裏切り者の帰還[40]
 クレンベルセルス伯爵は知識人である ――
「バルデンズ、頭いいんですよぅ」
 ウエルダに背中から抱きついているジベルボート伯爵が、耳元で囁くように言う。そのようにして言う必要性はないのだが、彼女の癖のようなもの。
「はい、存じ上げておりますとも。上級士官学校卒ですから」
「ですよね。ま、僕も来年入るんだけど」
「頑張ってくださいね、ジベル……キャスさん」
「キャスですよぅ、ウエルダさん」

―― 伯爵様の名前を縮めて呼び捨てとか、難し過ぎます

 イズカニディ伯爵が恐れ、サベルス男爵が謝罪し、トシュディアヲーシュ侯爵が忌避する彼女だが、
「気にせずに呼ぶといいよ、ウエルダ」
「は、はい」
 ウエルダにはそんなに怖ろしい少女には見えなかった。
 もちろん見えないだけで、怖ろしいのだが、ウエルダに対しては無害なので、当然ともいえる。
「入ってもいいか?」
「ああ、ゾローデ。開いてる」
 仕事が一段落したゾローデがウエルダの元を訪ねてきた。
「ゾローデ卿」
 ジベルボート伯爵はウエルダから離れ、ゾローデの元へと駆け寄る。他の人ならば飛び付いて、頬にキスをするところだが、さすがにそんな行動を取ったりはしない。
「ジベルボート伯爵。勉強は進んでる?」
 出迎えありがとう、と笑顔で答えるゾローデ。
 まだマントを上手く着こなせておらず、動き方がぎこちないものの、誰もそれに触れない。下手に教えて”変な癖”がついたら、その原因になった自分たちも叱られてしまうためだ。
 叱るのは説明する必要もなくテルロバールノル勢。

―― 帰還中はヒュリアネデキュア公爵に、帰国後はエウディギディアン公爵に礼儀作法を習うとか……ケシュマリスタ王も無茶するなあ。精神的に殺すつもりなのかな

 クレンベルセルス伯爵はゾローデの来るべき苦難を知っていたが「逃げ出したくなって、戦争中に自殺とかされたら困るからね」と、大事を取って教えなかった。
「進んでますよ! バルデンズの教え方が上手いので」
 いつも通り自分の予定を知らないゾローデだが、この場合聞いたところでクレンベルセルス伯爵が心配したようなことは起こらなかっただろう。
 ゾローデはヒュリアネデキュア公爵とエウディギディアン公爵の厳しさを知らないので。
 無論、名を聞けばテルロバールノルの最高峰に位置する人たちだとは分かり、彼らが厳しい人であることも聞いてはいるが、実際どのように厳しいのかは知らないので、死んで逃れようとはしない。
「ゾローデにも教えてもらったらどう? キャス。ゾローデは教え方上手いだろう? ウエルダ」
「あ、はい。一番上手かったですよ」
 話題を振られたウエルダはゾローデを見て、本心からだとばかりに笑顔で答える。
「いや、褒めても」
「駄目ですよぅ。グレス様が嫉妬してしまいますって」
 だがジベルボート伯爵は唇を少々窄め、その前に人差し指を立てて軽く触れるようにして拒否する。
「あ、そうか」
 ウエルダはジベルボート伯爵から”ゲルディバーダ公爵の嫉妬深さと、上手い対処方法”を聞いていたので……思わず声が漏れた。
「でも私一人では足りないよ。短期間で帝国上級士官学校合格を目指すとなると、家庭教師は最低五人は必要だ」
 ジベルボート伯爵の頭脳に問題があるのではなく、今年合格を目指すとなると、俺ほど家庭教師を付けても多いということはない。帝国上級士官学校は七割以上が皇王族だが、彼らは三歳から”そこ”を目指して勉強を始め、競争に打ち勝ち、皇王族の中で選別試験を繰り返して、合格ラインに到達した三百人に受験許可を与える。
 帝国上級士官学校は合格者二百名。単純計算で百名不合格だが、彼らは補欠ということで待機する。
 むろん王国貴族や帝国貴族も受験するので、実際の不合格者はもっと多い。
「分かってますけどぅ。正直ゾローデさんに教えてもらうくらいならぁ、トシュディアヲーシュ侯爵に頼みますぅ。あいつだって”いや”って言わないですよう」
 帝国上級士官学校というのは、ほぼ皇王族で占められているため、外部からの入学者が首席を取るのはかなり厳しい。
 優劣があるわけではないが、王国出身の首席と皇王族の首席であれば、基本前者のほうが能力があると見なされる。
「確かにそうだけどねえ。でもキャス、アーシュに教えてもらうの嫌なんでしょう?」
「嫌ですよ。確かに元主席で、グレスさまに勉強教えてるの見たことあるから、教え上手なのも知ってますけどぅ……いや」
―― 侯爵、良い人なのに。昔対立でもしたのかな? 貴族は遺恨もあるだろうし
 まだ自分が遺恨の固まりとも言える僭主の末裔であることを知らないゾローデは、そんな事を考えていた。
「じゃあ、これはどうだろう?」
「なんですか?」
 ゾローデもそれ程、教えることに自信があるわけではない。
 ウエルダが”上手い”と言ってくれたことは嬉しいと素直に思うが、教える場から離れて久しい。
「ジベルボート伯爵に練習台になってもらう、でどうだ?」
 ゲルディバーダ公爵ともなれば、最高の教師陣がつき、自分が出る幕はないと考えているが、練習しておく必要はあるだろうと。
「後日グレス様にお教えするために?」
 ジベルボート伯爵は目を見開き、キラキラとした眼差しでゾローデを見る。
「そう。どうかな?」
「小手先のワザで、微妙ってか、かなり無駄な気もしますが、折角のゾローデ卿からの申し出、頑なに断るのも失礼なんで、お引き受けします」
 感謝してくださいね、と体を少し捻り上目遣いで見上げてくる少女に、
「ありがとう、ジベルボート伯爵」
 態度を変えず、だが素っ気なくならないよう、真摯に返事をした。
「キャスですぅ」

**********


「可愛いだろ」
 元帥殿下ことエイディクレアス公爵ロヌスレドロファ=オルドロルファ総司令官と会食し、その後私室へと招かれたゾローデたちは、
「可愛いですよぅ! わああ!」
 見せられたペットにまずジベルボート伯爵が飛び付いた。
「子猫?」
「だよな」
 ウエルダとゾローデは、ジベルボート伯爵が掲げた全長が十センチ程度の子猫を、驚きつつ見上げる。
 まず彼らが驚いたのはその色。子猫は純白で、皇帝眼と同じ左右別々で青と緑。左右の瞳の色が違う猫は見かけることはるが、白い猫は市井では見る事はない。
 白は皇帝を表す色で、純白の猫ともなれば皇帝と皇族のみしか飼うことができない――
「皇族爵位持ちは飼えるんだよ」
 皇位継承権第二位を持つ、女性と見紛う線細く頼りなさげな青年は、テーカップから猫を捕りだして手のひらに乗せた。
 ”にゃーにゃー”と鳴く小さい猫。
「……」
「……子猫にしちゃあ、足腰確りしてるな」
 大きさから生まれてそれほど時間が経っていない子猫だとばかり思っていた二人だが、
「ゾローデ先輩。これは子猫じゃないんだよ。これは、このサイズで成長が止まる猫」
 ”そう”ではなかった。
「へ……へえ」
「市販されていない、皇位継承権所持者のみが持てる猫だ。大昔に品種改良されたもんだそうだ。それこそ帝国歴以前にな」
「そうなんですか、アーシュ……」
 元帥殿下の手のひらに乗っている猫から、説明してくれている侯爵に視線を転じたとき、ゾローデは妙な感覚を覚えた。
「どうした? ゾローデ」
「あ、いえ。ちょっとびっくりして……」
―― トシュディアヲーシュ侯爵とあの猫が重なって見えるとか……俺、疲れてるんだな
「俺、猫好きなんだ。可愛いからね。ウエルダも触るといいよ」
 ウエルダの側へとやってきた元帥殿下は、ウエルダの胸元の飾りポケットに猫を乗せた。
「あ、ありがとうございます。……可愛いですね。実家で昔、猫飼ってたんですよ。もう死んじゃったけど。この猫……お名前は?」
 鋭い爪をひっかけながら登ってこようとする猫を、優しく引き剥がしウエルダは両手で包み込むようにする。
「フレンベルシャボイゼーケン。良い名前だろ」
「……あ、立派なお名前ですね。この猫に比べたら、実家で飼ってた猫は不細工ですけど、ちょっと思い出します」
 正直なところ、ウエルダには良い名前かどうかなど判断できなかった。それは隣にいたゾローデも同じ。
「猫、可愛いよな。俺も子供の頃、猫と一緒でさ」
「クレンゼロンディフォバイエルシュだったか」
「ええ! アーシュ知ってるの!」
「ああ、聞いたことあるぜドロテオ。お前の猫は、バンゼケーロンデとファイバルデジットの血を引いた、サンブローゲルドのアバゼトレドッゲだったと聞いたが」
「嬉しい! 今度、写真見せてあげる!」
 ゾローデとウエルダは、それが猫の種類を示しているのか? 名前なのか? 血統を表しているのか? それとも……判断することができなかった。

「にゃーにゃー」
「可愛いな……じゃなくて、お可愛いらしいですねえ」

**********


 ウエルダとゾローデの前に、
「ここに私とキャスとリディッシュという、三人の伯爵がいます」
 三人の伯爵が並び、クレンベルセルス伯爵がマイクらしきモノを持って口の辺りに構えて話し始めた。
「はい」
「はい」

「この三人は爵位は同じ伯爵でありながら、全員種類が違うんだ」

「はあ」
「そういえば……だったな」
 ウエルダは聞いたことはない。大体の平民は公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と大まかな爵位のみを覚える。
 ゾローデの場合は入試の常識問題であったので、細分化して覚えたが、卒業後は彼らとは関わらない部署に配置されたため、徐々に記憶の片隅に追いやられていった。
「そこのところを詳しく説明しよう! まずは一番分かり易いキャスから説明しよう。キャスのジベルボート伯爵家は独立貴族」
 紹介されたジベルボート伯爵は両手を広げて、
「カロラティアン伯爵の子飼いですけど、あの家とは別の人間が当主になります」
 配下だが独立していることを宣言にも似た口調で。
「独立貴族の全てとは言わないが、帝星の貴族街に邸を持っている貴族当主は、ほぼ独立貴族と見ていい」
「例外もありますけどねー」
「ちなみに代表的な”例外”はアーシュの奥様ヨルハ公爵と、そのライバルたるイルギ公爵。この両公爵家は完全にバーローズ、シセレード公爵家の支配下ながら貴族街に邸を所持している。これは本当に例外だから気にしなくていいよ。それで次がリディッシュことイズカニディ伯爵。これはデルヴィアルス公爵の子に与えられる爵位」
 イズカニディ伯爵が低い位置で手を上げて、鋭い歯を少しのぞかせて笑顔を作る。
「リディッシュは帝星の貴族街に邸持ってないんですよぅ。デルヴィアルス公爵家はもちろん持ってて、それは僕の邸より大きいです」
「実家が大きいだけ……と言いたいところだが、貴族は生家がデカイと子供も権力や財力が付随する。そのお陰で俺は結構金持ちだ。もちろんアーシュには負けるが」
「独立貴族は幾つか爵位を持っていて、子供たちに与える。キャスも幾つか持ってるよね」
「四つほど持ってますよぅ、バルデンズ」
「雑学にもならないことだが、帝国貴族で最も爵位を所持しているのは誰だと考える? ウエルダ」
「……ローグ公爵閣下、ですかね」
 貴族に詳しくないウエルダでも出て来る、それがローグ公爵家。
「その通り。かのローグ公爵家は約五百の爵位を所持している」
「配下にしている貴族はざっと四千を超えるそうです。まさに、貴族王なんです」

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