帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[198]
室内にもどりしばし休憩してから、ルグリラドが違い動きやすい格好に着換えて外へと出た。グラディウスはもともと動きやすい格好をしているので、着換えはしなかった。
ルグリラドは長い黒髪を肩胛骨に辺りで一本に結わえる。格好はテルロバールノル王女としてはすることのない、伸縮性のある黒い作業用ズボンに、薄いクリーム色のブラウス。襟元と胸の間に三重のフリルが縫い付けられている。
アクセサリー類はすべて外し、遊ぶ為だけに華奢な手袋から軍用グローブ(軍人でなくとも使用できる、軍作業用手袋)に変えた。
ルグリラドがここまで用意してすることは ――
「あてし逃げる人。おきしゃきしゃま追いかける人」
「分かった!」
二人追いかけっこ。
追いかけ役がタッチすると、役柄が交換する遊び。
二人では直ぐに役の交換になってしまうのだが、この単純な遊び以外グラディウスは上手く説明できなかったので、この外遊びとなった。
もちろん事前にルサ男がグラディウスから聞き取り、書類に起こしてケーリッヒリラ子爵に見せ、試しにこの三人で遊びルールを確認し、足りない部分を付け足して、映像と共に遊び方を説明しておいた。
ルグリラドはその後遊びに適した洋服を仕立てさせ、メディオンと共に遊ぶ練習をして ――
「あてし捕まっちゃった!」
「お主、よう逃げたのう。もっと簡単に捕まえられると思っておったのに」
上手にグラディウスを追いかけ、楽しませながら自らも楽しんでいた。
長い歳月の間、限られた者しか立ち入らなかった森の奥深く。黄金で作られた庭を通り過ぎた先にある陰鬱とした木陰に隠れるようにして建っている塔。
生気のないその一帯が、今日はとても燦めいている。葉の隙間を縫って大地に小さな光が落ち、その光を踏みながら駆ける。
弾む笑い声は木々の隙間を抜けて、暖かさが伝播してゆく。
二人は出来る限り塔の周囲を駆け、リュバリエリュシュスは二人の遊ぶ姿を見て幸せを感じる。
リュバリエリュシュスは”一緒に遊びたい”という気持ちはない。
ただ目の前に幸せな光景が広がっている、それだけで充分だった。
追いかけられる時に上がる楽しさしか含んでいない叫び声と、純粋な喜びに満ちた追いかける者の呼びかけを聞き、それを目で追いながら自分の幸せを噛みしめていた。
二人で交互に、そして頻繁に入れ替わりながら走り回る。
「グレスや、すこし休もうではないか」
グラディウスは額に汗を浮かべながら、ルグリラドに言われた通りに足を止めた。袖で額の大量に楽しさを含んだ汗を拭う。
塔の中から笑顔で二人を見つめるリュバリエリュシュス。
「……」
―― エリュシちゃんも一緒に遊べたらいいのに
グラディウスはリュバリエリュシュスの”病気”が良くなることを願っていた。そして何時か治ると信じていた。
ルグリラドはぎざぎざ分け目が目立つ後頭部を眺めながら、グラディウスが考えていることを感じ取った。考えが読めなくとも、グラディウスのことを知っていれば分かる。
グラディウスの感情は簡単に読むことができる ―― 読まれた本人がそれを喜ぶ。
「グレスや」
ルグリラドはケースに入れて外に置いていたジュースとタオルを取り出し、グラディウスに渡してやった。
冷たいものではなく温めに調節されたジュースを受け取り、
「ありがとうございます」
礼を言いながら飲む。一口飲むと喉の渇きに改めて気付き、ボトルの八割を飲みきった。
「エリュシ様も……」
グラディウスは上手く言えずに言葉が途切れる。
言いたいことは単純だが、外に出ることができないリュバリエリュシュスに言って良いのかどうか? 悩み、言葉を探しているうちに言えなくなってしまう。
「グレス」
「はい、おきちゃきちゃま!」
「あれをエリュシに見立てようではないか」
ルグリラドは森を飛び回る蝶を、無骨な軍用グローブで覆われた手で指さした。黒が基本で黄と茶色の線と赤い斑点が入っている、帝星に棲息する有り触れた蝶。
「みた”け”るってなんですか?」
「難しかったか。見立てるというのはのう……あれをエリュシだと思って遊ぶのじゃ。お主もあの蝶になったつもり見ておれ」
「えっと……あの蝶をエリュシ様だと思って追いかけるの?」
「そうじゃ。ほれ、エリュシや。儂……ではなく”我を捕まえてみるがよい”とか台詞を言え!」
深い緑と影と、差し込む光の元を気ままに飛ぶ蝶を指さしながらルグリラドが命じた。蝶は稀に雄と雌の二つで一つの肉体を構成している個体があり、ルグリラドはそれを見立てに使いたかったのだが、数が少ないので周囲を見回しても見つけることができなかった。
「は、はい。あの我が追いかけられる人なのですか?」
最初から用意しておくように命じておけば良かったと後悔したものの、すぐに頭を切り換える。
「そうじゃ。追いかけるのは儂とグレスじゃ。よいな?」
「うん! エリュシ様! あてしエリュシ様捕まえるよ!」
「あの……我のこと捕まえて?」
「捕まってどうするのじゃ! 逃げ果せると言うのじゃよ!」
塔の中でまさに”おろおろ”しながら、
「申し訳ございません……あの、捕まらないように逃げる……ので……」
必死に遊びに参加する。
傍から見ると滑稽なだけだが、グラディウスも、
「あてし、エリュシ様の蝶を捕まえるよ!」
提案したルグリラドも本気である。
「逃げ果せられると思うなよ、ケシュマリスタめ」
緑の蔦に覆われた塔の中、リュバリエリュシュスは「待て! エリュシ様!」「待たぬか! 貴様」声を聞きながら突如追われることとなった蝶を目で追った。
周囲に数匹同じ種類の蝶がいたので、途中で別の蝶を間違って追ったりしていたが、塔の中で追われる方も、追い続ける方も気にはならなかった。
ひらり、ひらりと舞う蝶に翻弄されながら、柔らかな地面を蹴って追いかける。
追っていた蝶が上昇し、手を伸ばしたりジャンプした程度では届かなくなる。そこでグラディウスは木にしがみつき”するする”とは正反対の、重力に必死で逆らう様を体現しているかのように登る。
「あとちょっと……」
そして手を伸ばしたのだが、あと少し届かず。
「グレス、危ないから」
リュバリエリュシュスから見える場所の木に登っていたので、気が気ではなかった。
「あとちょ……」
手を伸ばすグラディウスから遠ざかる蝶 ――
「儂を甘く見るな!」
叫び声と共にルグリラドが現れ、蝶に触れそのまま落下した。”ぼき”という何かが折れる音が響き、蝶は去り、グラディウスは急いで木を滑るようにして降りる。
「おきちゃきちゃま! 大丈……」
グラディウスが言い終える前にルグリラドは黒いグローブの手のひらを開き、指先にを見ろと反対の手で指さす。
「ほれ! 触ったぞ! この鱗粉が証拠じゃ!」
ルグリラドはグラディウスが登った隣の木に登り、離れてゆく蝶に飛び付き辛うじて指先で触れることに成功した。
王女という存在は何ごとかが起こった場合、最優先で脱出することになる。
脱出ルートというのは、侵入者を排除するトラップなども随所に設置されており平坦さとは程遠い。
お付きの者が「姫、先に進んでください!」追手と対峙して、そう叫ぶこともある。叫ばれた姫こと王女はそこでまごついていてはいけない。
大昔の王女ならばそれも許されただろうが、現在の王女は「逃がされる存在である」ことを学ぶだけではなく「自ら逃げ方」も習う。
ダクトの這い回り方とか、高い位置にある窓に一人よじ登る方法だとか。それらの練習過程で木登りもあり、元皇后が確定していたルグリラドはしっかりと学んでいた。
そして逃げるお姫様、最大のポイント ―― こっちに飛んで来て下さい。勇気を出して! ―― なるシーン。アクション映画などに良く見られるシーンで、ヒロインは飛び移るのに非常に葛藤する。最終的には飛び移り助かるわけだが、王女は葛藤している暇などないので、手を出されたら勢いよくためらわずに飛び付く。
それらの特訓で培った勇気を奮……たわけではなく、生来のプライドだけで飛び付きそして指先をかすめることに成功した。
そこまでするのなら着地できるように特訓したらどうでしょう? と言われそうだが、王女という存在は護衛に見せ場を作ってやる必要もある。エヴェドリット王家のように『邪魔だ!』などと叫び王女が全面に出て戦うのは好ましくないというか、それは王女ではない。
王女というのは芯はしっかりとしているが、一人だけでは決して生きていけない存在でなくてはならない。
「すごい、おきちゃきちゃま!」
「ほれ! 見るがよい、エリュシや! 今度は貴様の番じゃからな!」
「あ、はい」
聞いたことはないが、なにかが折れた音を聞いたリュバリエリュシュスは「骨は大丈夫ですか」と思ったものの、元気そうなので言うに言えなかった。
「今度はあてしたち、エリュシ様に追いかけられるのかあ」
「そうじゃ。いつかそこから出て、追いかけてくるがよい!」
ルグリラドは勝ち誇り立ち上がろうとしたのだが、
「どうしたの?」
「ちょっとここを打ったようじゃ」
右の脇腹を押さえてルグリラドがしゃがみ込む。
「大丈夫? おきしゃきしゃま」
「平気じゃ」
リュバリエリュシュスが心配した通りルグリラドの肋骨は折れていた。
なにせ蝶に飛び付くようにして――そのまま落下したため、腹を強かに打ったのだ。見ていなかったグラディウスは訳が解らないが、落下してくる様を目撃したリュバリエリュシュスは、心配で仕方なかった。
「折れたのではありませんか?」
「心配するな」
「ですが」
両性具有は骨の内部が鳥と同じく空洞で脆いので、骨折には特に気をつけるようにとリュバリエリュシュスも教えられたが、
「貴様は知らぬじゃろうが、儂等テルロバールノルは王族としての自尊心が折れない限り、なにがあろうと平気なのじゃ!」
テルロバールノル王家には関係のないこと。
「あ……はい」
勢いに飲まれたリュバリエリュシュスと脇で聞いていたグラディウス。二人はルグリラドが何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「?」
※ ※ ※ ※ ※
後日――
「ねえねえ、おっさん。あてし、教えて欲しいことがあるよ」
「なんだい? グレス」
「あのね、おっさん。じそしんってなに?」
「ん? じそしん? もっと詳しく教えてくれるかな?」
「睫のおきちゃきちゃまがね……」
その日の出来事を、途切れ途切れに、全身を使ってやっとの思いで伝えるグラディウス。
聞き終えたサウダライトは、グラディウスの頭を撫でながら、
「おっさん、自尊心は上手に説明できないけれど、ルグリラド様の王族の自尊心は絶対に折れないことだけは知っているよ。安心していいよ、あの方の自尊心は絶対に折れたりしないから」
「本当?」
「うん。信用して」
―― ルグリラド様の自尊心が傷つくなんてないし、あったとしたら……そうなる前に自決なさるなあ
※ ※ ※ ※ ※
ルグリラドも人造人間なので、自然治癒力は人間以上だが――あまり上手く治るタイプではなく、折れた骨はくっつく物の、手をくわえなければ正しく治癒することはない。
「じゃあ帰り支度をするか」
「はあい」
それにそろそろ帰る時間になったので、荷物を驢馬車に乗せる作業を開始した。
「おきちゃきちゃま。ハープはどうするの?」
驢馬を連れ出し荷車につなぎながら、グラディウスが尋ねる。
「これはそのままで良い。あとで設置した者が回収しにくる」
「はい……あのね、おきちゃきちゃま。あてし一人で荷物運べるから、おきちゃきちゃま、ハープを……」
「それは良いが、片付けるの大変じゃろう?」
「平気! ありがとう!」
グラディウスは美しい音色を聞きながら館から荷物を運び出し、リュバリエリュシュスに手を振る。
「またね! エリュシ様! 今度はあてしを追いかけてね!」
隣に座っているルグリラドは扇で口元を隠し声こそかけなかったが、腰の辺りで優雅に手を振っていた。
「ありがとう」
リュバリエリュシュスは驢馬車が見えなくなるまで見送り、蝶が羽を休めたハープをしばらく眺めていた。
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