終業時間には送迎の車に乗って、車が出るのを待っている状態だったデウデシオン。
―― ちかいうちに、ヘリでの送迎を依頼するか……いやだが……
目の前の赤信号をたたき割りたい気持ちを堪えるのに苦労した。車を降り非常階段を駆け上る。エレベーターで五十階に到着するのよりも早くに到着することができるからだ。
年齢的にはそれほど若いわけではないが、二日後に筋肉痛が訪れることなどない若々しい肉体を持つデウデシオンは、全く息を切らせることなく登り切った。
近いうちにこの高級マンションには「非常階段をダッシュする男の霊がいる」という噂が立つかもしれないが、デウデシオンの知ったことではない。
「ただい……」
「デウデシオン!」
猫の特性を若干残しているザウディンダルの身は軽い。
人間の子供が抱きつくのとは違う、軽やかな身のこなしで首へと飛び付いてくる。そのザウディンダルを抱き締めて、玄関でキスをしてそのまま押し倒そうかと思ったデウデシオンだったが、
「帰ったぞ、ザウディンダル……ん? めんつゆ?」
室内からの匂いに驚き、確認するために抱きかかえて部屋へと進む。
「デウデシオン、知ってるの!」
「なにをだ」
「めんつゆ。作ってる途中で鰹節ももらっちゃった」
「誰に?」
「もぎもぎ」
「も? もぎもぎ? え? どこ……向かいか?」
このマンションは手順を知り、登録していないと出入りができない。
エレベーター(宅配含む)と非常階段の扉は、登録されている人の生体承認がなければ開かず、それ以外の客は生体承認されている者がゲスト登録をするか、頻繁に訪れる客が管理会社の方に登録するかしない限りは無理。
猫であったザウディンダルも、ペット用の生体承認を行っていた。
半分人間になったザウディンダルの登録をどうしようか? デウデシオンは悩んでいる所でもあった。
ともかく今のザウディンダルは外出はできない。そして訪問者報告もない。となると”めんつゆ”の出所はただ一つ、向かいの住人しかいない。
「うん!」
「あの”おやじ”か」
「”おやじ”って」
「……私と似たような男だ」
「女の子だったよ」
「女の子? 女性ではなくて?」
「女の子と女性ってどう違うの?」
「そうだな……容姿。髪の色とか目の色とかは言えるか?」
「髪は白だって! 俺の黒髪と正反対だねって!」
―― 白? 銀色のことか? たしかやつの息子の一人は、女と見紛うばかりだったな。それと勘違いしたのか? だが……あいつは、ザイオンレヴィはたしか……
「目の色は俺と同じだった。二人で鏡視て吃驚してた。藍色っていうんだってね!」
―― 藍色? ザイオンレヴィの瞳の色はアクアマリンだったような。双子の妹クライネルロテアは髪は白くはないし、瞳はライトグリーンだったような
「そしてね、肌は褐色って言うんだってね!」
「か、褐色だと?」
―― 褐色? 誰だ……まあ愛人か誰かだろうな。待て……
「ザウディンダル」
「なに? デウデシオン。お蕎麦食べようよ、もぎもぎがデウデシオンの分も作ってくれたんだぜ」
そこまで話をして、すっかりと馴染んでいた容姿を見られたことにデウデシオンは気付いた。
「耳とか隠したか?」
「なにを隠すの?」
今の今まで隠せとは一言も言っていなかったので、ザウディンダルが疑問に思う筈もない。
「あーちょっと、ついて来い」
事と次第によっては消さなくてはならない! と思いながら、デウデシオンは扉を開いた。マンションは造りから、インターフォンなどはない。
突然の来客というものがない作りなのだ。
「失礼す……」
ザウディンダルを肩に跨らせたまま、向かい玄関を開くと、ザウディンダルの飛び付きとは正反対の、衝撃の頭突きが襲ってきた。
「おっさん! おかえり! おっさん! 待ってたよ! あてし待ってた! 良い子で待ってたよ! おかえり! ……あ」
喜び勇んで抱きついてきたグラディウスは”なんかおっさんと違う”と感じ顔を上げて、知らない「目つきが悪い」知らない人だと気付いた。
「済まん。おっさんであることは否定しないが、おそらくお前が言っているおっさんではない」
肩にザウディンダルが乗っていなかったら、恐ろしくて泣き出しただろう。
ザウディンダルが肩に乗っていたので、自分が抱きついたのが「デウデシオン」だと解り、恐ろしくはなかったが、
「う……うぇ……おっさ……」
やはり泣き出した。
※ ※ ※
ザウディンダルは気付かなかったというより、気にならなかったのだが、デウデシオンは玄関にマットと毛布、そして枕があることに気付いた。
「おっさん、お仕事忙しくてずっと会ってなくて。寂しくて……帰ってきたすぐに会いたいから」
「玄関に寝てたのか?」
三人で話しているのは、ロビー。
そこに家から持って来たジュース(中元・お歳暮)を置いて、話を聞き始めた。
「玄関きれいだから。それでこの前、ザウにゃんのお家にたくさん人が来ているの見て……ちょっと羨ましくて。寂しくて仲良くしてもらえたら嬉しいなって」
”おっさん、帰ってきてくれるかなあ”と玄関で待っていたグラディウスは、廊下で大騒ぎしているデウデシオンの親族の声を聞き、何だろう? という気持ちで玄関を少しだけ開いた。
普段なら向かいの家の玄関からのぞかれていることに気付くことのできる面々だったが、その日は「デウデシオンが体調不良で長期休暇を取った」ということで、誰もがそちらに注意が向かい、向かいの家のことなど全く気にしなかった。
帰る時も、
―― デウデシオン伯父さん! こんど私、s☆s☆keに出ようと思ってるんです☆だから付き添いしてください☆
―― ハイネルズだったら、乳酸もバックダッシュだよね
―― 小学生がクリアしたら、番組的に困らないかなあ
―― 見て見て! この指の力!
―― 良いから早く帰って勉強しろ
―― 無駄ですよ、デウデシオン伯父さん。だってどれほど勉強したって、不動の一位がいますから☆
―― 彼凄いよね。幸薄そうな顔してるけれど
―― 失礼なことですが、彼は幸薄そうですよね
―― でも彼、彼女いるんだよ
―― えー本当!
―― えー! 誰! だれ!
―― いいから帰れ! どうしたタバイ
「煩くて悪かったな」
そう言えば大騒ぎしていたな、ということを思いだしてデウデシオンは謝罪した。そして謝罪すると共に、
「ところで、何日くらい来ていないんだ?」
見るからに子供を放置しているやつを腹立たしく感じた。
”やつ”の名はデウデシオンも良く知っている。
「あ、デウデシオン。ほらほら! なんか明るくなったよ」
ザウディンダルが指さしたのは、エレベーターのパネル。
「……」
エレベーターの扉が開き、現れたのはダグリオライゼ(サウダライトは使用しません)
「おっさん!」
グラディウスは、先程デウデシオンに抱きついたとき以上の勢いで、久しぶりに帰ってきた”おっさん”に抱きついた。