み締める。
「僭主について?」
「そうだ。余とタカルフォスが直接話を出来るようにして欲しい」

**********


「ブラッシングは”こうっ”です!」
「ブラッシングは”こうっ”です!」
「ブラッシングは”こう”なのか。どれどれ……ん?」
「ブラッシングは”こう”なのか。どれどれ……ん?」
「陛下、そうではありませぬ。”こうっ!”です」
「陛下、そうではありませぬ。”こうっ!”です」
「もう一度……おや?」
「もう一度……おや?」
「陛下」
「陛下」
「なんだ?」
「なんだ?」

 犬のことに関してはテルロバールノルでも様々に有名なタカルフォス伯爵が、皇帝に請われてブラッシングの技術を教えているのだが、会話することが禁じられているので、間にキュラが入り全ての会話を復唱する形になっており、技術を伝えるどころの話ではない状態となっている。
 特にキュラは、
―― 笑顔で気持ち悪いよ
 鉄仮面一族当主らしからぬ「犬に触っている時の幸せな笑顔」を前に、そして動きの奇抜さにタカルフォスを殺したいという衝動まで芽生えていた。
 そんなキュラの衝動に気付かずボーデン卿を労る為に、そして長生きして貰うためにブラッシングからマッサージまで覚えようと必死の皇帝シュスターク。
 そんな二人の間に入り、必死に会話を伝え、二人と同じようにブラシを持ち腕を動かしていたキュラだが、
「もっふ! もっふ! な気持ちが必要です」
「もっふ……もっふ……な気持ちが必要です」
「もっふ? もっふ? な気持ちとな?」
「もっふ……もっふな気持ちとな?」
「はい、もっふ! もっふ! そして笑顔」
「はい……もっふ……も……陛下!」
「どうしたキュラティンセオイランサ」
「もう僕駄目です。帰らせてください! この鉄面皮当主の犬を抱いてる笑顔を見ながら”もっふもっふ”言うのいやです!」
 ついに我慢の限界がやってきた。
 割とすぐに訪れた限界だが、周囲のテルロバールノル上級貴族やそれに仕える皇帝の部屋で働ける程の身分を持った召使いたちも、この時ばかりは「ケシュマリスタ」に同意した。
「いやー! もういやー! タカルフォスの馬鹿面見るのいやー!」
「失礼な。儂のどこが馬鹿面だと?」
 皇帝のブラッシングの練習台にと連れてきた、従軍にも同行させているお気に入りのボルゾイの首を抱き笑顔で、彼曰く”もっふ! もっふ!”しながら言い返す姿は、シュスターク以外にはやはり不気味であった。
「君は笑わない一族の代表なんだから! 笑わないで!」
「儂は笑ってはおらぬ! ただ犬に触れるとこういう顔になるだけじゃ!」
「それが笑顔って言うんだよ!」
「知るか! 貴様如きになんと言われようとも、犬を触っている時の顔は治さぬ! 儂の本気を甘く見るなよ! 儂はこの顔のせいで当主の座を追われかけ、地下牢にも監禁されたんじゃからな!」
 タカルフォス伯爵ララバルドルテー、彼の言っていることは本当である。
「それがおかしいってか! もうヤダ! このボルゾイ好き!」
 自宅で五十万匹のボルゾイを飼っているボルゾイ好きは、キュラになんと言われようとも知ったことではない。

**********


「……」
 自王家の一応将来を担う副王家の当主の奇行に類するそれを聞き、カレンティンシス以下三名は無言になった。
「いまガルディゼロはイグラストに預けておるからして危険はない。それで余はガルディゼロほどタカルフォスのことは気にならぬのだ。そして余はタカルフォスからどうしても習いたいのだ。犬のブラッシングとマッサージを。あのボーデン卿が大人しく、后曰く”本当に気持ち良さそう”と言う程の技術を。その為には余はタカルフォスと直接会話せねばならぬのだ。だから王の許可を与えてやってくれ」
 確かに僭主関連で、皇帝が口を出すような問題では全く無く、皇帝や副王が自ら犬をマッサージしてどうするのだ? といった状況だが、
「陛下」
「カレンティンシス……」
「ありがとうございます」
 カレンティンシスはシュスタークの前で膝を折り深々と頭を下げる。
「カレンティンシス?」
「儂はこの通り頑固者で、中々あやつを許してやることが出来ずにおりました。もう許しても良い頃だとは思っておりましたが、儂は行動に移せずに困り果てておりました。陛下はその儂の背を押してくださいました。ありがとうございます」
 カレンティンシスは自分が人を信じやすい両性具有であることを重々理解しているので、許すという行為を極端に恐れる。
 あまりに許しすぎて、手に負えない状況になってしまうのではないかと考えてしまい、許したほうがよいと思われる場面でも、引かないことが多い。
「いや……」
「陛下は儂の性格をもよくご存じでおられるから、命令ではなく頼みと言われたのでしょうな。全く持って頑固者で申し訳なく。だが儂はこれからもこのままですので……ご気分を害することもおありでしょうがよろしくお願いいたします」

 段階的にだがタカルフォス伯爵家を元に戻してやることを確約し、その手始めとして、
「役に立たないと先代が罵った技術ですが、時代が違えば特技にもなりますな」
 皇帝と会話することを許した。
 タカルフォスは切欠を作ってくれたボーデンに感謝し、拒否してくれたキュラも感謝して、前者には騎士の如く仕え、後者とは年は離れているが良い友人となった。《良い》友人だと思っているのはタカルフォスだけではないかと思う人も多かったが、
「良き友人同士であろうよ」
 生涯両性具有と良き友人関係を貫いたカルニスタミアは、二人の関係をそのように評した。


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