帝国夕凪ぎ 藍后微笑む[46]
 リニアの手首を握ったままだったルサ男爵は、透き通る木漏れ日の光に愕然とした。
「あ……あの、あの私はなぜここで、あなたの手を握っているのでしょうか?」
 言いながら、やっとリニアの手首を離したルサ男爵に、ゆっくりと説明を始めた。
 ルサは男爵自分が疲労で愛妾の部屋で居眠りし、翌日の昼近くまで眠っていたことを知り”落ち込んだ”
 ルサ男爵本人は「落ち込んでいる」とうことを理解できなかったが、その感情のうねりは「落ち込み」以外の何者でもなかった。
 傍で見ているリニアは落ち込んでいることも、落ち込んだ理由も解ったので、さりげなく励ます。
 そうしている間にグラディウスが目を覚まし、
「ルサお兄さん! 元気になった!」
 笑顔で飛び付いてきた。
 全力でぶつかってきたグラディウスに驚きながら、落としてはいけないと”考えて”ルサ男爵は抱きかかえる。
 胸の辺りにある顔を”ぐりぐり”と押しつけながら、全身でよろこびを露わにしてから、おもいだした! とばかりに顔を上げる
「お腹空いてない?」
「あの……その、ご迷惑をおかけいたしました」
「ルサお兄さん疲れてたの気付かなくて御免ね! お腹すいてない?」
「……頂きます」
 ルサ男爵はグラディウスが取り置いてくれていたテーブルに近付き、カードを手に取った。”おきたらたべて”見るからに下手くそで、不必要に力が入っている、大きさが均一ではない文字。
 その文字にルサ男爵は言い難い感情を覚えている自分に気付き、戸惑いを隠すために食事を行儀悪く口へと勢いよく運んだ。
「お腹空いてたみたいだね」
 グラディウスは水をグラスに注いでルサ男爵に差し出した。グラディウスは最近、サウダライトのグラスに酒を注ぐことが仕事の一つとなっており、部屋でも練習していた。
 最初のころは書く必要もない程に下手で、グラスからいつも酒を溢れさせたり、溢れさせないように恐る恐る入れて、やたらと時間がかかったりだったが、ルサ男爵やリニアから教えてもらい、上手というよりは普通にできるくらいになってきた。
「あの陛下だけに……」
 グラディウスが給仕するのは当然ながらサウダライトだけで良い。皇帝の愛妾が付き人に水を注ぐことなどないのだが、グラディウスの頭のなかにはそれらはない。
「飲んで! 飲んで!」
 グラディウスにとって、サウダライトに酒を注ぐのもルサ男爵に水を注ぐのも、同じレベルのものだった。
「ありがとうございます……」
 ルサ男爵は水を飲み終えてグラスを置いてから、グラディウスの持っている涼しげなクリスタルの水差しに手を伸ばした。
「グラディウス殿も如何ですか? 私でよければ注がせていただきますが」

 満面の笑みがこぼれたのは言うまでもない。

 ルサ男爵の食事の後、グラディウスはテーブルに置かれている自分が書いたカードを見ながら、奇妙な音程の鼻歌を歌っていた。
 音程は奇妙だが上機嫌なのははっきりと解る。
「どうしたの? グラディウス」
 後片付けを終えたリニアが尋ねると、
「嬉しくて! あてし嬉しくて!」
 カードを指さしながら、言い出した。
「なにが嬉しいのか、教えてくれるかしら」
「字が書けるようになったこと。これ、読んで解るよね! 字書けてるよね!」
「もちろん通じて……読んで解るわよ。男爵さまにもお聞きしてみたら?」
「ルサお兄さん、これ解る」

”おきたらたべて”

「もちろん解ります」
「ありがとうね、ルサお兄さん」
「なにが……でしょうか?」
「あてし、字が書けて文章? ってのも書けるようになれて嬉しい。教えてくれてありがと」
「……いいえ、仕事ですから。そのように言ってくださらなくとも……ですが、こちらこそ……ありがとうございます」
「ねえねえ、ルサお兄さん! あてしお手紙書けるようになるかな?」
「もちろん。書けるようになれますとも」

 ルサ男爵はグラディウスからカードを貰い持ち帰ることにした。

 その日は三人はほとんど何もせずのんびりと過ごして、サウダライトの計らいにより夕食も部屋で取り、その後ルサ男爵は部屋へと戻る。
「ルサお兄さん、また明日ね!」
「はい。それでは失礼致します」
 帰宅途中、誰もいない廊下で足をとめて”おきたらたべて”のカードを取り出して見た。文面は読むという程長くはなく、見ると表現したほうがしっくりとくるような文字の綴り。
「…………」
 ルサ男爵は胸に”奥”があることを感じ、それが”砕け”熱が広がるのを感じた。かつての彼であれば、胸に奥など存在せず、あるとしたら背中だろうと考え、なにかが砕け熱を覚えるのは骨か臓器の破損による物だろうと答えた。
 なにより手に持っているカードが、そんな衝撃をもたらすとは考えてもいなかった。
 廊下でしばし俯いてから、やや早足で部屋へと戻る。部屋に戻ると、何時もと変わらず老人が出迎えた。
「体の調子は如何ですか?」
 だが言葉は違った。
 男爵たちは体調を気遣われることは、ほとんどない。
 体調が崩れることもなければ、疲労することも稀であり、たとえなにか「不具合」が生じたとしても、そのまま放置しておいても良い存在だからだ。
 そのような立場であることは男爵たちは教え込まれている。
 だから以前のルサ男爵であれば、老人の言葉を奇妙に感じ、答えはしなかっただろう。
「すっかり良くなった。だが今日は、体を洗って眠る事にする。また同じ失態をしでかすわけにはいかないからな」
 だが彼は普通に受け答えした。
 それどころか”次”を自ら考えて実行しだした。
「……はい」
 その言動に老人は、ルサ男爵が”普通の感覚”を得始めたことに気付く。
「それと……」
「はい」
「今まで食事を与えてくれたこと、勉強を教え知識を増やしてくれたこと感謝している。それが仕事であろうとも感謝しなくてはならないことだろう」
 それだけ言い、答えを聞かずルサ男爵シャワー室へ消えた。
「……」
 その言葉に老人は”召使いを自室で一晩休ませてくれる、優しく皇帝に特別扱いされている愛妾”に、なにかを賭けた。それが己の残り少ない命であったか、それとも別の思いであったかは、誰にも解らない。そう賭けた老人ですら。
 

※ ※ ※ ※ ※


「フォル男爵か。いいよ、会ってやろうじゃないか。サルヴェチュローゼン? 待たせておけよ」
 マルティルディの元へと辿り着いたフォル男爵は、自分よりも先に面会を待っていた「副王」よりも先に会うことができた。
「別に君に会いたいわけじゃなくて、サルヴェチュローゼンを苛々させたいだけさ。君はいいタイミングで来たね。サルヴェチュローゼンがいなければ、君には会わなかったよ。それで僕に何の用だい?」
 フォル男爵は愛妾の数名がグラディウスに”嫌がらせ”をしようとしていること。それに自らが関与していることを告げた。
「へえ。なるほどねえ。君が唆したのかい。まあいいや、頑張って嫌がらせ完遂させてみな。そしたら殺されないようにしてやるよ。じゃあ下がれ」
 部屋を出たフォル男爵と入れ違いに入ってきたのは、
「マルティルディさま。あの男は……」
「皇王族の男爵だよ、ザイオンレヴィ」
 柔らかな白銀の髪が美しいザイオンレヴィ。
「あのような者とお会いに?」
 ほぼ王の地位にあると表現しても問題のないマルティルディが、皇王族の中でも下位に位置する”男爵”と会うことは普通であれば考えられない。
「君、僕の行動に文句でもあるの?」
「ありません! ただ気になっただけで」
「君は僕に何の用事だよ」
「サゼィラ侯爵シャリエンが到着いたしました。マルティルディさまにお会いたいと。正式な要望ではななく、まずはお耳に」
「なんで君が言うの?」
「イデルグレゼを連れ帰ろうとしているので」
 イデルグレゼのいる館を破壊しまくった男は、今一人で恐怖に怯えながらも”寵妃”として居続けるイデルグレゼに速やかに帰宅して欲しいと切に願っていた。
 ザイオンレヴィはイデルグレゼ本人に危害を加えようとは思わないが、アランやダーヴィレストは本人にも危害を加えようと虎視眈々と狙い、ある程度の人員を派遣している。
 ザイオンレヴィは館を破壊したが同時に、寵妃区画全域の警備に携わっているので、治安維持もしなくてはならない。
 ザイオンレヴィのやっていることは傍目から冷静に見ると滅茶苦茶だが、館破壊はロメララーララーラの意思であり、主マルティルディの意思に通じるもの。警備は仕事の一環。権力者に仕える者は矛盾しようとも両方とも実行する必要がある。
「イデルグレゼ……ああ、あれまだいたの? 僕すっかり忘れてた。ふーん」
「マルティルディさま……」
「まあいいや。もう飽きちゃったしさ。つまらないとは思ってたけど、想像よりもさらにつまらない女だったなあイデルグレゼ。あ! それよりさ、ロメララーララーラに侍女頭になれって言え」
「え? ロメララーララーラが侍女頭?」
「うん、イデルグレゼ虐めの頑張りを買ってやることにしたよ。本人が欲しい地位をくれてやることにした」
 そんな頑張りを褒めないでくださいと思ったザイオンレヴィだが、当然言うことなどできない。
「解りました。伝えておきます。ところで誰の侍女頭ですか?」
「君のダグリオライゼお気に入りの愛妾、グラディウスとかいう子供の」
「えっ! あの平民を寵妃に?」
「うん。さあ行けよ、ザイオンレヴィ。そしてサルヴェチュローゼンに入れって言ってやれ」


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