グラディウスは”かりんちんしす様”と”かるにちんたみあ様”に「帰る」と言ってこなかったこをと気にしていた。もちろん毎日気にしているのではなく、たまに思い出す程度だが完全に忘れるようなことはなかった。
グラディウスは自分が『未来に行った』ということは理解できず、だが『夢ではない』という自信はあった。
サウダライトが「お忙しみたいだよ」と言い聞かせ、なかなか会えないのは宇宙が広いからだと納得させた。
いつか会えたら……とくに何をしようという考えはないのだが、とにかく会えたら嬉しい! という気持ちで。
―― そして
グラディウスは帝后宮に別れを告げて歩いていた。
「おうち、ありがとう」
巴旦杏の塔の前に作られた家を好んでいたグラディウスだが、帝后宮も決して嫌いではなかった。
一ヶ月かけて部屋すべてに別れを告げる。
どの部屋も自らの手で掃除したという、皇帝の正妃らしからぬ思い入れがある部屋。
最後に別れを告げるために入ったのは寝室。
ドアを開き「後ろ手に閉めるのは行儀悪いのじゃからな!」突如ルグリラドの注意を思い出してグラディウスは振り返り両手でドアを閉めて向き直る。
「……あれ? ここ……」
そこはグラディウスが知っている寝室ではなかったが、見覚えはあった。
「かりんちんしす様! かりんちんしす様! どこにいるの! あてし来た! 来たよ! かりんちんしす様」
グラディウスは声を張り上げて寝室内を走り回るが誰もおらず、続く扉をも開く。
勢い良く開かれた扉に、行儀が悪いと怒鳴ろうとしたカレンティンシスは、
「グラディウス!」
「かりんちんしす様、あてし三十三歳になったの」
突如現れたグラディウスに、二度目とはいえ驚いた。
名乗りながら年齢を告げたのは《もしも、同じことがあったら年齢をすぐに言え》そうマルティルディに命じられていたので、自信満々に元気よく叫んだのだ。
「そうか。三十三歳……あの時から十年か……時の流れは同じか……ということは、そろそろアルトルマイスが即位するのか」
三十三歳になったグラディウスを見てカレンティンシスは「年齢を言われなかったら三十代だとは……」思い、表にも出したがグラディウスが気付くはずもない。
「うん! 即位したよ! あてし、おっさんやみんなと旅行するんだ! 手も振るんだよ。練習したんだ!」
グラディウスは両手を前に出して指を広げて手を振って見せる。
優雅さや高貴さとは縁遠いが、グラディウスがこの笑顔で皇族のように手を振る姿など、誰も想像できない。
「……そうか……良かったな。おめでとう」
不格好でぎこちないが、それは完成されてもいた。
「ありがと! かりんちんしす様! かるにちんたみあ様は?」
「出かけておる」
「何処に?」
『ビーレウスト』
『なんだ。いまさら帰還しろっても無理だからな、総司令代理』
『そんな下らんことは言わんよ。最後のお前に聞きたいことがあったんじゃ』
『なんだよ。早く言わないと死んじまうぞ、カル』
『数値的にはもう死んだも同然の状態じゃがな。そうそう聞きたいことというのは……』
「戦争に……グレスは戦争といっても解らんのじゃったな。カルニスタミアは仕事じゃ、仕事で遠くに行っておる」
グラディウスが生きていた頃は戦争らしい戦争はなかったため、グラディウスは《戦争》という単語を理解することはなかったとされている。
「そっか、お仕事かあ」
「寝室に戻るぞ」
「はい、かりんちんしす様」
カレンティンシスの後ろを「付いて行ってます!」と自己主張する足音を立ててグラディウスは笑顔でついて行き、カレンティンシスは食べられることはなかったがずっと用意させ続けておいた菓子を勧める。
「ほれ」
「ありがとうございます。かりんちんしす様」
グラディウスは菓子を受け取ったが、気持ちは菓子ではなくカレンティンシスに向いたままであった。
「どうしたのじゃ? 食わんのか、グレス」
「あのね、かりんちんしす様」
「なんじゃ?」
「かりんちんしす様。あてしと一緒に旅行に行く? あてしは大喜び……じゃなくて嬉しいよ。おっさんも良いって言ってくれるはず」
グラディウスが会うカレンティンシスは、いつも己にはどうすることもできない《痛み》を持っている時であった。
最初は生きて弟に位を渡したこと。
死ぬ覚悟で簒奪を希望していたカレンティンシスだが殺されることはなく、生き延びてからは寿命を延ばせる薬の被検体になった。
死ぬことを考えていたカレンティンシスが寿命を延ばす薬の被検体になった理由であるビーレウストは、カレンティンシスの延びた命を見ることもなく、己自身の寿命を砕きに行ってしまった。
素直に気持ちを述べた、行かないでくれとも言ったが、聞き入れられることはなく、ビーレウストは総司令代理を務めるカルニスタミアと共に飛び立った。
二度と戻って来ることはない ―― 希望など持つなと突き放し去った。連絡が届くこともなく。すでに公式開戦報告は届きカレンティンシスも聞いている。あとはカルニスタミアが皇帝に戦死報告をするまで、行き場のない感情と無駄に延ばしてしまったとしか思えない寿命に、眩暈を覚え現実から逃避する日々が続くのだ。
「どうしてじゃ?」
「かるにちんたみあ様がいなくて寂しいんでしょ。一人の時はあてしと一緒に」
グラディウスはそう言い手を差し出した。
戦死報告が届くまでの日々は長く、疲れ果て早く、早くとカレンティンシスは願う。生きて帰ってこないことを知っているから、早く死んでくれとしか思うことができず、自分を残して死んで行くのに最後の時は笑っているのだろうから……やはり早く死んでくれと願う。
「ありがたい申し出じゃが、儂は行けぬ。儂はここに残って、やることがあるのじゃ」
グラディウスの手を握りたかったが、カレンティンシスは諦めた。当たり前のことかも知れないが、その手を握らないという選択はかなりの理性を動員しなくてはならなかった。
「そっか。残念だ」
「儂も残念じゃよ。じゃが……儂はここに残らねばならぬのじゃよ」
ビーレウスト=ビレネストの戦死報告を、カルニスタミアから直接聞くまでは。
「かりんちんしす様」
「なんじゃ?」
「あてし……おかし、ありがとう」
「気にするな。ここにずっと用意しておくからな」
「またかりんちんしす様に会えるかな?」
グラディウスは旅行をし、たまに大宮殿に帰ってはくるが、正式に「帰宅」するのは十年後になる。
「残念じゃが、グレスが戻って来たころには儂はもうおらんじゃろう」
初めて出会った時から十年。同じ時間が流れ、また同じ時間が流れるのであれば、その頃はすでに薬の効果も切れてカレンティンシスは生きてはいない。
「……」
「変な顔をするな。儂は……その頃は故郷に、儂のテルロバールノル王国に還っておると言っておるのじゃ」
「そっか」
「早く帰れ。心配しておるぞ」
グラディウスとカレンティンシスは皇帝の私室に続く扉に目をやる。
あの時は帰り道は解らなかったが、今回は二人ともなんとなく解った。
「うん! 帰るね、あてし……でもね、かりんちんしす様! あてし、あてし!」
言いたいことが溢れ出し、何も言えなくなってしまったグラディウスの頭を撫で、
「お前の優しさは充分伝わったから気にするな、グレス」
カレンティンシスは扉の前まで手を引いて連れゆく。
「なんか……さようならって言いたくないなあ」
「言わんでよいぞ、グレス。儂も言わぬよ」
グラディウスは別れの言葉を言うことなく扉を閉じ、カレンティンシスは扉の前に立っていた。
「グレ……」
扉がすぐに開いたので、帰ることができなかったグラディウスが戻って来たのかと思ったが、現れたのはシュスターク。
「カレンティンシス」
長年仕えている皇帝。シュスターク自身が悲しさを堪えていることなど、すぐに解る。
「陛下」
「カルニスタミアから連絡が届いた」
※ ※ ※ ※ ※
グラディウスはサウダライトたちと共に旅立って行った。
「館は取り壊しちゃったんだね」
「仕方あるまい」
アルトルマイス帝はイデールサウセラと共に、家があった場所を塔の中から眺める。
建物があった痕跡はまったくないが、グラディウスが作った畑は残っている。
「僕さあ、あのトマト畑大嫌いなんだよね」
「塔の中にあれほど大量に作っているのにか?」
「それとは違うよ。このトマトって定期的に水をやらないと駄目な品種じゃないか」
「ああ。水をやりすぎても大丈夫なようにも改良している品種だ」
「君達の誰かが来る日は、あの水やり機は動かないじゃないか」
三百六十度回転し、畑に水をやることのできる機械が地面に埋め込まれている。誰も水をやれない日は、それが顔を出して水を与える。
「そうだな」
「あれがトマトに水をやると”今日は誰も来ない”ってことが解っちゃうから、僕凄い落ちこむんだよねえ」
「……」
「なにが嫌かって、今日は来ないことで落ち込んだのに、明日は来るかも! って期待してる自分が一番嫌なんだよね」
今日は来ないけれども、明日は来るかもしれない
明日きたら、昨日来なかったことを責めよう
もしも明日もこなかったら明後日は、二日顔をみせなかったことを詰ろう
三日来なかったら、無視してやる
―― 皇帝が巴旦杏の塔に足を運べるのは、多くて一週間に二度ほど ――
四日来なかったら、仕方ない……話はしてやる
五日来なかったら、僕はもうなにもしない
六日来なかったら、五日目と同じで動かない
七日来なかったら、僕を殺せと命令するんだ
「出来る限り足を運ぶ」
「お人好しだね、ベルティルヴィヒュ。普通の皇帝なら”畑潰す”とか言うだろうに」
「そうだな……。お人好しというのは母に似たのかも知れん」
「え、そうかなあ……君って……まあ、いいか」
僕は君に《僕を殺せ》と命じたことはない
そしてイデールサウセラは、自動で水が撒かれるトマト畑を前にして、窓に両手を押しつけて膝をついて頭を垂れる。
「塔に入っていなければ、こんなに待つこともないのかなあ。それとも、どこでも同じかなあ。好きな人を待つだけって、本当に嫌だなあ……」
※ ※ ※ ※ ※
もういないことは解っていても、もしかしたら会えるかもしれないと、何故かあり得ないそんな考えを持ってその場所に居続ける。
自らの記憶の中でしか会えないのだが、その場にいると記憶が場所と重なり合い、偶にいるように見える時がある。
―― ビーレウスト?
明ける前の藍色の夜空と、指を絡めた黒い髪。
―― イデールサウセラ?
それは幻だと解っていながら、手を伸ばし声をかけててしまうのだ。
―― いや、居る筈はない。もうお前は死んだのだから……でも幻でも……
【終】
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