帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[194]
「不細工じゃのう……」
ルグリラドはグラディウスの寝顔を見ながら笑顔で呟く。
目覚めていても動いていても、化粧をしても不細工なグラディウスは、眠っていても不細工であった。
ある意味、隙なく完璧に不細工――とも言える。そんんな不細工さを持ち合わせたところで、なんの得になるのか? とも言えるが。
顔だけではなく、寝姿全てが、なんとも言えぬ味がある。どんな味かと問われると……グラディウスらしい味としか表現できないが、安心しきって眠っている姿は不細工ながら見ていて飽きないものである。
ルグリラドは半握り状態になっているグラディウスの手のひらに触れ、人差し指を一本つまんでみた。
「しっかりとした指じゃのう」
全体の”ぼはっ”とした雰囲気とは違い、しっかりとした手指がグラディウスの特徴とも言える。
見目悪いのに見ていて楽しい――ルグリラドは自分の気持ちに正直になり、グラディウスの額に軽く口づけ、注意深くベッドから降りた。
前回グラディウスの館に泊まった際、寝顔から目が離せず寝そびれて、その後風呂場で卒倒し遊べなくなったことから、今回は同じ間違いはしないと、
「メディオンが持たせてくれた……」
化粧ケースを開き、睡眠薬を探す。
前回の事情を聞いた側近のメディオン”儂もそれ、よく解りますのじゃ”と。学生時代に似たような経験をしたメディオンは、その対処方法も知っていた。
「おお、あった!」
化粧ケースの片隅にそっと置かれた睡眠薬。
ピンク色の箱には「イベント初日に興奮し過ぎて体調を崩す貴方へ」と書かれている。この睡眠薬は以前メディオンが使用した「翌日イベントがあると興奮して寝られない貴方へ」とまったく同じ成分である。
ただ商品名が変わるだけ――作っているのが、帝国上級士官学校の薬学部(クラブ)で、その人に合った”名称の”睡眠薬を作ることで有名である。
成分そのものは、普通なので使用しても問題はない。
「えっと……三錠か」
ルグリラドは箱を持ち、足音に注意して寝室から出て水を飲むためにキッチンへと向かった。やや重みのあるグラスを手にし、水をくむ。
「……」
聞き覚えのあるヴァイオリンの音が室内に滑り込んできた。
外の音が聞こえる作りにはなっていない邸。ルグリラドはグラスを置き、薬は椅子にかけていたガウンのポケットに押し込み、耳を澄ませて音が入り込んできている方向を探す。
音は閉めたはずの玄関が僅かに開いたその隙間から、夜の空気と共に入り込んできていた。
ルグリラドはガウンを羽織っただけで外へと出る。
夜のやや冷たい外気に頬を撫でられ、ルグリラドは肩をすくめ、自分の体を抱き締めた。
「そうじゃ……」
玄関を照らす室内からの明かりに気付き扉を閉じ、大きくはないが通る音が広がる空間へと踏み出す。
人々を不安にする夜の木々のざわめきを、その音は消し去る。
裾の長いガウンを引きずらないよう、両手でやや持ち上げながら、ルグリラドは奏でているガルベージュス公爵を探す。
ガルベージュス公爵は独自の音持っているので、知っている人が聞けばすぐに分かる。ましてやルグリラドは……
いつもと変わらぬ軍服姿のガルベージュス公爵が、帝国でもっとも美しい音を奏でることができるヴァイオリンで曲を奏でていた。
ルグリラドは見つけたが曲が終わるまで、声をかけるつもりはなかった。
引きずらないようにと持ち上げていたガウンの裾を、夜の空気に冷やされた草花の上に覆い被せ、その曲を聞きながらガルベージュス公爵に会った日のことを思い出す。
ルグリラドは一目会った時から、ガルベージュス公爵に恋をした。彼女は四歳、ガルベージュス公爵は七歳。
―― 貴様がガルベージュス公爵か
―― はい、初めまして! セヒュローマドニク公爵殿下
幸せな気分と共に、恥ずかしく近付くのをためらう気持ちが芽生え、だが一緒に居たいと願う。
当時、将来の皇后であった彼女の初恋。
彼女はガルベージュス公爵と共に帝星へと向かった。彼は彼女を迎えに来た皇帝より遣わされた使者であった。
皇帝が息子以上に可愛がっている、前途有望な少年。
将来の皇后のために、わざわ遣わせてくれた――王も王妃も喜んでおり、ルグリラドも嬉しかった。
彼女が感じた嬉しかった時間は僅かであったが、それでも嬉しかった。
帝星に到着し、そこで彼女は将来の夫……いや、すでに夫と言っても過言ではない皇太子に出会うのだが、ガルベージュス公爵に感じた、自分自身が分からなくなり、泣きたくなるような感情に遭遇することはなかった。
彼女は皇太子相手になにも感じることができなかったのだ。
先にガルベージュス公爵に会っていたから故皇太子と出会ってもなにも感じなかったのではない。順序が逆であっても、感情は同じであったと……
曲が終わり、目を閉じて演奏していたガルベージュス公爵が目蓋を開く。
あの日は雨が降っていた。
雨は止み雲の切れ間から日が差す。その光はステンドグラスを通り抜け、わたくしとあの方は無数の色に包まれた。森の中を切り開いて移築された歴史ある石造りの城。
ガルベージュス公爵はヴァイオリンをケースに片付け、
「お久しぶりですね王女」
王女ルグリラドに話しかけて来た。
「そうじゃな」
正妃ではなく、王女である彼女に。
目の前にいる、光沢ある黒髪が美しい、かつて帝国の至宝と呼ばれた男に手を伸ばし、その頬に触れる。
男の硬さある頬から顎のライン。
ルグリラドは未だに彼、ガルベージュス公爵のことが好きであった。過去に一度、自分のことを抱いてくれと頼み、叶えてくれた男が好きで仕方なかった。
ルグリラドとマルティルディの不仲の原因は、ガルベージュス公爵にあった。
皇太子ルベルテルセスが死んだと父王に聞かされたとき、彼女は喜んだ。皇太子と結婚したくなかったのではなく、ガルベージュス公爵と結婚できる道が開けたことに。
次の皇帝は誰もがマルティルディだと信じていた。
マルティルディ以外に皇位継承権を所持している者はないのだから、当然のことである。
皇帝の后になれないと知った彼女は、父王に自分の身の振り方を尋ねた。
父王もその時、ルグリラドをガルベージュス公爵と娶せようとしていた。皇帝の后になれぬのであれば、帝国でもっとも優秀な男と――父王の判断に彼女は内心歓喜する。父王も娘の歓喜を感じ取ったが、おかしなこととは感じなかった。
死んだ皇太子よりもガルベージュス公爵の方が、全てにおいて上であることを父王も認めていたために。
だがマルティルディは即位しなかった。
そして彼女は以前から決まっていた通り、皇帝の后になる ――
マルティルディが帝国の規範通りに動いていたら、ルグリラドの恋は叶う可能性が僅かながらにあった。
「ガルベージュスや」
ルグリラドが皇太子の死後描いた幸せは、決して身勝手なものではない。正当な未来の一つ。
「はい」
「お主はマルティルディが即位していたら、エンディラン侯爵のことを諦めて儂と結婚したか?」
彼女にはもう一つ大きな敵がいた。
「ファライア帝のご指示に従ったことでしょう」
それがマルティルディ。
マルティルディがファライア帝となった時、残り三つの夫の座を誰が埋めるのか?
エヴェドリットとロヴィニアの王子で二つ埋まるが、あと一つが残っている。そこに座るのは皇王族の誰か――
すべての皇王族が納得し、代表として選ぶのは……やはりガルベージュス公爵しかいない。
マルティルディがガルベージュス公爵を皇帝の夫として迎えたなら、彼女は悲しいが諦めることができた。
「ファライアとなったマルティルディがお主に”次の皇帝になれ”と命じたら?」
「むろん命令に従います」
そうしたら、彼女はガルベージュス公爵の后に選ばれていたことだろう――例え、最愛の后エンディラン侯爵が居ても、ルグリラドは耐えられた。
だがもう、そんな未来はない。
「ガルベージュス」
自分の頬に触れていた、ルグリラドの細く美しい指を掴み、口付けながらガルベージュス公爵は、真実を姉に告げた友人イデールマイスラの勇気に報いるために、自分を愛してくれているルグリラドに、その存在を教える。
「ルグリラド殿下。わたくしには兄がおりました」
後の帝国史に名を残す男、ガルベージュス公爵。
「聞いたことはないぞ」
「はい。存在してはならない存在でしたから」
彼の兄は、
「……まさか、姉でもあったのか?」
「はい。ですが一般的には兄と呼ぶべきでしょう」
巴旦杏の塔に収められることなく死んだ、両性具有であった。
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